蒼天の雲 9




 やがてその日は来た。 
(…十八年) 
「おひい様、お支度、全て整いまいてござりまする」 
「ありがとう」 
 己が使ってきた部屋をもう一度見渡して、志保は告げに来た乳母へ微笑う。 
(戦が少なくなれば、再び…) 
 小田原へ遊びに来ることも出来よう。 
(おじじ様、志保はこれより古河へ参りまする。どうぞ力をお貸し下さりませ) 
祖父へ心の中で語りかけてから、志保は敷居を踏んで廊下に出た。 
「しょう様。八重も共にありますれば」 
「うん」 
 その後へ付き従いながら、八重が言うのへ頷いて、 
「大丈夫。お天道様は何処までもつながっておると、おじじ様も申されておった。ならば 
なあ、古河へ参ってもおじじ様は志保を守っていて下さる」 
「はい。八重も、市右衛門の代わりにしょう様をお守り致しまする所存にて、御心を安んじられますよう」 
すると八重も笑って言ったのである。 
「アア、そうじゃなあ」 
 そこで主従は顔を見合わせて微笑った。すでに霜月も半ばを過ぎ、吐いた息は白く濁る。 
 小田原より古河までは、船で三日ほどの道程である。かつて三浦氏の居城であった三崎城より
  程ない距離にある港までは輿で、それよりは船で海路を北東にとって相模湾を左手に見、
  当時は江戸湾に直接流れ込んでいた利根川の他、平川、渡良瀬川の三本の川のうち、
  渡良瀬川を遡る予定だと、左衛門が張り切って言ったのを、父母の待つ部屋へ向かいながら
  志保は思い出す。 
 現存する関宿城は利根川と江戸川に左右を挟まれた中州のような土地にあるが、これは江戸時代に
  なってから徳川家康が手を加えたためで、当時の川の流れは現代とはかなり違っていた。 
 当時の渡良瀬川の源流は赤麻沼であったらしい。当時の地図によれば、ちょうど沼から川が
  流れ出す場所付近に古河城がある。渡良瀬川流域には、他にも大山沼、長井戸沼などの沼ばかりでなく、
  大小の河川も無論流れていた。関宿城は当時の渡良瀬川と常陸川に挟まれており、まさに
  「古河城の前衛拠点」だったのだ。 
(どのようなお方か…簗田殿、晴氏様) 
 その関宿城の主が、梁田高助である。 
 己を猶父(ちち)のごとく思われよ、疾くこちらへ参るように、と、直接志保宛に何度も寄越した
  手蹟の最後を、必ずそう締めくくった彼と古河公方とは、代々簗田の娘が古河高基を除く公方の嫡子に
  嫁ぐほどに、密接な姻戚関係にあるらしい。たとえて言うなら、京の足利将軍家と日野家のようなものか。 
「父上様、継母上様。志保が参りました」 
 天守の広間の入り口で、志保は手を仕えた。襖はことごとく開け放たれており、気心の知れた家臣の
  ほぼ全てが左右に並んでいる。 
「おお…そうか、そうか…これ、志保。もそっと側へ」 
「はい」 
 奥からかけられた父の言葉に軽く頭を下げ、志保は家臣の間を進む。八重やその他、北条より
  古河へ向かう侍女や武士どもらと共に、志保は父氏綱の前へ進んで再び膝をつく。継母、
  近衛氏の後ろへ控えている乳母の手には、昨年生まれたばかりの異母弟(後の為昌)が抱かれていて、
  キョトキョトとした目を姉へ向けた。 
「父上様。まこと、お世話になりまいた」 
「…うむ」 
 志保が切り出すと、氏綱は顎を引き、喉に何かを詰まらせた風に頷く。 
「ご心配、ご面倒ばかりかけまいて…志保は、父上様や継母上様のご恩を、幾千代かけてありがたく」 
その父の顔をまっすぐ見つめながら続けた彼女の言葉を、 
「志保」 
氏綱は腕組みをして背を反らしながら、遮った。 
「はい」 
「確かに古河は遠いがの。永の別れになるような物言いを致すでない」 
「ふふ」 
 その言葉に志保は思わず笑い、しんみりと静まり返っていた家臣の間にもホッと微笑が漏れる。 
「いつでも、のう…こなたが父と小田原を思えばいつでも、父もこなたと古河を思うであろう。
故殿(早雲)もきっと、こなたの側にいつもおわす。こなたは北条早雲の孫娘。それを常に胸に思うての」 
「はい…父上様も、継母上様と末永く睦まじゅう…どうかお元気で」 
「やれや、めでたや。皆、祝え!」 
 そこで突然、氏綱は立ち上がって扇をぱっと広げた。 
「我が家から、関東将軍家へ嫁入る者が出でた! なんとめでたいことではないか。さあさ、
祝い騒げ! それ、そのように辛気臭い顔を並べておるものではないわいの」 
 「お固い」氏綱に似合わぬその言葉に、年老いた家臣たちも頬を緩めて笑い出す。 
 大永元年霜月。こうして志保は住み慣れた小田原を離れて遠く古河へ向かったのであった。 

 古河は、伊豆と違って内陸である。 
「おひい様。お寒うはござりませぬか」 
「否」 
左衛門が気遣って、さらに小袖を一枚着せ掛けようとするのへ、 
「帰ってこのほうが涼しいくらいじゃ」 
志保が手を振って言うと、 
「なんと。今は昼でござりまするから。ま少し経って日が落ちまいたら、たちまち寒うなりまする。さあさあ」 
左衛門が強引に彼女へ小袖を着せかけるのへ、志保は苦笑しながらなすがままに任せた。 
 三浦半島周囲も、早雲から氏綱へ代が変わってしばらくするうちに、北条の治めるところになった。
  陸路を治めるのは皆、北条配下の豪族ばかりで、三崎へ着くまではそれらが守りとなったが、 
「これよりは、敵の地の近くも通りまする。おひい様には危険の及ばぬように致しますが、万が一のことが
ありまいたら故殿にも若…いえ、氏綱様にもこのじいが顔向けできぬゆえ」 
「…分かっておるわえ。それゆえ船底でじっとしておれと申すのであろう」 
「簗田殿らのお迎えと行き会うまでは、そうして頂ければありがたく存知まするが」 
「このような景色を眺めるのは初めてゆえ、今しばらくここにいさせて下され」 
「…やれやれ」 
彼女の言葉に、左衛門は苦笑しながらその後ろに控えた。志保もまた、己の乗っている船の周りを厚く覆う
味方の原氏や真理谷武田氏などの海軍船団を見やりながら、 
(大げさな…) 
と、苦笑する。だが、左衛門にしてみれば、主君より預かった姫を守るにはこれでも足りぬと思っているのである。 
江戸湾より渡良瀬川へ入り、嫁入りの船団は上流へと向かう。この時代は、現代や江戸時代よりもさらに海が
内陸まで迫っており、太田道灌の築いた江戸城も海の間近であった。 
 古河高基へ反旗を翻した「小弓公方」義明の所領なども江戸城と同様、江戸湾をぐるりと囲むように面しており、
  小弓公方がその気になれば、 
「北条の嫁入りを妨害する…」 
のは造作も無かったに違いない。幸い、彼らも先だって古河公方がたと争った傷が中々癒えぬらしく、
さらにはこちらの備えが厚いのを見て、手出しをしかねている模様ではあるのだが…。 
(まこと、天然の要害) 
 船べりに手をかけ、涼しい風に吹かれながら志保は周囲を見回した。 
 利根川、渡良瀬川、常陸川、思川…さらりと聞いただけでも、指を繰りながら数えねば成らぬほどに、
  この坂東平野を大小の河川が縦横無尽に流れている。それらに囲まれるようにして存在している湿地には
  野生の馬が駆けたり、百姓どもが戦渦の後の畑の手入れをしたりしているのが見える。 
(小田原にも劣らぬいい眺めじゃの…お千代殿にもいつか見られるであろうか) 
小田原へ「残してきた」小さな弟の、目に雫を一杯にためた顔を思い出し、志保はそっと、冷たくなった両手を
胸の前で組み合わせた。 
(これらの要害に守られてござれば、志保は安泰にござりまする。おじじ様、どうかお千代殿をお守りくださりませ) 
 平野を網の目のように流れる川ゆえに、平野に居住している豪族達の主な交通手段は当たり前の事ながら
  船であった。小弓公方も豪族の所有する船団で攻め寄せたはいいが、これら河川を前にして、さすがに
  攻めあぐんだものと見える。小弓義明が兄より奪おうとしている古河城は、関宿城よりさらに奥、
  大山沼のほとりにあるのだ。 
「おひい様。それ、夕刻になりまいた。明日には関宿へ付きましょうゆえ、今宵は早くお休みなされませ」 
 広大な湿地地帯を、日は刻一刻と西へ傾く。 
(小田原のほうへ…) 
 それを見やる志保へ、 
「さあさあ、お風邪を召されてはなりませぬ。中へお入りくだされ」 
せかせかと左衛門が言うのへ苦笑しながら頷いて、彼女は船室へ向かった。 

 さて、関宿城である。 
「まだ見えられぬようでござりまするなあ」 
 天守へ上ると、辺りの地形は一望の下。欄干に手をかけ、身を乗り出さんばかりにして
  江戸湾方面を見やる城主、簗田高助へ、 
「まあ、急いても仕方あるまい。こちらからも覚えのある者どもを向かわせておるのだろう」 
その後ろから、鷹揚に笑ったのはこれなん、古河高基であった。 
 先に氏綱が、 
「娘をもらっていただくゆえ…」 
と、志保の嫁入りが正式に決まってから、大枚をことあるごとに奉じ続けたのが、戦費につぐ戦費で
手元不如意に陥っていた公方家を助ける結果になった。また、大枚を奉じても氏綱が常に腰を低くし、
あくまで古河公方を推戴しているのだという態度を(文面の上だけであったとしても)崩さなかったのが、
いたくお気に召したらしい。 
だもので、高基は先だって「成り上がりじゃ」と、北条へ吐き捨てた言葉をケロリと忘れた。
志保がまずは関宿へ立ち寄ると聞いて、小弓公方との戦いが一旦休止した合間を縫い、古河城からわざわざ
前衛であるこの城へ足を運んだものである。 
「聞けば、北条の者どもら、原や真理谷武田の水軍を従えて参るというではないか。であれば、義明が何か
仕掛けようと企んでも手も足も出まい」 
「ははあ…」 
 楽観的な主君の言葉に、高助は鬢を掻いて苦笑しながら曖昧に頭を下げた。その足元には、
  「外孫」に当たる幸千代王丸(後の古河藤氏)がかむろ姿でまとわりついている。その頭を何となしに撫でながら、 
「若殿は、こちらへは?」 
高助が尋ねると、 
「参らぬと申した」 
苦虫を噛み潰したような声で、返事が返ってくる。 
「…ふウむ」 
 困ったものだと高助は嘆息を漏らし、高基は腕組みをして鼻の穴から大きく息を吐いた。 
「婚礼は花嫁到着の三日後。これはもう動きませぬし、若殿がわざわざこちらへ参られる必要もござりませぬが」 
「ううむ」 
 主従は、そこで同時に嘆息した。 
 そもそも、この婚礼に乗り気であったのは古河高基と簗田高助など、いわば婿の周りの人間だったのである。
  肝心な「婿」の古河晴氏はといえば、高助の娘であった正室を亡くしてから、 
「嫁など、たれでも同じじゃ。こちらが突けば応と答えて受ける。ただそれだけのこと」 
と、公言して憚らぬ。また、こちらは後難をさすがに恐れているのか、はっきりとは言い出さないが、 
「いかに力があるとは申せ、土臭い北条の娘など片腹痛い」 
と、考えているようなのだ。 
 とにかく、自身は「誇り高い…」源氏の血を引く者である。なるほど、元は中央将軍家に使えて
  身分が高かったかもしれぬが、伊豆へ流れてそこへ居つくうち、都の香りが土臭さに取って代わった
  北条の孫娘が継室として己の元へ来るなど、 
「我らを貧乏公方と侮って、金の力で娘を押し付けた」 
としか取れぬものらしい。 
「北条の力など借りずとも、己の手で我が家の権威などすぐにでも取り戻してみしょう」 
とも晴氏は言うのである。 
若いだけにそう思い込むと、その考えから抜け出せないのだろう。 
「何度も申し上げるようで、非常に恐縮でおざるが」 
その晴氏と、父の高基とはおかしいほどに似ていない。高基祖父、成氏から代々「伝わっている」らしい
丸くかつ長い鼻に細い目は、「亀若殿」には、 
(どうやら受け継がれなかったものらしい…宇都宮殿の血のおかげかのう) 
己の目の前で、主君はその鼻の穴を不満げに膨らませている。すると丸い鼻の、その穴までも丸く広がって、 
「これからは、既存の勢力だけではこの公方家を維持出来ませぬ」 
話しかけながら、高助はふと、こみ上げてくる笑いを堪えるのに苦労した。晴氏は、生母宇都宮氏に似たらしい。 
「公方家には、新しい血が必要…晴氏様へは、恐れながら舅でもあったご縁も持ちまして、手前もよっくと
お説き申し上げたつもりではござりまするが」 
「いや、それはのう。よく分かっておる。我らものう、いつまでも古いものにしがみついて、じりじりと
己の力が磨り減っていくのを指をくわえてみているほど愚かではないわえ」 
 彼の言葉に、この「革新的」な主君は何度も頷いた。高助は、正室として入れた娘を亡くしている。
  晴氏との間に一子があるとはいえ、私情を抑えて新たに他家の娘を継室として迎える…それも己が
  仕える公方家の名誉と権威の維持のために…というのは、よほどの献身的な心と、強い精神力を持っている
  人間でなければ出来ぬだろう。 
 簗田高助の真実の心はともかく、高基の目にはそれが「至上の忠心」のように見える。 
「とまれ、今宵でなくんば明日にも、北条の姫君はこちらへ到着なされましょう。体面の座を設けますれば、上
様ご自身であの、志保とか申す姫君の器量を測られまいては如何」 
「おお、それも一興。北条には知らせぬままでの。いきなり…というのが良い」 
「ははは。では、そのように取り計らいましょう」 
 いつしか辺りは闇に沈んだ。城周りばかりでなく、民の灯す明かりも平野のあちこちに見える。 
(はて、我らが懇望した北条の姫) 
 主君の後について天守を降りながら、高助は太い眉を寄せて、まだ見ぬ「娘分」を思い描いてふと足を止めた。 
(公方のお家にとって吉となるか凶となるか) 
 もともとは、双方の利害一致による婚姻である。それゆえに、これから先、もしも思惑が違えば
  このような関係など、途端に無意味なものになり下がる。何よりも、「若殿」晴氏自身がこの婚礼に
  まるきり乗り気ではないのだ。 
(噂によると、関東管領扇谷家とも縁のあった三浦氏との戦いにも、自ら所望して出たほどの
「猛々しい」姫君であるそうじゃが) 
 最低限、あの「少し扱いの難しい若殿」晴氏のご機嫌を、上手く取れるおなごであればそれでよい、そう願いながら、 
「殿、こちらより迎えに出した原殿よりご伝言にござりまする」 
「ふむ、左様か」 
自分を呼びに来た家臣へ、彼は頷いた。 
「上様は先に夕餉を済まされまして、孫君とともに寝所へはやばやとお引き上げになられまいた」 
「フム」 
 先に立つ家臣の後へついて歩きながら、高助はもう一度、背後を見る。 
(あの明かりのように、北条の姫が公方家の前途を照らす鍵の一つになれば) 
 己だとて、好んで戦をしているわけではない。北条故入道の実力は聞き知っているものの、
  その息子の実力は未知数。とはいえ、その勢いを古河公方のために利用せぬ筋はない。 
 階段を降りながら、吹き降ろしてきた秋の夜の風に高助はぶるりと身をすくめた。今宵はことのほか冷えるらしい…。 


…続く。