沙ニ抗ス 18




以前にも述べたが、軍機大臣というのは、彼の友人である故文祥もかつて就いていた地位で、
国政の最高会議に参加する資格を持つ、というよりも、参加しなければならない。
譚鍾麟やその他の部下達が驚き、喜ぶのは当然なのだが、どちらかというとやはり、
将軍というよりは参謀としての匂いが感じられ、文官としての性格が強いように見える。
内閣大学士にしても軍事に直接関わる役職ではないから、似たようなものであった。
よって聡明な彼は、
(俺を現場に行かせぬための位打ち、というヤツだろう)
鋭くそう察していたし、
(事なかれ主義の李のやりそうなことだ)
と、挙人出身でありながら身に余る栄誉を受けたにも関わらず、より一層の失望感をすら
覚えていたのである。
顔ぶれは変わったが、しかつめらしい表情はそのままの百官が居並ぶ養心殿で、
西太后の前に拝跪しながら「身に余る栄誉、感謝致します」などと言う自分を、
一昔前の宗棠ならば自画自賛していたかもしれない。
(茶番だ)
しかしその側に凛然として控えている李鴻章を見ると、荒れた頬には堪えきれない苦い笑みが浮かぶ。
「欽差大臣、いえ、軍機大臣。これからも我が国のために尽くしてくれることを望みます」
西太后の言葉に再びひれ伏しながら、
(だが、俺はまた外に出るだろう)
宗棠は己自身を冷静に見つめてそう思った。自分の性格からして、このような茶番が
まかり通る宮仕えが出来るわけがないのだ。
(俺は何のために戦ってきたのか。このような栄達を受けるためか)
新しい任務を拝命し、宮殿を出ながら宗棠は空を見上げる。強い春の風は今年も変わらず
西域からの乾いた砂を北京にまで運んできており、
(それは違う。愚問だ。俺が戦うのは…分かりきっている)
それが石畳の上に積っているのを見ながら、彼の唇に不敵な笑みが蘇った。
己が戦ってきたのは、咸豊帝のためだけではない、他でもないこの国のためであり、
(清国の人間として、その誇りを取り戻すためだ。俺よりも先に逝ったやつらのために、
残り少ないであろう俺の命の限り、最後まで戦おう)
そう心に誓いなおして彼は、
(政務に耐え得ず、ということで病気にでもなってやるか)
子供っぽい悪戯心さえ、己の中へ蘇らせた。
そしてそのほぼ半年後である九月には、その考え通り、
「病気のため…」
を理由にして軍機大臣及び内閣大学士のポストを捨て、両江総督兼南洋大臣として政府の外へ
出ることを望んだのである。
「あの左公にしては珍しいほどの謙虚ぶりである」
と、百官は意外な思いに打たれた。「挙人風情」が、せっかく手に入れた政府最高の
ポストの一つを蹴るというのだ。彼らの常識からすれば、とんでもなくもったいないことで、
常識はずれなことだったに違いない。
「せっかくの栄達を喜ばず、その栄達に酔わないのか。戦に出る必要もなし、もうよい年なのだから、
楽して贅沢な暮らしを取れば良いものを。やはりあの御仁は変わっている」
彼らはさぞや、口さがなく噂したろう。だが、さすがに李鴻章は「優等生」らしく、
宗棠の本当の意を察していた。
(あの御仁は、己を良く知っているのだ)
李自身、これまで宗棠からあまりにも悪し様に言われすぎて来ているから、好意を抱いているかと
尋ねられたなら、はっきりとは頷きかねる。だが、もともと宗棠の毒舌が向けられるのは、
李鴻章に対してだけではなかったし、
(言ったことは必ずやり遂げるあの覇気は、己にはないものである)
そんな風に彼のほうも、宗棠のことを心の中ではやはり認めていたのである。
ひょっとすると李は、
(あれだけ言い散らかすだけ言い散らかしておいて、周囲の反発を招いておきながら、
それでも結局は熱烈な支持者がいて、己のやりたいように出来る…)
そういう宗棠が、実は羨ましかったのかもしれない。
李鴻章の場合、「清国で唯一、清の置かれている立場や国力を知っていて、諸外国へも
目を広く向けている名政治家」との評判が立ちすぎてしまった。李自身、そういった
目に見えぬ鎖によって、いつの間にかがんじがらめになってしまっていた自分が、
時には息苦しくなったこともあったろう。
だが、その鎖は、今更自分では外せない。宗棠が常々言っていたように、彼は良くも悪くも
優等生過ぎ、諸外国に配慮を働かせすぎた。なるだけ相手の心に波風が立たぬよう、
嵐は首をすくめてやり過ごす…目に見えぬ気配りを常に相手に施す、という李鴻章の持ち味が
外交にも現れていた、と言えなくもない。
それが悪かったのかどうかは、一概には判断できぬ。そういう李鴻章がいたからこそ、
清は辛うじてその滅び方を緩やかに出来た、とも言えるからである。そして、
「軍機大臣という恐れ多い地位よりも、むしろ俺は総督として地方のために働きたい」
宗棠がそう申し出た時も、李はそれを容認した。
李鴻章も、宗棠がいれば交渉が決裂するから、といった理由のためだけに、彼を北京へ
呼び戻したのではない。それまでの大きな戦功に見合っていて、相応しいと思えるポストを、
わざわざ西太后の許可も得て呈示したつもりなのである。なのに、宗棠は逆にそれよりも
さらに低い地位を望むのだ。
「幸い、両江総督と南洋大臣が空いている。お望みなら、貴方にその地位を差し上げる」
李鴻章が言うと、宗棠は我が意を得たりとばかりに頷いて、
「それはありがたい。いずれは俺に、海軍の再建設の許可も頂きたい」
「考えておきましょう」
それを李は無難に受けた。
こうして、宗棠は両江総督兼南洋大臣として、再び政府中枢から現場へ出た。
南洋大臣というのは、李鴻章が就いている北洋大臣同様、かつて宗棠がヤクブ・ベクと
戦ったときに拝命した欽差大臣の性格を併せ持ち、正確には南洋通商大臣と呼ばれているポストである。
曽国藩が最初に就任したのが最初で、次に李鴻章がその後を襲った。よって宗棠で三代目ということになるだろう。
アヘン戦争以来、南京を管轄下に持つ両江総督が兼任するのが通例になっていて、かの
南京条約で開港された広州、福州、アモイ、寧波、上海の五港における諸外国との通商及び
それに伴う事務が主な仕事であった。
「先生、せっかくだったのに、どうしてあの地位を蹴ったのですか」
正式に両江総督に任じられ、古巣へ赴く折、彼の代わりに陝甘総督に任じられた譚鍾麟が
いささか不満げに尋ねたのへ、宗棠は、
「俺には水槽の中は合わん。外へ出たのは、魚が大海を得たようなものさ。俺はとにかく、
忙しくしていることが好きなのだ」
と答え、故郷に近づくにつれて水分が濃くなっていくだろう空気を、懐かしく思い出しながら、
カラカラと豪快に笑ったものだ。
(だが、まあ…俺が本当に生きていたのは、あの沙の中でだったかもしれん)
西域のことも懐かしく思い出しながら、譚鍾麟らへ別れを告げ、
「死ぬまでに一度、咸豊帝陛下の陵へ詣でたいものだ」
言い言い北京から南へ下ると、次第に河や沼が多くなる。そこでようやく、
(子たちは元気でいるか)
彼は彼の家族のことを心に描いた。
思えば駱秉章の帷幕に招かれて以来三十年近く、ほとんど血縁の者を寄せ付けぬ人生を過ごしてきたのである。
妻、周夫人は、同治九(一八七〇)年に既に亡くなっており、その二年後には曽国藩が
亡くなるのと相前後して、長男の左孝威も父である宗棠より先に死んだ。
妻と長男の葬式にも「国事を優先させるべきである」と言って戻ってこなかったのだから、
かつて陶?の息子の元へ嫁した娘を初め、残りの三人の息子たちは、彼を父とも思えぬほどに
嫌っているらしい。
その証拠に、宗棠が故郷へ帰ってきたとの報せは聞いているはずなのに、
「どうせ追い返されるし、顔を覚えてもいないから」
子らはそう言って、父が北京からの旅を終え、南京総督府に腰を落ち着けても会いに来ようとしない。
父が国家のために働いている、だから邪魔すべきではないというのは、理屈では分かっていても、
感情の上では到底無理である。
例えば、以前宗棠に戦の拙さを罵られ、陝西巡撫を解任されてしまった劉蓉であるが、
軍を退いてからは桐城派の文人として『養晦堂詩文集』などを発表する傍ら、一介の父親として
家族から愛し愛され、いたく平穏で幸福な日々を送っているという。
それに引き換え宗棠のほうは、一般家庭における父としての役割は果たさず、あくまで
宗棠個人として自己表現し続けることを優先させた。その結果、家族からの反発を招いたわけなのだが、
(致し方ないといえば致し方ない)
そのことが寂しく思えるのも、年を取った証拠なのであろうか。
だが、たとえ彼が残された家族に会おうと思っても、それは果たせぬ願いだったろう。
両江総督という身分と、これまでの実績が、宗棠に腰を落ち着けることを許さなかったからだ。
両江総督に就任してその任務をこなしながら、宗棠は同時に北京の朝廷へ福建における
海軍再構築を申請していたのだが、
「やれやれ、これでようやく己の宿願であった海軍の再構築を始められる。文祥の言葉ではないが、
これこそ遠い遠い回り道であったと言えるだろうよ」
相変わらず正直に思ったことを口にして、周りの者を苦笑させながらその返事を待っているうち、
今度はベトナムの利権を巡ってフランスとの戦いが起きたのである。
古くは「安南」と呼ばれていたベトナムは、かの諸葛亮孔明も一度は遠征した土地であると言われている。
一八〇二年には阮朝という名の王朝が建てられていたが、清はこの王朝を属国と思い、
その宗主国であると自認していた。阮朝自体は、清側にならった政治体制を取り入れた
文化的なものであったし、建国当初はアジアへ進出してきたフランスの影響もあって、
国王の側近にキリスト教徒がいたこともある。よってその頃はキリスト教に対しても、
割に寛大だったと言える。
だが、建国三十年も経たないうちに、阮朝はキリスト教を迫害し始めるのだ。なんといっても
導入した政治体制は中国のものであったし、そうなると中国の国教である儒教の影響も
受けないとは限らない。儒教を信じる人間が多くなるに連れて、キリスト教が疎んじられるという
傾向が見られたのも、そのせいかもしれぬ。
この折のフランスの代表者は、かの有名なナポレオン三世である。為政者が同じだと外交に際しても
やることは同じと見える。
フランスは清国へ仕掛けたのと同様、「キリスト教の迫害」を口実にしてベトナムへ攻め入った
。一八五七年から一八七三年にかけての第一次、第二次仏安戦争で勝利し、それぞれの戦いにおいて
サイゴン条約を結んだ際、ベトナム側から領土の割譲や紅河沿いの通商権を得ただけでは
満足しなかったようなのだ。
ナポレオン三世が政治の舞台から消えた後、フランス国内ではフェリーという人物が内閣を
組織していたが、その内閣は戦争への道筋をそのまま歩んだ。一八八二年にはベトナムの
完全なる植民地化を目指して、ついには首都ハノイを占拠してしまったのである。
こうなれば、ベトナムの宗主国である清も、このまま黙って見過ごすわけには行かない。
圧倒的に主戦論が占める清朝廷内で、
「我が国にフランスと戦える力があるのか。これ以上問題を起こさないでくれ」
と、今更ながら最初から反対を唱えていたのは李鴻章である。この前年には閔氏政権の
朝鮮半島において、日本も絡んだ壬午軍乱が起きていた。
朝鮮に対する宗主権も主張せねばならないということで、その善後策を立てるため、
またしても彼は一人で奔走しなければならなかった。何分、外交のことでは他に誰も
頼れる人間がいない。だから、この期に及んでも自国の力量を冷静に見ようとしない人間相手に、
李はほとんど泣きたい思いであったに違いない。
だが、光緒九(一八八三)年五月には、どうしたことか広東で黒旗軍を組織していた劉永福という人物が、
フランス軍へ攻め入っている。清政府としても別に彼に命じたわけではない。
黒旗軍自体、清政府の政治に元から反対していた民間団体「天地会」に所属しているのだ。
その由来を遡れば、清国成立初期から政府の打倒を目指していた秘密結社の別称であるという、
なんとも胡乱な経歴を持つ。洪門、三点会などと呼称を変えながら存続し、一八六七年、
何回目かの改称で天地会と称した。これに加わった若者の一人が劉永福で、彼が担当した軍部が
黒旗軍であるというわけだ。
結成当初には、清正規軍を清とベトナムの国境の町、保勝(現・ベトナム、ラオカイ)において
破ったりしている、という関係でさえある。今回、フランスヘ戦いを挑んだのは、全くの劉永福の独断で、
以前は逆に清正規軍に蹴散らかされ、ベトナムへ追い出されたものだから、
「行きがけの駄賃というではないか。こうなったら逆にフランスへいくさを挑んで、
俺達を追い払った清のやつらに目に物見せてやれ。俺達を迎えてくれたベトナムへ恩返ししろ」
というわけで、ベトナムへやってきていたフランスへ噛み付いたものらしい。失うものが
何もない人間の強みであろう。
劉永福、この時四十六歳。人間的には練れていなければならないはずの年頃でありながら、
若い頃から「無頼者」の悪評判が高かった人間らしく、その無謀な挑戦において、なんと
初戦からその時のフランス軍を率いていたリヴィエール将軍を戦死させ、これを破ってしまった。
清側にとっても予想外の出来事である。
「面白いヤツだな。ぜひ一度会って酒でも呑みたいものだ」
忙しい政務の合間に運ばれたその報せを南京総督府で聞いて、宗棠は久しぶりに腹を抱えて笑った。
海軍再構築の許可を得て馬尾船政局を設立、福建(南洋)艦隊を着々と構築している最中であったが、
いかんせん、彼の事業を任せられるほどの、「こいつは」と思える跡継ぎがいない。そのことに
頭を悩ませている折、何ともいえぬ爽快な気分にさせてくれた報せだったのである。
もっとも、劉永福が勝ったのは初戦だけである。それから二ヶ月後の八月には、フランスは
ベトナム王朝首都のフエ(漢名は順化。フランス語の発音ではユエ)を占拠し、ベトナムに
第一次フエ条約を結ばせてしまった。もちろんこれも不平等条約である。
これによって、ベトナムは数々の不利な条件を飲んだばかりか、ベトナムが清から独立したことを
宣言させられたうえに、自分たちの味方をしてくれた黒旗軍の駆逐まで認めさせられてしまった
。だもので、劉永福もやむなく清へ引き上げた。
劉の経歴もさることながら、清へ戻ってきた彼が、敵であるはずの清政府から三宣正提督に任じられ、
一等義勇男爵の地位まで与えられているのだから、
(人生、これだから面白い)
宗棠はその後も思い出しては含み笑いをしたものだ。
清国内の人間であるし、動機はともかく清のために一応は役に立ったのだし、だから恨みは忘れて
功績は功績として評価しなければならない、というのがモットーの、あの李鴻章らしい対応の仕方である。
そんな李の態度に、劉永福自身もさぞや戸惑っただろうと思うと、おかしみと共に親しみすら湧いてくる。
劉永福はどうしたものか、その後ははっきりと清へ味方することを宣言し、死ぬまで清のために
働き続けた。それらの恩賞を授けられたから、というよりも、それをくれた李鴻章の人柄に
魅せられたのかもしれない。


to be continued…


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