沙ニ抗ス 13



宗棠が陝甘総督に任じられて六年余り。こうして、ようやくムスリム過激派の中枢は撃破された。
「後は残党のみだ。陝西、甘粛両省にあり、未だに反乱を企てている回民どもは、
全て掃討するか、西方へ追い散らせ」
この結果、この地方に住んでいた回民の大部分が、中国大陸を逃れたという。それら回民過激派が、
再び清帝国に対して反乱を企てることのないように、宗棠の取った政策は「洗回」と呼ばれた。
要するに、回民分散移住政策である。
総督としてそれを命じながら、しかし宗棠の胸にあるところは、
(信じるもののために戦った、か)
馬化龍の放った最後の言葉だった。
理想のために散ることに悔いはない、と、馬化龍は言った。宗棠は既に蘭州において、
武器の製造工場である蘭州製造局と、中国における事実上最初の紡績工場となる甘粛紡織総局を
作ることの勅許を得た。さらに山西の喬家の援助も受けて、着々とその工事を進めている。
それもこれも、己にかつて目をかけてくれた咸豊帝のため、ひいては清帝国のためで、
(俺の理想は、傾きかけている清帝国を立て直すことだ。つまり、俺の信じているところ、
心のよりどころは清帝国ということになる。すると)
密かに西方の新疆(東トルキスタン)を取り戻すことと、その場合に起きるだろうヤクブ・ベクとの
戦いのことをも思い描きながら、
(ムスリムの神とやらを信じることと、清を信じることは、どちらも同じことである、ということにならないか。
信じるもののために戦う…俺とヤツは、同じではなかっただろうか。いや、同じではない。
同じであってはならないはずだ)
生じた考えを振り切るように、彼は北京のある東方の空へ目をやり、頭を下げた。
今回新たに得た領土の土には、これまで彼が耕してきた土地と同じように、今日も強い風に運ばれてきた
乾いた沙がかぶさっている。それをじっと睨みつけて、
(俺は先帝のために働く。ただそれだけだ。俺は、奴らとは違う。現実を見ているはずだ。まだまだ
抵抗を続ける回民どもがいる。俺はそれらを先帝のために、掃討せねばならん)
再び鍬を振り下ろす。
「左総督」
その手が、己を呼ぶ声にふと止まった。顔を上げると、かつて劉松山がやってきた方角から、左右にぞろぞろと
護衛団を引き連れた山西の喬致庸が、にこにこしながらやってくるのが見える。
「今回のご活躍、皇帝陛下にはさぞお慶びのようで、私からもお祝い申しあげます」
「いや…今回は、俺が活躍したのではないよ」
素直な賞賛の言葉に、内心消え入りたいような思いで宗棠は答えた。
「それに、まだまだ西寧にも粛州(現・酒泉市)にも、反乱を起こしている回民どもが残っている。
フフィーヤの馬占鰲は我らの降服勧告を素直に受け入れたが、その他はそう素直に降服してくれぬ」
「ははあ、なるほど。では、河西回廊の安全はまだ確保できぬ。西域との交流の道が再び拓ける日は
未だに遠い。我らの援助はこれからも必要、ということですかな」
「そうだ。お恥ずかしいことだが、貴君にはまだまだお骨折り頂かねばならん。今後の我々の進路としては」
歯に衣着せず、ずばりと痛いところをつく喬家の主に苦笑しながら、宗棠は地面に転がっていた木の枝を取り、
「回廊を西へ。右は不毛の砂漠であるし、さらに険しい山を越えねばならんから、回廊を進む間は敵も
わざわざそれらを攻め入っては来るまい。よって、まずは西寧を落とす。この将には既に松山の甥、
劉錦棠を任命するよう、朝廷にも上奏済みだ」
それでもってがりがりと地面を引っかきながら、簡単な地図を喬致庸へ書き示した。
フフィーヤが彼の降服勧告を受け入れたのは、同治十(一八七二)年のことである。こちらの気候で
生まれ育ったフフィーヤの回民を加えたので、彼らへ訓練を施せば十分な兵力になる、と宗棠は続け、
「先に、劉松山の攻撃によって陝西省から逃れた回民どもが、西寧の共同体に多数かくまわれている。
だからこれらを先に叩く。俺の予定では数ヶ月。それ以上の時間はかけぬ。それから、まだ粛州に
残っている回民どもを掃討する」
「総督は彼らへ、もうすでに降服を勧めなさった、のでしょうなあ」
「それは何度も」
喬致庸と宗棠は、そこで顔を見合わせてほろ苦く笑った。ちなみに、河州で共同体を営んでいた穏健派の
フフィーヤたちは、宗棠の降服勧告を受け入れたので、洗回を免れてその場所に暮らし続けている。
短気な彼が、回民を分けて移住させる、という政策を採ったのには、
(我らとて、決して分からず屋ではない)
彼自身は認めたくなかったろうが、やはり馬化龍の言葉が心のどこかにあったからに違いない。よって、
西寧で共同体を形成している回民へも、
「降服すれば、そのまま共同体を営むことを認める」
と、何度も使者を送っているのだ。
だが、宗棠の言うところに従って降服するということは、回民にとっては清帝国への従属を意味する。
つまり清の支配下での自治を認められただけで、彼らの頭の上にいるのは相変わらず清帝国である。
中央アジアにおけるムスリム独立国家として認められたことにはならない。
「認めてやる、とは何様のつもりだ」
というわけで、それら共同体に住む回民たちの態度は、より頑なになるばかりであった。
西寧において、回民たちは現在、馬桂源という名の若者を指導者に頂いている。そのもとに、かつて陝西で
回民軍として暴れまわっていた白彦虎・禹得彦などが匿われていた。彼らもしきりと清との徹底抗戦を
画策しているという。
宗棠が陝甘総督として西方にやってきてからも、回民蜂起を鎮圧することは出来ないと見ていた清政府が、
その懐柔策のために、同治六(一八六八)年には馬桂源を西寧府知府(知事)に任命さえしているのだから、
「見ろ、奴らは俺達を恐れている。俺達を制しかねて弱腰になっているのだ」
回民過激派たちはそんな風に言い合って、いよいよ清政府を見下す、という結果になっていた。宗棠のことも、
「今回の陝甘総督も、今までと同じで、我等が少し脅せばすぐに逃げてゆこうよ」
などと過小評価している。
これまでに北京から西方へ派遣されてきた将軍達が、いずれも輸送や食糧の点で失敗しているので、
今回も「沙と険しい山々が守ってくれる」「不毛の砂漠の前に彼奴らは逃げる」などと嘯いていた。
だが、宗棠は、当然ながらこれまでの将とは違う。これまで清政府が西域に派遣してきた将軍たちが、
ことごとく失敗している原因を研究した上で、
「何故、前任のやつらの失敗から学ばないのか」
と、それを呆れ半分に不思議がり、そこから「屯田」「道路整備」という、彼なりに大いに自信のある回答を得たわけで、
「俺が来たからには、もう好き勝手させんさ。笑うやつには笑わせておけ」
だからこそ、北京で「屯田など、ずいぶんと遠回りする」などと嘲笑われていたとしても平気の平左だったのだ。
運輸に食糧、それら二つの問題が解決されたら、砂漠で食料が尽きたとしても怖がることはないのである。
それにもう、ムスリム過激派において一大勢力をなしていた馬化龍もいない。
さて、フフィーヤの投降を受け入れた宗棠は、いよいよ西寧へ出発した。彼なりに十分な勝算を得られるとの
目星が立ったからだ。
喬致庸へも言ったように、劉錦棠を西寧攻略における将軍とし、
「逆らうやつには容赦はするな。だが、降服してくる者、民間人は温かく受け入れろ」
との訓戒を徹底した上で、同治十(一八七二)年八月、真夏の太陽が容赦なく照りつける砂漠において、
戦闘を開始したのである。
河西回廊を西へと向かいながら、その道々で抵抗する回民たちをほふり、その勢いで西寧をも攻めて
ここを陥落させるまで、わずか三ヵ月。統領陝湟兵馬大元帥、と長ったらしい名前を名乗っていた馬桂源は、
その猛攻を支えきれず、白彦虎と弟の馬本源を伴って、バエンロンゴ(現・化隆回族自治県)へ逃れた。
後に残されたものは、やむなく投降し、西寧における回民共同体も、宗棠の洗回政策を受ける羽目になったのである。
「見覚えのある顔だな」
投降した将たちの中には禹得彦や馬桂源の叔父、永福がいた。
かつて陝西省から、自身で追い散らした禹得彦の顔を見つけて、宗棠が思わずほろ苦い笑いとともに言うと、
彼は宗棠の顔を見上げて、
「貴様は今臥龍と名乗っているようだが」
媚びるような笑いを漏らした。
「諸葛亮が南征を行い、南蛮王猛獲と対峙した時には、彼を七度捕らえてその都度解放したと聞く。その結果、
猛獲もようやく諸葛亮の心が分かって帰順したというではないか。貴様も今臥龍なら、それくらいの情けを
我々にかけて、貴様の国の王化の徳とやらを我々に説いてみたらどうだ」
縄打たれ、地面へ跪かせられながら、禹得彦は再び媚びへつらうように笑う。つまり、自分を解放しろというのだろう。
(一口にジャフリーヤといっても、色んなヤツがいるものだ)
「どこでその知識を得たのかは知らぬが、それはくだらん物語の中でだけだ。一度己にたてついた人間を
二度も許せるほど、人は寛大ではないさ」
宗棠もそれを聞いて再び苦笑いした。ついで、
「よって、今臥龍であるところの俺は、そこまで寛大になれぬ。すまぬが、貴様の首はもらう。
理想を掲げるのは大いに構わん。だが、そのために、己の分をわきまえずに他国を侵すのは、
頭の良いやり方ではない」
と、傍らに控えていた劉錦棠を振り返り、
「お前の手柄にしろ。こいつの処分は任せる」
そう告げた。
これでまた一つ、過激派の勢力は消えたわけだ。ここで宗棠は、当初からずっと彼についていた譚鍾麟もまた、
朝廷へ推挙して陝甘巡撫代理の地位に就けさせている。
「さて、残るは逃げた馬桂源だが」
西域の共同体における住宅は、まるで軍隊が野営に張る折のテントのようである。その一つへ無造作に入って、
敷物の上へどっかりと腰を下ろしながら、
「まずは、白彦虎を破る。それから、その後は」
宗棠は、老いてなお鋭い視線を、その場にいた人間のうちの馬占鰲へ止めた。
「君に頼もうか。君になら出来るだろう。これ以上の回民の犠牲を出さぬためにも、詐術は必要だ」
馬占鰲は、先ほど宗棠の降服勧告を受け入れたフフィーヤ派の代表である。言われて彼は、西域に住む者独特の
少し彫りの深い目を伏せたが、
「よろしいでしょう。私が説きます」
すぐに顔を上げて頷いた。
過激派と穏健派、理想派と現実派に別れたとはいっても、もとは同じ宗教を信じることで、兄弟のように
結ばれていた回民同士なのである。多少訝しくは思われても、馬占鰲が言うことならば、馬桂源たちは
信じるに違いない。それに、
(左宗棠は有言実行の漢民族である)
とも、馬占鰲は思っている。
それは何より、これまでの宗棠の行動が示していた。降服を受け入れたことによって、自分たち穏健派は
別れて住まずにすんでいるし、宗棠の軍隊にいる兵士たちが彼らを蔑んだり、彼ら兵士達の家族である住民たちから
略奪したり、ということもない。
むしろ宗棠は彼らにも「同じ軍隊の兵士だから」と、率いてきた軍隊兵士と同じ待遇を回民兵士達にも
与えているくらいで、だからこそ、それを聞いた河西回廊沿道の西域住民達も、続々と宗棠軍に
帰順してきているのである。従って馬占鰲も、これ以上の回民の犠牲を出さぬため、という宗棠の言葉を信じた。
(彼さえ処罰することで、回民がこれ以上、洗回させられずにすむのなら)
と思いながら、馬占鰲が信頼をこめて頷くと、宗棠も深く満足した様子で頷き返す。もちろん馬占鰲も、
ここに至っては洗回政策を受けないでいられるのが穏健派だけであるということを、重々承知していた。
現に、馬桂源に従っていた白彦虎が率いていた軍は、同治十一(一八七三)年二月、大通(現・青梅省西寧市)で
宗棠軍に大敗、その折に従っていた兵士達は降服しようがしまいが、甘粛省の南部へ有無を言わさにず
ばらばらに住まわせられる、という処罰を受けたのだ。情けないことに、大将であるはずの白彦虎自身は、
命からがら粛州城へ逃れている。
かくて馬桂源はバエンロンゴで孤立し、馬占鰲は、
「陝甘総督、左宗棠は食料が尽きたため、すぐにでも撤退しようとしている。軍の士気も低下している。
だから今が追撃の機会だ」
と、馬桂源側へ嘘の情報を流した。むろん、
(この大陸におけるムスリムを、これ以上減らしてはならない)
そう考えた結果であり、悪く言えば自分たち穏健派だけが生き延びるためである。馬占鰲にとっては、
とにかく回民を存続させることが第一だったのだ。
当然ながら、事実はその噂とはまるで逆であった。回廊沿道住民達も、自分たちから食料を奪いながら
バエンロンゴへ立てこもったムスリム過激派よりも、後からやってきて労わってくれた左宗棠軍を贔屓している。
そのため、立てこもっている側は正確な情報を得られず、大将の馬桂源は、
「清側に降服した腰抜けとはいえ、同じムスリムが言うことだから」
と、希望的観測に流されて、のこのこと出てきたところを、てぐすね引いて待ち構えていた左宗棠軍に
捕らえられてしまった。これが、同三月のことである。
その身柄は蘭州へ送られ、馬桂源は処刑された。同時に、彼に付き従っていて、最後まで宗棠に抵抗した
数千人もの回民が殺害されたという。
「清を舐めているやつらだ。まだまだ清の威光は衰えていないことを再認識させて、刃向かう気力をなくさせねばならん」
バエンロンゴを取り戻した後も、宗棠はそう言い、休む間もなくムスリム最後の拠点となった甘粛省粛州
(現・酒泉市)へ向かうことを表明している。
その前に腹ごしらえを、というわけで、馬桂源処刑のために蘭州へ戻ってきた宗棠は、
「まずは補給だ、道路も新たに延ばさねば」
そのための打ち合わせを劉錦棠や譚鍾麟らと行うことにした。補給を整える一方で、回民達が馬文禄を
総大将としてこもり続ける粛州城の包囲を、新たに彼の指揮下に加わった徐占彪と楊世俊に命じてもいる。
しかし、楊世俊軍は包囲に失敗し、兵力の大半を失ったという。確かに、粛州城は堅固な城壁に守られているが、
(それにしても不甲斐ない。もうちょっと頭を使えばよいものを…さて、どうする)
その報せを聞いて、苦笑いしながら宗棠が考えている総督府へ、
「我が家の使いの者の報告だが、朝廷内で、新疆地区を放棄するという意見が出ているそうですぞ。
左総督には如何お考えか」
普段は肉付きがよく、従っていつもてらてらと光らせている赤い頬が青黒くなるほど血相を変え、
わざわざ訪ねてきたのは喬致庸である。
いずれは新疆からさらに西方との貿易をと目論んでいるため、常に清政府の動向に目を光らせている、
そんな喬の言うことだから、まず真実と見て間違いないだろう。
詳しく聞かせて欲しい、と、打ち合わせの席へ喬を招いて宗棠が言うと、
「ヤクブ・ベクがカシュガルやマナス、トクスンまでも占拠しているのは、総督にはご存知のことながら
…彼の勢力は侮りがたい。よって彼に新疆を与え、朝貢させろという意見の先鋒は、直隷総督の
李鴻章殿でありましてな。新疆は放棄し、むしろ海岸線の防備を強化しろと、ご高説をぶっておられる。
何よりも欠かせぬのはまず、日本対策であるとな」
「どうやら、俺は一度、北京へ戻らねばならんようだ」
そして宗棠は、それだけを聞いてすぐに決意を固めたらしい。
ヤクブ・ベクの後ろにはロシア、イギリスが控えているという噂もある。それが事実であるなら、
もしもヤクブの独立を認めてしまえば、新たにできた国を通して、その二大列強が得たりとばかりに
清へ干渉してくることは火を見るよりも明らかだ。よって、
「俺は北京へ行く。金順と宋慶へ、まずは粛州城郊外の塔爾湾を占拠するように命じておけ。
それで足りねば、張曜にも援軍に向かわせろ」
宗棠はてきぱきとそう命じた。金順、宋慶、張曜の三人とも、捻軍鎮圧に功績があった人物である。
この時は、文祥が言いつけて宗棠の下で働いていた。
劉錦棠と譚鍾麟が頷いて出て行くのを見届けて、
(今度はあの優等生の足を地に着けさせねばならんとは)
「まず、朝廷へ上書を奉らねばならん」
側にいる兵士を遠ざけ、彼は早速筆立てを手元へ引き寄せた。
この時に彼が上奏文の中で言っていたことをかいつまんで記すと、
「古代の周、秦、漢、唐、それぞれの国が栄えたのは、西北の土地を得たからである。それらの国が衰えたのは、
西北の土地を捨てて、東南へ移住したがゆえであり、それをもって異民族の侵入を許し、ついには滅亡の
憂き目を見たのである。これらの地域を護るということは、北京を護るということに繋がる。現在、
その西方の地のうち、イリはロシア人が占拠しており、カシュガルはヤクブ・ベクのなすがままにされている。
今、この地区を奪回しなければ、必ず後顧の憂いとなる。これらの地区を放棄するなどということは、
ぜひともお考え直し願いたい」
ということで、つまり西域がいかに清帝国にとって重要な土地であるかを主張し、この地区を断固、
武力奪回するべきである、としたのである。
(もっとも我々が警戒しなければならないのは、ロシアだ)
上奏文を書きながら、宗棠の胸に蘇ったのは、かつて林則徐が残したあの言葉だった。
「これを貴方に。俺より一足先に北京の文祥殿へ奉るため、貴方の家の者をお借りしたい」
書き上げて喬致庸を呼び、そう告げると、喬も頼もしげに頷きながら、その手紙を恭しく両手で受け取り、
「早速、早馬を立たせましょう」
短く言い置いて、総督府を足早に出て行った。
「俺もゆくぞ。後は頼む」
部下達に言って身支度を始めながら、
(確かに俺も理想を追っている。だが…)
胡麻塩髭の中に、若かりし日のような不敵な笑みを浮かべ、
(その理想は、決してこの手に届かぬものではないはずだ)
わずかな供とともに彼は、再び北京へと向かっていったのである。


to be continued…


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