イランカラプテ 5



これまでの歴史の中で、一番大規模なアイヌと和人の戦いは、件のコシャマインが立ち上がったものである。
その戦闘地域は、青森からは津軽海峡を挟んで真向かいにある渡島だった。それからもう二百年は
経っているとはいえ、戦いの激しさと和人の戦いの仕方を伝えられて、その地方に住むアイヌの人々が
及び腰にならぬわけがない。
しかも、当時はその戦闘区域が東北と蝦夷渡島に限られていて、蝦夷東部には広がらなかった。だから、
東の方にも戦いの有様を伝えられてはいるものの、距離は遠いし年月が経っているしで、道東地域に住む
人々にとっては、蝦夷西方に住んでいるアイヌの人々の受け止め方と違って甚だ現実味が薄い。
現実感を伴って伝わっているのは、極端に言えば、
「コシャマインが和人に負けて、我々の生活は決定的に苦しくなった」
という感覚のみなのだ。
結果的にコシャマインの戦いが、アイヌの立場をなんとなく決定してしまったため、そう認識されていると
いうだけの話である。だから、アイヌの人々も英雄として彼を湛えこそすれ、決して憎んでなどいない。
庄左衛門の思考を読んだわけではないのだろうが、
「誰かが、どこかで何とかしなければならない。だが、悲しいかな、俺はその器ではない」
カモクタインがぽつりとつぶやくように、アイヌの人々は心のどこかで英雄の出現を待ち望んでいるのだ。
(蝦夷は松前藩にとって、いつ爆発するとも分からん火薬庫のような物でもある)
そう思いながら、ともかくも庄左衛門が頷くと、川の中のシャクシャインが二人を見た。周囲が騒々しいため、
二人の会話が聞こえたというわけでもないのだろうが、二人の雰囲気でそれと察したらしい。
己にまとわりついていた子供の一人を抱き上げて、そっと川の中へ下ろしてから、
「シサムやシュムクルの奴らが、話して分かるような相手か。だが、まあいい」
おもむろに川から上がってきて、吐き捨てるような調子で言う言葉と、庄左衛門をちらりと見たきり、
ぷいと顔を背ける様子は、
(少年だった頃と少しも変わっていない)
庄左衛門が覚えている彼の幼い頃と、まるきり変わらない。背丈はいつの間にか庄左衛門を追い越して、
アイヌの英雄(ポンヤウンペ)と呼ばれるようになっても、少しは丸くなるかと思われた「和人嫌い」は
直らないものらしい。
そしてシャクシャインには、温厚な部族長の性格もまた、どうしても煮えきらぬものに映ってならぬもののようである。
「貴方の跡継ぎとしての役割は果たす。だが、俺は俺として、いずれオニビシの奴とも決着をつけねばならぬと思っている。
それだけは許して欲しい」
カモクタインに向かって不機嫌そうに言った後、それっきり口をつぐんで再び川べりの方へいってしまった。
(この大地は誰のものか。俺達アイヌのものだ)
その分厚い背中が、全力でそう言っている。
シャクシャインの態度に、
「申し訳ない」
苦笑しながら自分を見るカモクタインへ、庄左衛門は「分かっているのだ」との意味を込めて頷きながら、
「私も、川の様子を拝見させてもらいましょう」
言って、己と彼の息子がいる川べりへ向かっていった。
「庄左小父。うまく鮭が獲れません」
庄左衛門の姿を認めて、シャクシャインの息子、カンリリカが早速悔しげに訴える。己の子はと見れば、
カンリリカの隣で同じようにモリを構え、何とも器用に鮭の小さいのを何匹も捕えているのだが、
「おやおや、ではこの庄左が手伝いましょう」
「放っておいてくれ。己の食い扶持は己で獲らせねばならん。それではカンリリカのためにならん。俺は
そいつと同じ年で家族の分まで鮭を獲っていた」
たちまち、近くで鮭を獲っていたシャクシャインの声が響く。
(それはそうなのだが、いつもながら厳しいことだ)
その声を聞いて、庄左衛門は少し苦笑しながら子供たちを見る。シャクシャインが己の子、とりわけ長子である
カンリリカに厳しいのは昔からなのだが、
(それでも、人には得手不得手というものがあろうのに)
もう少し長い目で見守ってやれば、と、他人事ながら思うのだ。
子に「己がいなくとも強く育って欲しい」との願いから、シャクシャインがカンリリカに厳しいのは、
同じ親として分からないでもない。それにそこには、「次期部族長の子がふがいない」という思いもまた、
篭っていたろう。
(俺と同じ年の他の子供は、親に獲ってもらっているではないか。誰もが貴方のように、貴方と同じ年で
何でも出来ると思わないで欲しい)
もう十年以上にわたる付き合いである。自分には、様々な意味で大きすぎる父親の背中を見つめながら、
唇を結んで拳を握り締めるカンリリカの心の内が、庄左衛門には手に取るように分かるのだ。
庄左衛門の子、庄太夫もまた、ハラハラと気を揉んでいるのが分かる。親子でそっと顔を見合わせた後、
「カンリリカ、これあげる」
シャクシャインの目を盗んで、庄太夫がそっと鮭の一匹をカンリリカへ渡すと、カンリリカは黙ってそれを受け取る。
それを見て、
(男なら…)
その鮭をつき返すくらいの矜持が欲しい、と、庄左衛門もまた、微苦笑しながら思わざるを得ない。
(覇気と勇気ある人は、やはり幼い頃からそれが現れるものなのだ)
思いながら、彼は彼ら親子から少し離れた場所でモリを構えているシャクシャインを見つめた。静内川は、
彼とシャクシャインが初めて出会った頃と同じように、赤く色づいた葉を浮かべて流れ続けている。

彼と庄左衛門がはじめて出会ったのは、シャクシャインがその名をつけられて間もない少年の頃、弓矢を背負いながら、
その静内川の岸沿いを歩いていた折である。時期的には、有名な島原の乱が起きる十年ほど前、と言える。
名づけたのは部族の長、カモクタインである。その少年には、彼が十歳を二、三年ほど超えるまで名がなかった。
名が無いのには、特別な理由があるわけではない。アイヌ民族の間では、生まれた子にはすぐに
正式な名はつけず、レヘ・イサム(名無し)、ポンチョ(小さな糞)などと呼ぶ。
これは病魔や悪い神に連れ去られないようにするためである。それぞれの個性が現れ始める年になるまで、
真実の名はつけないという、アイヌの人々独自の習慣なのだ。
シャクシャインという言葉の意味するところは、「弓を良く扱う者」である。彼の場合、弓に抜群の才能が
現れたので、そう名づけられたというわけだ。 
部族の中で、早いうちから抜群の弓の腕と聡明さを見せていたその少年は、
(また、来ている)
朝日に輝く静内川にいる和人商人たちを見て、顔をしかめた。商人たちは、真剣な顔をして川の底を攫い、
ザルの中の泥ごとすくいあげてはその中をあらため、その泥を無造作に川の中へ放り投げる。
そのたびに静内川の澄んだ水は泥に濁り、
(砂金か)
少年は思わず舌打ちしながら思った。
豊かな自然に恵まれている日高から獲れるのは、海のもの、山のものだけではない。蝦夷アイヌの生活には
何の役にも立たない金というものも獲れる。
「それが厄介だ」
部族のエカシ(長老)、カモクタインが苦笑混じりに言っていたことが、商人たちの姿を見るたびに思い起こされて。
(カムイ・チェプが来られなくなるというのに)
たまらない気持ちにさせられてしまうことも、少年には腹立たしい。
そしてアイヌの大人たちが、なぜそのことを面と向かって和人に抗議しないのか、そのことを
シャクシャイン少年はもどかしく思っている。かといって、
(俺なんぞが喚きたてたところで、何にもならない)
ということも、彼にはよく分かっている。アイヌの大人の言い分さえ聞かぬ和人が、その子供である
自分のわめきなど聞くわけもない。
だが、
(それでも何とかしなければ、何とか)
シャクシャインは、己の母が「初めての狩りのために」と、つい先ごろ贈ってくれた鹿の皮製の靴で、
ザブザブと水音を立てながら静内川へ入っていった。商人たちのすぐ側に近づいたのだが、元々アイヌのことなど、
意識の底にも留めていないのだろう、彼らは少年のほうを見向きもせず、相変わらずザルの中を見つめているのだ。
少年が歩みを止めたまま、じっとそれ睨んでいると、やがてようやく彼らは顔を上げて、
「アイヌの小童か」
さも馬鹿にしたようにそう言った。
和人は概して矮躯である。顔つきからもよい大人であると分かる彼らが立ちあがっても、まだ十四を
越えたばかりの少年の頭が、彼らの顎に来るほどにその身体は小さい。
この頃は和人の往来もいよいよ激しくなってきていたから、彼らの言っている言葉は、少年にも少しは理解できる。
「邪魔だ。どこぞへ去れ」
彼の姿を見て、「フン」と一つ鼻を鳴らしたきり、シサムたちは再び彼らの作業に没頭し始める。その目の前で、
少年は手にしていた弓をきりりと引き絞り、
「お前達こそ、去れ」
腹の底から出た低い声で、はっきりと言った。
ほんの少し聞き知っただけの、拙い和人の言葉である。よって、発音もどことなくぎこちない。しかし、
毒矢をつがえた弓を持っての威嚇は、十分に効いたらしく、
「さてはお前が、仲間たちを追い払っているというアイヌの餓鬼か」
「アイヌごときが俺たちに刃向かったらどうなるか。お上の法を知らないか」
半分腰を抜かしつつも、そう言い言い、それでも片手にしっかりとザルを抱えて、その和人たちは水音を立てて
駆け去っていった。その後姿が見えなくなるまで、少年は弓を引き絞り続けていたのだ。
江戸時代と呼ばれる時代に入っても、アイヌの人々は未だに、狩猟その他において弓矢を用いていた。
主にシケカムイ(荷物を負った神)と呼ばれる熊を仕留めるためだが、その鏃に塗る毒は、トリカブトが
一般的である。この根を乾かしてすりつぶし、粉にしたものへミズスマシ、毒グモや蜂の毒針を一緒に入れたりもする。
川に停めてある船の一艘に、先ほどの和人たちが乗り込むのを、刺す様な目つきで睨みながら、
シャクシャインはようやく構えていた弓を降ろした。
(人を憎んではいけない)
憎悪の感情を静めるように、その鏃の先端を軽く舌に乗せ、毒の具合を確かめる。
すると、今、頬を吹いている風と同じような、ぴりっとする感覚が舌先を襲う。アイヌ民族は通常、
この感覚の大小で、毒の効き目の強さを量るのである。他には、己の指先を傷つけて毒を塗り、
その痺れ具合で毒の強弱や効き目の早い遅いを確かめるという方法もある。矢に塗るだけではなくて、
槍の先にも塗る。仕留めた獲物は、矢が当たって毒人に冒された場所を切り取り、その部分を
毒の神(スルクカムイ)へ捧げる。
指先が痺れてその感覚がなくなるほどでなければ、少年が大きな熊を仕留めるのは難しい。熊は大概、
カムイ・チセという意味の神の家、つまり熊の穴の中にいるわけで、その熊を仕留めるためにシャクシャインは
シベチャリ川を遡っていたのだが、
(その気が失せた)
商人たちが船でこぎ去った後、その方角から慌てたように走ってくる他のアイヌ部族の姿を見て、
矢を背負っている矢筒にしまい、舌打ちをした。
こちらへ近づいてくるのは、対立部族の西方アイヌ、シュムクル(西方に住む人間)である。
アイヌの部族の間には、和人のように詳細な領土の取り決めがあるわけではない。考え方や微妙な
生活習慣の違いによって「なんとなく」住み分け、なんとなくコタンと呼ばれる五、六の家族が
集まって生活していた。
その家は『蝦夷嶋奇観』の図によると、木を組み、藁で外壁を覆って、窓が一つ二つという小屋の側に、
神を祭る幣棚(ヌサダナ)を設けた何とも素朴な外観を持つ。その小集団を一つの単位とし、
近くの地域ごとにまとめて部族と数えたという。
蝦夷にはそのような部族が合計六つあった。すなわち南樺太の東海岸に東エンジウ、樺太西海岸と余市、
枝幸、網走方面には西エンジウ、道南と呼ばれる地方にシュムクル、現札幌市を流れる石狩川の上流付近に
ベニウンクル、道東から日高にかけてはメナシクル、室蘭から静内にかけてのサムンクル、といった具合である。
このうち、特に勢力を誇っていたのがシュムクルと、シャクシャインの属するメナシクルだった。
メナシクルが認められているのは、弓の腕前だけではない。蝦夷地で一、二を争う勢力と生活圏を誇り、
アイヌからの支持も絶大である。何よりも、
(俺達は、シュムクルたちとは違って、これまでの富と力を俺達だけの力で築いた)
という自負が脈々と受け継がれているのだ。
対してシュムクルと呼ばれる部族はシベチャリ川の上流を拠点とするチャシ(砦)に住んでいる。
川の漁業圏や日高山脈における狩猟圏を巡って、シャクシャインの部族、メナシクルとの対立が絶えない。
これはメナシクル部族長、カモクタインのさらにその父の代から続いていたというのだから、
両者の間の溝は相当深かったと見るべきだろう。だから、アットゥシアミブ(樹皮を剥いで作った衣)に
施された、部族独特の刺繍の文様を見なくても、彼らがシュムクルの者達であることがすぐに分かる。
加えてシュムクルは、どちらかというと和人寄りである。和人のことを己の生活を脅かすアイヌ共通の
敵として嫌っているくせに、和人がもたらす美しい漆器や鉄はありがたがっていた。砂金掘りの和人を
相談役につけているとも聞く。
そういった相談役がいないと、もはやアイヌ達の生活は成り立たないのだ。実際メナシクルにも、
長カモクタインの相談役として鷹侍と呼ばれる和人が三人ほど、ついているのである。先述の、越後の庄左衛門や
最上の助之丞もそうで、
(まるきり奴隷ではないか。大地と共に生きる民族としての誇りは無いのか)
少年は思って、再び舌打ちをした。庄左衛門や助之丞自身は決して嫌いではないのだが、やはり和人は和人である。
相談役もさることながら、それにも増してシュムクルアイヌの態度が、シャクシャインには気に食わぬ。
和人が川上で砂金を掘ることを許し、鮭の産卵を妨げている上に、そうすることによって和人つまり松前藩との取引で、
なんらかの「お目こぼし」を受けていることも知っているからだ。
例えば、松前藩が公然と「アイヌの民との交易には松前藩の許しがいちいちに要る」と宣言する前までは、
干鮭百本に対してコメ一俵、という具合であったのが、交換されるコメのほうが次第に減っていき、今では
半俵くらいしかない。おまけにその一俵も、表面上では四斗となっていたが、実際のところは交易当初から
二斗であった。しかし、形の上だけでも松前藩を頂いているシュムクルには、そのような目に見えるほどの
減らされ方がない、という噂があったのだ。
あくまで噂である。シャクシャイン自身もその目で確かめたわけではない。しかし、少年独特の正義感と
早とちりがあいまって、
(アイツらは和人に媚びている)
今では彼は、すっかりそう思いこんでしまっていた。
松前藩側は、このことを固く秘し、外部に漏れていることはないと思っていたらしい。その証拠に、
幕府への報告で、草の間忍びの親分である竹沢伊織之助が記した「草の間席調書控」を使ったが、
この報告の中で、
「アイヌの酋長たちは皆、松前藩の仕置きに満足して、その威令に従っている。藩の制度に従って
部族の後継者を決めている」
としている。
しかし江戸幕府のほうでは、津軽隠密であるところの秋元六左衛門を派遣して、
「鮭を乱獲したことに対して抗議したアイヌに、松前藩の役人が酷い暴力を振るった」
「アイヌたちが松前藩の言うように物を差し出さないと、その女房や子供を奪われている」
などという事実を早くから掴んでいたのだ。
六左衛門は、漂流を装ってなんと蝦夷は積丹半島の奥地まで入り込み、その酋長たちからこれらの話を
直に聞いた。従って、弘前藩の家老、杉山吉成も「友人」であるところの越後庄左衛門と同等か、
それ以上に詳しく蝦夷内部の実情を知っていたのである。
このままでは、きっといつかアイヌ達の不満が爆発する、と予見する幕府中枢の人間もいたであろう。
だが、それが長い間放置されていたのは、何分にも遠隔地であるし、かの有名な大阪冬の陣、夏の陣、
さらにそれから二十年後に勃発した島原の乱の処置にてんてこまいで、北の果てまで手が回らなかった、
というせいもあったに違いない。
それに万が一……可能性は限りなくゼロに近いが……松前藩が幕府に対して謀反などを企んだ場合、
「アイヌの反乱を許した。蝦夷の仕置きが出来ていない」
ということで、幕府にとっては松前藩を「お取り潰し」にする、格好の口実にも出来る。
どちらにしろ、そのようなことは素朴なアイヌの人々には預かり知らぬこととて、
(和人のせいで俺達の生活が苦しいならば、和人を追い払えば良いではないか)
大半のアイヌの人が不可能だと悟り、思っても口にせぬことだが、シャクシャイン自身も単純にそう考えていた。
生活圏における種々の争いも、いわば縄張り争いのようなものだ。和人が絡んでこなければ、これほどまでに
ややこしくはならなかったかもしれないのだ。

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