沙ニ抗ス 10



陝甘総督は、中国大陸の西北に位置していた陝西、甘粛二省の民事及び軍事を管轄する。
その創立は順治元(一六四四)年に遡り、固原市(二〇〇一年現在、寧夏回族自治区の
南部に位置する)に総督府があった。
その後、総督府は漢中、西安などを点々としながら、康煕三(一六六四)年に山西省、
雍正十三(一七三六)年に四川省、乾隆二十四(一七五九)年に陝西省と、周囲の省を続々と
管轄下に加えて、やっと蘭州にその居場所を定めた。異民族と矛を交えあう最前線の土地といえるだろう。
治める難しさは南京と変わらない。
中国大陸の歴史は、異民族と中華との戦いの歴史とも言える。今回は、捻匪鎮圧のために
そちらへ赴くわけだが、正確にはその背後にあって、捻匪を煽っている回族討伐を任ぜられた
というべきかもしれぬ。
さて、一旦は西安にまでやってきた回族だが、同治二(一八六三)年には、当時陝西将軍であった
呼爾拉特(チチハル)氏出身の多隆阿(トルンア)に追い払われて、今は西方に引っ込んでいる。多隆阿は、
かつて、宗棠の親友であった胡林翼と共に太平天国とも戦い、湖北省を護りきった人物であるが、
同治三(一八六四)年三月の回族との戦いで受けた流れ弾が元で、同年五月十八日、まだ四十七歳という
若さで亡くなってしまっていた。
玉座の間を辞した後、
「ぜひ一度なりとお会いして、話を伺いたかったですな」
己の前任者であるから、というだけではなく、胡林翼ともつながりがあり、しかも似たような年で
亡くなった人物ということで、宗棠がこの上ない親しみを含んだ声でしみじみと言うと、
「うむ。われわれとしても、実に惜しい人物を亡くしたと思っています」
文祥は、我が意を得たりとばかりに大きく頷いた。
(やはり、彼は大丈夫だ)
そう思うと、さいぜんの情熱もまた、心に蘇ってくる。
「イギリス、フランスのことも気になるが、南京でも、捻匪どもの活動はやはり盛んでしょうか」
出発の期日にまで間があるから、ということで、宮中に与えられた部屋へ戻ろうとする宗棠を、
「お疲れであろうが」たってと我が部屋へ招きながら、文祥は熱く問いかけた。
「わが同郷(旧満州)人である官文が、湖広総督の任にあること九年余りですが、良い成果を上げたという
噂はあまり聞きません」
「ふむ、そうですな」
問いかけられて、宗棠は苦笑した。官文は、かつて彼と彼の上役であった駱秉章とを「それぞれの職の分を
越えている」ということで、弾劾したことのある人物である。
腐っても官吏であるから、戦略を立て、それを実戦に生かすという点でも、教養という点でも
優秀ではなかったとは言い切れない。
だが、駱と宗棠にしたのと同じような妨害を曽国藩にもしていたところを見ると、人間としての
器量には疑問符がつく。曽の方も、たびたび仕事を邪魔されたからということで、官文を「平凡な人物である」
の一言で片付けてしまっていた。
(大将も、かなり鬱憤がたまっていたようだから)
遠く離れてしまった恩人の顔を思い浮かべながら、宗棠の胡麻塩髭の中にはこらえきれぬ苦笑が浮かんでは消えた。
宗棠がどんなに恩知らずな言葉を投げつけていても、曽国藩はやはり彼を心配して定期的に兵糧を送ってくるのだ。
心の中では感謝しつつも、やはり実際に曽と会うと、(余計なことをしやがって)と、意地っ張りな面と
甘えた感情が、つい顔に出てしまうだろう。
曽国藩は、宗棠と違って人間関係にはソツがないはずであるし、教養も深く兵略にも通じている。だから
大将として祀り上げられる素質は十分以上にある。
人間関係にソツがないことを示す例として、太平天国が滅亡した後、彼が湘軍を解散させることで
清政府から睨まれることを避けたという件の話が挙げられる。後世の人間はそれを「適切な処世術である」と
高く評価した。しかし戦いの間、戦況が悪化して追い詰められる都度、自殺を考えたらしいという噂からすると、
その処世は実は、かつて宗棠が指摘したように、多分に国藩の小心から来るものだったのではなかろうかと思える。
その癖、一方では、宗棠のような個性の強い人物を容れる太っ腹な度量もあった。そんな「大将」も、
その折はかの満州出身の異民族を随分もてあましたらしい。
「実は今、曽侯爵のご舎弟、国?殿から、弾劾状が届いております」
「なんですと」
文祥が声を潜めて言うのへ、しかし宗棠は言葉ほど驚かなかった。
(あの曽国?殿なら、それくらいはやるだろう)
曽国?は、太平天国の拠点である南京(太平天国側は天京と称していた)を攻め落とした際、その兵士が
殺戮と略奪を行ったということで非難を浴びた、軍の実質的指揮者である。宗棠にとっては、かつて
湖南巡撫だった駱秉章のもとで共に戦った同僚でもある。
駱と宗棠が弾劾されたと聞いた折にも、
「己の無能を棚に挙げ、功績のある人間を謗るのは下衆のやることだ」
湖広総督の地位にいながら、なんら功績を挙げていない人間の妬みである、と、はっきり述べて憚らなかった。
(彼にも俺は、よく怒鳴り散らしたものだ。大将と兄弟二人揃って、よくもまあ、このような俺に
我慢強く付き合ってくれたものよ)
曽国藩そっくりの国?の、濃い眉と口ひげを思い出しながら、
「官文殿に、どういった罪があると?」
宗棠が問い返すと、文祥は「これはまだ上奏していないのだが」と、ますます声を潜め、
「湖広総督の地位にいながら、捻軍との戦いでいっかな成果を上げられないでいる。これを罪と
言わずして何と言おう、と」
「いやはや」
宗棠は、思わず吹き出しそうになるのを懸命に堪えた。それに気付いているのかいないのか、
文祥は軽く目を閉じ、鼻の穴から深く息を吸い込んで、
「曽国藩侯爵の力は大きいゆえに、その弟御からの訴えとなると看過出来ない。それが悩みのタネです。
ともかく、曽殿を直隷総督に任じることで、なんとかなだめようというのが私の策なのだが、他の者どもが
聞き入れてくれぬので、大層難議している」
と、正直なところを打ち明けた。
首都北京もその管轄下に入っているため、地方長官の中で筆頭の地位にあった直隷総督に曽国藩を
任じることで、その一族の鬱憤を晴らす、という手が一番妥当だという意見が大半を占めている一方で、
これ以上、漢民族である曽に権力を握らせるのは危険だという意見もあるらしい。
「ひとまずは官文を解任する、ということで怒りを静めてもらおうとしたのだが、これだけでは
なかなか納得してくれないでいますな」
「ははは。何と申しても、あの大将の弟ですからなあ」
「なるほど、あの、ですか」
ついに笑ってしまった宗棠につられて、文祥も苦笑いをした。
 結果的には、官文は湖広総督を解任されて、この小さな政変は終わっている。その数年後には、
  曽国藩は直隷総督に任じられ、清朝に支配されていた当時の漢民族としては例外的に最高の地位に就いた。
  それで一応は決着がついたように見えるこの事件は、ある意味、漢民族が再び異民族に取って代わる
  きっかけだったとも言えよう。
 中国大陸南部では、太平天国の主力がようやく衰えたと思った時に、その残党が捻匪を後押しする形で、
  再び十万もの大軍に膨れ上がっていた。戦いに継ぐ戦いで、人々は全く息をつく間もなかったに違いない。
大陸北部でも同治四(一八六五)年、捻軍らはかつて太平天国から北京を護りきった勇将、
センゲリンチンの騎馬隊を破って、北京の人々の心胆を大いに寒からしめている。よってここで再び
曽国藩、李鴻章の出番となって、東西に別れた捻軍のうち、東捻軍に対することになった。そして宗棠のほうは、
陝西省に侵入してきた西捻軍討伐を任せられた、といった具合だったのである。
このような折、味方の足を引っ張る役立たずがいては、
「確かに具合が悪いですからな」
「致し方ありません。解任もやむなし、と我らも思います」
宗棠の言葉に、文祥は大きくため息を着いた。
彼の目から見ても、アヘン戦争から続く一連の戦いにおいて、同胞である「異民族」はあまり役に立っていない。
反って漢民族の力に縋る結果になってしまっているから、
(返す言葉も無い。いずれ我らに代わって、漢民族が再びこの地を支配することになったとしても、その力を借りるしかない)
この西太后お気に入りの政治家は、少し俯いてほろ苦く笑った。すると、
「兵は神速を尊ぶ」
少し沈んだ空気を振り払うように宗棠は立ち上がり、
「私にお任せくださったからには、全力で事に当たるつもりでいます。まずは国内で暴れまわる
不届き者退治から。明日にでも皇帝陛下の御前で軍議を開きたいと思いますが」
にこりと笑って、文祥へ片手を差し出したのである。
こうして宗棠は、陝甘総督に就任した。北京に滞在したのはわずか一週間あまりでしかないが、
この間にかつて彼が目をかけていた部下、譚鍾麟と再会している。
「なぜ君が北京にいるのだ」
と、尋ねる宗棠に、
「貴方をお助けせよということで、文祥殿に呼び出されました。駱殿からも、先生の手足として働くように
言い付かっています。どうぞ先生の思うまま、こき使ってください。いや、もう閣下とお呼びせねばなりませんね」
彼より十歳若い譚鍾麟がニヤリと笑って答えたものだから、
「いや、先生で良い。古くからの知り合いなのだから、そんな君に改まって閣下などと呼ばれると、
尻がなにやらこそばゆくなる」
文祥の好意に深く感謝しながら、さすがに宗棠も照れて苦笑したものだ。
宗棠と文祥が新たな友情を築きつつある間にも、当然ながら捻軍は決してじっとしていない。
東の河南省において、これまた宗棠が目をかけていた武将、劉松山に破れると、彼らは西にある陝西省へ
向きを変えてこちらへやってきた。
劉もまた、それを追撃してこちらへ向かっていると聞き、宗棠は奮い立った。
「劉松山を助けねばならん。彼を助けることで、今なら捻軍を挟撃できる」
こう思うと、若かりし時に劣らず行動は早い。早速、文祥へ慌しい別れを告げ、
「西安を護れ」
彼は西捻軍へ対するため、古くから従っている湖南出身の兵を率いて、陝西へ向かった。
陝西には、先に巡撫に任じられていた同僚、劉蓉もいて、こういった面々が続々と宗棠の配下に加わっている。
劉蓉はかつて太平天国と戦った際、湘軍所持の水軍を焼き払った翼王石達開を、四川大渡河の戦いで
捕らえるという手柄を立てた。同じ敵と戦っていながら、部署が大きく離れていたため、お互いに会うのはこれが初めてである。
しかし、互いに駱秉章の下で戦ったことがある、こちらへやってくるだろう劉松山とも面識がある、
という話で親しみを抱きあった後、
「貴君は数年、ここに住んでいる。よって西安の地理をよくご存知だろう」
戦の最中であるからとその後の挨拶を省き、宗棠は早速、劉蓉に尋ねた。
「このあたりで、最も戦いに適した場所は」
劉蓉も、宗棠の良い噂を駱から飽きるほどに聞かされている。眩しい物がそこにあるかのような目で
新しい上役を見つめながら、
「適した、とはいえぬかもしれませんが、重要な場所であると言える区はあります。?(は)橋区です」
と告げた。
ハ橋区は、陝西省西安市にある市轄区のうちの一つである。陝西省という省自体が中国大陸北部の
中央付近に位置しているため、?橋にも紡織城街道、洪慶街道、紅旗街道といった主要街道の九つが通っていた。
他に軍を通せるほどの道がないため、捻軍に限らず、どんな軍隊でもこれら街道のうち、どれかを使って
攻めてくるに違いない、よって、
「この区を我等が護れるか否かが、西安の命運を決めましょう」
劉蓉が言い切ると、宗棠は深く頷いて、
「なるほど。では、君がやってくれるか」
と言った。
彼の兵は、湖南、つまり中国大陸南部の温暖な気候に慣れた者たちばかりである。曽国藩が心配したように、
寒風吹きぬける中、ほんの一週間ばかりの北京の滞在で、はや体調を崩す者がいた。疲れた兵でもって
敵に当たるのは愚の骨頂である。
「俺が連れてきた兵達の中から、今すぐ使えて、特に頑強な者を提供する。その者どもと、陝西の者たちを
合わせれば、兵力になるだろう」
「はい、それならば」
劉蓉も頷き、早速それらの兵を率いて向かった。
だが、彼は捻軍を少し甘く見ていたらしい。東からは勇猛で知られた劉松山が来るし、自らが率いている兵は
(あの、今臥龍が育てたのだから)
気候に慣れていないといっても、宗棠が育てた屈強な兵士達ばかりである。だから、多少の損害はあっても
破れることはないと思ってしまった。
それに、
(俺にも石達開を捕らえられただけの軍才はある。今臥龍には負けぬ)
劉蓉自身、男の考えることらしく、そういった矜持も無論ある。ただ、石達開を捕らえた折には、
もうすでに太平天国の勢いはかなり衰えていた、だから己にも捕らえられたのかもしれない、ということを
考えなかったのは彼の不幸だったかもしれない。
陝西省へやってきた張宗禹率いる西捻軍は、彼らを迎え撃つのがやり手の左宗棠ではなくて、
その部下だということを知ると、一度彼らの兵の大部分を?橋それぞれの街道に埋伏させてしまった。
そして、劉蓉が通りかかった街道へ、わざとその少数兵を見せて誘ったのである。
敵が少ないのを見て奢った劉蓉の軍隊は、深く考えずにそれらへ襲い掛かり、隠れていた捻軍兵士に叩きのめされた。
古くから、あまりにも使い古されてきた単純な手「埋伏」に、わけもなく引っかかってしまったということだ。
そしてこれにより、宗棠は西安市街への撤退を余儀なくされた。その後を追うように、西捻軍は一気に
西安まで向かってきたのであるから、
「君には軍隊を率いる才能はまるきりない。何を油断していたのか。なぜ事前に物見を出すなりしない」
西安市の城壁内へ逃げ込みながら報告を受けた宗棠は、劉蓉をいつもの調子で口汚く罵った上で、
陝西巡撫の任から解いてしまった。
この中で、譚鍾麟の働きが冷静で目覚しかったのが、唯一の救いだったかもしれない。結局、
包囲される形になった西安市城壁での激しい攻防戦は、翌同治六(一八六七)年になっても続いていたが、
「左先生、いえ、総督閣下、お久しぶりです。お助けすると約しておりましたのに、大変に遅れました。
申し訳ございません」
西捻軍を追いかけてきた劉松山がようやくやってきて、
「山東省では、李殿が東捻軍を包囲して、散々に打ち破ったようです」
白い歯を見せて笑ったように、劉がやってくるとほどなく、張宗禹は西安の包囲を解いた。これは劉が告げたように、
山東省で李鴻章が東捻軍を破ったということも一因である。
張宗禹らがそちらの救出に向かった時期と、劉松山が西安へやってきた時期が一致し、
「結果的に西安の囲みが解けた、そういうことでしょう。私の手柄ではありません」
これも勇猛さを謳われていた、まだ三十四歳の劉は、宗棠が正直に感謝の言葉を告げると、羞みながらそう答えたものだ。
「そう謙遜するものではない。君が来てくれなければ、俺は危うかったのだ」
譚鍾麟、劉松山とも、別れてから実に十年近くが経っている。当時、その顔にあどけなささえ残していたはずの劉を、
「よい男になったものだ」
宗棠がつくづくと見上げて言うと、劉はさらに頬を赤くした。幼さは消えても、素直さはそのまま残ったらしい。
彼の後ろに控えていた、彼に良く似た若者を押し出して、
「私の甥の錦棠です。覚えておいででしょうか。私と共に、先生の下で戦いたいと申しておりましたので、
微力ながら連れ参りました。よろしくご訓育下さい」
「うむ」
言われて、宗棠は錦棠を見やった。
これもまた、まだまだ赤い頬をした、二十歳を出たばかりの青年である。この青年を、
「先生の元でお預かりいただいてよろしいでしょうか。私はこのまま、北京へ向かいたいと思います」
そう告げて、劉松山はそのまま、北京へ向かった。東捻軍救出に向かったはずの西捻軍が、何を思ったか
北京方面へ進軍していたからである。
(恐らくは、我らを避けるために迂回したのだろう)
宗棠が考えたように、西捻軍は西安を通ることを避けた。再び西安を通過しようとすれば、今度こそ宗棠自身が
出てくるに違いなく、そうなれば捻軍壊滅の危機に陥りかねない。
そうなる前に、
(東のヤツらと合流すれば、態勢を立て直せる)
張宗禹は思い、北京は通過しただけで山西から直隷省に入った。それを追った劉松山も、そこを護っていた
李鴻章と共に河南、直隷両省で激戦を繰り広げるのだが、その件はひとまず置く。

to be continued…


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