沙ニ抗ス 8



胡林翼が亡くなったさらにその三年後には、宗棠は浙江、福建省を兼ねた?浙総督に昇格して、
イギリス、フランスの協力をも得ながら、太平天国軍から杭州を奪回している。五十歳で
「たかが挙人風情」にしては異例の出世を遂げたわけだが、
「ああ、虚しいよ。せめて二人にはもう三年、生きていて欲しかった」
宗棠はうかない顔をして、胡のほかにいた、数少ない親しい友に繰り返し零した。同年八月二十二日
(中国暦では七月十七日)、彼のもう一人恩人である咸豊帝が、逃亡先の熱河において、まだ三十歳そこらの
若さで亡くなってしまっているからだ。
しかしとにもかくにも、咸豊帝の死後の同治三(一八六四)年七月、太平天国内部で「天京事変」の
ゴタゴタがまだ続いていたのに乗じて、清政府側はようやく乱を平定した。
宗棠が咸豊帝にもう三年生きていて欲しかったと言ったのは、このことによる。もちろん、政府軍が
太平天国を討伐したといっても、実際は曽国藩とその幕下にある左宗棠らの働きによるところがほとんどで、
彼らの名は今や、中国大陸中に轟き渡っているといっても過言ではない。
「捻匪の討伐を行え」
と、清朝から宗棠へ直々に依頼が来たのも、それまでの活躍が物を言ったのだろう。
咸豊帝崩御後は、慈禧皇太后すなわち西太后の腹になる載淳が即位して、同治帝と呼ばれている。これについては、
恭親王を含む故咸豊帝の異母弟その他、皇帝に近しい一族内での争いがあったわけだが、
「俺には関係ないことさね」
いよいよ彼が北京へ出発し、皇帝へ拝謁を願うとあって、
「俺は、与えられた任務をただこなすだけですよ」
福建省総督府内の己に与えられていた一室で、彼を見送るためにやってきたそれらの人々に向かい、
宗棠はそう言って嘯いた。
今回の任務は、
(つまりは元農民反乱軍討伐で、性質的には太平天国を掃討するのと似ている)
己が出たならすぐに片がつく、と、彼は思っている。
太平天国討伐の功で己が侯爵となれたのは、宗棠の活躍のおかげでもあるからというわけで、彼を朝廷に
売り出した当の本人である曽国藩は、
「ああ、君ならやる。私は信じているが」
相変わらずの部下の様子に苦笑した。彼ももちろん、北京で起こった政権交代劇の経緯と、今、実際に
政権を握っているのは幼い同治帝ではなく、その母である西太后であることを知っている。
このたび、
「戦のついでだから」
ということを口実に、太平天国が滅亡したばかりの混乱の中、忙しいはずの曽「侯爵」がわざわざ彼を訪ねてきたのは、
「くれぐれも、皇帝一族や側近どもに失礼のないようにせねばならん。君にはそういった配慮が根本から欠けているからね」
ひとえにそのことが心配だったからなのだ。
もっとハッキリ言うなら、曽国藩が特に憂慮しているのは、
「女なぞに大の男がへいこら出来るか」
と、宗棠が言い出しはしないかということである。
古来、中国大陸では女性の地位は男性と比べ物にならないくらい低い。よって、たまに呂后や則天武后などの
個性のきつい、男勝りの女性が現れたりすると、それらの女性はすぐに悪女呼ばわりされてしまうのだが、
(あの女にもそのきらいが濃厚にある)
北京からはるか南にいながら、曽は西太后に、呂后、則天武后の二人と同じ匂いを嗅ぎ取っていた。自分の夫である
咸豊帝が亡くなって、その死を嘆くどころか、恭親王と共謀して己の腹を痛めた子を帝位につけ、その他にも
大勢いた皇帝候補の親王たちを、それこそ夫の遺体が冷めぬ間に、一気に片付けたほどの女なのだ。と、
少なくとも清国内にはそう伝わっている。
彼もまた、この時代の常識人であったから、本音は宗棠と同様、「女なぞに…」といったところであろう。
あまりにも素早い皇室関係者の粛清、味方であるはずの恭親王に対してさえも、彼が頭を出そうとするのを
巧みに押さえつける手腕…当時の宮廷関係者のほとんどが西太后のことを「悪女の再来」と思ったに違いない。
しかし、その「女ごとき」が、今は実質上、政権を握りつつあるのである。
「今の権力者が誰なのか、よくよく見極めて慎重に動いたがよい。でないと君の首はすぐにでも胴体を離れるぞ」
つまり、はっきりと口に出しては言えないが、西太后の機嫌を主に取り結べ、ということで、そこまで
曽が述べるのは、故胡林翼ほどとはいかないまでも、宗棠へ好意と信頼を寄せてくれるからである。
それをありがたいと思いつつも、
「それも重々承知しています」
宗棠は、ほろ苦い笑いを漏らした。自国の歴史と、朝廷の中において、役人どもが必ずといっていいほど
醸し出す腐敗臭の危険さは、繰り返し勉強して熟知しているし、もちろん今回のクーデターについても知らされている。
「それについても、いちいちつっかかってはならんよ。君が述べる意見はいつでも正論だと私自身は
思っているが、今回ばかりは全く見知らぬ土地へ行くのだから、勝手も分からないだろう。何事も
中枢役人どもの協力を得なければ、実行するのは難しいかもしれん」
当時の感覚としては、中国大陸の南から北への移動はまさに別の国へ行くようなものだ。
この物語の最初でも述べたが、中国大陸南部は温暖湿潤で、昼夜の寒暖の差は比較的に少ない。逆に
北京は内陸で、吹く風にはほとんど湿り気もなく、朝晩が大変に冷える。
気候も風土もまるきり違っているのだから、その折の曽の心配も決して非現実的なものではないのだ。
加えて、宗棠ももう決して若くはない。初老の身体が、気候の変化にどれだけついてゆけるか。
「ああ、そうですな」
宗棠は、曽が心配して繰り返す言葉に一応は頷いた。曽も(聡明な彼には要らざる繰言)と思いながらも心配でならず、
「君には難しいだろうが、せいぜい糞役人どもの機嫌を取り結ぶことだ」
(俺が庇ってやらねばどうしようもない)
と、つい、そう口出しせずにはいられないのだ。
曽国藩も宗棠の才能についてではなく、五十歳になっても相変わらずの、世渡りと人間付き合いの下手さを
心配している。宗棠と一度でも深く知り合った人間は、意外に彼が憎めない人物であるのが分かるから、
宗棠に鬱陶しがられながらも、どうしても世話を焼いてしまうのだが、
(そこまで行くのが大変だ)
理解するまでにかかった時間を思い出して、曽はゲッソリしながらため息を着いた。
この、変に頑固で、いささか偏った正義感と侠気心に溢れていて、偏屈であるが大変に単純という複雑な
性格を持った宗棠という人間を、陰湿な謀をめぐらすという点では天下一品の政府官僚たちが、果たして
まっとうに理解してくれるだろうか。誰もが亡くなった胡林翼のような人間ばかりではない。自分が
そうであったように、宗棠という人間を真に理解するのには、いささかの労力が要求されるのだ。
これまでの宗棠の活躍が物を言って、宮廷の中でもまだ一面識もない彼を熱く支持する人間が
多くいるらしいのは心強いが、
「それらの人間まで、敵に回すようなことがあってはならん。それが出来なければ、すぐにでも
ここへまた戻って来れば良い。君には私だけではなく、駱殿(かつての宗棠の上司、駱秉章。
この当時は四川総督に任じられていた)もいる。君一人だけで戦っているのではないということを忘れるな」
「そのことなら、もうこれ以上口を酸っぱくして言われずとも大丈夫です。せいぜい肝に銘じておきましょう」
何度も言われると、「日頃から仲が悪い者同士」と周囲のものに見られているように、さすがに
ムッとしてしまう。宗棠は仏頂面になってそっぽを向き、馬に乗るために足早に厩舎へ向かった。
(この癖が北京でも、なるべく出なければ良いのだが)
その後を、曽は苦笑しながら追いかけて、
「君の家族は、私が責任を持って面倒を見よう。私も忙しい身だが、私の代わりに信頼できる人物を
派遣させる。決して君に心配はかけさせぬよ」
言うと、宗棠はやっと足を止め、この上司の顔をまじまじと見つめた。
(家族、か)
思えば己の才能を買われて世に出て以来、彼は己の家族を一度も顧みたことはない。たまたま以前、彼を
慕って長男の左孝威が尋ねてきたことがあったが、
「国務と私事は別である。だから息子とはいえ会うわけにはいかない」
と言って追い返しさえしていたから、
(嫁や子等のほうが、不実な俺のことなど忘れているだろうよ)
そう思い、宗棠は無造作に伸ばした胡麻塩髭の中で苦笑を噛み殺した。
忙しい仕事の合間に、ちょくちょく家には帰るようにはしているが、その期間もせいぜい二晩か三晩だけで、
再び慌しく勤務に戻る。そのたびに妻を身ごもらせて、今では合計五人の子持ちになったが、何のことはない、
子作りのために帰宅していたようなものだ。
最初に出来た子以外は全員男子で、その点では立派に家長としての役割の一つを果たしていると言えなくもないし、
正規の官位をもらっているから、経済的にも全く不自由していない。彼の家族に定期的に送っている金も、
塾勤めをしている頃の倍以上になった。従って子が多いと言っても、家族の暮らし向きは格段に楽になっている。
しかし、
(それだけでは夫であり、父であるとは胸を張って言えぬだろう)
そう思ってこみ上げる苦笑を噛み殺しながら、
「よろしくお願いします」
宗棠は曽国藩に深々と頭を下げた。己の家族のことまで頼めるのは、彼の唯一無二の親友であった胡林翼が
亡くなって以来、彼の性癖をよく飲み込んでいる数少ない人間の一人であるこの曽しかいない。
しかし宗棠にとって気がかりなことは、あくまで家族以外のことで、
「海軍のことを、誰ぞに頼めませんか。フランスとの交渉も出来る人間がいれば」
「うむ」
宗棠が言うと、曽もまた難しい顔をし、高く大きな鼻の穴から息を吐き出した。
宗棠が言っているのは、?浙総督になって数年、東南における太平天国の残党を掃討する合間に、福建において
彼が手がけていた海軍建設のことである。
太平天国が滅亡した同治三(一八六四)年七月から、かねて彼が言っていたようにフランスの協力も取り付けて、
ようやく本腰を入れることが出来るようになった。フランスから技師を招いて、船も作りかけている。なんとか
形にはなってきたか、というところでの今回のお召しである。当たり前だが、実戦に使えるほどには
まだまるきり達していない。
何においても言えることだが、せっかく物を創っても、それを継承させ、発展させる人間が後にいなければ
意味がないのだ。故胡林翼が心配していたのも実にこの点で、
「煮えかけた鍋を放ったらかしにするようなものです。大変に気持ちが悪い」
「よく分かるよ」
曽もまた頷いて、再び吸い込んだ息を大きく吐き出す。その拍子に、手入れを怠った鼻毛がちろりと覗いて、
それが少しくすぐったかったらしい。無造作にその鼻毛を指で摘んで抜きながら、
「それについてはこちらも考えておく。しかし人選が難しいので、時間がかかることを承知しておいて欲しい」
(というよりも、見つからないかもしれん。その可能性のほうが高いな)
告げて、この髭と眉の濃い、したがっていささか毛深い侯爵は思い、抜いた鼻毛を指先でピンと弾き飛ばした。
彼が「人選が難しい」と言ったのには、何も彼の元に大した人間がいないというわけではない。むしろ
「自分を使ってくれ」と売り込みに来る人間のほうが多く、その選り分けに四苦八苦しているくらいなのだ。
問題は、宗棠が己自身の後継者となる人間について、厳しい条件を付け過ぎるために、人選が困難だという一点につきる。
宗棠は未だに「国事に自分の血縁者を参加させると、かならず私情が出る。ゆえに自分の帷幕には加えない」と
頑固に主張している。曽国藩に言わせれば、その息子が訪ねてきた折にでも息子を訓育し、後継者にしてしまえば
良かったのだが、そんな偏屈な宗棠であるから、彼の下につこうとする奇特な人間は、はっきり言うとほとんどいない。
(敢えて言うなら、李か)
海軍、と言われて、まず曽の頭に浮かんだのは、彼の後継者の中で最も年若く、その割に学も深い
李鴻章のことだった。これは上海で後の淮軍派軍隊、「北洋軍」なるものを、現在構築しかけているところである。
(だが、たとえ李でも、この頑固者は首を縦にふるまい。李のほうでも、あちらから願い下げだと
言ってくるに違いない。乃公出ずんばとはよく言ったものだ)
性格的にあまりにも対極的な二人を思い浮かべて、彼はわずかに苦笑しながら首を振った。
李鴻章は、宗棠が何よりも嫌いな―と、曽国藩は勝手に推測している―エリート、進士である。彼らよりも
一回り以上年下で、まだ四十歳には間があるというのに、既に曽の推挙で江蘇巡撫に任じられており、彼ら
二人ほどではないにしても、太平天国討伐において重要な拠点のひとつであった上海を護りきるなど、
かなりの功績を挙げているのだ。加えて人となりも、古典文学を深く研究したせいもあってか、少なくとも
表面上は宗棠よりも温和であり、人とうまくやるコツというものを知っている。
二十四歳で科挙試験に合格し、そのまま政府中枢、上の地位を目指すことも可能なほどの優等生であったが、
「北京に引っ込んでいては、国は護れない」
と言って、太平天国討伐のために自ら団練(民間義勇軍)を組織したところなどは、宗棠に通じるものがあるかもしれない。



to be continued…


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