沙ニ抗ス 14


 六 有言「不」実行

ヤクブ・ベクは、十八世紀後半から十九世紀前半にかけて、中央アジアのフェルガナ盆地、
西トルキスタンと呼ばれた地方にかつて存在していた、コーカンド・ハン国の出身者である。
同国は、ジョチ・ウルス系の遊牧民によって建てられたウズベク三ハン国のひとつであり、
テュルク系、キルギス系の遊牧民を主な支配層としていた。
この、彫りの深い顔立ちをし、まるで針のようにピンと跳ねた髭で顔の下半分から胸元までを
覆ったウズベク人は、東トルキスタン、つまり新疆地区の回民が清朝に対して反乱を起こしたのを
聞いて、中央アジアのタリム盆地へ攻め入った。新疆地区の主要都市であるカシュガル、
エンギシェールなどにいた清駐屯軍をも追い落とし、歴史の表舞台に躍り出たのが、同治三
(一八六四)年のことである。
そして蜂起の二年後にはヤルカンド、ホータンを占拠してタリム盆地の西半分を手中に収め、
さらに六年後には東のトルファンを、そして天山山脈の裾をぐるりと西へ回ってウルムチを攻略、
ついには新疆イリ地方も支配下に置いた。
清帝国にとってはさらに由々しきことに、中央アジアにおける利権を狙うイギリス、ロシアも競うように
彼を支持している。ロシアは同治十一(一八七二)年にヤクブと貿易を始めて、商業保護の名の元に
イリ地方へ駐屯しているし、特にイギリスとヤクブは、カシュガルにイギリス領事を置く代わり、
イギリス領インドから大量に武器の援助を得ることを条件に、その二年後には条約まで結ぶに至るのだ。
そしてこの条約でもって、ヤクブは彼の占領した場所のアミール(君主)を称した。よってイギリスでも、
その場所をカシュガル王国などと呼んでいる。
彼は清帝国の支配に不満を持つムスリム民族達を取り込み、瞬く間に勢力を拡大した。
「俺に従えば、イスラム教を信奉する奴らは助けてやる」
と言い言い、実際に新疆地区におけるイスラム系統のモスクや聖者の廟を保護、修築もしているから、その一方で
支配者にありがちな暴力的統治―戦乱によって失った資金を補填するための、住民からの搾取…そのために
ヤクブはテュルク系民族から「アンディジャンのごろつき」とさえ呼ばれたが―を行っていても、彼の直接的支配
が及んでおらず、噂しか伝わっていない場所からは、まだ支持は集まりやすかったに違いない。
当然ながら、イリに駐屯していた清軍はヤクブ・ベクによって全て追い払われるか、ムスリムへの改宗を
強要された。そのため、やむなく自殺したイリ将軍もいたのだ。しかし本国である清にはもう、それを
助ける力さえない、と、周囲の国からは見られていた。
実際、当時の清の国情を見ると、李鴻章が新疆放棄を言い出すのも無理はないと思える。四方から
西欧列強による圧迫を受けた上、東の日本が不遜にも、日清修好条規などという日本側になんとも都合の良い
条約を清に結ばせている。諸外国のこれ以上の介入を出来る限りさせないための軍隊や、その軍隊を動かすだけの金を、
「どこから出すのだ」
李が途方にくれて嘆くように、まさに資金的にもぎりぎりだったのだ。
「陸にはこれ以上金を割けぬ。ヤクブやその他の異民族の王国を認めて朝貢させよう。すると少なくとも
その分の資金は手に入る。その金でぜひ海防を」
と李が朝廷で主張していたころ、左宗棠本人よりも先に、彼の上奏文が届いた。
言うまでもなく、この頃にはすでに実権は西太后がほぼ掌握している。
「陝甘総督の言葉も、ぜひご検討下さい」
待ち構えていたように文祥が言うと、李はかすかに苦い顔をしてそっぽを向く。
共通の恩人である大将、曽国藩は、同治十一(一八七二)年に既に亡くなっていたが、曽の跡継ぎをもって
自認する李鴻章はこの頃、北京を管轄地に含む直隷総督として、また、西太后の新たなお気に入りの一人として、
政府の中枢に深く食い込んでいた。文祥と左宗棠の仲の良さを彼も聞き知っているから、「またあの御仁が
余計なことを」と言わんばかりに、そっぽを向いた顔をしかめている。
 それを横目で見てわずかに苦笑しながら、文祥が宗棠の文書を捧げると、それを侍女の手が取り次ぐ。
  御簾の横からわずかに白い手が伸びてそれを受け取り、しばらくの間、沈黙が流れた。
(母后は横暴ではあるかもしれないが、決して愚鈍な方ではない)
御簾の向こうで、西太后がその文書を読んで考え込んでいるらしい様子を伺いながら、文祥は心の中で頷いていた。
やや一方向に偏りがちな嫌いはあるが、彼女は愚鈍どころか、むしろ大変に聡明で機敏である。女でありながら、
男が操るのが当たり前の表舞台に出ているため、この国の常識に照らし合わせて悪女と認識されてしまったが、
もしもこれで男であったなら、きっと清帝国の運命も変わっていたに違いない。
ともかく、今は政治の舞台すなわち西太后である。誰よりも誇り高く、英邁な彼女を動かすには、
並大抵ではない労力を払わねばならぬ。その彼女が、
「我らの手に西域を取り戻すには、どのくらいの予算がかかるのか」
そう尋ねた時、文祥は思わず小躍りしたい気分になっていた。
「それは、陝甘総督自身の口から直接、陛下がお聞きくださるとよいかと思われます」
「確かにそうですね。現場にいる者の言葉は、何よりも貴重である。万の言葉よりも、
総督自身を見たなら分かるでしょう」
「まことに左様でございます。恐れながら、陝甘総督も間もなく北京へ参りましょう。ぜひ陛下に
お目通りを願い、詳らかならぬところはご自身でご下問を」
「そのようにしよう。疲れました。本日はこれで」
西太后が同治帝を伴い、簾の後ろから去っていくのを、百官は伏して送った。その姿が消えるとすぐ、
文祥は、六年ほど前に別れたきりの友を待つべく、宮殿の外へ急いだのである。
こうして、朝廷での政務を終えては城門で日が暮れるまで待つ、を繰り返すこと四日、
「おお! 君の到着を待ちかねていたよ」
果たして文祥が待ち望んでいた、めっきり白髪が増えた友の姿はそこにあった。よほど急いで来たのだろう。
今しがた、馬から降りたばかりの白髪は乱れて砂埃にまみれ、ところどころ黒くさえ見える。
それに、砂漠にいるせいで日にばかりでなく沙にも焼けたに違いない。六年前はいささか白かったはずの肌は
これも黒く焼け、ところどころに茶色いシミさえ浮きでていた。
宗棠もまた、文祥の姿を認めて、
「やあ。君も年を取ったな。俺より年下の癖に、俺と同年に見えるぞ」
相変わらずの憎まれ口を叩いた。それすらも懐かしく、文祥は宗棠の肩を抱かんばかりにして、紫禁宮の中へ導きながら、
「先日、私の元へ届いた君の上奏文を、母后へ奉った。今、朝廷はその議論で持ちきりだ。君自身でぜひ
かのお方を口説いてくれたまえ」
「はははは。俺には娘ほどの女を愛する嗜好はないし、母后のような女は苦手だが、ひとつやってみようか。
熱心に口説けば、ひょっとすると俺のような頑固で偏屈者でも、なびいてくれるかもしれんしな」
「冗談ごとではない」
「分かっているさ。今は海よりも陸だ」
文祥が顔をしかめると、宗棠はすっと顔を引き締め、
「今の俺達の敵は、ロシアだ。ヤクブの混乱に乗じて、イリで好き放題している。ヤクブもヤクブで、
支配するならロシアをきっちり追い払えばよいものを、そこまでの軍事力がないものだから、イリを半分も
己のものにできんのさ。結局、混乱で嘆くのは住民どもばかりなのだ。これ以上、奴らの好き勝手を
許してはならん。海のほうは、あと十年もあれば、俺がなんとかしてやる。いや、出来る。今は、
西方をイギリスやロシアに渡さんことだ。清にもまだまだ底力はある、それをここらで彼奴らに
ガツンと示さねば。そうすれば、海の方とてしばらく保つだろうさね」
初対面の折のように、宗棠の語るところへいつの間にか熱心に耳を傾けながら、
(これならば)
西太后を説得できるに違いない、と、文祥は思った。
西太后も本当は、清がじり貧に陥っていることを身に沁みて感じているに違いなく、その国力を考えれば
致し方ないとはいえ、李鴻章の及び腰外交を苦々しく思っているということを、文祥は鋭く察している。
そういったところへ奉られた、この久しぶりに胸がすくような勇ましい論説は、
「ただの理想ではないさ。俺は現実にしてやる」
不毛の地で六年耐え、実際にその地を取り戻したばかりか、そこへ新たな産業まで発展させつつある
宗棠がぶつのだ。目の前の本人を見、その言葉を聞けば、それが決して机上の空論ではないということを
十分に信じさせるだけの迫力を持っていた。
陝甘総督到着の知らせは、すでに西太后に届いているはずである。報せを届けに行った使いのものが言うには、
「全ては明日の朝議で」とのことであった。そして文祥、宗棠ら陸防派にとっては、まさに一日千秋の思いで
待った夜はようやく明けて、
「蘭州では、今も沙が吹いていよう」
「ああ、そうだ。この季節にはこういった、乾いた沙がいつも吹く」
六年前と同じように、美しいレリーフの入った白い大理石の階段を上り、欄干に積っている黄色い砂を
指先でなぞりながら文祥が話しかけると、宗棠も懐かしそうに頷いた。
「その沙は、ここ北京にまで運ばれてくる。…君に払えるか?」
「むろん、俺が払ってやるさ」
その沙を、西域平定とかけて尋ねた文祥へ、宗棠は今度は強く頷いて少し笑う。胸のうちに緊張を秘めたまま、
養心殿へ彼らが伺候すると、
「不毛の地での六年、まことにご苦労であった。そなたの活躍、嬉しく思う。早速だが、総督に尋ねよう。
周りで飛び交うのは、確からしからぬ噂ばかりで朕には真実が皆目分からぬ。よって、
総督の話を聞いて、判断を下したい」
宗棠にとって軽蔑すべき女であるはずの西太后から発せられた第一声は、これである。
(横暴で、傲慢で、気に入らぬ者は男女関係なくすぐに傷つけると聞いていたが)
宗棠は意外な感に打たれながら、「ははっ」とばかりに平伏していた。
北京を離れていた六年、西域にあってもひっきりなしに入ってきていた彼女の、「侍女を手当たり
次第平手打ちに…」「気に食わない人間にはすぐ、ヒステリックに怒鳴りつけて死刑を叫ぶ…」
などした人物であるという噂とは、まるで違う印象を受けたのである。
そして、彼女はどうやら、
「総督の言い条、胸がすく思いがしました。西域を我らの手に戻すための手段について、忌憚なきところを語るが良い」
宗棠の奉った説をいたくお気に召したらしい。
そこで宗棠も「恐れながら」と、つい恐れ入ってしまう自分に苦笑しつつ、床へ額をつけながらも、
熱心に語り始めた。
「俺…いえ、私の思うところは、奉りし文にて陛下に申し上げた通りにございます。イリ地方や西域に限らず、
もともと我らの領土であったところを、他の者に思うまま蚕食されましては、それこそ諸外国の思う壺。
彼らは清帝国にはもう力はないと、我らを侮っておりますが、ここでもしも我等がどこかひとつでも、
それらの領土を取り戻すことが出来たなら、諸外国も清帝国を見直すに違いなく、それによって海防着手にも
少しは時間が出来ましょう。現に私に今、陛下がお任せくださっている西域には、イギリス、ロシアが
入り乱れております。ここでヤクブを追い出せば、その背後にいるイギリスの干渉も多少は防げましょうし、
その勢いで持ってイリ地方へ我等が駐屯いたしましたら、清帝国の威勢も回復いたします。さらにロシアへも
少しは物を強く申すことが出来るはず。よって、私個人としては、イギリス、ロシアが関わる
西域奪回を強く申し上げる所存です」
そこで宗棠が一息つくと、
「…よく分かりました。総督、顔を上げて語りなさい」
長い吐息とともに、西太后が張りのある声で励ますように言う。居並ぶ官僚達も驚いてざわめき、
西太后がいるほうの簾を伺い見た。
「問題は、資金であろう。どうやって作る」
しかし、西太后が問いかけると、そのざわめきはぴたりと収まる。(そらきた)といった風に、
彼女の右に控えていた李鴻章が片方の眉を挙げ、かすかに肩をそびやかせるのを視界の隅で捕らえながら、
「兵の食料は、今までどおり屯田で賄えましょう。だが、イギリスの援助を受けているヤクブの武器に対するには、
こちらも同程度の武器が必要。その費用は」
「その費用は?」
再び西太后へとまっすぐに視線を向け、
「陝西の喬致庸が援助を申し出ておりますが、まだまだ…陛下にもぜひ、ご負担願わねばなりません。
ご不快でしょうが、我らに干渉してきたフランスに出させることも考えております。その勅許を頂きたい」
と、宗棠は言い切った。
「では、その総額は?」
ぴしりぴしりとムチ打つように、西太后の語気は鋭くなる。しかし、
「白銀八百万両。いえ、余裕を持たせて一千万両は欲しいところです」
宗棠も負けてはいない。財政大臣であった沈葆驍ヘ目を丸くしたし、文祥もまた、ハラハラしながら、
両者の成り行きをただ見守っているばかりであった。
「ですがそれは今、蘭州に喬致庸からの出資で設けている紡績工場及び、軍需工場が正式に稼動すれば、
お返しすることは十分可能です。一千万両というのは、それらの工場の設立費用を入れての計算です」
「…よろしい!」
そして満座が驚いたことに、この途方も無い宗棠の言葉を、西太后は一言で承認したのである。
これには、宗棠ですら驚いた。
西太后は何よりも、先の戦で焼かれた円明園の復興を優先させたいと考えていると聞いていたから、
きっと彼女はごねるであろうと、その説得の言葉さえ用意していたのだ。
しかし彼女は宗棠その他、官僚達の予想を裏切って、
「陛下、国庫から五百万両を捻出してください」
と、これも驚いている同治帝へ言いつけ、さらに、
「フランスからも五百万両借りましょう。これで白銀一千万両。費用は以上でよろしいか」
逆にそう尋ねさえしたのである。
深い驚愕と同時に感動すら覚えながら、
「陛下のご英断、深く感謝申しあげます」
宗棠は生まれて初めて、他人へ心から頭を下げた。続けて、
「省内の回民鎮圧に私は時間をかけすぎました。これは私の罪です」
素直にそう言った後、再び顔を上げて簾の向こうの西太后をまっすぐに見つめ、
「よって、今回の戦はどんなに遅くとも、反乱軍討伐にかかったのと同じ年数以内で決着をつけましょう。
それ以上の時間をかけるつもりはありません。これぞ、緩進急戦です」
自信たっぷりにそう言い切ったのである。
「…君のことだから、やれぬことはないのだろうが」
朝議は終わった。ともかくも、海より陸である、との結論を導き出せて、文祥は肩の荷を下ろしたような、
しかしどこか複雑な表情で、
「私の心臓の事も考えてくれ。ずっとハラハラし通しであったよ」
すぐにでも西域へ帰ると言い出した宗棠を、天安門まで見送りながら愚痴った。
「まあ、良いではないか。それが君の役目だろう」
それへ晴れやかな声で笑い返しながら、
「李のヤツにも少々気の毒したがな。それはそれとして」
そこで宗棠は白髪首をしばし傾げ、
「ヤツは、俺が西へ去ればまたぞろ、海防を言い立てるだろう。それを君が何とか止めてくれ。
俺もなるだけ早く、西の始末をつけるつもりでいるから」
遠い目をして西の空を仰いだ。心ははや、蘭州に飛んでいるらしい。
「李のヤツの言うことにも頷けんではない。ヤツとて心の底から良かれと思って、清のために
頭を搾った上で言っているのだから」
馬首をめぐらしながら、彼は嘆息して再び呟くように続ける。
「周囲の国と上手く付き合いながら、我が国の命脈を保つ。しなくともよい戦なら、なるべく避けて
相手の要求もなるだけ呑む。それが確かに理想的だろう。俺だとて、何も好き好んで戦ばかりしたいわけではない。
仲良く出来るものなら仲良くやっていきたいさ。しかし、俺が見聞きしたところの李の外交理論はな」
そこで、深く皺の刻まれた、ごつごつした両手で己の顔を乱暴に擦り、まさに馬のようにぶるぶると唇を震わせた後、
「俺達の国と付き合いを求めるヤツらが、俺達の国を舐めていない、という条件の上でのみ成り立つものだ。
所詮は優等生の机上の空論で、ただの理想に過ぎん。これからもヤツのやり方を通すなら、諸外国はもっと俺達を侮るぞ」
きっぱりと宗棠はそう言い切る。改めて現実を突きつけられたような気がして、文祥は愕然と馬上の友を見た。
(言われてみれば、確かにその通りだ)
李鴻章のやらんとするところは、諸外国に媚を売っているのと同じで、しかも諸外国は清を対等の相手として
みてはいない、と、宗棠は言いたいのだろう。確かに、今の清にはかつてのような威光はもうないのだ。
「帝国としての威光、そして数千年前から続く文化の担い手としての誇り…そいつを少しでも取り戻すために、
俺は西域へ戻るのさね。使える人間は大いに使わんと、清帝国には損というものだぞ。何といっても俺は、
今臥龍なのだからな」
少し青ざめた文祥の顔を見て、宗棠は努めて明るく、冗談っぽく言い、カラカラと笑った。
「諸外国の良いところは積極的に取り入れ、国力の充実をはかり、威信を回復する…はるか古代、蜀のために
生涯をささげた諸葛亮と同じように、これからも俺は働くさ」
「…頼む」
「そんな風に改まるな。俺は、自分がそうしたいからやっているのだ」
己に向かって頭を深く垂れる友へ、宗棠はまた力づけるように微笑い、
「製造局が稼動して、利益が入ってきた暁には、喬致庸がやりたいと言っている貿易へも出資してくれるように、
君から母后へお頼み申し上げてくれ」
「それは、もう」
文祥が頷くのを見ると、
「では、俺はこれで。君も長生きしろよ」
宗棠は言って、馬へムチをくれた。たちまち砂埃を上げて去って行く友の姿を、文祥はいつまでも見送っていたのである。


to be continued…


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