沙ニ抗ス 19



さて、この第一次フエ条約を結ばされる羽目になったベトナム王朝では、当然ながら主戦論が高まった。
清でも、激怒した西太后の号令のもとに、まだ健在であった湘軍や清議派などの主戦派が起用され、
ベトナムのトンキンへ派遣されている。
宗棠の元からも、彼の若い部下が何名か派遣されたのだが、結果的にはこの小競り合いは、
紅河デルタを占領したフランス側の勝ちに終わった。
とにもかくにも結果が出たのであるから、両国とも早々にベトナムから引き上げるべきであろう。
その撤兵協定を結ぶために、清側からは例のごとく李鴻章が現地に赴くことになったのだが、
李鴻章はその「李=フルニエ条約」において、早々にベトナムに置ける宗主権をフランスへ
明け渡してしまった。これが光緒十(一八八四)年五月のこと。
これも清国内で大批判を浴びたが、当然もっとも強く非難するだろうと思われた宗棠からの声が
なかったものだから、人々は大いに訝しがったものだ。
いかんせん、湖南の今臥龍も、もう七十歳を越えた。近頃は、馬に乗ると必ず肩や腰が
きしむような音を立てる。馬の蹄が地面を蹴るたび、耐え難い痛みが彼の背筋に伝わる。
時には怒気を発するのさえも辛い。そういった事情で毒舌を吐こうにも吐けなかったのである。
部下の前では強がっているが、
(もうそろそろ、潮時だな。あの女もいる、李のヤツもいる。それに劉永福のような面白いヤツもいる。
まだまだ清とて捨てたものではない。俺がいなくとも、清はすぐに滅びることはあるまい)
西太后と李鴻章の顔を思い浮かべながら、彼には珍しく、負け惜しみの感情なしに己の死を考えていた。
(俺がくたばっても、当分の間は大丈夫だろう。李にも考えがあってのことだ。アイツも気の毒なヤツなのだ)
いつしか、宗棠はごく自然にそう思うようにもなっている。心残りはといえばやはり海軍のことであるが、
「これも大過なければ、そこそこの能力があるヤツなら発展させられる」
そう自分に言い聞かせていた。
確かに、この撤兵協約が穏やかにすめばその願いは叶ったかもしれない。だが、ベトナムからの
  撤兵に際して両国とも、
「撤兵はまずそちらが」
などと言い合って、一向に譲ろうとしなかった。もちろん双方に思惑があったからである。よって、
せっかく取り決めたこの協定も物別れに終わって、六月には
「撤兵するために出兵するのか。馬鹿げた話さね」
宗棠が苦笑いしたように、これが清仏(中法)戦争の発端となった。
両国とも撤退せぬまま、ついにトンキンのバクレにおいて軍隊が衝突した。これにより、フランス側も
最後通牒をつきつけ、二ヶ月後の八月には台湾省を攻撃、清陸軍を敗走させた上に貿易港であった
基隆の砲台を占領、さらにはその対岸の福建へ向けて大砲を放ってきたものだから、
「これはいかん」
宗棠は血の気を引かせた。福建には、彼が心血を注いで少しずつ創り上げ、未だに発展途上の海軍がある。
ようよう体裁を整えて、部下どもは十分に使用に耐え得ると思っているらしいのだが、宗棠に言わせれば、
「まだまだ卵の殻がついているようなひよっこさ」
というわけなので、フランス軍の相手には到底ならない。
慌てて朝廷へ上奏し、督弁福建軍務の権限をもぎとったものの、夏の暑さと加齢によって
食欲がとみに失われ、筋肉の削げた身体を引きずりながら福建へやってきた宗棠の目に映ったものは、
船政局が破壊され、福建艦隊が壊滅した姿であった。
(…これが、俺のやってきたことの結果か)
破壊された船の破片が、港のそこかしこに漂っている。さすがの彼も呆然とそれへ目を注ぎながら、しかし、
(俺の海軍はまだまだだった、それだけの話だ)
「このことを朝廷に報告しろ。特に母后には詳しく申し上げるのだ」
彼は彼らしく、冷静さと情熱とを失ってはいない。
「俺が生きてある限り、まだ取り返しは効く、と付け加えるのを忘れるな」
こけた頬にニヤリと笑いを浮かべて言うと、彼に従って南へ戻り、漕運総督(官吏によって行われた、
河川及び運河における穀物輸送担当)となっていた楊昌濬も、
(まだまだ先生はお若い)
同様の笑みを浮かべて頭を下げ、駆け去っていった。
この時の上奏がきっかけになったかどうかは定かでないが、ともかく清政府は九月六日、
フランスへ向けて正式に戦線を布告している。
十月に入ると、フランスはその返事として台湾を含む東シナ海沿岸の封鎖を行った。それに対して、
宗棠も、湘軍派である彼の配下のほとんどを投入し、
「フランスを一歩も入れるな!」
年老いた身体に鞭打って督励したし、陸においても、当初はランソンを占拠して国境の鎮南関まで
迫ってきたフランス軍を、清側の将軍である馮子村や件の劉永福率いる黒旗軍が
翌光緒十一(一八八五)年三月には破っている。
この結果、当時のフランスの内閣は責任を取らされて倒れているのだから、
(圧倒的勝利は無理かもしれないが、フランスを追い返すくらいは出来るのではないか)
と、宗棠を含む清国人のほとんどが、そう思っていたに違いない。
しかしこの戦いは、
「何のことだ、俺達は勝っているではないか。勝手に講和などしおって、中央のヤツらは、腰抜けばかりか」
近年はなりを潜めていたはずの宗棠の毒舌を、再び復活させる結果に終わった。
なるほど、結果だけを見ればフランスはベトナムを植民地とするのに成功している。だが、
フランスも決して楽に勝てたのではなく、重要と見られるいくつかの戦いにおいてはむしろ
敗北していた。それにより見過ごしにはできない損害を出したのだから、宗棠がそう言ったのも
当たり前である。
今回は結局、講和するということになったが、もしも再び日本から戻ってきて駐清公使になってい
たパークスや、清国総税務司ロバート=ハートらイギリス側の仲介がなければ、そして清側穏健派が
その話に乗らなければ、この戦争の結果は果たしてどうなっていただろうか。現に、当時から
二百年後の今でも、中国や台湾では、この戦いは実質的には清の勝ちであると見る向きさえある。
陣頭で指揮を取るには年老いすぎて体が耐え得ぬ。よって今回も、戦の指示を全て福州総督府から
出していた彼に、息せき切ってその報せを持ってきた楊昌濬ほか、彼に従っていた古くからの部下達は、
「結局アイツも、自分が可愛いのか!」
久しぶりに彼が白髪を逆立てんばかりに怒鳴ったので、思わず身体を震わせたものだ。
彼がそんな風に怒ったのは、李鴻章がその配下である淮軍派兵士を全くと言っていいほど
今回の戦いに使わぬまま、三月下旬には早々に停戦にこぎつけたのみならず、六月上旬に天津で
条約を結ぶ予定であるということを続けて聞いた時である。当時の駐仏公使、曽紀沢の猛烈な反対を
退けてのことで、この時の反対が祟り、曽紀沢は公使を解任されてしまった。
李鴻章は、前年、朝鮮半島で起きた甲申事変に対して、まだまだ自分が奔走せねばならないということを
理由に、またしても清国にとって大変に屈辱的なこの条約をとっとと呑んだのである。
その内容をかいつまんで記すと、清はベトナムをフランスの植民地だと認める、ラオカイ(保勝)と
ランソンより北に通商のための港をそれぞれ一つずつ開く、清が鉄道を自国内に敷く折はフランスの
業者を使う、台湾基隆及び澎湖島からのフランス軍の撤退、というのが主たるものだった。
最後の一つはともかく、他の三つを、清側が局部的にとはいえ勝利を収めた一ヶ月も経たぬ内に
唯々諾々として呑んだというのは、普段から李鴻章を支持していた人間でさえ不審に思えた。
そのせいで、李が講和を急いだ本当の理由が、
「自身の配下にある淮軍派軍隊の温存のためで、これからも自分が政治的に有利な立場に立つためである」
との噂が、妙に真実味を帯びて広まってしまったのである。こんな話を聞けば、宗棠でなくとも
憤慨するだろう。
しかも李鴻章は、部下の楊昌濬を宗棠の補佐として?浙総督に任命し、宗棠にも和議のための
使者として、天津へ自分と共に赴くように言ってきた。これも李鴻章の彼に対する「先輩の宗棠を
無視できぬ…」という気遣いであったのかもしれないが、
「筋違いも良い所だ。今回のいくさで死んだ奴らに、あの世で何と言えばいい…俺がやってきたことは
一体何だったのだ」
そんな風に激怒した後、まるで膨らんだ次の瞬間しぼむ餅のように、宗棠はへたへたと椅子へ
腰を下ろして上半身をぐらりと揺らめかせた。
「先生!」
慌てて支えようとする楊昌濬へ、うるさげに手を振りながら、
(目がくらむわい)
辛うじて机の上に両手を着いて身体を支え、彼は太く長いため息を着いたものだ。
怒気を発したためと、絶望が一気に襲い掛かったためであろうか。机へ両手をつきながら、
どんなに大きく呼吸を繰り返しても、しばらくは息が出来ぬほどに苦しく、激しい眩暈も覚える。
(長生きなど、するものではないな。あの諸葛亮とて五十四歳で死んだというのに、俺はそれよりも
さらに二十年、無駄に生きてしまった。そろそろくたばる頃合であろうよ)
苦笑いしながら、彼はしばらく目を閉じたまま天井を仰ぎ、
「…俺は疲れた。しばらく休むよ」
彼には珍しく、正直にそう告げた。
「フランスは、これからもまだなんだかんだと言って寄越してくるだろう。であるから、
正式に批准されるまでには時間がかかろうわい」
「しかし先生、条約締結は六月の九日ですが」
楊昌濬が正直に首を傾げるのへ、宗棠はうっすらと目を開けて軽く笑い、再び目を閉じる。
「それまでには俺もまた起きているさ。心配するな。与えられた任務はこなす」
目を閉じたままそれだけを告げて、鼻の穴から大きく息を吐き出しながら、
(俺がくたばった後も、フランスはきっとあれ以上のことを言って寄越してくる。
あの四つだけで済むはずがない)
聡明な彼には、そのことがはっきりと予測でき、しかし自分の部下達の中にはそれを
予測するほどの人物がいないことを改めて寂しいと思ったのである。

  終

こうして、光緒十一(一八八五)年四月四日、ロバート=ハートの代理としてイギリス人
キャンベルとフランス代表のビヨーがパリ覚書に調印、それに基づいて六月九日に天津で、
フランス公使パトノートルと李鴻章が修好通商和平条約を締結し、これをもって
清仏戦争は終了と相成った。
これが李・パトノートル条約であり、清はこれでベトナムの宗主権を完全に放棄したことになったのだ。
そして「俺はしばらく休む」と告げた宗棠もまた、気力と体力の衰えた身体に鞭打ちながら、
李鴻章について天津へ赴いた。その顔はすでにどす黒く、
「ご苦労でした。どうかゆっくりお休み下さい」
李鴻章が思わずそう声をかけたほどである。部下達が反って驚いたことに、宗棠はそれに対して
かすかに笑うのみであった。かつての彼ならきっと、
「貴様が言うな、余計なお世話だわい。それは嫌味か」
と、その程度は言い返したろう。だが、そんなことさえ言い返す気力がないのだと、医者でなくても
はっきり分かるほど、宗棠の表情からはかつての負けん気と覇気が失われていたのだ。
天津から福州へ戻ってきて、宗棠はついに倒れた。それ医者だ、薬だと騒ぐ部下達へ、
「寿命だよ。寿命さね。であるから、あまり構うてくれるな」
かすかに笑って繰り返す彼の症状は、どんどん重くなっていく。夏に入って気温がより高くなると、
それに比例するかのように一層症状は悪化し、彼の身体は水か茶しか受け付けぬようになっていた。
栄養を取れぬし、いかんせん老体であるし、というので手術をしようにも宗棠の体力が保たぬ。
医者も手をつかねて匙を投げてしまった。
それでもひと夏、彼は生きた。その後の厳しい残暑が続く中、苦しげな呼吸を繰り返しながら
「眩暈がとまらぬ」と言い言い、
「しかし悔しいな。俺もついにくたばるか」
己の枕元にいる楊昌濬へかすかな声で話しかけ、ニヤリと笑った後、
「海軍を頼む」
一言告げて、こときれたのである。
時に、光緒十一(一八八五)年九月五日、享年七十三歳。こうして清朝を支え続けた大黒柱が
ついに折れた。後に残った人々の胸の中を襲ったのは、
(これから清はどうなるのか)
という薄ら寒さであったろう。
清が曲がりなりにも、その領土の五分の一にも当たる新疆を取り戻せたのは、宗棠あってこその
ことだったということを、改めて感じさせられたからである。生きている間はいささか
煩わしかった彼の毒舌さえも、いざ無くなってみると大変に懐かしい。
また、左宗棠逝去により、清国のことはいよいよ李鴻章一人の双肩にかかった。
宗棠が予測したように、天津条約の翌年には辺境通商章程、さらにその翌年に国境協定が結ばれている。
さらには朝鮮における宗主権も危うくなって、彼の死後十年経った光緒二十(一八九四)年には、
かの日清戦争が勃発した。この時も勝ち目がないと思った李鴻章は、例のごとく開戦反対を唱えたが、
結局、強硬意見に押し切られ、この戦いをする羽目になってしまっている。
この戦争で実際に戦ったのは、李が自分のために温存していたはずの北洋艦隊のみで、それが
ほぼ壊滅してしまったのは何とも皮肉な話だ。もしもその折、宗棠がいつも気にかけていた
南洋海軍も併せてあったなら、かほどもろく破れることは無かったかも知れぬ。
清はそれからも、緩やかな衰退への道を辿った。外においては日本も含めた諸外国の、
飽くことを知らぬ欲求に奔走し、内においては義和団事件や孫文率いる革命軍にピリピリしながら、
ついに李鴻章も光緒二十七(一九〇一)年には帰らぬ人となる。
その少し前になるが、日清戦争が終わった後、両江総督に任じられて孫文の指揮した
広州蜂起を鎮圧した譚鍾麟が、
「私はあの左宗棠の後継である」
と自認しつつ、光緒帝が支持していた戊戌の変法に対して反対の旨を西太后に上奏した時、
「先生なら、きっと反対したに違いありません。なぜなら先生は保守の人だったからです」
そう言い切ったことがある。
それに対して、
「かの左公は、決して保守の人などではありませんでしたよ」
苦笑しながら李鴻章はそう答えた。若い人々によって行われようとしたこの改革の良さを、
李も内心では十分に認めていたに違いない。それを実行に移すには時期が早すぎることも知っていたが、
(左宗棠ならば、何が何でも反対するということはなかったろう)
その政策の全てとは言わないが、一つ二つくらいは実行するよう、宗棠亡き今、もう一度
見たいとさえ思えるあの頑固さで、粘り強く西太后に勧めていたであろう。
急激な変動を何より嫌う西太后へ、改革を勧めるなどということは、
(俺にも譚鍾麟にも他の誰にも出来ぬが、左宗棠ならばきっと)
愛すべき単純さを備えている一つ年上の譚を見ながら、李はそう思って再び苦笑した。むしろ
宗棠と政治的に正反対の立場にあった李鴻章のほうが、宗棠のことをよく理解していたかもしれない。
結局この改革は、西太后の強い反対と、戊戌の政変と呼ばれる彼女の素早い行動によって
不完全燃焼に終わった。改革を期待し、しかしそのことに失望した人々の心は、その後の
義和団事件における清朝の無残な有様により、さらに清から離れることになる。
清朝が滅びる直接のきっかけになった辛亥革命が、先述の孫文によって起こされるのは、
李鴻章が亡くなってから十年、左宗棠が生まれた年から数えてほぼ百年後のこと。
二人とも、心の底では互いを十分に認めていながら、その個性が互いに強すぎて、ついに
歩み寄ることはなかった。このことが、清にとって不幸であったかどうかは今も分からない。
ただ、これらの英傑が二人とも亡くなった時が、清が事実上滅亡した時であったとは
言えるかもしれない。
河西回廊に植えられた「左公柳」は、現在も涼しげに緑の葉を揺らしている。


                                 ―了


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