イランカラプテ 2




 一 四十年

津軽藩にいる杉山吉成が「俺は、かの石田三成の孫だ」と大声で言っても、誰も見向きもしなくなったのは、
ようよう最近のことだ。
関ヶ原の戦いに敗れ、石田三成の居城であった佐和山城も落城し、まだ頑是無い幼子であった吉成の父
重成が、乳母の父津山甚内に連れられてはるか北、津軽にまで逃れたのはもう、三十四年も前のことである。
「三成殿を、実の親とも思うておりましたゆえに。この平太郎とともに逃れましょう」
と言い言い、これもまだ二十歳になるかならぬか、という年頃だった津軽信建が、幼い重成の手を引いて、
己と己の父の拠点である弘前藩へ導いた。
「若狭に、手前どもと日頃から懇意にしておる商人がおります。船で我らの藩へ参られよ。さすれば、
北の果てのこと。徳川とておいそれと手出しは出来ますまい」
この時点では、まだ若狭(現福井県)は、三成の親友で西軍に属して戦った大谷吉継の領土だった。
吉継自身は戦いの最中に亡くなっているが、まだ国許までには東軍の手は及んでいない。であるから、
そこまでたどり着けたなら、
「ひとまずは安心できると言えます。ですから敦賀まで、どうかご辛抱ください」
幼い重成に、懇々と諭す津軽信建の言葉には、誠実さが滲み出ている。なんとなれば、彼の烏帽子親は
石田三成だったからであり、彼もまた、小姓として豊臣家に仕えた経験があったからだ。父津軽為信は、
関ヶ原では東軍に組していたが、長男である彼は、西軍に組した。これも、信州真田家の例でよく知られているような、
「生き残り策」だったのではなかろうか。そのため、津軽家への徳川家からの「褒賞」は、わずか二千石の
加増であるに過ぎない。
ともあれ、戦いが東軍の勝利に終わったからには、次男とはいえ大将の子が、その居城の近江佐和山に
いつまでも留まっているのは危険である。
琵琶湖を左手に見ながら、疲れたとぐずる幼子を、
「逃れねば恐ろしい鬼が来る。取って食われてしまう」
と脅し、すかし、その手を引き時には負ぶいつつ、信建は夜を日についで若狭への道を辿った。もちろん、
東軍の目を逃れながらの「行軍」である。
やっとのことで敦賀の浜が見えた時、少しだけ後ろを振り返って、
「もう、我らの時代は終わりました。我らは負けた」
小さな重成の手を強く握り締めながら、遠い目をして呟いたものだ。
こうして一行が敦賀の浜へ到着したのは、佐和山が落ちてから一週間後である。
「ここから津軽まで、船で参ります。もう何も恐れることはありません」
交易のためにやってきていた商人を後ろに伴い、津軽信建が言うと、一行はやっと、安堵のため息を付いた。
「もう鬼は来ないのか」
舌足らずな幼い声に思わず破顔した信建は、その前にしゃがみ込み、
「はい、参りません。ゆえに、若もご安心を」
彼自身もようやく安心して微笑んだのである。
「私はこれにて一旦、失礼致します。大垣に参っておる父と、向後の相談がございまするゆえ。
ですが、ご安心召されよ」
たちまち不安そうな目をする幼い重成の手を、安心させるように叩きながら、
「私もすぐに後を追いまする。船の商人どもは信頼できる。彼らを私と思い、何なりとお申し付けなされ」
信建は言い、
「しからば、御免!」
彼らを船に乗せた後、大垣城を包囲していた己の父の元へ駆けて行ったのだ。
幼い重成には、全てが初めて経験することばかりである。陸地沿いに北へと向かう船のへりへ
小さな両手をかけ、流れすぎていく景色をぼんやりと眺めていると、
(もう、我らの時代は終わりました)
この間までの「逃避行」中、津軽信建が繰り返し呟いた言葉が、幼い頭に蘇る。
(我らは負けた…負けたから、逃げなければならないのか)
いつも忙しそうに京大阪と佐和山を往復していたため、居城にあまり落ち着くことのなかった
父三成のことは、あまり良く覚えていない。しかし、
「お律儀な方、情の厚い方」
「教養と学の深い方」
事あるごとに周囲の者が褒めていたように、父は子である自分には、大変に優しかったように思う。
船上を吹きすぎてゆく風が、水の匂いを運んでくる。それがついこの間までいた湖畔の佐和山を思い出させて、
(父上。我らは負けた…父上はもういないのか。あの城にはもう戻れないのか)
喉の奥にこみ上げてきた熱い物をぐっと堪えると、己でも驚くほどに情けない音がそこから漏れた。
その時、
「イランカラプテ。お前も蝦夷に行くのか?」
遠慮のない声が重成に浴びせられて、彼はいつの間にか俯いてしまっていた顔を上げた。
見れば、彼よりも余程仕立ての良い物を着ている、彼と同年か、ほんの数年年上か、といった風な少年であり、
「いや、違う。行く先は、ツガ、ツガル、というところらしい」
無礼者、と、叱ることさえ忘れている。素直にかぶりを振りながら、つっかえつっかえ答えた重成に、
「俺と同じ商人の子か? 津軽は良いところだ。暖かいより寒いほうが多いが、食うものは美味い」
相手はさらに近づいて、頷きながら言葉を発した。
武士の子である己にかける言葉にしては、あまりにもぞんざいすぎる。だが無礼すぎるがために、
反って怒ることを忘れたまま、
「さっきお前はイランカラプテ、と言ったな。それは何だ? お前は何者だ」
逆に重成はその少年に問い返した。
すると、
「俺は越後の商人の子で、庄左衛門だ。イランカラプテ、というのは、蝦夷の夷民が、初めて会った人への
挨拶に使う言葉だ。響きと意味が気に入っているので、俺も使っている。津軽も良いところだが、
蝦夷もよいところだぞ」
庄左衛門と名乗った相手は、はきはきと答える。それへ、幼い重成は、丸い目を見張って頷くばかりであった。
「で、お前は?」
「私か? 私は石田三成の子だ」
重成が言うと、
「お前が?」
その少年は重成よりも目を丸くし、
「一度も会ったことはないが、俺は、てんか様(秀吉)が好きだった。だから、てんか様ゆかりの人間も
好きだ。助けてやる。関ヶ原では残念だったな」
次に白い歯を見せて、なんとも人懐っこく笑ったのである。
(イランカラプテ……それから三十年以上か)
「杉山吉成。右の者、千三百石知行、御証人役加判」
津軽藩家老の言葉に「ありがたき幸せ」と平伏しながら、
(とんだ茶番だ)
腹の中では、三十台半ばに差し掛かった己自身を杉山吉成は笑っていた。
(これで俺も、すっかり津軽の人間よ)
かつては五奉行筆頭の家柄が、今はたかが東北の一藩から、俸禄をもらってありがたがらねばならない身分なのである。
数年前に亡くなった父重成は、
「あの折に西軍が勝っていたなら、お前は関白家筆頭家老の跡継ぎであったかもしれぬものを、
このような北の果てでむざと」
石田の名を大っぴらに名乗れぬことを、ことあるごとに嘆いていた。名乗れば大坂方を目の仇にしていた
徳川将軍家は、その面目にかけて、それこそ北の果てまでも「石田の跡継ぎ」を追及したに違いなく、
そうなれば、
「命を助けてくれた信建の家にも累が及ぶ……」
ということになるからだ。そのために、三成の孫である自分、吉成は、津軽信建の娘を妻に迎えて、
姓を「杉山」と変えた。それもこれも、徳川の耳目を避ける為である。
幼い頃は素直に(そんなものか)と思い、祖父や父を気の毒にも感じて、吉成もまた己の立場を
嘆いたりもしたものだが、
(祖父は不器用だったのだ。大軍を指揮できる器ではなかったのだ)
今ではそんな、冷めた感情しか浮かばない。
どちらにしろ、吉成が津軽で生まれて五年目には、大阪の役が起きて豊臣家は滅び、徳川江戸幕府の時代に
なっているのである。
幸い、と言っていいのか分からないが、そのために徳川も世間も、石田三成のことなど
すっかり忘れたかのようだった。その後、ようやく訪れた太平の世を皆が喜んでいる折に、
「我は石田の子孫なり」と言ったところで、万が一にも味方が現れるわけではないし、
「なんだ、古いいくさで敗けた将の子か」
そんな風な冷笑でもって見られるばかりだということを、何よりも亡くなった父自身が、
一番よく知っていたに違いない。
「我等がこのような北で果てなければならぬのは、負けたからだ」 
父は繰り返しながら歯軋りし、
「何より小面憎いのは、蛎崎の奴らだ。さんざ、我ら石田の引き立てを蒙っておきながら」
と、海峡を隔てた蝦夷渡島の南端、松前に城を構えて、今では「松前藩」の主に治まっている人物を、
名指しで憎んだ。どうやらこれも今は亡くなっている彼の乳母の夫、津山甚内から、事の経緯を
聞かされていたらしい。
父重成がそう言う所以は、豊臣秀吉によって天下統一がなされた時に遡る。
これまでにも蝦夷において、コシャマインとの戦いで名を挙げた武将、武田信広を祖とする蠣崎氏と、
アイヌの人々との間に断続的に戦いは続いていた。その戦いの間に、蠣崎氏は付近の小豪族を従え、
次第に蝦夷の和人たちを支配する立場になっていく。そして武田信広の孫、蠣崎義広の代になって、
蝦夷にやってくる諸国商船から徴税する権利を与えられた。身分的には代官であったが、実質的には
蝦夷の支配者になりつつあった、といっていいかもしれない。
それまでも細々と続いてはいたが、まださほどでもなかった和人の蝦夷進出が、いきなり本格的になったのも、
にこの頃からである。それに、二百年前のコシャマインの戦いで負けてから、アイヌの人々の生活は
ますます和人に圧迫されるようになった。アイヌの人々が経験したことのない疫病も流行したし、
和人との諍いも格段に増えた。
それでもアイヌの人々は、戦いを終える儀式をした後は、互いにその恨みを忘れようとする。和人にとっては、
まさに「お人よし…」以外の何物でもなかったろう。よって、和人との大規模な戦いを何度か経ていたにも関わらず、
「和解したのだから、憎むべきではない」
それからも、蝦夷地へどんどん進出してくる和人へ、恨みを忘れて親しみを込めた挨拶を続けたのだ。
そして天正十八(一五九〇)年十二月、蠣崎氏五代目当主、慶広は、秀吉によって志摩守という大名に
取り立てられた。この時に、
「いずれ蝦夷にも殿下の恩恵を施すためにも、今まで蝦夷平定に力を尽くしてきた蛎崎の力は必要です」
石田三成がこういった口添えをしたので、蛎崎は何の咎めもなく大名になれた……と、少なくとも
父の乳母の夫である津山甚内は思っていて、己の憤りをそのまま重成に伝えた……のである。
機嫌を良くした蛎崎慶広は、それから数年後の、文禄二(一五九三年)一月六日のこと。彼と
素朴な取引を続けていたアイヌの人々を集め、
「志摩守となった俺の言うことを聞かなければ、関白殿下が大軍を率いて蝦夷へ攻め入ってくるぞ」
と、脅したのだ。この話が伝わった折も、
「ほんのご愛嬌ではありませんか。殿下はそれだけ、夷民にも恐れ、敬われているのでございます」
と、石田三成が口添えをして、秀吉の名を勝手に使った蛎崎をかばったのである。もっとも秀吉にとっては、
はるか北の果てに住む異民族のことなど「蠣崎ごときで治まるのなら、それはそれで良いわ」といった
程度のことだったかもしれないが……。
ちなみにこの言葉は、蠣崎慶広が秀吉からもらったという朱印状の、
「諸国より松前に来る人、志摩守に断り申さず狄の嶋中自由に往還し、商賣せしむる者有るに於ては
斬罪に行う可き事。志摩守の下知に相背き夷人に理不尽の儀申懸る者有らば斬罪に行ふ可き事。
諸法度に相背く者有るに於ては斬罪に行う可き事」
という、何とも物騒な内容が拠り所となっている。
大雑把に言うと、志摩守である蠣崎慶広の許可なしに蝦夷地へ行ってはならないし、ましてや商売など
しようものなら斬罪になる、アイヌという異人が何か不始末をしでかした時は斬っても構わない、
これらの決まりごとに違反するものも同様である、そんな風な意味である。何とも思いあがった条文もあったものだ。
アイヌの人々は、地位や名誉とは無縁である。己の中にあるのは、部族をまとめる長老(エカシ)と、
彼らがカムイと呼ぶ自然の神のみである。昔の和人が信じていた「八百万の神」とニュアンス的には
似ているかもしれない。とにかく、そんな人々を集めて、
「関白殿下が云々」
と厳かに告げたところで、その官位の意味する所を果たして彼らが理解したかどうか。よくて茶番劇としか
受け取られなかったに違いない。
そして慶長四(一五九九)年に秀吉が亡くなると、蠣崎慶広はちゃっかりと家康に擦り寄った。そして
家康から改めて築城の許可をもらって、
「藩主なら藩主らしい城がいる」
大喜びの彼は、それから二年の歳月をかけ、松前に福山城を築いたのである。
そして慶長九年、蝦夷全土の地図と己の系譜を差し出した上で松前の姓を許され、松前藩領主松前慶広となった。
秀吉の頃に認められていた蝦夷支配をより強く保証された、というわけで、
「これが江戸幕府を開かれた将軍家直々の黒印状である。これより、お前達と和人は松前藩を通してしか
交易してはならぬ」
建築されてから三年程しか経っていない福山城内には、まだどこかに木の匂いが漂っている。
その大広間に集めたアイヌの代表者たちへ、慶広は大いに肩肘張って、そんな風に主張するようになるのだ。
黒印状というのは、要するに「お墨付き」である。これにより、松前慶広は正式に松前藩主として
認められたことになる。
おまけにその二年後の慶長十一年に、言葉の上でだけではなく実際に、松前藩は渡島半島亀田、
同半島熊石へ番所を置いて、これより先の和人の立ち入りを禁止したし、蝦夷へ行く和船の検閲を
松前において始めるようになる。
お墨付きにしても、番所にしても、そういった概念すらそもそも無いのだから、どれほどの価値を持ち
効果があるのか、当然ながらアイヌの人々には分からない。それに、関白殿下から江戸幕府、といった風に
和人の支配者がコロコロ変わることにもついていけぬ。
つまり「和人のやることは全く理解できない」わけだったのだが、
「何だ、つまりこれからは、松前藩という国としか交易できないということか」
そこのところは、何とか理解したらしい。
この黒印状では、和人との独自交易が禁止されたというだけで、樺太や遠くはシベリアの人々との
交易まで禁じられたというわけではない。しかし松前藩は、この宣言と同時に「場所請負制」という制度を設けた。
この制度は、松前藩がそれに仕えている家臣へアイヌとの交易権を与えたもので、
交易権を得た家臣は「知行主」と呼ばれた。これらの知行主は、商場と呼ばれたとして定められた
蝦夷六十一箇所のそれぞれを管轄し、年に一回そちらへ赴いて、アイヌとの交易を行う。
米を生産できず、アイヌの人々との交易収入がほとんど全てだったと言っていい松前藩独自の政策である。


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