沙ニ抗ス 17


  七 折れた大黒柱

イリ、現・伊寧(イーニン)市。グルジャとも呼ばれており、かつて林則徐も流されたこの都市は、
現代中国においても最西端の街で、ウルムチからさらに西へ直線距離で四百キロほど離れている。
現カザフスタンとキルギスとの国境に面し、北京から見ればまさに辺境の土地であった。
現在、国道を使って「イリ」へ行くには、大雑把に言って二つの道がある。
ウルムチで南西へ折れ、百キロほどまっすぐ進んだ後、風光明媚な天山山脈の合間に流れる
イリ川沿いの道へ入り、さらにそこから約四百キロ程西へ向かう。あるいは蘭新鉄道沿いの道を使い、
一旦ジュンガル盆地まで出てマナス川を右手に見ながら、鳥蘇(ウースー)、博楽(ポーロー)経由で
イリの北をぐるりと回る格好で向かう。それらのどちらかだ。
現代からおよそ百二十年ほど前にイリへ向かった崇厚もまた、似たような道を辿ったかもしれない。
いずれにしても、鉄道が未開通であった時代のことである。軍人はともかく、宗棠の言によると
「宮廷で物書きしかしない」文官が、そこまでたどり着くには多大なな労力を必要としたに違いない。
さて、寒さに震えながらくたくたになってイリにたどり着いた、背の低いこの尊大な和平大使を、
ロシア側は思いのほか丁重に迎えた。
正直、ロシア側としては、宗棠が、というよりも清が、ここまでの底力を残しているとは思っていなかったらしい。
「イリはあなた方へお返ししよう」
とまで彼らは言った。ホッと胸を撫で下ろした様子の崇厚はしかし、
「ただしそれは一部分である。こちらとて多大な犠牲を払って手に入れた領土であり、それらを全て
手放すことは出来ない。それに我々はこの地区における商業をヤクブ・ベクの手から保護し、
我々の手で治安を保ってきた。よってその土地を一部分でも手放すとなれば、それ相応の誠意を
見せていただきたい」
といった、何とも理不尽な恩着せがましさを含んだロシア側の言葉に、顔を青ざめさせた。
結局崇厚は、ロシア側にはまともに相手にされず、イリ側の西、南部領土の割譲、及び五百万ルーブルという
多大な賠償金を支払うことを認めさせられたのである。
まるで子供をあしらうような交渉の仕方であった。当時からおよそ百年ほど前のあのポーランド領分割直前に際し、
ロシアをわざわざ訪れた同国王スタニスラフの平和的提案を、まるで相手にしなかった女帝エカチェリーナの
外交手腕を髣髴とさせる。
それになんといっても、背後に清の倍以上の武力をちらつかせての言葉であるし、実際に脅されて清本国が
また混乱に陥るとなれば、
(己の責任になってしまう…自分が死ぬという予言は現実になる)
崇厚はただ、占いが当たることのみを懼れて、ロシア側の虫の良い条件をことごとく飲み、まるで逃げるように、
イリから早々と引き上げてきてしまった。
きっとロシア側とて、いくら背後に清を上回る武力があるといっても、このような厚かましい条件をそっくり
そのまま、清側が受け入れるとは予想もしていなかったに違いない。もしも彼らが崇厚の個人的事情を知っていたら、
腹を抱えて笑ったろう。
ある程度覚悟していたこととはいえ、
「それ見たことか!」
なんとも屈辱的なこの交渉結果に激怒したのは、言うまでもなくこれまで西域の回復に全力を傾けてきた宗棠である。
崇厚の出発前に彼がハミへの軍隊駐屯を申し出たのは、清側にもこれだけの国力はあるぞと示すためで、また、
そのことによって少しでもロシア側が譲歩するかもしれないと期待してのことである。それをわざわざ蹴るからには、
崇厚の胸にもある程度、成功する算段があったはずであろう。
それが実際には、ただただ占いが現実になるのを恐れて、相手側の言うなりになっただけ、というのであるから、
(結局は、清の官吏もこの程度か。占いを信じるなど)
あまりにも稚拙すぎ、馬鹿馬鹿しすぎて涙も出ない。
なるほど、易経を含む各種の占いは、古来からこの国で実学として重んじられているし、政治の中枢に今も深く
食い込んでいる。そのことは無論、宗棠も知りすぎるほど知っているが、しかし、近代の学問を少しでも齧った人間には
やはり、時代遅れと思えてしまう。何より、確かな根拠がどこにもない予言など、信じるに値しないではないか。
このことで宗棠は、大将曽国藩や李鴻章など、己を取り巻いていた人間達の見識のほうがやはり高かったということを
改めて思い知らされると同時に、
(これでは諸外国に舐められるのも当たり前だ)
清政府中枢にいる官吏の意識が、まだまだその程度であるということに考え至って、暗澹たる思いに囚われ、
深くため息をついた。
そして彼は崇厚に向かって、
「イリはもともと我らの領土であった。何処の世に、泥棒が奪った物をわざわざ金を払って買い戻すヤツがいるか。
貴君はロシアという国を、我々の半分も分かっていない。かの林則徐殿が残した言葉を何と聞いていたのか。
占いに頼るなど愚の骨頂だ。占わずとも人間というものは、明日であろうが十年後であろうが、生きている限り
必ず死ぬと決まっている。どちらにしてもくたばる命なのだから、なぜ大使としての任務に死ぬ覚悟で臨まん。
なぜ十二分にその責を全うしようとしない」
一気にそうまくしたてたのである。
もともと怒りっぽい面を併せ持っていたところへ、さらに老人特有の気の短さも加わって、悲痛さすら混じった
その罵倒は真に凄まじかった。まさに痛罵と呼ぶに相応しい罵り方である。しかしさすがにこの場合は、
そう非難されても致し方ない。
実際、宗棠らは己の命をかけて西域奪回のために戦ってきたのだから、彼の口から飛び出した言葉には
反論できぬ真実味がある。
とりあえず粛州へ戻ってきた崇厚も、さすがに恥を知っているらしく、しばらくは顔も上げ得なかった。
うなだれたままの彼へ、
「ともかく、この結果は貴君が自身の口から伝えられよ。俺には何とも出来ぬ。貴君以上の権限を
与えられておらぬのだからな」
忌々しさと皮肉をたっぷり込めて宗棠が言うと、崇厚はすがるような目を彼に向ける。
「それでは私が罪に問われる。欽差大臣左宗棠、本当に君の力では何とかならないのか」
「知ったことか。それを言うなら俺にではなく、貴君のお気に入りの占い師にでも言え」
この期に及んで己の身ばかりを気にする崇厚へ、突き放すように宗棠は言葉を返し、ぷいとそっぽを向いた。
「ともかく、俺も欽差大臣として、貴君の交渉の結果を皇帝陛下へ詳しく報せる任務がある。その報告を
持って北京へ早々にお帰りになることだ」
こうして交渉は失敗に終わり、崇厚はすごすごと北京へ帰っていった。これがいわゆるリバディア条約である。
崇厚が持ち帰ったロシア側の要求について、さすがに朝廷でも議論が噴出、ついにこの条約は批准拒否と
なるわけなのであるが、
「こればかりは崇厚殿だけの罪ではない」
李鴻章が苦笑いして言ったように、まだまだ外交に慣れぬ官僚、しかも己の未来を占いなどという胡乱なものに
託すような人間を派遣した清朝廷にも、責任の一端はあるかもしれない。崇厚はかくて罷免され、死刑にされかかるが、
のちに赦免されることになる。
牢に入れられた崇厚が、かの占いを当たったと思ったかどうかは知らないが、ともかくロシアとの交渉の方は
そのまま放ってはおけぬ。
「お久しぶりです、左先生」
「おお、これは」
一年後、朝廷は崇厚の代わりに、新たな和平大使を派遣してきた。粛州城を訪れたその顔を見て、思わず
頬をほころばせた宗棠へ、
「年を取られていささか丸くなられたように見えますが…相変わらず意気盛んと伺っております。ひょっとすると
毒舌のほうもご健在ですか」
かつての「大将」曽国藩の面影をそっくり宿した紀沢もまた、懐かしそうに首を傾けて彼の顔をつくづく見、
ニヤリと笑ってそう告げた。
彼も宗棠には、
「父や国茎叔父と共に散々怒鳴り散らされた…」
人物の一員だったからである。無論、宗棠としてもそのことを忘れているはずがなく、
「いやいや、俺ももう六十九歳の年寄りだよ。以前より少しはマシになっているはずだ。
あまりいじめてくれるな」
と、老いて浅黒くなった頬を赤くした。
曽紀沢。父の戦功により、三十一歳で戸部員外郎となり、国藩が亡くなった五年後の三十八歳の時に
父の爵位をついで一等毅勇侯となる。そして今、駐露公使も兼任させられてイリへ向かう途中の彼は、
四十二歳だった。
こういった一面だけを見ると、言葉は悪いが親の七光りで出世したように見える。
しかし、
「彼には見所がある。何せ七光りという言葉自体を、非常に嫌っているのだからな」
辛口の宗棠でさえそう言っていたように、紀沢は後には不平等条約の改正に尽力したとして、名外交官の
一人に数えられることになるのだ。
「父のおかげを持ちまして、今度は私が派遣されることになりました。ですが私一人では役不足。
ぜひ先生のご尽力を頂かねばなりません。父の誼もさることながら、先生ご自身の息子とでもお思いになって、
私をお助け下さい」
そして彼は、大事に育てられた長男らしく大変に素直で大らかである。けろりとした顔で悪びれず、
「お前を引き立ててきた俺の親父の恩を思え」と口にして宗棠を苦笑させた。
この場合、紀沢を助けても、宗棠自身には何ら見返りはない。もちろん助けを求めた紀沢には、まるで悪気は無いのだ。
「よろしい。お助けしよう」
しかし、そこはやはり宗棠である。すぐに二つ返事で頷いていた。
亡き曽国藩には、あれだけ色々な面で助けてもらい、引き立ててもらいながら、
(大将に面と向かって感謝の意を表すのは、何故かどうしようもなく癪だ)
といったような、子供のようにつまらぬ意地を張ったせいで、「いつかは…」などと思いながら、
自分からは彼にしてもらった以上のことを、ついに返せていないままである。
だからこそ、せめてその息子である紀沢へ、こういった形で恩返しをしようと考えたのだ。若い頃からの
「受けた恩は死んでも返す」といった義理堅さは、彼の心の中からいささかも失われていない。
こうして、宗棠は軍隊と共にハミまで曽紀沢を送り、そこに駐屯した。もちろん目的はロシア側への威嚇で、
「以前のように虫の良い条件を出してくるなら、こちらとしても考えがある」
という構えを示し、紀沢の交渉に箔を添えるためである。
「俺が直接行ったことは一度も無いが、ここからイリまではまだまだ遠い。凍えぬよう、気をつけて行かれよ。
ウルムチや途中の都市にも清兵を駐屯させているから、万が一のことがあれば彼らを頼られたがよい」
別れの時、まさに実の息子のように労わりの言葉を曽紀沢へかけながら、宗棠は荒れた手のひらをごしごしと擦り合わせた。
そんな宗棠へ曽紀沢は、
「ありがとうございます」
深々と頭を下げ、
「私も先生が後ろで守って下さっていると思えば、大変に心強いです」
まことに素直に感謝の意を述べるのだ。
「おだてるな。俺は今、俺自身を大変に歯がゆいと思っているのだ」
彼の言葉に息苦しささえ覚えながら、宗棠は先ほど擦り合わせた両手で、今度は荒れてヒビの入った頬を乱暴に擦った。
日に焼けた頬から剥がれ落ちる皮膚を眺めやりつつ、大きくため息をついて、宗棠は続ける。
「俺が出来るのはここまでだ。出来ればイリまで君についていってやりたいが、そうすると後が煩かろう」
「まことにその通りです」
宗棠の言葉に苦笑して頷いて、
「ですから、そんな先生になら言えます。すまじきものは宮仕えであると、ね」
「はははは、本当にそうかもしれんなあ」
紀沢がしみじみ呟いた言葉とその時の表情に、宗棠は久しぶりに声を上げて笑った。
「無償でのイリ返還は無理だとしても、以前よりはマシな交渉が出来ることを、ここから祈っているよ」
「私に出来る限り、やってみます」
言い言い手を振って、曽紀沢は単身、イリへ向かっていったのである。
 こうして、曽紀沢の手でサンクトペテルブルグ条約、通称イリ条約が結ばれたのが、光緒七(一八八一)年
  二月二十四日のこと。この折の条約締結には、
「商業上の損失分のみでよいから、ロシア側に金を払え」
ということで、当時にしては珍しく清側の言い分をある程度呑んだ条件が提示されている。
これにより、ロシアが言って寄越した賠償金は少し高くなって九百万ルーブル。しかし、
最初に彼らが提示した部分よりもかなり広いイリ地方東側は清へ戻ってきた。
ロシアが妥協したのには、露土戦争の後始末でまだ少し落ち着かぬせいもあったのだろうし、国内では
無政府主義者の動きが活発になっていたという理由もある。そんな状況下で、曽紀沢の要請通りに宗棠が
ハミまで軍を動かした、というのも大きかったろう。
「あのロシアから妥協を引き出した」
ということで、曽紀沢の評価も国内、国外共に高まり、今度は彼は駐仏公使に栄転することになるのだが、
「俺に、北京へ戻れ、だとさ」
正式にイリ条約が締結される前に、宗棠のほうへは北京からの命令が届いて、宗棠は部下達を前に
鼻を鳴らすことになったのである。
なるほど、ロシアが妥協したのは宗棠がハミに駐屯したせいもあるかもしれない。だが、このロシアとの
条約締結において、ようやく無難に新疆及び「化外の民の居住地」であった台湾も、二つながら正式に
清の領土と認識されることになったのだから、
「これ以上の妥協はロシアからは引き出せない。その場合、宗棠がまた怒りでもして独自にイリへまで
軍を進めてしまうと、ややこしいことになる」
確かにそうなると、せっかくまとまりかけているものもまた紛糾してしまう。清朝廷としてはそのことを
何よりも恐れたらしい。
「あの優等生の差し金だろうがな。俺だとて、それくらいは認識しているさ。だから出兵するのはハミまでで
我慢してやったものを」
どちらにしても、朝廷からの命令である。宗棠としては、不満を漏らしながらも従わないわけにはいかない。
(李のヤツは、俺がそれほどまでに猪だと思っているのか)
残念ながら、名実共に中国の代表のような立場に立っているのは、左宗棠ではなくて李鴻章なのだ。
宗棠とて、その実力を清政府内では十二分に認められている。しかし、曽国藩の正式な跡継ぎは、曽国藩の後に
直隷総督・北洋大臣になって、日本や諸外国との外交においても当時の清にとって可能な限り有利に―宗棠に
言わせれば「優等生の事なかれ外交」であるわけだが―対処することの出来る李鴻章であり、彼こそが
清の最高為政者である。そういった風に、李の方は清国内ばかりではなくて、諸外国にも認められてしまっているのだ。
「所詮はアイツのやることも、いつまで経っても人真似さ」
宗棠は、己の作った幹線道路を十年ぶりに東へ向かいながら、部下へ零した。
彼とて心の中では、李鴻章の仕事ぶりを十分に認めているのである。だが、今回の召還に関わっているのが
李であると分かっているだけに、
「以前、李のヤツは俺を器量の小さい男だと言ったが、アイツこそ、了見の狭い男だ」
どうしても黙っていられない性格は、七十歳になっても変えられない。李鴻章が輪船招商局や電報局、
開平砿務局を創設したことに対しても、
「俺が蘭州に工場を作ったことの真似さ」
と、馬上で毒づく。
実際に今の清には西欧諸国のような外交手腕がないことも、ましてや自分自身に李鴻章ほどの外交手腕が
あるわけがないということも、宗棠は重々承知しているし、部下の失笑を買うだけだと分かっていても、
「アイツのやったことと言ったらなんだ。なるほど内では賊の討伐に役に立ったかもしれないが、
諸外国に対しては豆腐に釘ではないか」
と、弱腰外交に対して、憤慨せざるを得ないのである。
というよりも、表立ってそう言っているのが宗棠のみであるというだけの話であって、当時の清国における
洋務運動派の人間は、口に出さないまでもほとんどが清の不甲斐なさを嘆き、李の外交をもどかしく感じながら、
それでも清が相応の国力をつけるまでは、李鴻章のやり方で通すしかないと思っていたに違いない。
宗棠が毒づくのは、
(俺がこの帝国にかけた情熱は、所詮はその程度のものと思われていたのか)
彼の自国に対する深い絶望の裏返しだったのだ。
こうして毒を吐き散らしながら二ヶ月後、北京へ到着した宗棠に、二つの報せがもたらされた。一つは
言うまでもなくイリ条約の正式締結であり、もう一つは、
「何だ、俺は今度は軍機大臣と内閣大学士になるのか」
紫禁城の石畳を六年ぶりに踏みつつ、太和殿の方角からやってきた使者の報せを受けて部下を振り返り、
宗棠は笑った。
 紫禁城内であるから、滅多なことは言えない。毒舌も一旦はなりを潜めて、
「ありがたくお受けするとお伝え願いたい」
宗棠はその使者へ丁重に言葉を返す。そして自らも御礼に参上すべく、内廷西側の養心殿へ向かいながら、
「おめでとうございます、先生。さすがは湖南の今臥龍です。先生の功績は、きちんと評価されているでは
ありませんか。いや、良かった!」
だから浮かない顔をするのは止めろ、と言いたいのだろう。譚鍾麟らが単純に喜んで、
「先生は、文祥殿がおっしゃっていたように、李鴻章殿ともども、今や帝国に無くてはならない
大黒柱の一つなのですから」
祝いの言葉や褒め言葉を述べるのへ、
(大黒柱か。ただし、相当にヒビが入っていると李のヤツは思っているだろうよ)
宗棠はただ苦笑するのみだった。


to be continued…


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