イランカラプテ 4



そんな彼の口から飛び出したもうひとつの話題が、「アイヌの英雄」である。
「なにさま、倅よりも一回りは年上で、手前から見たら息子のような年頃だが」
と、庄左衛門は、その息子の頭をなでながら、
「矢を射れば百発百中。空飛ぶ鳥は必ず彼の両手の中に落ちてくるかのようで。弓には少々劣る腕前ながら、
槍を取らせてもコタンの他の者にひけは取りません。一対一なら、彼に敵う人間はいないでしょうな」
手放しで、メナシクルコタンの後継者とやらを褒めつつ、
「だから、彼の機嫌を損ねぬようにせねばならぬ。双方にニンマリとしてもらえるように取り持つのが、
商人道。損して得取れ、が、商売人の心意気というものでございます」
かつ、笑いながらそう言った。
(商売のことは良く分からないが)
庄左衛門のそんな考え方が何とも好ましく、
「親父殿が好きか。蝦夷のアイヌどもをどう思うか」
向かい側で幼い両手をかざしている彼の息子へ吉成が尋ねると、
「はい。将来は父の跡を継いで、父のような商人になるのが目標です。アイヌ民話のポンヤウンペも、
アイヌの言葉も好きです」
少年は、いかも庄左衛門の息子らしく、ハキハキとそう答えたものだ。
息子の答えを聞いて、しきりに照れる庄左衛門が、「では本日はこれにて」と弘前城から退出して行った後、
(アイヌのポンヤウンペ、なあ)
杉山吉成は火鉢へかざした両手をこすりながら、庄左衛門から聞いた、もうひとつの話を思い出していた。
(メナシクルのシャクシャインか)
庄左衛門には言わなかったが、蝦夷にはすでに諸藩から多くの間諜が入り込んでいる。
彼らがもたらした情報の中に、「メナシクルコタンの跡継ぎ」の話もあった。それによると、
シャクシャインが生まれたのは、ヨイチの大将ケクシケの「髭切り事件」が起きた少し前…
松前慶広がかのお墨付きを得意げに見せびらかしていた慶長九(一六〇四)年、つまり江戸幕府が開かれて
一年経った頃か、または慶長十一年頃、という計算になるらしい。
(つまり俺とほぼ同年、ということだが)
生年が二つもあるのは、彼が亡くなったおおよその年齢からの逆算で、彼が誕生した正確な日時までは
記録に残っていないために、断言することが出来ないからである。
間諜の報告はさらに、
「シャクシャインは己の居住地である日高から、たびたび十勝や釧路方面へ出かけては、そこに住むアイヌたちを、
「悪さをする和人」から守ったり、部族同士の調停をしたり、といったことをしている」
「特に、アイヌに対して高飛車に迫る和人商人や松前藩武士にも、得意の弓矢でもって臆することなく
立ち向かうので、東方アイヌ達は、彼のことをアイヌのポンヤウンペの再来ではないかと噂している」
と続く。ちなみにポンヤウンペというのは、アイヌの伝承の中の英雄である。
そんなアイヌの英雄(ポンヤウンペ)の姿かたちは、
「身の丈八尺、肩幅も広く顎もがっしりと張っていて、見上げるような大男……」
なのだそうだ。
(なるほど、言葉は悪いが原始的な生活をしている人間にとっては、体躯だけで十分畏敬の対象になろう)
比べても詮無き事と思いながら、矮躯な己の体を見下ろして、吉成はつい苦笑した。
(この体格も親譲り……)
と、何のためらいもなく父親への愛を口にする庄左衛門の息子と、己とをも引き比べたからである。
息子でありながら、愚痴ばかりをこぼしていた父重成への敬愛が冷えてしまったのは、
(北の果てに来てしもうたせいであろうか)
少しだけ温まった己の右手で、胸の真ん中を少しさすりながら、吉成は再び苦笑した。自分は明らかに、
父を敬愛することの出来る人間を羨ましがっている。
(蝦夷もさぞや、寒いであろう)
いつの間にか夜も更けた。腰元が敷いた布団へもぐりこんで、その冷たさに身震いしながら、
吉成は目を閉じた。
(同年の英雄か)
目を閉じながら、思うのは何故かそのことで、しかし、
(だが、ただそれだけのことだ)
と、吉成は妙に冷静にそう思っている。良くも悪くも、人々の思いが広く伝わって行くうちに、
一人歩きするのが噂というものだ。
(そして凡人は、その期待に答えようとして潰される。悪者になる)
己の祖父がそうであったように、と、苦笑して、吉成は寝返りを打った。所詮はよその藩のことなのだ。
(俺には関係のないことだ)
思って寝返りを打っているうち、寝具が温まってきた。北の地に生まれたはずなのに、いつまでも
この寒さに慣れないのは、
(先祖が近江生まれだからであろうか)
詮無いことをぼんやりと考えながら、彼はようやく眠りに落ちたのである。

 二 ポンヤウンペ

今日もまた、日高山脈の山頂を美しく染め、朝日が昇りかけていた。道南のほとんどの川がそうであるように、
日高山脈を流れの原点とするシベチャリ(静内)川は、山脈から流れる二つの川が源流で、現在はJR日高本線の
駅のひとつである「新ひだか駅」の側で太平洋に注ぐ。
その河口に築かれた大きな祭壇の前で、メナシクル部族長であるカモクタインが一心に祈りを捧げているのを、
今しがたここに到着したばかりの庄左衛門は、邪魔をしないように遠くから見守っていた。
九月上旬のこととは言っても、冷帯気候に属するため、肌を吹き過ぎて行く風はすでに冷たい。
アイヌたちにとって、神の授けてくれた主食である鮭を迎えるこの祭りは、神魚迎え祭りと呼ばれていた。
魚に関連のある水の神への祈りである。この日のために美しく刺繍されたマタンプシ(鉢巻)を額に巻き、
恭しく神へ祈り終えた後、カモクタインは立ち上がり、傍らにおいていた杖を再び手にとって、
「カムイ・チェプがおでましになった」
その先を地面に勢いよく突き立てながら宣言した。
途端、水しぶきと歓声を上げながら、アイヌの子供達がシベチャリ川へ入っていく。川の中には川を遡ろうとする
鮭が大量にいて、その様子を見ている大人達の口元をほころばせる。その様子を見て隣でうずうずと体を
動かしている息子、庄太夫に気づいて、
「行きなさい」
庄左衛門もまた、微笑を漏らしてそう促した。途端に庄太夫は顔を輝かせ、そちらへ駆けていく。
それをアイヌの子供たちが歓声を上げて迎え入れる。
だが、
「長。どうしました」
その様子を見守っている老人の顔が浮かないのに気づいて、庄左衛門は彼の側に向かいながら声をかけた。
「庄左衛門殿か。ヒロサキとやらから、帰ってこられていたのか」
すると、この温厚なメナシクル部族長は、少し苦笑いしながらこちらを振り向く。
「はい、つい先ほど。それで、どうしました? 何かまた問題でも」
「部族の者を不安にさせたくはない。だから」
二度の問いに、カモクタインという名のこの老人は、苦笑いして、
「われらの相談役になった貴方達には言っておこう。鮭(カムイ・チェプ)の数が、大変に少なくなっている。
まことに困ったことだ」
「ああ、そうですな」
カモクタインが声を潜めて言うと、庄左衛門も少し苦い顔をして頷いた。和人の言葉を覚えようとしない
アイヌの人々のことだから、カモクタインの話す言葉ももちろんアイヌ語である。それを何とか
理解できるようになったのは、つい先ごろのことだ。
二人とも、周りを憚ってはっきりとは言わないが、鮭が少なくなったのは、大雑把に言えば、
(松前藩の贅沢のせい……)
である。
「助之丞や我らの力が至りませんゆえに。申し訳ないことだ」
「あなた方のせいではない。あなた方相談役は、良くやってくれている。あなた方が気に病むことではない」
庄太夫の言葉にカモクタインが慌てて言い、庄左衛門がそれに対して苦笑することしかできないのも、
庄左衛門の同業者の乱獲によるものなのだ。商人たちは、産卵期にある鮭も見境なく捕獲したものだから、
(なんの、木幣(イナウ)を捧げて祈ったところで、その数が回復するものか)
カモクタインやシャクシャインばかりでなく、メナシクルと松前藩との交易を任されている庄左衛門までもが、
そう考えていた。このままいけば、鮭の生まれる数が、乱獲数に追いつかなくなるのは時間の問題であろう。
加えて静内川には、松前藩に依頼されて多くの砂金堀がやってきている。それらがまことに無造作に
川底を掘り返し、済んだ水へ泥濘をぶちまけるものだから、鮭の産卵場所も減る。自分で自分の、いわば産物の
生産量を減らしておいて、アイヌの人々には「もっとたくさんの鮭を獲れ」とせっつくのであるから、
話にならない。
鮭がいなくなることで、アイヌにとってなぜ困ったことになるかといえば、この魚は、松前に住む
和人との交易における最重要品の一つだったからである。
和人たちが送って寄越すものは美しい漆器や衣服の材料などで、もともとさほどアイヌにとって
必要でもなかったものであるが、いつの間にか自分たちの生活に深く食い込んでしまっている上に、
「…カムイ・チェプが減ると、シサムたちが我らへ寄越すコメや鉄も減るな」
カモクタインが暗い目をして、そう呟かざるを得ない事態になってしまうのだ。
特に、和人たちが交易でもたらす鉄は今や、アイヌの人々が狩猟に用いる鏃や槍の材料に使われているため、
重要品になってしまっている。昔はそれがなくとも何とか成り立っていた狩猟が、鉄の「輸入」によって
格段に能率的になった。日常生活においても、彼らがアツシと呼ぶ衣服を作る際にも、黒曜石ではなくて
鉄の針を用いるようになってから、袖や襟口に施す刺繍が格段に早く、美しく出来るようになった。
今では女性が亡くなると、針の形がその墓標になるほどに、鉄の針はありがたがられているのである。
アイヌの伝承の中にも、針にまつわる話が見られるのだが、それは、
「子供が亡くなった!」
と騒いでいる部族の人間に対して、
「なんだ、針がなくなったのかと思った」
なくなったのが子供で良かったと、他のアイヌが答えた、という笑えない笑い話である。
アイヌの民に限らず、そもそも人間というものは、一旦楽することを覚えると、生活の糧を得るために
苦労しようなどとは二度と思わない。楽に、というよりも効率的に生活できるほうを採るのは当たり前だろう。
もともと、生活のために必要な分だけを取り、それで十分暮らしていける、つまり「足ることを知る」
というポリシーを持つ人々である。金、という概念すらなく、未だに物々交換で全てが通用する土地の人々である。
そんな素朴なアイヌの人々の生活の中に、徐々に食い込んできた和人商人は、彼らの生活に「文字」というものが
無いのを知ると、例えばその鮭などの数を十まで数える時には、
「はじめ、一つ、二つ…」
という風に数え始め、
「九、十、終わり」
といった風に数え終えた。要するに、「はじめ」と「終わり」の分、二つ余計に取っているのだ。相手に
文字が無いと馬鹿にした上での交易方法である。
もちろん、アイヌの人々にも数字という概念がないわけではない。アフリカ人にも代表されるように、
指先で文字を示す、といった彼ら独特の数字の表記法があるのである。
しかし、そんな和人商人のあくどさを知りながら指摘せず、アイヌの人々は「まあそれくらいは」と、
見逃していた。それゆえに、商人たちは余計に図に乗り、近頃ではほとんどタダ同然での取引を迫ってきているのだ。
本州では比較的入手困難であるそれら鮭や熊、ラッコの皮や鷹狩りに使う鷹などは、江戸や上方では
当然珍しがられ、重宝されて高額の取引が出来る。しかもそれらを獲るアイヌ民族は大変に友好的で、とくれば、
利潤のみを追求する商人たちが、
「アイヌ達が持っているのは、むしろ軽蔑すべき愚鈍さ…」
とさえ見るようになるのも、そしてアイヌの人々がそれに反発して折々に大規模な戦いを起こすのも、
自然の成り行きであろう。
(そんな交易が、いつから始まったのか)
メナシクルの相談役になるに当たって、庄左衛門も少しは蝦夷の歴史について自分なりに調べている。しかし、
彼なりに感じ取れるのは、
(和人とアイヌ、両者が戦うたびにアイヌの立場が弱くなって行く)
という感覚のみで、何故なのかはやはり分からないままなのだ。
和人とアイヌの戦いで、よく知られているものは、室町時代のコシャマイン、ショヤ・コウシ、タナカサシといった
人々のそれである。庄左衛門が見るところ、これらの戦いは皆、和人たちの過剰進出と、アイヌの人の良さに
つけこんで不当な物々交換を迫る和人商人たちへの憤りから発している。
「このままでは住む場所が侵され、食糧が無くなる…」
そういった切実な危機感が原因での戦いなのだ。つまり室町時代にはもう、和人たちは感覚的に、アイヌの民を
自分たちの「下」に置いていたということになろう。
どんな相手とでも、接する時間が長くなればその分情が移るのが、普通の人間であろう。今では庄左衛門も、
アイヌの人々の境遇に深く同情している。弘前藩の杉山吉成にばかりでなく、周りの人間に常々、
「双方をニンマリさせてこその商人道だ」
と言っている彼なのだ。
であるから、アイヌの人々の実情と、松前藩のやり口を深く知れば知るほどに、
(この格差は何とかならないか)
なにやら義憤めいたものが心の中に湧き上がる。しかし、そうは思っていても、
「どうにもならぬのが現状です」
と、言わざるを得ないのが現実なのだ。実際、一商人に過ぎない立場で、何が出来るわけでもない。
すると、
「我々も分かっている。和人も人間だということはな。だが」
カモクタインは再び苦笑しながら、潜めた声のままで、
「状況を悪化させたのは、シサム商人と、それに媚を売っているシュムクルのせいだ、と、
あれは申している。物騒なことを言うなと一応、釘を刺してはおいたが」
老いた目を、川の中ほどにいる男へ向けた。
カモクタインや庄左衛門よりも一回りは背が高く、肩幅もがっしりとしているその男の名は、シャクシャインという。
(彼がそう言うのも無理はない)
部族の中で、誰よりも覇気と勇気がある彼の姿を見て、庄左衛門もまた苦笑した。
せっかくの祭りの最中である。ただでさえ、このシベチャリ川の漁業圏(イオル)を巡っての
争いが絶えぬ「お隣」と、
「出来れば余計な波風を立たせたくはないのだが」
カモクタインは苦笑したまま続けた。
「同じアイヌ同士なのだ。奴らとて、話し合いを重ねればいつかは分かり合える。シサムとて同じ人間だ。
我等とあなた方相談役のように、いつかきっと、な」
「いや、光栄です」
庄太夫は頷きながら、
(その気持ちも分かるが、和人の大勢はそうではないし、シュムクルアイヌが和人に協力的なように
見えるのも致し方ない)
と思っている。







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