イランカラプテ 3



平たく言えば、以前は蝦夷の好きなところで交易できたが、場所を限っての取引にする、その場所も、
松前藩の許しがいちいちに要るということだ。
アイヌと和人の間には、もともと前々から積るものもある。そこへもってきて松前藩が、手前勝手な
都合ばかりを押し付けるものだから、
「そんな面倒なことは困る。それはそっちだけの都合だろう。我々の生活を何だと思っている。我々がいつ、
お前達の奴隷になった。取引は対等であるはずではないか」
といった具合に、和人へはっきりと嫌悪を示すアイヌばかりではなく、比較的温厚なアイヌまでもが、
和人へ向かってそこはかとない敵意を抱くようになってしまった。
ゆえに比較的温厚派であるアイヌ達、例えばヨイチ(余市)の大将、ケクシケなどは、
「これではいかぬ。和人と争うのは得策ではない」
そんな危機感を抱いた。
その頃、松前藩では松前慶広の孫、公広が藩主となっていたが、ケクシケはその黒印状を引っ込めてくれるよう、
また和人による不当な取引を改善してくれるように、松前藩に直談判に行った所、何と逆に良い様に蹴られ殴られ、
半殺し同然にされたうえで
「逆らうなら、お前の髭と髪を切る」
そう脅されて、追い返されてしまったのだ。
アイヌの人々にとって、髭を切られるというのは重罪を犯したことを意味する、何物にも耐え難い侮辱なのだ。
こうして、アイヌの人々は、政治面において、抵抗したくても出来ない立場にますます追い込まれていったのである。
また、杉山が生まれた慶長十五(一六一〇)年には、現北海道渡島地方南西部、松前半島のほぼ中央にそびえる
大千軒岳から金が出ることが分かっていたので、山に金山番所が設けられている。和人たちが金の発掘のため、
人々を派遣したのは言うまでもない。
日本における全ての金山銀山すなわち鉱山は、江戸幕府が定めた法律「山方三法」により、直轄であることが
当時の常識だったが、千軒金山は何分、調査するための人間を派遣しようにも遠すぎる。よってこの金山だけは、
寒冷地のため当時の技術では米を生産できぬという理由もあって、松前藩の直轄とされた。
それ以降は、金山だけではなくて、川からも砂金が獲れることが分かった松前藩は、千軒岳周辺の川を
調査するだけではなく、その調査の手を北海道道南の日高地方にまで広げることになる。しかも当初は松前藩主、
あるいは藩の武士自らが取引場所へ出かけていたものが、
「面倒だし、手間だし、何より商売の仕方を知らぬから」
というわけで、藩としては商人へ取引を委ねることに決めた。そのためもあって、松前慶広は以前から
面識のあった愛知郡柳川村出身の二人の商人を呼び、彼らにアイヌとの交易を任せたのだ。後述するが、
このことから松前藩は一つの藩としての面目を大いに保ち、逆にアイヌの人々の立場は、生活面でも一気に
弱いものになってしまったと言える。
先に「松前の奴らは小面憎い」と重成が評したのも、実に右のような経緯があったためだ。昔は格下であった相手が、
今は自分よりも上の立場で、裕福な暮らしを送っているように見える。しかもその相手は、津軽海峡を隔てて
目と鼻の先に住んでいる、とあっては、
(父が悔しがるのも無理は無いが)
もらった目録を捧げ持って、津軽城内にある己の部屋へ戻りながら、杉山吉成は苦笑した。
「さんざ我ら石田の世話になっておりながら、あっさりと掌を返しおって、おのれらばかりが良い目を見おって」
憤りと悔しさで、ほとんど毎日歯軋りしながら、夕暮れの北の空を見上げて父は言ったものだ。
(過去のことを今更言ったところで、どうにもなるものではない。石田の血を引いているといっても、
もう今は津軽藩の一家臣として生きていくしかないのだ)
その点、昔を知らぬ吉成のほうが、そう悟るのが早かった。これは特に彼が薄情だとかいうわけではない。
「滅びた家中では良い身分だった」などと告げられたところで、己の生まれる前のことなのだから、
甚だ現実味が薄かったためだ。
父も使っていて、己がその後にもらったこの部屋から、父と同じように北の方角の襖を開き、晩秋の空を眺めると、
(あれは何の鳥であろうか。蝦夷の空へでもゆくのであろうか)
大きな鳥が二、三羽、ゆうゆうと輪を描きながら飛んでいた、かと思うと、それらはついと身を翻して
北のほうへ向かっていく。
いつものように何気なくそれを眺めやっていると、
「庄左衛門殿、お見えにございます」
反対側の襖の外で声がした。
「おお、見えられたか。こちらへ」
吉成が答えると、さらりと襖が開いて、
「近くまで寄りましたので、ご挨拶に参りました。イランカラプテ」
廊下に平伏しながら、幼い子を伴った商人が言う。
「そなたらも変わりないようだな」
(イランカラプテ、か)
これはアイヌの人々が、初対面のときに交し合う挨拶なのだそうだが、庄左衛門自身も気に入って、
今では口癖のようになっているらしい。
アイヌの言葉にはさほど興味はないし、覚えるつもりもないので、杉山吉成のほうからその意味を問うたことはないが、
「イランカラプテ。ささ、こちらへ。火の側へ。小さき者は寒かろう」
響き自体は、彼も気に入っている。変わらぬ挨拶を交し合って微笑をもらしながら、彼は二人へ
いたわりをこめた言葉をかけた。
初老に差し掛かったこの商人は、かつて父重成が津軽へ逃げた折に、父と身分を越えた友情を結んだという。
重成が亡くなってからも、蝦夷の珍しい土産や風土語りなどをもたらしたりする。吉成も幼い頃から、
庄左衛門の語る蝦夷のことを、目を輝かせて聞き入ったものだ。
「ほれ、何をしておる。ずいっと中へ。遠慮のう」
まだ遠慮している風な親子へ、吉成が繰り返し言葉をかけると、庄左衛門は年遅くにもうけた息子に、
可愛くてならぬといった風に細めた目を向け、
「ご家老が仰せじゃ。火に当たらせて頂くよう」
ごく自然な風に言うのである。また、その幼い息子も素直に吉成へ感謝の言葉を述べ、小さな両手を火にかざす。
(父も、こういった彼が好きになったのだろう)
吉成は、目の前の親子を見ながら思った。彼らの振る舞いには、無遠慮といったものとはまた違う、
ある種の心地よさがいつも漂っている。
「ところで、本日はどのような話を持ってきてくれたのか」
吉成が水を向けると、「左様左様」庄左衛門は、近頃はとみに肉付きの良くなった顎を引いて、口辺に微笑を浮かべ、
「手前ども、しばらくのお暇ごいに参ったのでございます」
「なんと」
「いやいや、遠くへ参る、というわけではございません」
驚く吉成へ、庄左衛門は分厚い右手を振った。
「このたび手前ども、杉山様にご紹介いただきました最上の助之丞や、ほれ、前々から申し述べておりました
尾張の市座衛門と共にな、正式にアイヌの相談役に任じられまして。あいや、市座は蝦夷へは参らず、
本土で取引をする役割でございますが」
「ああ、そういうことであったか」
「はい。弘前の御歴々ともご縁が切れるわけではございません。これより松前藩配下としての交易を
任されますわけで、はい。そうなりますと貴藩とも交易を……ということになりましょう。すべてこれ、両浜組の
働きかけによりますもので」
「そうか。それでは私も藩の城代家老として、これからもますますお主らを贔屓にするよう、我が君に働きかけよう」
「ありがたいことにござりまする。なれど」
安心したように頷く吉成に向けている庄左衛門の微笑は、さらにおかしげにゆがむ。
「なれど?」
「いやはや、手前、父と共に初めて松前のお城を訪ねました折のことを、また思い出してしもうて、つい。
まことに失礼をば致しました」
「ははあ」
納得したように頷きながら、吉成の顔もまた、おかしそうに歪んだ。
庄左衛門が思い出した話、というのは、先述した松前二商人が、松前藩に莫大な運上金を納めるようになって、
間もない頃のことである。
通常なら松前藩の財政は飛躍的に豊かになるはずであったのに、
「まだ足りない。何とかならないか」
初代の松前慶広は、彼に招かれた商人の一人、福島屋の田付を相手にそんな風に零していたのだ。
「父もあの時は、笑いをこらえるので苦労したと申しておりました」
田付と共に呼び出されていた庄左衛門の父もまた、その時は顔にこそ出さなかったが、心の中で
呆れ返っていたのだという。
「ほんの少しばかり贅沢したところで何あろう。俺には蝦夷という、無尽蔵に宝を吐き出す山がある」
いささか奢ってそんな風に思っていたせいか、松前藩を立ち上げた頃からもう、藩の経営は危うかったのだ。
「ほんの少し」「ほんの少し」と言いながら、それが過ぎてしまうのは、人の常である。その「ほんの少し」が
積み重なって、自覚が出てくる頃には手遅れ、というのもよくありがちなことである。
日高の交易場で、来年春のニシン漁について打ち合わせをしていたところだった田付は、
「巷では蝦夷の春、その三ヶ月ぽっちの間にニシン漁へ参加すると、一年は楽に暮らせるともっぱらの噂なので
ござりまするがなあ。いやいや、こちらの気候もお殿様の御懐も、いつまでもお寒いということで」
商談を中断させられた、という不機嫌さを隠さないむかっ腹を立てた声で、しかし上辺は笑みを絶やさぬまま言った。
日高からここ、福山城まではもっとも速い船でも半日はかかるのである。
「…お前はいつも一言多い」
田付の不機嫌をよく承知している慶広は、これまた仏頂面で言葉を返す。父の側で頭を下げながら
二人の会話を聞いていた、その折はまだまだ頬の赤かった庄左衛門は、素直に吹き出しそうになるのを
辛うじて堪えていたものだ。
彼ら親子の様子を知ってか知らずか、彼らの前に平伏している田付は、
「ありゃ、お殿様にはまことにお心疲れとは存知ながら、出過ぎたことを申し上げました。
お許し下されませ」
如才なく言いながら、藩主にぺこぺこと頭を下げる。下げながら、
(武士というものは、これだから)
などと腹の中で舌を出しているのだ。
武士とは違って商人は、頭を下げることをもとより何とも思っていない。頭というものは何度下げても
金を取られることなどないなのだから、下げておいて損はしないという勘定だ。
それにしても人間、豊かになると次に気になるのは己の血筋らしい。よって松前慶広も、
「田舎大名と侮られぬよう、家の格をもっと上げたい」
と考えて、財に物を言わせ、京の公家から奥方を迎えたのだが、
(たかだか実質九千石の僻地大名の分際で、公家の奥方なぞを迎えたのは分不相応というものだ。
思いあがりも甚だしい)
こんな風に、事あるごとに雇い主である慶広の愚痴を聞かされながら、田付新助はそう思っている。
もともと上方に近い商人であったから、洗練された都会の実情というものも当然ながら良く知っているのだ。
それでも田付は、
「いや、手前どもには、お殿様の仰りたいこと、ようく分かってございます」
慰めるように言い言い、慶広から見えぬよう、袂から出した扇子で口元を覆ってこっそり笑った。
「手前どもも、アイヌどもへの取引条件を少々厳しくしようかと考えておりました次第で」
彼は既に、この城から少し離れた所にある松前に福島屋を構えている。城のある福山には、慶広に招かれて
やってきたもう一人の材木商、建部七郎右門元重がやはり店を構えていて、エゾマツなどを切り出し、
諸藩へ販売なども始めているところだった。
この二人、蝦夷に来る以前は特に柳川浜と近江の薩摩浜、つまり海に関わる商取引を行っていた浜仲間である。
柳川浜、薩摩浜、二つの「浜」を合わせて蝦夷地では「両浜組」などと呼ばれていた組織を形成していた上に、
北陸や敦賀方面の運搬を担当していた商売人仲間との結びつきも強かった。越後の庄左衛門も、
その縁で声をかけられたのである。
江戸時代においては、ひとつの家が大名として認められるためには、その領土の石高が一万石は必要だった。
一万石でようやく大名としての格が与えられるのだが、
(たかが九千石の田舎者めが)
田付が心の中で嘲笑ったように、松前藩の石高は実際のところ九千しかない。
紀元前三世紀には、コメ作りが現・青森県の津軽平野にまで伝わっており、そこに水田が広がっていたことが
分かっている。しかし、技術の伝播はそこまでで、江戸時代になっても、冷帯に属する蝦夷でコメ作りが
行われたという記録は残っていない。
繰り返すが当時、松前藩において、米の生産はどうみても不可能だったというわけだ。それでも大名として
認められたというのは、ひとえにアイヌの人々との交易の恩恵、すなわち両浜組からの運上金のおかげを
蒙っていたからである。
この運上金を幕府に納めることでもって、初代当主の松前慶広以降、代々の松前藩主は江戸城においても
上位の外様大名並の―例えば、五万石以上の大名でなければ入ることが許されぬ江戸城柳の間へも出入り可能と
いったような―扱いを受けることになったのだ。
五万石以上の大名並の扱いであるから、暮らしぶりもそうあらねばならない、と考えたわけではないのだろうが、
松前藩主の生活もまた、五万石級であったらしい。それは何も当主自身の濫費や参勤交代にかかる費用によるもの
ばかりではなく、代々の当主が迎えた公家の奥方その他女性の、天井知らずの生活ぶりのせいもあった。
何様、公家の人々というものは、贅沢は知っているが倹約を知らない。先ほど、初代慶広の頃から、
松前藩の経営状態はいささか危ういと述べたが、それは公家の奥方がいたことも一因かもしれぬ。
やがて幕府の取り決めによって、諸大名の奥方は江戸に留め置かれることになる。初代将軍家康や
二代秀忠の頃は、参勤交代や諸大名の正室について、まだ正式に決められていたわけではなかったのだが、
大阪の役と前後して、家康は諸大名の奥方を江戸へ住まわせるよう、命令を出していた。
もともと、女というものは物見遊山や享楽を好む生き物であると相場が決まっている。それなのに
自由に出かけることを禁じられ、大奥に押し込められている女性たちの欲求不満の解消手立てといったら、
やはり食うことと着飾ることくらいしかない。
「米を生産していないと言っても、海からも山からも様々な物が無尽蔵に獲れる蝦夷との交易のおかげで、
お国元は豊かである」
そこへそんな風に聞かされたものだから、彼女らの欲求はまこと、留まることを知らなかった。
さらには太平の世を迎えて、何もかもが贅沢になっていたせいと、
「あちらの御家は金銀の縫い取りの内掛けをお持ちである」
「何某の御家は京の呉服屋から鼈甲の簪を大量に仕入れたそうな」
という、女性特有の妙な競争心もあって、生活はますます派手になる。
従って、五万石級の収入がそのまま出費となるだけなら差し引きゼロということで、貯蓄が出来ないと
いうことを除けば、まだ問題は無かったと言えよう。しかし人間、一旦身に付いた生活水準を下げるのは
容易なことではない。時代が下っても、相変わらず先述のような放漫経営を続けていたために、
「かえって借財が増える…」
といった悪循環になっていたのである。繰り返すが、松前藩初代からのことである。
従って、その分のしわ寄せはどうしても松前藩が独占交易を行っている蝦夷、すなわちアイヌたちへかかる。
「いやさ、蝦夷は確かに宝の山でござりまするが、そのお宝を取り出すには効率が悪いようで。
その効率の悪さが、おあしが足りぬということに繋がっておりますのでしょう」
松前慶広に向けられている田付の額は、相も変わらず、石の塊を左右に一つずつくっつけたような風情で、
ひどく突き出ている。それのおかげで、前髪などはかなり後退しているのだが、本人はそれを嫌がるどころか、
「この額のおかげで、手前の特徴を相手様にすぐに覚えていただけますので、商売にはかなり得をしているので
ございますよ」
と嘯く。今日もそれをてらてらと光らせながら、
「足りねば、あるところから持ってくるしかございますまい。そのためには、ともすれば怠けようとする
アイヌ達の尻を、もっと強く叩くことでございますよ」
しれっとした顔で言ってのける田付に、
「そうだな」
松前慶広もあっさり頷いた。「あるところ」というのはもちろん蝦夷のことである。
慶広も慶広で、
(あくまで利潤のみを追求する、唾棄すべきあくどさである)
たっぷりした豊かな頬に、いかにも愛想の良い笑みを浮かべている目の前の近江商人を、腹の中で軽蔑していた。
事実、田付や建部がもしも自分の藩士であったなら、こうやって対峙する都度、その顔に唾を吐きかけていたかもしれない。
商売のことはまるで分からぬし、そもそも「金を扱うのは卑しい身分の者がすることだ」と考えているから、
そのことにはさほど触れぬようにしているが、たまさかに漏れ聞く彼らの商売のやり方は、藩主である
松前慶広自身でさえ気に食わぬものなのだ。
しかし、彼らが「やり手」であるために、藩が潤っていることは事実であるから、これからも彼らに
頼らざるを得ないということも、彼は重々承知している。
だもので、
「お前達の良いように仕置きせよ」
重ねて松前慶広が言ったのを、田付は平伏して受けた。この言葉で、アイヌの人々の半奴隷化は加速したと
言っていいだろう。
立ち去り際、廊下に膝を付けながら、年の割にやや髪が薄い頭を下げかけた田付は、何を思ったか再びその顔を上げ、
「お殿様、何度も申し上げますが、商売に情けは無用。商売をする折の最大の敵は、己自身の情け心にござりまする。
これからも手前どもが呼び寄せた越後高田、越前高浜などの商人ども、続々とこの蝦夷へ参ってくるはずに
ござりまするが」
ニヤリと笑った。
「相手に妙なチエをつけてはなりませぬし、そうすること一切まかりならぬと手前、きつうきつう申し聞かせる所存にて。
幸い、アイヌどもは我らの言葉を覚えようともしない。我らのように、商売の記録を文字にして残すこともない。
幕府公儀へも良いように報告出来ますなぁ。ではこれにてまことに失礼致しまする」
襖を閉めつつ田付がそう言い放ち、それに従って庄左衛門親子も立ち去った後で、
「やはり一言多い」
これもいつものことながら、松前慶広はそう呟いて苦い顔をしたものだ。
襖の外からそれを漏れ聞いてしまったものだから、
「いやはや、まだまだ小僧の身でありながら、あの折は笑いを堪えるのに苦労致しました」
その時の様子を、重成と吉成親子に繰り返し語っては、庄左衛門は言葉どおり、「いかにも笑いを堪えている」
といった、苦しげな表情をする。そして今でも、
「両浜組、松前藩、と聞きますと、どうもその折のことが思い出されましていけません」
顔の前で利き手を振って、彼は言うのだ。
もっとも庄左衛門が苦しげな表情をするのは……これは杉山吉成にも告げずに彼の心の中に秘めていることである
……その折に襖を閉めながら田付が言った、
「お前さんは義理堅く、情に厚すぎる。商人には向いていないね……」
その言葉をも同時に思い出しているためでもあるのだが。


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