沙ニ抗ス 15



こうして、再び宗棠は西域へ戻った。喬致庸ばかりではなく、彼自身の念願でもあり、
着手しかけていた蘭州製造局及び甘粛紡織総局設計へ、再び勇んで挑んだのは言うまでもない。
その段取りを全て終えた後、もはや六十歳という年にもかかわらず、文字通り休む間もなく
粛州へ入ったのが、同治十二(一八七三)年八月のこと。
「降服は、繰り返し勧めているのですが」
蘭州で彼を迎えた譚鍾麟らが、彼の到着を聞いて安心し、しかし困ったような表情で告げたのへ、
宗棠は大きく嘆息して腕を組んだものだ。
「いっかな、こちらの言うことを聞きません。どうせ降服しても抵抗しても同じだと、頑なに
言い張っているのです」
「…我が軍の補給は十分か。白彦虎のほうへ向かった劉錦棠は?」
「はい、白彦虎自身はまたも逃してしまいましたが、回民そのものは鎮圧したゆえ、そちらへ
援軍に参りますとの報せがありました」
「そうか、よろしい。では、俺の名を出せ。左宗棠が来ていると。降服すれば、別れて住むことも
させぬし、信教を押し付けるつもりもないと」
しかし、宗棠が吐息をつきつき部下たちに命じたその言葉も、反って逆効果だったらしい。
粛州に篭っている回民たちは、より一層頑なに彼の勧告を拒否したし、そうしている間に、
ヤクブ・ベクが助けに来てくれると信じているようなのだ。そうすれば、さすがの宗棠も、
囲みを解くだろうと言い言いしているらしい。
「なんの、ヤクブ・ベクなど」
包囲はその年の十月にまで及んだ。回民の様子を探索に行っていた錦棠からその様子を聞いて、
宗棠はほろ苦く笑ったものだ。
彼は、ヤクブ・ベクが西のオスマン・トルコ帝国からも君主として認められたというので増長し、
己の支配下にある住民たちへ圧政を敷いているのを聞き知っていた。そのために、せっかく領土を広げて
イギリスからも「王国」として認められていながら、領内のあちこちに小規模な反乱さえ起きているのだ。
そしてヤクブ自身は、あろうことかその鎮圧に手こずっているという。もちろんそのことも何度となく、
宗棠は粛州にこもり続けている回民へ通達しているのだが、彼らは一向に信じようとしない。
「己の身のことしか考えていないヤツが、己の尻に火がついたそのような状態で、ここへ救援になど来るものか。
何故それくらいのことが分からん」
そう呟くと、持ち前の彼の短気さが一気に怒りとなって吹き出てくる。ついに彼は、
「一気に攻め落とせ。容赦はいらん!」
叫んだ。この時、宗棠が率いていた軍は、ちょうどやってきた劉錦棠の援軍も合わせて総勢一万五千。
清軍側の包囲陣は六十余りにも及んだという。その軍は、総指揮官である彼の怒りをそのまま
乗り移らせたかのように、激しく粛州を攻めた。
蘭州製造局で作らせたばかりの砲台を繰り出し、大きな弾で堅固な城壁を二度、三度と砕いていくと、
さすがに堅固な城壁にも穴が開く。大砲を繰り出している間、城壁からの攻撃はあるにはあったが、
(包囲を耐え抜いた、とは言っても、食っておらんのだから力は出せまい。何故そこまで)
その攻撃には勢いがまるでないのが、遠くから見ていてもはっきり分かるのである。
かつて馬化龍に対した時と同じ虚しさを感じながら、
「白彦虎が我らに敗れたと報せてやれ。なに、風の噂でよい」
宗棠は命じた。粛州城に立てこもる馬文禄は、白彦虎を頼り切っていた。だから、白彦虎が破れたと聞けば
戦意は喪失するはずである。果たして、その噂を清軍が流してまもなく、城から馬文禄がやってきて、
城内回民の救命を条件に投降を申し出た。
「処刑するしかあるまい」
宗棠には、そう言うしか出来なかった。誰が見ても、馬文禄の投降は「やぶれかぶれでやむを得ず」の
ものであると分かったし、彼に従って最後まで戦った粛州城内の回民は、女子供まで合わせて
総数七千人にも及ぶのである。こんな結構な人数の反乱者どもに、ここで下手な情けをかけて
再び反乱を起こされては話にならない。
宗棠は続けて、
「甘粛省の南にて、別れて住むという条件を呑む様子が無ければ、全員処刑せよ。ヤクブとの連絡を絶つためだ」
部下にそう命じた。
戦いにおいて生き残ったわずかな回民は、この非情な措置を受け入れた。そして宗棠の言うように、
甘粛省南部へ洗回させられたのである。その結果、蘭州から敦煌までの河西回廊に住む回民は、
ついにいなくなってしまった。
こうして、同治十一(一八七三)年十月、清国内における回民討伐は全て終わった。陝西省にいた
総計七十万人とも言われる回民族は、この戦から十年後には、わずか数万人に減ってしまったという。
ともあれ、一時的ながら清国は息を吹き返した。
太平天国の乱、捻賊、そしてそれに追随して騒いでいた回民族、全てを鎮圧して、内部需要のために
各地には工場さえ設けられているこの時期は、「同治中興」と呼ばれている。
この中興のおかげで、清は諸外国から舐められつつも、まだ余力があり、「眠れる獅子」ゆえに
侮るべからずとの評価を得た。これは李鴻章ばかりでなく、宗棠の活躍も一役買っていなかった、
とは言い切れない。
だが、その功績を誇る暇なぞ当然無く、
「白彦虎は、新疆方面へ逃げたようです」
譚鍾麟らが苦虫を噛み潰したような顔で言うのへ、
「いよいよヤクブ・ベクとの全面戦争になるか」
宗棠もまた、似たような表情をしながら唸った。
彼がかつて西太后に約束した西域奪回は、ヤクブ・ベクの乱のどさくさに紛れてロシアに奪われた
新疆イリ地区を除き、ほぼ達成していた。よって「次はヤクブだ」と、密かにヤクブ・ベクとの対戦を
思い描いて、宗棠は新疆ハミ市、クムルへ部下の張曜を派遣し、軍の食糧を集めさせてさえいる。
むろん、これは朝廷の許可を得ていない。その上ここでまた、
「思った通り、あの優等生がまた海防を言い立てているらしいからな」
彼にとって、頭の痛い問題が持ち上がっていた。
蘭州と甘粛、二つの工場はすでに稼動して、外国製の新式武器や紡績など、それぞれの成果を上げ始めている。
だが、当然ながらまだまだ業績は微々たる物で、
「それだけでは毎年、新疆のために割いている白銀数百万両を到底取り戻せない。割に合わない。
最初に乾隆帝がかの地方を平定してから百数十年経つが、その間ずっと維持費は出て行く一方で、戻ってこない。
しかも新疆はもう、我らの領土ではなくなってしまっている。今回、陝甘総督の取り戻した領土で、
西域はもはや十分ではないか」
李鴻章は、これ以上の出費は無駄だと言い立てているというのである。
繰り返すが、李の就いている直隷総督という地位は、総督の中では筆頭の番付だった。自然、李鴻章が
清の政治家代表のようなものになってしまっていて、その言葉にはあまり強く逆らえぬような
雰囲気が出来上がってしまっている。
そのことは仕方ないにしても、
「金、金というが、金ばかりの問題ではない。それは李のヤツも分かっているだろうに」
宗棠にとっては、全てが「これから」である。国同士の対等な付き合いができなければ、貿易も対等にできない。
もう遠い昔のようなことになってしまったが、かのアロー戦争の結果、無理に結ばせられた不平等条約は、
諸外国が清を舐めきっている内容だった。
それから三十年は経つ現在でも条約の効力は継続中なのである。なので、せっかく紡績工場を作って
製品を世に送り出そうとしても、また軍隊に物を言わせて安く買い叩かれるか「タダ同然」での
取引を迫られるに違いなく、
「俺には商売のことは皆目分からんが、それだと清側ばかりが損をする、ということくらいは分かる。
貴方に無駄な出費をさせた、と思わせるのが大変に心苦しいのだ」
と、一旦態勢を整えるために蘭州へ戻った宗棠は、ちょうどその時、紡績工場を訪れていた喬致庸へ、
そう言って深く頭を下げたものだ。
しかし、喬致庸は首を横へ振り、
「総督。私は何も貿易のためだけに、資産を提供したのではありませんよ」
静かに笑って言う。その顔を、宗棠は多大なる感謝の念で持って見上げ、
「…李のヤツを、俺と文祥とで必ず説得する。貴方にもきっとこの借りは返せるはずだ」
再び深く頭を下げた。
この時、すでに東の日本も激動の時代を終え、異国の文化を意外なほどすんなりと受け入れて、
着々と国力を充実させつつあった。
清にとって、鎖国政策を採る以前からの数少ない貿易相手国であった日本は、なるほど、日清修好条規などという
条約をこちらへ呑ませはしたが、所詮は「生まれたばかりの赤子のわがまま」を聞くようなもので、
「さほど恐れるには足らないが、まといつかれると少々煩い小さな蝿」のようなものとしか、清朝廷の人間にも
意識されていない。
それが海を越えてやってくるとなると、確かに少々厄介であることには変わりはないが、
「そんなちっぽけな東の国を、李は恐れているのだ」
と、宗棠初め、清の有識人たちはさほど重大視していなかったのだ。
李鴻章が日本に危機感を抱くようになった経緯は、以下である。
同治帝が亡くなる前年の同治十二(一八七四)年に、日本軍による台湾出兵が行われた。これは当時の
琉球王国の恭順が明らかでなかったことが原因で、王国が日本の江戸時代から日本、清の両側へ
朝貢していたことに端を発する。
朝貢を受けていたにもかかわらず、清は「琉球は日本のものではないが、我らのものでもない。同様に、
台湾の原住民も、化外の民であるから清とは何の関わりもない」と常々言っていた。
そんな折も折、王国の領土である宮古島の島民五十四名が、海難事故で台湾に流れ着いたところ、
台湾人がこれを全て殺害してしまったという事件が起きたのである。よってこのことを、
「我が国の民が殺害されたのである」
と日本側は勝手な判断を下した。
また、このことは西郷隆盛の弟、従道や谷干城らが、新政府によって職を失った士族たちの不満の
はけ口が必要である、と主張する格好の材料になった。明治政府の許可を得ない出兵であったらしいが、
そんなものは所詮、日本側の都合でしかない。
おまけに当時の明治政府は、他国へ攻め入る時のいわば「お約束」であった国際慣習を知らず、台湾へ
攻め入る際に清側への通達をしなかった。当然ながら清に多大な影響を及ぼしていた西欧列強にとっても、
突然の出兵であったことになる。
しかし、どういう経緯でかは知らないが、李鴻章や、その頃は一時的に日本に駐屯していた、かのパークスが
強く抗議したにもかかわらず、清側は、イギリスの仲介によって日本のこの野蛮極まりない出兵を義挙と
させられた挙句、逆に賠償金として五十万両を支払わされているのだ。
その上当時、清はその海軍力において、東の蛮土であったはずの日本よりも劣っていたので、琉球に対して
ろくな手出しも出来なかった。これでは李鴻章が日本に対して強い危機感を持つのもやむを得ないし、再び
金や海防についてやいのやいのと言い立てるようになるのも無理はない。
「江戸幕府とやらが倒れて、新しく天皇を頂点に据えたばかりの新政府は、明治政府というらしいがな。
まだ間がある。日本にはまだ、本格的にこちらへ攻め入ってくるだけの軍事力は整っていないはずだ」
北京からわざわざ報せてくれた文祥の手紙を眺めながら、宗棠はひとりごちた。
日本に新たな政権が樹立されて、まだ両手で数えることが出来るほどの年数しか経っていない。よって、
もし万が一、対立することになったとしても、海軍建設にはまだ間に合うだろう。と、宗棠でさえも
そう考えていたのだ。世界中の誰もが、この時点で日本が後年、目を見張るほどな発展を遂げるとは
思わなかったのである。
とにかく、これによってまた、新疆への出兵は議論に上る所となった。李鴻章らに反対する文祥ら陸防派は、
あくまでイリ奪回を主張しており、そのためには、宗棠をかつて林則徐も就いた事のある役職、欽差(特命)
大臣に任命する勅許を西太后から得ることも厭わない、とまで言っているのである。
かつて林則徐も任じられていたこともある欽差大臣というのは、国内領土の揉め事処理ばかりでなく、
諸外国との交渉をも行わねばならないという、いわば外交官も兼任しているポストであり、
「忙しいことだ。また北京へ戻らねばならん」
金順や劉錦棠らへこぼしながら、それでも宗棠が労を厭わず北京を再び訪れたのが、彼が奪回した領土が
すみずみまで落ち着いたと思える同治十三(一八七五)年のことである。彼にとってはまさに「尻を暖める
暇もない…」精神状態であったに違いない。
この時には、中興を成し遂げた同治帝が年明け一月十二日、まだ十九歳という若さで亡くなっており、
わずか三歳の載?(ツァイテン)が光緒帝として立てられていた。
彼は西太后の妹の子、つまり甥に当たる。苗字が同治帝(載淳)と同じであるため、本来ならば清の法に
照らすと後継者として認められないところを、西太后のゴリ押しで即位させられたのだ。
(またあの女が、僭越なことを)
再び北京へと馬を走らせ、苦笑しながら思いつつも、
(あれで男であったら)
と、宗棠もその行動力には舌を巻かざるを得ない。悪いが、穏やかで心根の優しいと評判であった亡き咸豊帝が、
妻の一人である彼女を疎ましがったのも頷けるような気がする。
とるものもとりあえず、彼が北京へ着いた頃には、李鴻章が西太后へ海防を諄々と説いている所で、
「君は、ずいぶんと痩せたな」
以前と同じように、自分を出迎えに来た文祥の顔色を見て宗棠が言うほど、陸防派の文祥も李鴻章の舌鋒に
やりこめられているといった状況だったのだ。
文祥は苦笑して、
「君は相変わらず、憎らしいほどに頑丈そうだ」
言葉を返しながら、目に見えてこけた頬を少しほころばせた。
このところ、李鴻章との議論のせいばかりでなく、文祥の体調は思わしくないらしい。そんな彼に、
「俺が来たからには、君にもうこれ以上の心配はかけさせぬさ。まあ、黙って見ておれ」
勇気付けるようにかけたその言葉通り、
「先だっても申しあげましたたように、今、ここで新疆を失えば、反って国勢は衰えます」
西太后の前で、宗棠は持ち前の強気さでいきなり奏上した。
彼を見て、たちまち嫌な顔をする李鴻章には目もくれず、
「陛下のご威光を持ちまして、西域領土は我がほうへ奪還しつつあります。ですがここで、もと我が清帝国の
領土でありました新疆を、もうよいからと放置してしまえば、我らは民の支持を失います。海ばかりではなく、
陸においてもイギリス、ロシアの脅威に怯えながら過ごさねばならぬことになりましょう。となると、
彼らは我らを一層侮り、海防にも支障が出ること、間違いありません。なにとぞ再考を」
一気に言い終え、宗棠は平伏した。
あどけない顔をした帝の椅子の後ろには、相変わらず御簾が下がっている。その後ろで、西太后はどうやら
彼の様子をじっと見つめているらしい。
簾越しとは言いながら、その視線にまるで射られるような熱さを感じていた彼の耳に、やがて大きなため息が聞こえ、
「陝甘総督を、欽差大臣及び督弁新疆軍務に任じる。引き続き、新疆の奪回に当たるよう」
西太后の良く通る声が響いた。
彼女の言うところ、すなわち決定である。百官と同じようにひれ伏しながら、
(この女は、最初から俺の言おうとするところを察し、賛同してくれていたのではないか)
宗棠はそっと顔を上げ、簾の向こうの顔をうかがった。
建前上、貴人の姿、しかも女性の姿を見ることは許されていないが、それでも六年前にちらりと見たとき以上に、
彼女の頬は鋭く尖り、小柄な体から発散されている威圧感は増したように思う。
恐らくは、李鴻章の意見にも、彼女のカンに触るところが多々あったに違いない。だが、その感情を抑えて
よく耳を傾け、さらには彼と反対の立場である宗棠の意見も聞き、出来る限り公平を貫こうとしていように見える姿勢は、
(俺であったら出来たかどうか)
男性であっても、いや、男性であったら余計に出来ぬことかもしれない。「たかが娘ほどの年齢の女だ」と
思い込むことで、己の心に自然とわきあがってくる尊敬の念を、否定しようとしてもしきれぬ自分自身へ、
今となっては宗棠もいささか困惑している。
とにかく、
「このたびも、君には本当に骨折り頂いた。感謝する」
今回もまた、あっけないほどに宗棠の意見は通った。乾いて冷え切った風が、容赦なく吹き付ける紫禁宮の階段を、
並んで降りながら彼が文祥に頭を下げると、
「いや、私は何もしておらぬよ。君の功績が多大だったから、そんな君を信頼されて母后も納得された、そういうことだ」
文祥は、寒風で冷えたせいばかりではなさそうな、青黒い頬をして微笑む。
「君はもう、我が国にとっては無くてはならぬ大黒柱…君のしたいこと、すなわち清のためになることなのだからな。
そのために私だとて労は惜しまぬよ。愛国心は、君には負けぬつもりだ」
「俺は、また西に戻らねばならん」
そんな年下の友を心配しながら、宗棠はつとめて明るく言った。
「君の目の黒いうちに、新疆を取り戻してやるか」
「相変わらず言ってくれる。君こそ、流れ矢などに当たって死なぬように、せいぜい気をつけることだ」
憎まれ口を叩き合いながら文祥と別れた宗棠は、翌、光緒二(一八七六)年四月、兵糧が目標の数に達したのを機に、
いよいよヤクブ・ベクと直接対決するため、新疆地区へ向かうことを決定した。
宗棠の後任として陝甘総督に任じられたのは、彼もよくその気性を飲み込んでいる楊昌濬である。宗棠の仕事が
やりやすいように、というわけで、文祥が口ぞえしたのだが、勿論、宗棠ほどではないいせよ、楊昌濬とて一州の総督を
十分にこなせる能力があると見られた上でのことだ。
「さすがは文のヤツだ、気が利いている。楊になら安心して俺の後ろを任せられるものな」
言い言い粛州城へ入った彼は、劉錦棠、金順らを副将とし、
「錦棠は北路、金順は南路を取れ。二手に分かれて出発し、先鋒部隊の張曜とクムルで合流しろ。抜け駆けは許さん。
途中で遭遇した場合の反乱軍の処置については、各自に任せる。新疆方面への道沿いにある拠点に駐屯している
清軍兵士も併せろ」
と、命じた。
 この時期における宗棠総指揮下の軍勢は、以下のように記録されている。
劉錦棠率いる湘軍二十五営、張曜軍十四営、徐占彪の蜀軍五営。これに新疆方面各拠点の清軍を併せて、歩兵、騎兵、
砲兵総勢百五十営の八万人。
「これだけの大勢でヤクブを懲らしめられんとなったら、俺達の恥だぞ」
宗棠は彼らを前にそう激を飛ばし、
「俺はもう年寄りだ。身体はお前達のようには良く動かん。その分、頭を使おう。ここから指揮させてもらうさ」
続けてニヤリと笑った。彼がそう言ったのには、ここらで自分は引っ込み、若い者達にも功績を立てさせてやろうと
思ったのが理由の一つである。
この討伐には、宗棠は彼が宣言したように直接加わらず、粛州城から全ての指示を出すことにして、事実そうしている。
もちろん、彼自身が直接軍を率いずとも十分な勝算があると見たからであり、
(ヤクブ・ベクは民心を失っている)
カシュガル王国の君主、と持ち上げられてしまって、調子に乗りすぎたのだろう。ヤクブは人々から搾取しすぎた。
その結果、彼の「王国」の住民、ことに天山南路沿いに住む人々のことごとくが、彼からそっぽを向いているという
情報を得たのが、宗棠自身が出馬しなかった理由の二つ目だった。
民心がヤクブから離れているとなれば、ヤクブの兵がいくら城を守ろうとしても、民がその門を開く。よって
回民を鎮圧した時よりは征伐は容易かろう。
こうして、劉錦棠の北軍、金順の南軍は出発していった。軍隊が出発するのと入れ替わるように、北京から
粛州城へやってきた使者は、彼にとって二番目の親友であった文祥の死を告げて、
「…アイツも、逝ったか」
宗棠はただ呆然と呟いた。



to be continued…


MAINへ ☆TOPへ