沙ニ抗ス 16



胡林翼を亡くした時ほどには嘆かなかったが、
(どうやら世の中は、俺のようなひねくれ者ばかりが生き残るように出来ているらしい)
そういう意味では、李鴻章もある種のひねくれ者と言えぬこともない。密かに寂しく苦笑しながら、
(俺も、いつまで生きていられるか)
同時に己の寿命のことを思った。彼ももう、六十代の半ばである。あれもこれも―特に福建の海軍建設などは―
中途半端に手をつけたままだと思うと、苦い笑みが日焼けした頬に浮かぶ。それに、彼に好意的であった
文祥が亡くなったとなると、これから彼がやろうとしていることへの風当たりはまた強くなるかもしれない。
(だが、俺がやらねば誰がやる)
宗棠は白髪首を振った。少なくとも、これから彼が取り戻そうとしている西域は、決して悲観的な状況に
陥っているわけではないし、また、
(悲観的になっていては取り戻せるものも取り戻せぬ)
いつもの彼のごとくそう思って、気力を奮い立たせたのだ。
ヤクブ・ベク討伐のために出発した軍が目指したクムルは、新疆地区にある都市の中で、粛州から
一番近いところに位置している現ハミ市である。古くから西域交通の中心地であったこの都市は、
現在では、蘭新鉄路や三一二もの国道が通っており、西に約百キロ離れた所にあるアイティン湖の
周りにはオアシスが広がる。
粛州から一番近いとは言っても、クムルへはチーリエン山脈沿いの道、すなわち河西回廊を北西に進み、
安西で砂漠を手前に右の道を取り、さらに四百キロほど北西へ行かねばならない。
ここへは、アイティン湖ほとりに位置している都市、トゥルファン手前二百キロのところで北路を取った
劉錦棠軍が、先に到着した。
彼は金順の到着がまだであると見て、宗棠が命じた通りその先には行かず、ウルムチ近郊の
ジムサルを攻め、これを陥落させたのである。
そのうちに金順も到着、クムルにいた張曜とも合流し、西へ進んで光緒二(一八七六)年八月上旬、
ウルムチ北の米泉を包囲した。さらに同月十七日には大砲で城壁を破壊、城内に入って数日の激戦の後、
これをついに清側へ取り戻している。
この間、ヤクブ・ベクとて決して手を拱いていたわけではない。清軍にとって因縁のある白彦虎をウルムチへ、
白彦虎の部下である馬人得、馬明らを新疆地区の要地に配備、自身はトクスンにあって、主力の二万の兵を
トクスンとトゥルファンに分けて駐屯させ…といったように、彼なりに清軍の侵略に備えていたのである。
勝ちに乗じてこのまま攻め入ってしまおう、と主張していた劉錦棠へ、
「ウルムチを守っているのは、あの白彦虎らしい」
金順が微妙な苦笑いで持って告げた。すると錦棠は怒りに燃える目で、
「だったら、尚更だ。いつまでも鼠のようにチョロチョロと逃げ回る卑怯者。ここで息の根を止めてしまわねば」
金順、張曜を振り向き、言ったのである。劉錦棠にとっては、親以上に思っていた叔父を殺した、
仇の一人でもあるのだ。
清軍の猛攻の末にウルムチも落ちたのだが、白彦虎はまたしても戦渦をかいくぐってトクスンへ逃れた。
よくよく、逃げることの好きな大将であったらしい。
「まあ、致し方ない。俺達が進めばまたいつかは直接戦える」
歯噛みをして悔しがる錦棠を他の二人で慰めながら、彼らは再び西進を開始した。
天山山脈を挟んでタリム盆地北にあるトゥルファン盆地及びジュンガル盆地にある主要都市のうち、
サンジ・シャヒリ、フトビ、マナス北城のトルキスタン兵は戦わずして撤退。ついでマナス南城を陥落させ、
東路と天山北路を再び清側へ取り戻したのが、それからわずか三ヵ月後の十一月六日。そこで粛州城の
宗棠から休息の命令が届いた。
寒さが厳しくなるから、というのがその主な理由である。
砂漠地帯であることに加え、盆地でもあるせいで、この地方は、真夏になると四十度以上を記録することも
ある代わりに、冬になると気温が氷点下になる日が毎日続く。夏の暑さは、乾いた風のせいで思ったほどにも
苦にならないが、冬の厳しさは洒落にならない。
古代より西域へ派遣された軍隊は数多くあるが、運輸の他に気温の寒暖の差がありすぎるというのも、
それらの軍が西域討伐に多くの時間を割かざるを得なかった原因の一つだったのではないか。
この時の征西軍も、翌年の四月までウルムチに留まり、同月十四日に天山南路に向けて再び進軍を開始している。
地図上では、ウルムチから少し引き返すような格好になるだろうか。その先にあるイリ(現・伊寧)
へは行かず、天山山脈の裾に沿うようにウルムチを南下した劉錦棠軍は、その二日後にはヤクブ側の
主要拠点の一つであった達坂城を包囲、十八日には城外に砲台を築いて、早速その翌日から攻撃を
開始したものだから、ここに篭っていたヤクブ・ベク側の「カシュガル王国軍」は、逃げ出そうにも
逃げ出せず、全員が投降したという。
これらの処置を粛州の宗棠へ託した劉錦棠らの元へ、
「トゥルファンとトクスンに駐屯したヤクブ・ベク軍を、二手に別れて攻めよ。時期を置いてはならぬ」
との返事が来たのが、それから一週間も経たぬ四月二十四日。それでは、というので、劉錦棠軍が
トクスンを攻め、陥落させたのが二十六日。この時、トクスンにいたヤクブは彼らの猛攻を支えきれず、
さらに西のカラシャールに逃れ、タリム盆地の東北にある都市、コルラを己の子の一人に守らせている。
トクスン陥落と時期をほぼ同じくして、張曜軍と徐占彪軍は、劉錦棠の軍から寄越された羅長祐率いる
湘軍と協力してトゥルファンを陥落させた。逃れた先のカラシャールでそれを聞いたヤクブ・ベクは、
ついに自殺したのである。一説には、毒殺されたかもしれないという。
ヤクブが死んでも、その長子のベク・クーリ・ベクと白彦虎が残っている。彼らは人心が離れてしまっても、
未だに抵抗を続ける構えを見せていた。
粛州でヤクブ死亡の報せを劉錦棠から受け取った宗棠は、むろんこのことを正直に朝廷に報告している。が、
「あと一歩のところで、またしばらく休憩しなければならんとは」
手入れするのを煩がっているため、唇の周りには鼻の下から生えた白髪髭が、まさに伸び放題にのさばっている。
それを忌々しげに引っ張りながら、彼はそう呟いた。
「あの優等生めが」
ヤクブ・ベクが死んだのならもういいだろうということで、朝廷から兵を休ませるようにとの勅令が下ったのである。
「軍費がかかりすぎるから」
というのがその理由で、そのような理由を振りかざすのは、李鴻章を代表とする海防派以外にありえない。
それに対して、
「ここでヤクブの匂いを少しでも残していては、またこれが後日の災いの種になる。ロシアがオスマン帝国と
戦っている今こそが、背後を気にせず、また、これ以上軍費をかけずに勝利を収める絶好の機会なのだ」
宗棠を始めとする陸防派は、あくまでそう言い張っていた。両者の主張はこの期に及んでも平行線を辿っている。
陸防派が主張するように、実際この時、ロシアはオスマン・トルコ帝国と戦っている真っ最中で―この戦争を
日本では露土戦争と呼んでいるが―ヤクブ・ベクのことにまで手が回らない、と考えることも出来たのだ。
いかなオスマン帝国と戦っているとはいえ、ヤクブ・ベクの元へ形だけでも軍隊を割く余裕すらなかったと
は考えにくいが、ともかく、ロシアはヤクブを助けなかった。イギリスとて、戦が起きている陸路をわざわざ
かいくぐってまで、ヤクブを助けようと思わなかったのだろう。もしもイギリスやロシアが助けていたら、
いかに民心がヤクブから離れていたからと言っても、清軍はここまで容易く西進出来なかったに違いない。
よって左宗棠は右のように返事をし、戦いを続けることを主張した。海防派へ向かって、というよりも、
むしろ彼は、彼らの後ろにいる西太后の「聡明さ」に期待してそう提案したのである。
(長い目で見ると、きっと清に良いように動くのだ。あの女なら、俺が話すそういったところを、きっと分かる)
その期待に違わず、西太后は戦の継続を命じてきた。朝廷からの返書を額に頂いて、
(女の癖にでしゃばりで強情で、いかにも我の強そうな…)
若い頃はどうだったか知らないが、昨年簾越しにうかがったところを思い出すと、お世辞にも美人とは言えない。
そんな西太后を宗棠は懐かしく思い、
(俺と似たようなところがあるかもしれんわい)
相手は国母であるにもかかわらず、不遜にもそう考えて、密かに苦笑したものだ。
 こうして、新疆討伐は続けられることになった。
「金順へは、あまり勇むなと伝えろ。イリへ行くにはまだ早い」
西進再開を告げさせるべく、タリム盆地へ向かわせる使者へ、宗棠はそう添えるのを忘れなかった。「露土戦争」で、
金順が「よい機会だから、イリも奪い返しましょう」と言って寄越したことへの返事である。
「隙に乗じてコソコソ動くのは、火事場泥棒と同じだ。正々堂々と取り返さねば、俺達も謗りを免れん。
ロシアと同じになるぞと言え」
事実、ヤクブ・ベクの乱に乗じてロシアがイリを占拠したのだから、宗棠がついそう言ってしまったのも無理はない。
己でその失言に苦笑しながらそう付け加えた後、
(これで、俺もこれ以上の嘘吐きにならずに済むか…)
彼は粛州から走っていく馬の一団を見送った。
この新疆出兵の折には、何と言ってもあの喬致庸に、かなりの経済的な負担をかけてしまっている。
この借りは、己の功績と引き換えにしても必ず返すと、宗棠は心の中で密かに固く誓っていたのだ。
 そして九月、清軍が天山山脈南にある都市、カラシャールとコルラへ進むと、それらの守備兵も戦わずに
  西のクチャへ撤退、十月十八日には劉錦棠がそのクチャを攻め、守っていた白彦虎は、またしても
  西に逃げた。それを追った清軍は、さらに二十四日にはアクス、二十六日にはウシュトゥルファン、
  といった風にタリム盆地北東の四つの城を、わずかな期間で奪い返している。
その噂を聞いた盆地南西のヤルカンド、イェンギサール、ホータン、カシュガルの守備軍は、これも
清軍を恐れて散り散りに逃げて行ってしまった。これでは戦も何もあったものではない。よって、
劉錦棠はやすやすとこれら四つの城を落としたのである。
天山、カラコルム、崑崙、アルチンと、四つの山脈に囲まれたこのタリム盆地には、その「入口」に
彷徨える湖ロプ・ノールと、有名なローラン遺跡がある。それらの山脈の裾を縫うように、中央に
タクラマカン砂漠をぐるりと抱え込むように配置されていたそれらの城の陥落を聞いて、山の中に
潜んでいたキルギス人たちも降服し、イリ以外の東トルキスタン地方すなわち新疆地方の大部分は、
再び清に所属することになった。これが、光緒二(一八七七)年十二月下旬のことである。
カシュガルの南にあってヤクブ・ベク軍が放置したホータンも、翌年の年明け早々に清軍がその都市機能を
回復させているから、ヤクブを討伐するのにほんの数年しかかけていないという計算になる。
結果的にこの遠征は、俗な言い方をするなら「大成功」だった。彼の後を継いで陝甘総督に就いていた件の楊昌濬が、
「兵ヲ用ウルニ、善ク機ヲ審カニシ、堅忍耐労ナリ。人ヲ用ウルニ、材器ニ因リテ使イ、
政ヲ為スニ、時ニ因リテ宜シキヲ制ス…」
つまり、辛抱強く不平を言わず、人材を上手く使いこなす上に、敵の力を良く見極める才がある、と、
日頃から手放しで賞賛していたように、
「甘粛の回民討伐にかかった以上の年月は費やさぬ」
と、朝廷で大見得を切った左宗棠の面目躍如といったところであろう。
この素早い「征西」を成し遂げられたのは、ヤクブ・ベクが住民から見限られていたということも
一因であるが、それを計算していた宗棠の眼力も、むろん高く評価されて然るべきである。
ちなみに、ベク・クーリ・ベクと白彦虎は生き延びてロシア領側へ逃げている。こうなれば、いかな
宗棠とてもう手出しは出来なかった。
この時、白彦虎と共に逃れた回民の子孫が、現在、キルギスのビシュケク市から、カザフスタンは
アルマトイ市の間に位置するフェルガナ盆地在住のドンガン人である。
「それくらいは許してやれ」
せっかく勝利を収めたのに、肝心の白彦虎を捕まえられなかった。そのことをやたらと劉錦棠が
悔しがっているという報せが届いて、宗棠は苦笑しながら言い送ったものだ。
「後は、イリだ。俺達は泥棒ではない。堂々と戦って取り戻すのだ」
そして彼は密かにその準備を始めてさえいたのである。
 よって、その準備が整ったと思えた二年後の光緒五(一八八〇)年、彼は勢い込んで新疆地方を
  「省」として清の支配下に置くことと、イリの武力奪回を清朝廷へ主張した。
その折、彼は同時に、
「新疆討伐に莫大な資金を寄せてくれた喬致庸へ、その資金を返済下さるよう、彼の希望を
ぜひお聞き届け下さるよう」
とも申し送っている。喬致庸の希望というのは、先述の「清帝国全領土における共通為替手形の発行」
だが、どうしたものか、今度ばかりは西太后からも、宗棠の期待していたような返事は届かなかった。むしろ、
「一介の商人ごときが、国家経済にまで口を差し挟むとは片腹痛い」
と言われたばかりか、
「新疆省の設置と、イリ返還についての交渉をするというのには賛成であるが、武力奪回は認めかねる」
と、宗棠の主張は跳ね除けられてしまったのである。
清朝廷側にも言い分がないではない。確かにロシアはオスマン帝国と戦って、いささか疲弊はしているかも
しれないが、当然ながら国力は桁違いなのである。武力奪回では、一歩間違えばまた国際紛争に発展しかねないのだ。
もしもそうなった場合、今の清に「海千山千の」ロシアを相手取って、対等に渡り合えるだけの
交渉力があるか。中国が鎖国を強制的に止めさせられてから、まだ半世紀も経っていないのである。
勅令ばかりではなくて、李鴻章が私信まで添えて寄越して右のような内容を伝えたところを見ると、
李はよほど宗棠の行動を危ぶんでいるらしい。
「俺になら出来るはずなのだがな。なぜ李のヤツは、俺がちょっと何かやろうとするとすぐに邪魔をする」
その手紙を見ながら宗棠が言ったのへ、傍らで聞いていた劉錦棠らはこっそり顔を見合わせて苦笑した。
老いても「先生」の気概は衰えるどころか、いよいよ盛んである。それは大いに喜ばしいことなのだが、
(残念ながら今回ばかりは、李鴻章の判断が正しい)
彼らにでさえ、そう思えたからである。宗棠の「俺に任せろ」という言葉は、すぐに戦争を連想させてしまうのだ。
彼のことだから、勝算があってそう言っているというのは分かるのだが、力で捩じ伏せることばかりが
いいとは限らない。ことに外交能力においては、やはり「なるべくしないですむ戦争を避けて、国家の
疲弊を出来る限り抑えよう」という態度を取っていた李鴻章のほうが、宗棠よりもよほど柔軟な頭脳を
持っており、よって手腕は格段に上であるように見える。
ただ、宗棠自身はそのような自分の欠点をよく承知しているし、
(アイツはアイツですごいヤツだ)
と、李鴻章の才能も十二分に認めているつもりなのである。ただ何歳年を経ても、自意識過剰なところだけは
衰えず、つい思ったままを口に出してしまう奇妙な素直さが、未だに時々欠点として表に出てしまうため、
気心の知れているはずの部下にでさえ、
「才能はずば抜けているが多分に保守的で、他人を認めることの少ない…」
と、誤解されてしまうことが多かった。胡林翼も文祥も亡き今、宗棠の人となりを良く知ろうとする
人間がいなくなったのは、彼にとっても大いに不幸であったろう。
ともかく、ひょっとして自分に任せてもらえるかもしれぬと期待していた分、彼の落胆も激しかった。
宗棠が清朝廷に対して、少々ではあるが失望を覚えたのはこれが最初である。さらにはあろうことか、
彼が新疆平定から帰ってくる少し前、かの喬致庸が西太后に睨まれて牢に入れられていたのだ。
宗棠はこのことを、粛州城にやって来た和平大使の崇厚から、その訪問と同時にようやく知らされたのである。
「やれ、尻が冷えることだ。よくもまあ、君達はこのようなところで戦ったものよ」
光緒七(一八八〇)年二月、気温が氷点下を示す粛州城へ、尊大に言いながらやってきた「戸部右侍郎兼
盛京将軍代理」という長ったらしい肩書きを持ち、おまけに北洋通商大臣まで任されているのだからと
自負する崇厚に対し、多少の胃のむかつきを覚えながらも、
「喬致庸の消息を詳しくお伝え願いたい」
彼にとっては最大級の丁寧な言葉で宗棠が頼むと、
「よろしい」
この小柄で、目と態度ばかりが大きい文官は、薄っぺらい胸を反らせて頷いた。
崇厚が語るところによると、喬致庸は以前から共通為替手形の流通を申請していたものの、なかなか
清朝廷の許可が降りない。だもので、彼は独自に票号(銀行)の開設に踏み切ってしまった。これが
西太后の気に触ったらしい、というのである。
(…俺はやはり、嘘吐きになってしまったか)
胡林翼にも、文祥にも、それぞれ約束したはずの領土の回復を見せないまま逝かせてしまった。その上に
今回の喬致庸の件である。
結果的には喬致庸が新疆討伐のために捻出した費用も、言葉は悪いが清政府が踏み倒すことになってしまい、
(嘘吐きと泥棒にだけはならぬ、というのが俺の信条だったのだがな)
宗棠は、ため息とともに心の中で呟いた。牢屋に囚われている人間には金は返せない。かといって、
喬致庸が捻出した莫大な軍費を、商人でもない彼が個人で返す方法など考えも着かぬ。
余談ではあるが、喬致庸がその名誉を回復するのは、宗棠が亡くなった後、西太后が義和団の乱を避けるために
北京から山西へ逃れてきた時である。その折の彼女へ、旧怨を忘れて援助することで、ようやく喬致庸の
希望は容れられる事になるのだが…。
さて、崇厚に話を戻す。イリへ向かう直前に、彼はお気に入りの占い師に、
「交渉が長引いて、なかなか北京へ帰ることが出来ない場合は、幾々日までに死ぬ」
と、何日かは定かでないが、期限付きでの彼の死を予言されていたという。なんとも馬鹿馬鹿しいことだが、
どうやら本人はそれを信じているらしい。従って長居は無用とばかりに、宗棠に儀式的な挨拶だけ残して、
彼はそそくさとイリへ向かおうとした。
誰に頼まれたわけでもないが、万が一、交渉が上手く行かない時の後押しをしようと申し出、老いた身ながら
自ら新疆ハミへ兵を率いる算段を整えていた宗棠は、
「そんなものは要らない。私のこの舌で十分である」
「そうですか。それは差し出がましいことを」
さも自身ありげに崇厚が言うのへ、彼には珍しく苦笑いしただけで一旦引き下がった。相手が彼よりも身分が
上であるから、というためばかりではなくて、
(ひょっとすると崇厚が勝算ありげなのは、本当に崇厚の中で最良の策が立てられているからかもしれない)
清朝廷側にも李鴻章ばかりではなくて、時代の流れを冷静に把握している人間がいるかもしれないと思い直したせいもあるし、
(文官にも一度、外交の厳しさというものを、身を持って味わってもらったほうが良い)
とも思ったからである。もちろん、宗棠自身には後者の思いのほうが強い。
李鴻章の名ばかりがこの西域にも聞こえてくるのは、中央官僚たちが外交方面を李に頼りきり、任せて
安心だとばかりに安穏としているからに違いない。そんな彼らの一人である崇厚に、かの林則徐でさえ
警戒していたロシアを、果たして裁ききれるものかどうか。
(相手はあのロシアだ。一筋縄ではいくまい)
そう考えることで、実は煮えくり返っている我が心を辛うじて押さえ、平静を保とうとしたのである。
よって、宗棠は息を潜めるような思いで、粛州城で交渉の結果を待つことに決めた。
護衛をつけようと提案したのだけは、顎を反らせて当然のごとく受け、それら護衛兵とともに轟然と
イリへ出発する崇厚を見送りながら、
「山西の若旦那があの女に睨まれるだろうことを、もっと早く気付けばよかった」
そう周囲の者へ零して、
(俺もついに老いたか。愚痴が多くなった)
宗棠はもう何度目になるか分からぬ苦笑を漏らした。これこそ「老いの繰言」というやつなのかもしれない。
陝甘総督に任じられて西方へやってきて、はや十年。身は欽差大臣にまで登る栄達を受けたが、もう
七十歳に手が届く年になった。砂漠の乾いた沙は、彼の老いた顔に変わることなく吹き付ける。


to be continued…


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