沙ニ抗ス 11



とにもかくにも、陝西からは捻軍を追い出せた。次は甘粛である。元はといえば、そちらに
「巣食っている」回民が、清国内の捻軍を煽っていたのだから、
「いよいよ、元を断たねばならん」
それを何とかしなければ陝西、甘粛両省を担う陝甘総督としての面目が立たない。
手先だったはずの捻軍が陝西から東へ遠ざかってしまったので、回民軍は甘粛省へやむなく引き上げたのだが、
それを追って蘭州へ向かう前に、宗棠はひとまず湖北省へ戻った。傷病兵を故郷へ帰すためである。
「これを討伐するには時間がかかる」
武漢で開いた作戦会議で、宗棠はそう切り出した。その会議には、わざわざ北京からやってきた文祥も加わっている。
「なぜなら、三つの問題があるからだ」
文祥が加わったのは、宗棠の要請による。
文祥は今や、彼になくてはならない盟友である。それに彼がいれば、宗棠が言わんとするところを
きちんと理解してくれるし、何より早くかつ直接、朝廷すなわち西太后へ伝わるからだ。
「三つの問題」
「そうだ」
文祥が鸚鵡返しに問うと、宗棠は頷いて三本の指を出す。それを一つずつ繰りながら、
「ひとつ、兵員。ふたつ、食糧、みっつ、運輸。これらだな」
戦場に出たことのある人間なら、誰もが納得行く問題を改めて整理するように口にした。
彼の右に座しながら、文祥も深く頷いている。
宗棠が北へ連れていった兵士は、ほとんどが中国大陸南の出身であるし、戦いも湖南省と
その周辺に限られていたのだ。よって、寒暖の差が激しい北の気候にはやはり慣れぬ。  
その弱点が先ほどの戦いで、
「いざというときに体調を崩してしまって使えない」
という風に、露骨に表れてしまった。
「このまま南へ帰りたいヤツは、大将(曽国藩)のところへ戻ればよい。その上で、戦いを
続けるかどうかを決めるがいい。俺が便宜を図ってやろう。兵士は西で新たに募集して補うのがいい。
現地の敵と戦うには、やはり現地の人間でなければならん。次に食糧だが、できる限りの
食糧を買い付けしておく、ということの他に」
文祥は、目を閉じていちいちに深く頷きながら聞いている。その文祥も、
「現地で屯田しようと思う。田を耕しながら戦うのだ。己の食い扶持は己でまかなわねばならん。
大将からは、また兵糧を送ってやると言って寄越しているし、それを聞いている者もあるだろうが、
俺は断った。人の援助に頼るな。そんなものがあると思えば、必ず心に甘えが生じる。言うまでもないことながら、
現地での略奪などもってのほかだ。略奪したヤツは遠慮なく俺がたたッ切る」
宗棠がそう言い切ったときには、略奪云々はともかく、
(屯田とは、あまりに迂遠ではないか)
遠回りしすぎるのではないか、と、少し驚いて思わずその顔を見直した。
実際に宗棠は、援助を申し出てくれた曽国藩へ、兵士達へ向かって言ったような、
「人の援助に頼るほど甘い人間ではない。俺を見くびってくれるな」
絶縁でもされかねない台詞をそのまま言い送っている。文祥でさえ、
(援助はいくらあっても足りすぎるということはない)
と思っていた。不毛の地へ行くというのに、差し伸べてくれる手を払いのけるとは狂気の沙汰であると思われかねぬ。
しかし宗棠はそ知らぬ風で、
「運輸だが、これは現地までの道の要所要所に駅を設けようと思う。この任務に当たる者は、後ほど選ぶ」
と、会議を締めくくったのである。
出立準備のため、たちまち慌しくなる武漢の庁舎で、
「宗棠殿、少し待ってくれ」
会議が終われば、すぐに北京へ飛んで帰るというようなことを言っていた文祥は、急ぎ足で外へ
出て行こうとしている宗棠の袖を掴んで引きとめた。
「率直に言う。蘭州で屯田など、あまりにも時間がかかりすぎるのではないか。無論、私は君を
信じているし、今回の君の作戦内容についても、お上へ申しあげて勅許を得る自信もある。
だが、政府の中には君を嘲笑って、反対する者も出てくるのではないかと…君の評判が
下がりはしないかと、その点で心配なのだ」
「嘲笑うヤツには嘲笑わせておけばよいのさ。だがな」
この穏やかな幕友へ向き直り、宗棠がいつものように少しの揶揄を込めた調子で、
「そうやって嘲笑うヤツの中で、今までに賊の退治に成功したヤツが何人いる?」
言うと、文祥は喉の奥で何かが詰まったような音を立てた。
その肩を叩きながら宗棠は、
「回族と俺達の間には、幾世紀にも渡った不信の根がある。それが今回、見える形で現れたということだ。
その根を力ずくで取り除こうとするならば、やはりそれ相応の年月がかかるということさね。
そしてその根を取り除くのは」
にゅっと親友の顔へ己の顔を近づけ、
「俺にしか出来んことさ。違うか? だからこそ、君らも俺にこの仕事をさせようとしたのだろうに。
俺の価値は俺自身が一番良く知っている」 
言いながらニヤリと笑ったのである。
そこで文祥もつい苦笑して、
「その通りだ。良く分かった。私も君がやろうとしていることを、他の人間に邪魔させはしないと約束しよう」
固い握手を交わし、北京へと急ぎ帰っていった。
事実、西域を再び中国側の領土とする、といったこの仕事は、当時清政府にいた人間のうち、
左宗棠にしか出来ないことだった。そのことは何よりも後の歴史が証明している。
また、この時のことを、例えば譚鍾麟などは、
「宗棠ハ、事、巨細精粗トナク、根本ヨリナス」
と評している。つまり主戦論をいたずらに振りかざすだけの人物ではない、何事にも綿密で細心な計算を
もって当たる、ということで、そんな宗棠の元に残った大陸南部出身者は三千名。これを核として、
彼はいよいよ蘭州へ旅立った。
その懐に大事にしまい込まれているのは、かの林則徐が新疆地方へ赴いた時に描いていた西方の地図である。
朝廷内に厳重保管されていたのを、文祥が無理を言って借り受けてくれたのだ。
「大軍ノ至ルトコロ、淫略スルナカレ、残殺スルナカレ、王者ノ師ハ時雨ノ如クアレ」
乗った馬に楽しげに揺られながら、宗棠は右の文句を繰り返し歌いさえする。つまり犯すな、
略奪するな、現地の非闘民を労われ、ということで、主将がそんな具合であるから、
彼に率いられていた兵は毛筋ほどの略奪もしない。
甘粛地方には軍を進めるに適しない曲がりくねった道が大変に多いので、軍隊が時に通れず、
進行に難渋した。よって宗棠は、彼の軍隊が通ろうとするところを拡張し、その両脇には涼しげな
葉の音を立てる青柳を必ず植えた。
「道はともかく、柳は無駄ではありませんか」
譚鍾麟がある時、ずばりと切り込むと、
「なんの、無駄ではないさ。無駄どころか」
宗棠はからりと乾燥した空を見上げて笑ったものだ。彼は確かに怒りっぽくはあるが、軍事に関する質問を
部下がした時には、労わりをこめて諭すように答える。
「覚えておけ。民が喜ぶことをもするのが、政治というものだ。道を整備することで軍隊だけではなくて、
住民や旅商人どもも通りやすくなる。砂漠を越えて辛い旅をしてきた者たちは、この柳の青さを見、
葉ずれの音へ耳を傾けて心を休めるのだ。そしてこの道を作った者は誰かと考える。それを聞き知って
政府へ感謝する。そういったものだ」
「ははあ、なるほど」
素直に二つ頷く「お気に入り」を見て、しかし宗棠は、
(コイツにも、俺の後の海軍建設は任せられない。どこか一味足りない)
寂しい思いで少し笑った。
中国大陸のあちこちにガタが来ているこの折、混乱した事態を収拾するには、素直で、勇猛なだけでは
足りないのだ。そういった点で彼が期待しているのは、今、まだ東のほうで捻軍と戦っている劉松山のほうである。
(あれが俺の元へ戻ってきたら、もっと仕込んでやるものを)
兵たちが植えている柳を見やりながら、宗棠は鼻の穴から大きく息を吸い込んで、深呼吸を繰り返す。
すると柳の葉のすがすがしい匂いが鼻腔を伝わって喉へ、そして体のすみずみへ行き渡るようで、
彼は両目を閉じ、口元をほころばせた。そんな彼を見て微笑みながら、譚鍾麟もまたそれを真似て深呼吸をした。
宗棠が蘭州へ向かって戦っていきながら、その合間に修復も手がけたこの道は、チーリエン山脈の
山裾沿いに、西安から蘭州、安西を経て最終的には玉門関の外までの三千七百里に渡って伸び、
その後も主要な幹線道路の一つになっている。
蘭州から玉門関までの狭い盆地状の道がシルクロードの一部である河西回廊で、それらの道路脇に
彼が二列から八列に渡って植えさせた柳は、彼の名前を取って「左公柳」と呼ばれた。
また、これはずっと後のことになるが、宗棠の後任として陝甘総督となった楊昌濬は、
   大将西征シテ人イマダ還ラズ 湖湘ノ子弟、天山ニ満ツ
   新タニ楊柳ヲ栽ウル三千里 カチ得タリ春風、玉門ニ渡ルヲ
という詩を作って、宗棠の仕事を称えている。楊もまた、かつては宗棠に従って太平天国討伐に
加わった人物だから、多少の贔屓はあるにしても、この称え方は決して大げさではないだろう。
ともかく、こうして宗棠は、一見果てしなく気が長いと思われる方法で、実際にその気の長さを
嘲笑われつつも、着々と己の足元を固めていったのである。

  五 理想と現実

中国大陸に当時住んでいた少数民族、回族(ムスリム)は、西アジアと深い繋がりがある。繰り返すが、
回族らの外見は漢民族と同じで、日常言語も漢語であるが、イスラム教を信仰し、生活習慣も
イスラム風であるという点で大きく異なる。
当時の回族は、同じイスラム教を信奉していながら、考えの違いによって二つの系統に分かれていた。
我が国の主な宗教といえば仏教だが、その仏教も様々な派閥に分かれていることを考えれば、
二つなど少ないほうかもしれない。
それらは、フフィーヤ、ジャフリーヤなどと呼ばれて、前者は馬来遅、後者は馬明心をそれぞれ祖としていた。
前者のフフィーヤのほうがより温厚で、つまり悪く言うなら清朝の支配を甘んじて受けていたため、
「フフィーヤなら、こちらが下手に出れば味方につけることも出来る。だから放置しても差し支えは無かろう」
と、蘭州へじりじりと進んで行きながら早数年、兵士達とともに屯田しながら宗棠は考えていた。
兵士たちに屯田させることによって、現地の農業その他の産業も発展することになる。特に不毛とされていた
この地方では、銅が採れたし綿がよく育った。これは現地の住民にも喜ばれたし、実際に他の地域との
物々交換までできるようになっている。幼い頃に彼が祖父に教えられ、その後も独自に研究していた農学が、
ここで大いに役に立っているというわけだ。
さらに宗棠は、現地住民の生活の糧を得るその他の方法として、
(後は何らかの軍需工場でも作るか。朝廷のためにもなる)
とまで構想していた。彼ほどの人物が、清政府に仕官してからは、支配者側としての立場からしか物事を
見られなくなったのは、大変に惜しいことである。もしも誰かがそのことを指摘したら、
「清という国に属している以上、その政府の考えに従うべきだろう」
と、彼は言って、耳も貸さなかったに違いない。これはこの大陸に昔から暮らしている人の、先祖代々変わらない常識らしい。
「国に属している以上、国の考え方に従うべきであり、独自の宗教など持つべきではない。でなければ民族が団結することは難しい」
そういった画一的な考えから、代々この大陸を支配していた王朝はイスラム教徒など、他の宗教を信じる少数民族を
支配していたわけで、これでは、
「我らをこれ以上弾圧するのをやめよ」
と、その民族がたびたび蜂起するのも無理はない。
今回、清国内での捻軍に手を貸していたのは、過激派であるジャフリーヤのほうで、現在は馬化龍が指導者となっている。
馬化龍は宗棠よりも二つほど年上で、かつては清側の将軍をたびたび戦死させたことさえあった。
「イスラムの自治を認めさせる」「信教の自由を得る」と、自民族に勇ましく理想をぶつける馬化龍の言葉は、
何より血の気の多い若者達を刺激したのだ。
「腐り切った支配者からの真の独立を」
というスローガンには、もちろん根拠もある。
当時の回民は、三つの大きな道路で分けていた行政区のうち、東トルキスタンつまり新疆地方に在住していた。
それらの行政区を大雑把に述べると、イリ地方管轄の天山北路、タクラマカン砂漠を中央に抱くタリム盆地の
クチャ、カシュガルなど八つの都市を管轄する天山南路、ウルムチ周辺管轄の東路の三つということになる。
このうち、東路の民政に関しては清の管轄下にあり、当然ながら軍隊も配備されている。この三路を統括していた者は
イリ将軍と呼ばれ、霍城県にある恵遠城に拠点を置いていた。霍城県は、それぞれ北では天山地方、南ではイリ川、
西ではカザフスタンに面していたから、まさに中国大陸の西の果てである。
綏定城、寧遠城、恵寧城など「イリ九城」などと呼ばれていた、これら九つの砦に分かれて配置されていた軍隊を
維持するためには、清中央政府からの支援金だけでは到底足りない。しかし度重なる中央政府の失政で、
支援金も滞りがちになる。それに従って現地回族たちへの搾取もいよいよ厳しいものになる。それでも金はまるで足りず、
代々のイリ将軍は、自分の裁量一つで自由に出来る官職を売ったりなどして、やっとのことで軍隊維持費を賄っている、
という有様だったのだ。
民には重税を課す、売官行為はする、こういった役人が将軍なのだから、現地住民の清政府への不満と不信は高まる一方であるし、
「そのような人間のいる国が、大きな顔をして我らを支配しようとは片腹痛い」
そう非難されるのも当たり前である。
いつの世も、地に足をつけていない理想論は、妙に輝いて見えるものだ。しかし今の清は、往時ならばともかく、
「官僚どもは腐りきっているし、農民どもが反乱を起こしているから、攻め入るのも容易だ。今こそ」
と、蜂起にあたって馬化龍が言い放ったように、事実そうだったのだから、たちまち蜂起軍は勢いを得て
甘粛地方へ攻め入ってきた、というわけなのである。
が、それも、宗棠が陝西から捻軍を追い払ったため、一時の勢いはなくなって今はいわゆるこう着状態に
入っている。宗棠の粘り強い戦略で、現地住民も清政府軍を歓迎するほうへ回ってしまったから、馬化龍たちは
甘粛地方のさらに北部、金積堡へ撤退したのだ。
(この状態を破るきっかけのようなものがあれば)
考えながら、宗棠は鍬を振るう手を止め、空を仰いで金積堡への道を思い描いた。春とはいえ、やはり西方の
空気は南方に比べて格段に乾燥しているように感じられる。
大陸中央から見て北西に位置するこの省には、言うまでもなく件の河西回廊がある。古く漢の代には涼州と呼ばれ、
諸葛亮が成都から遠征した天水も、蘭州への道沿いにある。
さらにその先の武威、酒泉を経て安西で北と南に河西回廊は別れる。この北方の道を辿ると玉門関に着く。
南の道を辿ると陽関に着き、その途中に高名な敦煌莫高窟があるが、この時代にはまだ発見されるに至っていず、
忘れ去られた存在となっている。砂漠とはお隣同士であり、まさに不毛の地と呼ばれるに相応しかった。
時折砂漠へ巡察に出て、沙混じりの乾いた風に髭を吹かれるたびに、彼は、
(湖南は、福建省はどうなっているか)
己の故郷を思い、海の青さを思い、
(出来ることなら俺の目の黒いうちに、強い海軍を創り上げておきたいものだ。李のヤツが統率している
海軍だけでは列強どもに対抗できん)
さらに彼が?浙総督時代に手がけていた海軍のことを思う。
跡継ぎを探すから、と言ってくれた大将、曽国藩からも、その後何の連絡もない。
(よほど難航しているらしい。まあ、俺の跡継ぎであるから、致し方ないが)
苦笑いしつつ自らその大地へ鍬を振るい、土から飛んできては己の頬に付着する細かい石の欠片を、
無造作に払い落としていた宗棠は、
「先生! いや、総督閣下!」
その声に顔を上げた。見ればかつて捻軍を追って北京へ行ったはずの劉松山で、後ろには二、三の兵士を従えている。
「先生、で良い。ご苦労だったな」
「はい、先生。捻軍を平らげるのに、思ったよりも時間がかかりました。こちらへ来るのが遅れて申し訳ございません」
彼はやはり慎ましくそう言い、白い歯を見せて微笑しながら、宗棠の手から鍬をそっと取り上げて自ら土を耕し始めた。
「なんの、君が来てくれたなら、俺とてようよう枕を高くして眠れようというものだ」
宗棠も首に巻いていた手ぬぐいを解き、額の汗を拭いて笑う。
「君の戦いの模様を聞かせてくれ」
「はい」
宗棠が言うと、耕す手を止めないまま劉は頷いて、歯切れ良く語り始める。
「東捻軍は、あの折に山東省で李(鴻章)将軍によって包囲され、それを率いていた任柱は部下の裏切りで死亡、
勢いづいた李将軍は膠莱河で東捻軍を全滅させて、頼文光を捕らえられました。これにてほぼ東捻軍の討伐は終了。そして」
そこで土からにゅっと顔を出したミミズを避けて鍬を置き、一息ついた後、
「西捻軍のほうですが…我等は饒陽にて邱遠才、張禹爵の二人の将を討ち取った後、天津に迫っていた
張宗禹へ攻めかかって、駭河まで追い詰めました。しかし」
劉は続けようとしたが、眉を少ししかめて宗棠を見上げる。宗棠が先を促すように、黙って頷いたのを見ると、
「それ以降、本日に至るまで張宗禹の姿が見当たらないのです。捻軍の者に聞いてみても、誰も
知らぬ存ぜぬとの一点張りで。我々の中からは、ひょっとして駭河へ身投げでもしたか、などと、
冗談ともつかぬ意見も出る始末」
それが昨、同治七(一八六八)年八月のことなのだと劉は言う。
「それはよい、それはなあ」
宗棠が思わず声を上げ、手を叩いて笑うと、
「笑い事ではありませんよ。李将軍などは、未だに血眼になって張の行方を捜し求めているのですから」
劉もまた、苦笑交じりに答えを返した。
すると宗棠は再び、
「張には俺もかなり手こずらされたことは認めるが、ヤツも所詮、農民上がりの才も度胸もない男だったと
いうことだ。李はクソ真面目なヤツだからな。俺と同じで自尊心の高い李には、皆が言う、張が身投げしたという
意見に素直に従うことが出来んのさ」
と、腹を抱えて笑う。劉がやれやれ、といった風に微苦笑を漏らすと、
「まあ、アイツがいれば、この大陸の東はまず安心だろうが」
宗棠は二つ頷きながら言った。李鴻章のことは、それでもちゃんと認めているらしい。
いささかホッとしながら劉も再び笑って、
「左先生や李将軍の洋務運動が効いたのか、母后(西太后)陛下も西欧諸国へ柔らかい姿勢で応じておられます。
国内においては捻軍を掃討し終えましたので、朝廷の威勢はわずかながら回復していますが…」
「恭親王殿下がおられるし、現帝陛下もそろそろ成人に近くなっているというのに、あの女はまだ
政治に口を出しているのか」
女の分際で、と、宗棠が言い掛けると、「先生」と、劉松山はそれを遮った。
今はその女が権力を握っているのである。いくら常識では考えられないとは言っても、それを口にすれば
宗棠の首などすぐに飛ぶ。よって、
「それより、こちらはどんな具合です?」
少しだけ頬を引き締めて、劉松山は慌てて話題を変えた。すると宗棠も苦笑して、
「いや、こちらとて大した進展はないよ。ようよう回族の過激派どもを金積堡へ押し込めたところさ」
「それでもそれが出来たのは、先生だからでしょう」
「ははは、あまり持ち上げるな。もっと西のほうでは、ヤクブ・ベクとかいう輩が新疆の西半分を占拠している。
何とかしたいと思いながら、今はそれを何とも出来ぬ俺なのだよ」
劉が言うと、宗棠は照れて、土くれにまみれた両手で顔をごしごしと擦った。
半ば白くなりかけた顎鬚に、その土の塊がぱらぱらと落ちる。それもまた手の甲でぱっと払って、
「だが、この蘭州に軍需工場を作りたいと俺が漏らしているのを聞いて、山西の喬家が経済援助を
申し出てくれている。もしも朝廷から勅許が出たら、の話だが、そうなった場合には、俺としてはありがたく
それに乗っかりたい。あちらにとっても西方貿易路の安全が保障されることになるからな。
持ちつ持たれつ、といったところだろう」
「なるほど。しかしそれだけではありますまい」
再び土を引っかきながら、劉は宗棠を見上げて、「分かっているのだ」とばかりにニヤリと笑った。

to be continued…


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