沙ニ抗ス 9



そんな彼を、たってと請うて、曽国藩は自分の帷幕に加えた。
李鴻章はその後、自分の団練を曽の湘勇(湘軍のこと。当時は曽が組織していた義勇軍を民間ではこう呼んだ)
に倣い、己の故郷にちなんで淮勇とし、蘇州や常州などで大いに戦ったのだが、これも宗棠は、
「所詮は大将(曽国藩)の猿真似だ。優等生には得てして独自性がないものさ」
と、片付けてしまっている。そう考えたのは彼だけではなく、他にもいたかもしれないが、どちらにしても
いい年をした人間が口に出すべき言葉ではない。
しかし、口に出した後のことを考えず、また、そうすることで自分への評価へ跳ね返ってくるということを
十分承知の上で、言わずもがなの一言を言ってしまうのが宗棠なのだ。当然ながら、先の言葉は
李の耳にも入ってしまっている。
繰り返すが、深く付き合えば、彼にはあくまで悪気は無く、思ったままを言い散らかしているに
過ぎないということが分かる。しかしあいにく人はそこまで暇ではない。誰しも評判の悪い上司と
一緒には働きたくなかろうし、ましてや酷評された本人である李鴻章なら尚更であろう。
福州における船政局、つまり海軍の母体を創設するに当たって、李は曽の依頼で宗棠へ力を
貸そうとしたことがあるが、
「あの御仁だけはどうにも…ご自身の構想で頭が一杯で、他の意見を容れる隙がこれっぽちもないようで。
ご自身の手足になる人間だけを欲しているように見えます」
いくら宗棠へ献策しても、「若輩者が何を言うか。まずはフランスに学べ」とばかりに鼻先で
あしらわれるのだと、苦笑混じりに曽へ向かって嘆いたことがある。
(自分がなれなかった進士というものに、よほどのコンプレックスを持っているらしい。俺の
意見を容れないのも、俺が彼より若いからというだけではなくて、進士だからだろう)
と、先に宗棠が放った一言のこともあって、
(なるほど、頭の回転は速いし学もある。出来る人物ではあるが、くだらん嫉妬で目を曇らせている。
まことに尻の穴の狭い御仁だ)
若かりし日の李はそういった方向で宗棠を誤解してしまった。よって李鴻章もやはり、宗棠へ
良い感情を抱いているとは言えぬ。
同じように曽国藩という大将を頂いて、
「西欧列強の科学文明を積極的に取り入れ、自国の強化を図る」
という思想―つまりこれが後世、洋務運動と呼ばれるものになる―同じ思想を抱いていながら、
個性の強い両者の目指すところは、まるで違っていた。しかし、後ほどこの二人が清朝廷において
政治的に対立するとは、この時点では誰も想像しなかっただろう。
ともあれ、そんなこんなで曽国藩は、宗棠の思うような海軍に発展させられる人間を見つけるには
時間がかかる、と言ったのである。
たとえ後続の人間が見つかって、その人間がどのように尽力しても、宗棠は悪気ではなく必ず
文句を言うに違いないから、彼が構想していた海軍建設は、最悪このまま頓挫するかもしれない。
「まことに心残りです」
そのことを自分でも承知しているだろう宗棠が短く言うのへ、
(李のほうが年上であったら、どうであったか。李なら案外、コイツを使いこなせたかもしれないが)
そう思いながら、それ以上は何も言わずに曽も頷いて返した。いずれが年上でも、それに相手が例え
誰であっても、宗棠の態度は変わるまい。
これは後日のことながら、曽にはその帷幕に左宗棠、李鴻章そのほか、錚々たる後継者がいたのに対し、
『清史稿』左宗棠伝の、
「宗棠ハ鋒頴凛々トシテ敵ニ向カウ。士論ココヲ以ッテ益々コレニ附ク。然レドモ好ンデ自ラ矜伐ス。
故ニソノ門ヨリ出ズル者、成徳達材ハ国藩ノ盛ンナルニ及バズ」
という記述からも窺い知れるように、結果的に、宗棠のもとに優秀な人材が集まってくることは
絶えてなかった。あげて頑固すぎ、強気すぎた彼の性格が大元の原因である。
ともかくも、こうして故郷一帯を護ること十数年あまり、左宗棠は、いよいよ皇帝の膝元である
北京へ向かうことになった。
宗棠にとっては、まさに見たこともない別国だ。漢民族ではない異民族が支配しているので言語も少し違うし、
同様に人々の性情も違うらしいと聞いているが、
(同じ清人同士だ。恐れることはなかろう。俺は誠意で持って事に当たるのみ)
鬢のほとんどが白くなっても、まだ見ぬ北京の空へ向かって、彼の意気はますます盛んで
あった。

 四 春風、玉門ニ渡ル

南のほうで、太平天国がようよう衰える兆しを見せ始めていた頃、北のほうでは未だに農民反乱軍、
捻匪が暴れまわっていた。これは、「太平天国を恐れて団錬を組織し、防衛した漢人」を恐れて
武装した回民が背後にいたせいもあって、かなりの勢力を誇っている。
回民は回族とも呼ばれる。イスラム教を信仰する、中国において少数の、しかし最大のムスリム民族で、
甘粛省や陝西省など、主に中国大陸の西部に居住していた。
漢民族と姿形はさほど変わらず、漢民族となんとなく共に暮らしながら、生活習慣はイスラムの教えに
のっとっていた。よって、考え方にも違いが出るのは当たり前で、
「武装した漢人は、勢いに乗ってこちらへも略奪を行いに来るのではないか…」
もともと、略奪したりされたりを繰り返していた両民族であるから、回族がそう勘違いして、武装したのだと
考えても不自然ではない。要するに自衛本能が働いたのだろう。
相手が武装したのだから、こちらもいつ攻め込まれるか分からない。両者の間に信頼がそもそもないのだから、
清側に回族を攻めるつもりはなくても、回族側にはそう受け取られてしまうし、回族側が武装したのだから
清帝国のほうも危険だというわけで、両者は勝手にお互いを誤解したまま、対立の溝を深めたものと見える。
そういった意味で、太平天国の乱は、回民にはまたとない好機だった。彼らが太平天国とほぼ同時期を
狙って蜂起したものだから、清帝国が太平天国側の処置にまごまごしている間に、渭水流域の陝西中部にまで
一気に進出してきたのである。それに困窮した清帝国内の農民達が加わって、大規模な反乱になってしまったのだ。
今回、左宗棠が北京へ呼び出されたのは、太平天国を滅ぼした曽国藩の片腕だからであり、何よりも、
「わが王朝への忠誠心は類を見ません」
当時、軍機大臣を務めていた文祥が、そう申し述べていたせいもあったかもしれない。
軍機大臣、軍部機密大臣といえばいいだろうか。軍隊に関する仕事のうち、主に皇帝が軍に対して発する
命令文などの作成や、情報収集を担当していた役職であり、通常六、七人で構成されている。軍部に
所属していながら、直接軍隊を動かすことはなく、どちらかというと文官に近い役割を担っていた。
熱河へ咸豊帝を逃がした際、同僚の桂良と共に、後に残った恭親王を助けて西欧列強と和睦の交渉を
行ったのが文祥である。旧満州出身の彼の人となりは清廉潔白で勤勉、その生活は質素そのものであると、
なかなかに周囲の評判は良い。
もっとも、文祥はただ清廉潔白なだけの人間ではない。咸豊帝崩御後すぐに起きた、いわゆる辛酉政変では、
西太后を助けて反対派を一掃した上でその子の同治帝を立て、
「幼い帝には、母后の助けが必要です。母君が摂政になられるべきです」
と、垂簾聴政を奏上して西太后の機嫌をとっている。こうすることで、彼女の粛清の嵐をちゃっかりと避けて
政権に居座り続けたのだから、相当にやり手で食えぬ一面も持っていたと言えよう。
そんな文祥は、曽国藩や宗棠と同じ洋務運動派である。特に宗棠に対しては、まだ会ったこともないのに、
「彼はいい。きっと我らの役に立ってくれる」
噂を聞いてそんな風に大きな期待を抱き続けるうち、政府中枢にいる役人の中で一番の左宗棠贔屓になっていた。
(何よりも、先帝を好きであるところがいい)
それに彼も、若くして死んだ咸豊帝へ限り無い同情を抱いている。得てして、同じような感傷を抱いていると
いうだけで、人の心の天秤はより好意へと傾くものだ。
また、生前は不仲で、その存在を疎ましく思っていた咸豊帝から遠ざけられていた西太后の手前、
大きな声ではいえないが、
(左宗棠は清朝廷に忠誠を誓っているのではなく、咸豊帝に限りない恩と義理を感じている、そのために動くのだ)
とも、文は冷静に思っている。
もともと清も、漢民族にとっては野蛮な国の一つだった金の女真族が、明の後を襲って建てた国だ。
中華を治める便宜上、制度は明のものを踏襲して、支配階級となった漢民族に親しまれやすいようにはしたが、
建国二百年余りが過ぎた今でも、
(漢民族は、心の底から我ら異民族を好きなわけではない)
と、これは瓜爾佳(グワルギャ)氏出身の彼だけではなくて、朝廷中枢にいた異民族出身者全員の、共通の考えである。
そんな中で、清の皇帝に好意を抱く漢民族は、まさに稀有な貴重品であり、
「お越しを待ちかねておりました」
よって、宗棠が到着した際の彼を含む政府官僚たちの出迎えは、大変に丁重なものだった。
時に、同治六(一八六六)年十一月、北京ではそろそろ初霜を見ようか、という季節である。皮膚へきりきりと
鋭い穴を開けられそうな湿り気のない強い風に吹かれて、節くれだった両手で思わずごしごしと己が頬を擦った宗棠は、
(おやおや、これはこれは)
紫禁城の正面玄関にあたる午門にまで出た百官が、それこそずらりと並んで頭を下げるのを見て、大いに面食らったものだ。
この午門に至るには、後世、毛沢東が中華人民共和国の成立を宣言した天安門をくぐって左右に社稷壇及び
太妓を見、さらにその次の端門を抜けなければならない。そうして到着したこの門からがやっと宮殿内であり、
(俺はやはり田舎者だった)
それだけでも、宗棠この城の広さに圧倒されている。
「?浙総督には」
迎えにでた文祥は、前の官職名で彼を呼び、丸い帽子を被った頭を深々と下げた。
「すぐにでも賊の討伐に出かけて頂きたいところですが、まずは旅の汚れを落とされたがよい。これより、
皇帝陛下と母后お二人にお引き合わせいたしましょう」
「…よろしくお願い申し上げます」
穏やかな声に、いささかホッとしながら、宗棠もまた彼へ向かって頭を下げ、
(これは懐かしい)
改めて文祥をつくづくと見、ふと首を傾げて目を細めた。
繰り返し述べるが、文祥の先祖は異民族である。大陸北部の満州にいついているうち、漢民族とも交わって、
いつしかその血は漢民族の血に凌駕されてしまったのだろうか、
(胡のヤツに似ている)
己自身よりも六歳年下ではあるが、穏やかなその風貌に亡き友の面影を見出して、
(存外、上手くやれるかもしれん)
理解者がいないと己の意思が上手く周囲に伝わらない宗棠は、その点でも胸を撫で下ろしながら、相変わらずの自分に苦笑した。
「初めて拝見するが、まことに壮大なものですな」
「ははは、そもそも、われわれが造ったものではないのだが」
そして彼は、文祥に導かれるまま、乗っていた馬から降りて歩き始める。素直な宗棠の感慨に、文祥は好意的な笑い声を上げ、
「この午門にて、我ら百官、毎朝午前四時に太和殿へ向かいまして、遥拝する慣わしで」
「毎朝ですか」
コの字型に両脇がせり出した、独特の形をしているこの門を見上げながら宗棠が言うと、
「左様、毎朝。その他にも」
文祥は頷いて、
「この門前において、罪人どもへ百叩きなどの軽い刑を執行することもあります」
と、そこで掌を翻して前方の大きな門を指し、
「あちらが太和門。その奥に見えるのが太和殿。それを通り抜けて左手に折れた養心殿にて、皇帝陛下と
ご母堂殿下は貴殿の到着を待っておられる」
綺麗に敷き詰められた石畳の上をゆるゆると踏みながら、にこやかに宗棠を振り返る。
城内には人工的に作られた小川(御河)が城の内部をぐるりと囲むように流れており、その川には金水橋と
呼ばれた橋までかけられている。
ご存知だろうが、と付け加えた上で、
「ご覧のように、太和門の前を東へ横切って、皇太子殿下が暮らす文華殿へと流れていくように設計されています。
あいにくと今は戦争のせいで修復中ですが」
文祥がそう説明するのを、宗棠はいちいち頷いて聞いていた。
彼が見た宮殿の内部は、彼が若い頃に勉強し、教養のひとつとして聞き知っている明代の様子とさほど変わらず、
(明代に造られたこの宮殿を、我ら漢民族が野蛮視していた異民族が、かくも丁寧に使っているとは思いもよらなかった)
心の中で、密かに女真族を見直したものだ。
「円明園へも機会があればぜひご案内したいが、あいにくと先だっての戦争で、完膚なきまでに破壊されてしまいまして」
「アア」
話し続ける文祥へ、宗棠も顎を引く。
アロー戦争において北京へ攻め入ってきたイギリス・フランスが、皇帝がいなくなった北京において略奪の限りを
尽くしたらしいことは、当然彼も知っていた。特に名高い庭園であった円明園へ押し入った際には、
その建物内にあった工芸品や織物などを、
「引き裂き、壊し、可能な限り略奪した」
と、イギリス側のエルギン伯が日記に残しているほどだから、彼らが行った破壊活動は、味方同士でも
目に余るものであったに違いない。
帰国後、両者は互いに互いの略奪や破壊行為を非難しあったというが、第三者に言わせればどっちもどっち、
というところであろう。その折に欧州へ持ち去られてしまった美術品を民間企業が買い戻すなど、中国が
本格的にその修復活動に乗り出したのは、つい最近(二〇〇七年)のことだ。
宗棠が北京を訪れたのは、アロー戦争が終結してからほんの五年後であるから、当時はまだ傷跡も大層
生々しかったに違いない。破壊された当時の西洋館などの写真を見ても、いかにイギリスとフランスのやり方が
徹底的であったかが用意に分かるのである。
「落ち着けば、ぜひ」
「はい、ぜひ」
二人はそう言って顔を見合わせ、同時ににこりと笑った。
「さても、そのイギリスとフランスですが」
太和門をくぐると、ようやくその先に太和殿が見えてくる。三段重ねの巨大な台座の上に建てられた、幅六十三メートル、
奥行き三十三メートル、高さが三十五メートルのこの中国最大の木造建築物は、近づけば近づくほど、ただ巨大なだけではない
何かを伴って宗棠の胸に迫った。
(かつて、俺はここを目指していた)
それを見上げながら、
(そして俺は、今、これを護るべくここへ来た)
ごく自然に思い、「イギリスとフランス、ですか」鸚鵡返しにしながら頷く宗棠へ、
「貴殿は、どう思われますか」
文祥は熱を持って問いかけた。
「どう、とは」
「貴殿もご存知だろうが、魏殿が記された海国図志、私も何度も拝読しました」
「…ああ、なるほど」
故林則徐のブレーンだった人物の名が文祥の口から飛び出して、宗棠は再び懐かしい目をした。
彼の若い頃の師、賀長齢とも親交があったと聞いているから、彼らが亡くなってしまった今でも、自分にとっては
満更他人でもないような気がするのだ。
「ですから、西洋に学ぶべきところは我が国もくだらん矜持を捨て、貪欲に学ぶべきである。私もまた、
亡き林大臣の考えに、深く共鳴するものです」
「ふむ、それは俺…私にも心強い」
「しかし、太平天国の鎮圧にも手を貸してくれながら、一方では呵責のない略奪をする…夷人のすることは良く分かりません」
文祥が微苦笑を漏らすと、宗棠もまた「そうですな」と苦笑して頷く。
太平天国の乱の鎮圧には、宗棠や大将、曽国藩も大いに活躍しているが、最初のうちは太平天国に好感を
抱いていたイギリス、フランスが、太平天国側の態度に失望して清帝国側に協力しなければ、
「もっと乱は続いたでしょうから」
(イギリスやフランスの最新式武器やその他もろもろ、彼らの援助はどうしても必要だった。協力を求めざるを得なかった)
その点は、宗棠も悔しがりながら、素直に認めている。すると文祥も深く頷いて、
「お気をつけて。ご承知であろうが、中央部分は皇帝陛下のみが使われる場所です」
と、注意を促した。
太和殿が乗っている白い三つの台座の真正面には、中央の幅の広い階段を挟んで左右に二つ、計三つの
長い階段が伸びている。
雲と龍の美しい彫刻を施された、従って雲竜階石と呼ばれたレリーフのある中央階段は、皇帝が輿に乗って
上下する所だという。従って、この部分の階段を通った人間は、いかなる理由があろうと死刑にされてしまうのだ。
そう説明しながら一番左の階段へ足をかけようとして、文祥は、そこでぴたりと立ち止まる。
「お聞かせ願いたい」
そして、努めて無難な返事をしようと心がけている宗棠を振り返り、
「貴殿は、わが国にとっての本当の脅威は、何処の国だと思われますか」
ずばりとそう問いただした。
「いや、それは、今この場所では」
「うむ。いや、確かに。これは失敬」
さすがに宗棠がためらうのを見て、文祥も年甲斐もなく熱くなってしまったのが恥じられたらしい。
(私が宗棠へ好意を抱いているほど、宗棠は私へ好意を抱いてはおらぬだろうに)
己が勝手に抱く宗棠贔屓の感情が高じて、つい長年の知己であったかのように遠慮なく談じてしまったが、
「初対面の方に、大変無礼であった、お許しください」
「いや、何…かほどまでされずとも」
文祥が頭を下げて丁重に詫びるのへ、慌てて両手を挙げながら、宗棠は内心、
(これは意外に骨がある)
逆に大いに頼もしく思え、ついで、
(やはり北京における「外国人嫌い病」の根は深い。西洋に学ばねばならぬと理性では分かっているはずの
穏やかそうな彼でさえ、やはり頭に血を上らせているではないか)
文祥の態度によって、鋭くそう推察した。同時に、
(初対面の俺に、早速国策を問うとは)
己に好意を寄せてくれている宮廷中枢の役人達の、己に期待するところが、予想外に大きいものであることに気付いたのである。
「このたび、総督におかれましては」
そして文祥は、ゆるゆると石段を上がりながら、
「捻匪討伐をお願いすることになります。太平天国軍掃討で見せられた手腕を、ぜひとも我らにもお示し下さるよう」
言って、正面の大きな扉を開けた。途端、目に飛び込んでくるきらびやかな内装に、思わず息を呑んだ宗棠を見て
わずかに微笑みながら、彼は太和殿内部を通り抜ける。
太和殿と変わらぬほどに贅を尽くした養心殿内部へと案内しつつ、
「皇帝陛下、及び両皇太后殿下、お待ちかね。どうぞ失礼のなきよう」
文祥は再び掌を上へ向け、奥を指した。宗棠が目を眇めると、そちらにはさらに光り輝く大きな玉座があり、玉座の左右には、
「…東太后及び西太后殿下におわす」
御簾が下がっている後ろに人の気配を感じて、刹那、怪訝な顔をした宗棠は、文祥が耳元に口を寄せて囁くのへ、
すぐに納得して頷いた。
(なるほど。これが噂に聞く垂簾聴政か)
皇帝がまだ幼いか、病気がちなどの理由のため、形式上の摂政としてその母、妻が代わりに政治を執り行うことが
垂簾聴政であり、有名な例として漢の高祖の妻呂后と、唐代、一時的に帝位に就いた武則天が挙げられる。
その先例があったため、同治帝即位時における文祥の提案も、非常識とはされなかったのだろう。
「お召しにより、湖南の今臥龍左宗棠、参上致しました」
玉座に近づくと、文祥は床へ膝を就き、さらに額を床へつけて上奏した。
臣下は玉座の間において、立ったまま皇帝に物申すことは許されていない。よって、膝をついたまま玉座ににじり寄り、
床に叩頭するような形で言上するわけで、
「ご苦労」
それに答える声は、当然ながら正面にちょこなんと座っている幼い皇帝のものではなく、女性のものである。
しかし、その声が一つしか聞こえてこないことに気付き、さらには、
(これが悪女の声か)
その声に張りばかりではなく、意外にも甘い響きが含まれていることに、宗棠は少なからず驚いていた。
「そなたが、今臥龍ですか」
簾の向こうから、その声は続けて響く。宗棠もまた、「はっ」と答えながら、ごく自然に床へ叩頭していた。
叩頭しながらも、
(やはり舞台効果とは大したものだ)
と、心の中では彼一流のひねくれ精神を忘れてはいない。あの大仰な門をくぐり、壮麗な構造物を通った後で、
とどめのようにきらびやかな宮殿に案内されたなら、
(たとえ下げるに値せぬ相手でも、なあ)
誰しも頭が自然に下がってしまうかもしれぬ。
ことに、今彼が頭を下げているのは、彼が内心で密かに「女ごときが表の世界に」と軽蔑していた、年齢的には
彼の娘ともまごう相手である。それなのに、
「このたび、そなたを陝甘総督に任命する。精出して賊の征伐に勤しまれるよう」
簾越しとは言いながら、女にしては張りのある、よく通る声で言われると、雷に打たれたような畏怖を感じてしまうのは
不思議なことだ。
「皇帝陛下の御為、謹んでお受け致します」
言われて、宗棠は再び床に額をつけながら答えた。

to be continued…


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