沙ニ抗ス 7



実はこの間、総大将である曽国藩のほうの戦いは、決して上手くいっているとは
言えない。
北京へ向かったはずの太平天国軍が、清側モンゴル人将軍センゲリンチンに敗れて反転、
再び南下してきたのを迎撃している最中だったのだ。
曽国藩も団練、つまり私的な義勇軍を組織して戦っていることは先に述べた。後に湘軍と呼ばれた
その軍隊の強さは、堕落してしまった清政府軍を圧倒するほどだったという。しかしその湘軍でさえ
幾度となく敗戦して、曽も密かに自殺さえ図ったことが何度かあるのだ。それをようよう盛り返して
一息ついた、といった状況だったのである。
これは決して曽国藩の戦い方が拙く、宗棠が上手であったというわけではない。太平天国軍が湖南よりも
湖北省をより激しく攻めたためである。敵が北のほうから向かってきたのだから、湖北と湖南で
北に位置しているほうが激戦になるのは当たり前で、しかしそんな状況でも、
「よく分かった。君の言うように私からも朝廷へは申し添えよう」
曽国藩は勇猛さを謳われた湘軍の親分らしく、そう答えている。情の面において湖南は故郷であるし、
作戦の面においても、左宗棠の見事な働きを失うとなると、自分にとって大いに痛手であることには
変わりはない。
よって、曽は早速朝廷へ上奏した。政府軍よりも強い軍隊を後ろに持ち、実際に太平天国側
も恐れている人物の言うことであるから、清朝廷としても無視できない。それに、ここで
曽に臍を曲げられると、太平天国軍が再びなだれを打って北へ向かってくるだろうことは、
いくら軍の事に疎くても分かる。
そればかりか、朝廷中枢にいる御史で、近隣の江蘇省出身である潘祖蔭という者も、
「天下ハ一日トシテ湖南ナカルベカラズ、湖南ハ一日トシテ左宗棠ナカルベカラズ」
この国に湖南がない、などということは一日でもあってはならず、また、湖南に宗棠がいない
などということは一日でもあってはならない、と言い切った。
この時まだ三十歳という若さだった潘は、二十二歳で三番目の成績を修めて科挙に合格した
エリート学者である。また、その祖父も一番の成績で進士試験に合格しているという、
まさに秀才の家系だった。早くからその才能を買われて政府の中央にいたのだから、
「たたき上げ」の宗棠には実際にはまだ一度も会ったことはない。
しかし、会ったこともない人間までもが、ここまで宗棠を高く買っているのである。したがって、
「引き続き、湖南方面を護るように伝えよ」
という咸豊帝の直々の言葉で、この件は即座に不問に付された。また、これで宗棠の名は政府側でなく、
太平天国側にもさらに広く知られることになったのである。
また、咸豊帝は、
「曽国藩の元へ赴き、彼の帷幕に加わるように言え」
と命じてもいる。皇帝自身も、周りに言われたばかりではなく、宗棠の実績を大いに買ったのだろう。
これによって、宗棠は再び咸豊帝直々のお墨付きをもらったことになり、咸豊十(一八六〇)年内に、
当時太平天国討伐大将として両江総督に任じられていた曽国藩の帷幕に加えられた。
「先生のご活躍をお祈りしています」
駱のみならず、その帷幕で知り合った若き武将、譚鍾麟や劉松山、そして文官向きではあったが、
宗棠の博識にすっかり傾倒してしまっていた楊昌濬といった面々は、彼との別れを心から惜しんだ。
三人とも宗棠が日頃から目をかけていた人物で、特に譚鍾麟や劉松山、二人の方は、すぐに部下を
怒鳴り散らす宗棠の隠れた暖かさ、といったものを感じ取っていたから、
「いつなりと先生をお助けしに参ります」
素直に告げて宗棠を感激させたものだ。
さて、早くから曽の元にいたかつての友、胡林翼は、宗棠がついにやってくると聞き、今か今かと
その到着を待っていたらしい。その当時、曽国藩の本陣は、激戦の最中の江蘇省にあったのだが、
報せを受けるとその省舎から転がるように出てきて、
「いや、懐かしい。君が加わるとなれば万の味方を得た気分だ。離れていても、君の活躍は
絶えず耳に入ってきていたよ」
と、数年ぶりの再会を心から喜んだ。胡林翼のほうも、太平天国の手に落ちてしまった武昌を
曽とともに再び奪回して、その功績により湖北総督に昇格している。
「再び戦いに出るつもりは無かったのだが、つい、でしゃばってしまった。俺も君にまた会えて嬉しい」
宗棠も、この友の純粋な気持ちが嬉しく、同じように懐かしくもあって照れながら、
「咸豊帝陛下にも、深く感謝せねばならんな」
素直な気持ちでそう言うと、胡は声を上げて笑い、
「全くだ。恐れ多くも皇帝陛下のお声がなければ動こうともしない。そんな頑固で偏屈な人間は
君くらいなものだろうよ」
親しみを持ったからかいの言葉を返して、再び笑った。
友の言葉に苦笑いしながら、宗棠は天を仰ぐ。地上の人間の戦などそ知らぬ風に今日も空は晴れ渡っており、
(お会いできるものなら、ぜひ拝謁願って、一言なりと御礼申し述べたい)
まだ見ぬ若き皇帝がいる北京の方角を向いて軽く一礼した後、彼もまた胡に続いて省舎へ入っていった。
結果的に、咸豊帝は宗棠と一度も会うことも無く、その短い生涯を終えることになる。

三  迷走

さて、ここで咸豊帝の名が再び出てきたので、話はこれよりも三年ほど前に遡らなければならない。
三年前というと、ちょうど駱秉章と左宗棠が出会ったばかりの時期であるが、その頃に、再び清を苦しめた
アロー戦争が起きていて、その結果清朝廷は北京を占領され、南京条約よりも屈辱的な北京条約を結ばされてしまった。
よって、しばらくはこの戦争について述べる。これにより、清はさらに衰退への道を辿るからだ。この戦いは無論、
宗棠にとっても無関係ではありえない。
第二次アヘン戦争とも言うべきこの戦いで、清政府はイギリスばかりでなくフランスも相手に
しなければならなくなっていたのだ。
イギリス側にも事情があった。。先に自国にとって有利な貿易条件を盛り込んだ南京条約を結ばせまでしたのに、
それでも清国内へ入ることは認められていない上、不買運動などで国内でのイギリスへの反発が思った以上に
強かったため、期待していたほどの貿易効果はさほど上がらないでいたという、何とも皮肉な事情である。
これは確かに具合が悪かろう。「何のためにアヘン戦争を起こしたのか」と、つるし上げられるのは当たり前だ。
しかし、貿易での経済効果が上がらない理由を、
「清政府が、我等とまともに貿易をすることを考えていないからだ」
清政府に不利な条件ばかりを押し付けた自国にあるとは考えず、全て清の貿易システムのせいであるとしたのは、
まさに虫が良すぎるとしか言えない。
イギリス政府の中では、再び戦争になってもいいから、より都合のいい条約を結ばせるべきだとする考えが
主流を占め始めた。そんな折も折、戦争を始めるのに格好の口実を、またしても清側が提供する形になったのである。
これがアロー戦争の二年前、一八五六年に起きたアロー号事件だった。
同年十月八日、清の官憲が、イギリスの船籍であると主張していた海賊船、アロー号を臨時検査した際、
清人十二名を拘束、うち三名を逮捕したのだが、これが、当時広州領事だったパークスに、
「イギリス船籍なのであるから、(南京)条約にのっとって、この臨時検査は不当である」
と言いがかりを付けられ、さらにはこの際に官憲が、当時船に掲げられていたイギリス国旗を
引き摺り下ろしたということで、
「イギリスに対する侮辱である」
と決め付けられてしまった。
こう書くと、いかにもパークスがやり手の老外交官に見えるが、この時、彼はまだ二十代後半の
はつらつたる青年である。イギリス下町の工場街育ちの彼は、幼い頃に父母を亡くしたため、嫁いだ姉二人を頼り
わずか十三歳で清にやってきて、十四歳でアヘン戦争に加わった。よって中国語ばかりでなく、中国の国情や
清人の性癖にもある程度通じている。
そういう凄まじい経歴を持つだけあって、若いといっても一筋縄では行かない人物であり、決して
甘く見てはならなかったはずなのだ。
「どうしてもっとよく彼の人となりなど調査しない。敵を知れば己も危うからず、を、既に彼は
我らで実践しているのだ。われらにとっては、敵に手の内を全て知られているようなものではないか。
これでは勝負にならないのは当たり前だ」
と、太平天国軍を相手にしながら、宗棠は自国の不甲斐なさを嘆いたものだ。
当時の両江総督だった葉名探こそ、「自分の息子のような若造に振り回された…」いい面の皮の第一号だったと言えるだろう。
そもそも検査当時、イギリス国旗など揚がっていなかったということは後にではあるが証明されているし、
もし揚がっていたとしても、アロー号の船籍登録が期限を数日過ぎていたため無効であったので、アロー号には
イギリス国旗を掲げる権利すらない。つまり、清官憲が行った逮捕は合法であり、イギリス側が口を挟む余地は
全く無いのである。
にもかかわらず、パークスは―彼はこの手を、幕末の我が国でもしばしば用いようとして、
部下のアーネスト・サトウにその都度止められている―執拗に逮捕された清人三名の釈放と、葉名探からの謝罪を求めた。
当然のことながらその要求は清側に却下されたため、香港総督で清国駐在全権大使であったボーリングは、
パークスと歩調を合わせるように、広州の砲台をイギリス兵によって占拠させた。そのことにより、ついに
広州の民衆達の不満が爆発したのだ。彼らはイギリス人居留地を焼き払ってしまったのである。
また、フランスはフランスで、宣教師が清政府によって殺害されたということを口実にした。こうして
ついに攻め寄せてきた英仏連合軍は、翌年の十一月十四日に広州を占拠、葉名?を捕らえて条約改正の交渉を迫った。
敗戦の将ほど惨めなものはない。徹底抗戦を貫いて破れ、捕らえられた葉名?はその後、香港のイギリス軍艦に
連行された挙句、当時の清国の人々からも「不戦・不和・不守・不死・不降・不走」の六不総督だと嘲られ、
約五十日後にはインドのカルカッタヘ送られて幽閉されてしまうのだ。そして自ら飲み食いを絶ち、幽閉されたまま、
翌年四月九日に壮絶な餓死を遂げる。
その後を襲って両江総督に任命されたのが、当時の清国でほとんど唯一、勇猛を誇っていた曽国藩というわけだ。
以上のことからも、南京を省都に持つこの地域の防衛が、どれほど難しく、かつ重要なものだったかが伺える。
ともかく、こうしてアロー戦争は始まってしまった。アメリカ・ロシアは参加こそしないものの、イギリスとフランスへ、
自国が条約改正に参加する権利を主張している。そして実際、一八五八年二月に天津を占拠した折には、
この四カ国でもって清政府に一方的な条約改正の交渉を求めたのだ。
この折に連合国側が提示した条約が天津条約であるが、それは軍事費の賠償以外に、中国国内における外国人の移動と
旅行の自由、外交官の北京駐在、キリスト教布教の自由などのほか、先だって開港した貿易港以外に、
漢口、南京、九江他、十港の開港などの要求が盛りこまれているといったものだった。
ただでさえ、国内では「外国人」に対する嫌悪の情が充満しているのに、これではそれをさらに煽るようなものだ。
おまけにこの条約によって、なんとアヘンの輸入が公認されてしまったから、民間は無論のこと、宮中でも、
「こんな条約は到底呑めぬ」
という意見が主流を占めたし、この条約を何とか改正しようとする動きが出たのは当たり前だろう。
そして上のこういった気分は、下にも敏感に伝わる。葉名?が捕らえられてからほぼ一年半後、条約の批准のために天津南、
白河口に来た連合軍の船に対して、議論百出、紛糾している最中の清政府から出迎えは無かったし、民衆は民衆で軍船が
通れないように河へ柵を設けたりなどして妨害したものだから、
「即刻、撤去せよ」
苛立った連合軍がその障害物を退けようとしたところへ、清側からの大砲が炸裂、連合軍兵士に見事に命中してしまった。
これによってうろたえた連合軍は、さらに先だって北京から太平天国軍を追い払ったセンゲリンチン将軍の攻撃を受け、
ほうほうの体で上海に撤退するのである。
当然ながら、連合国軍側は激怒した。そして再び大軍でもって押し寄せ、かつて痛い目を見たその砲台を占拠した上で、
再び交渉を迫ったのだが、ここでパークスを含む英国使節団がセンゲリンチンによって捕らえられ、そのうち十一名が
拷問の末殺害されてしまったのだ。
パークスでさえ、殺されはしなかったものの、翌一八六一年十月までのほぼ一年、鎖につながれたままで、
たっぷりと牢屋に入れられることになるのである。
この報せは、太平天国と戦っている政府関係者たちにももちろん伝えられ、
「なんとも拙いことをしたものだ。せめて俺が北京にいたら」
曽国藩に依頼された、長沙での義勇軍編成という任務をこなしながら、左宗棠は何度も呟いて苦い顔をしたものだ。
この事件の実行を指示したのは、時の皇帝である咸豊帝だとされているが、
「君の意見も聞きたい」
と、内なる敵との戦いで忙しい合間を縫い、胡林翼が伝え聞いたままを述べに来た時、
「君も分かっているはずだ。それは違うだろう」
宗棠は即座に否定した。恩義を受けたからというばかりではなく、優しいというよりも軟弱とすら言われている皇帝が、
そのようなむごたらしい殺し方を命じたとは、到底考えにくいからだ。
「周りの人間が、皇帝命令だということで片付けてしまったのだ。決まっている。政府の連中は相変わらず、
まるで周りの情勢が見えていない。あまりにも浅はかで反吐が出るよ」
「確かに私もそう思うが」
宗棠が言葉どおり苦々しく吐き捨てるのへ、この穏やかな友は頷きながら苦笑する。
「私ですら、これまでの連合国のやりくちはあんまりだと思う。政府のお偉方が激情に流されるのも無理はないではないか」
「だからといって、上の人間が冷静さを見失ってどうする。俺も決して連合国の連中は好きではないが、
捕虜も人間だ。憎さのあまりいたぶり殺すなど、同じ人間のやることではない。この点だけでも、我々は列強に
舐められるに十分な条件を備えてしまっている。大国だというなら大国らしく、逆に捕虜を歓待して寛容さを見せてやれば、
我が国の民はともかく、周りの国からの我が国の評判も少しは変わろうものを。いくら敵が憎くても、今の我が国は
残念ながら、その敵よりもはるかに劣っているのだから、力で攻めかかったところで歯が立つわけがない。
ならばここはぐっと耐え、己を鍛えなおして、せめて彼らと対等の力を持てるように努力すべきなのだ」
「ふむ。しかしそれは現実問題としては難しいな」
宗棠の意見も最もだと思いながら、胡は大いに嘆息したものだ。どうしても感情は理性に勝ってしまいがちなものだし、
現状の清の国情を思うと暗澹たる気持ちにならざるを得ぬ。
宗棠のモットーは、
「敵であっても相手の優れたところは取り入れることによって、自己の向上を目指す」
というものである。
多分に『海国図志』の影響を受けてはいるが、つまり己に欠けている部分を素直に認めて鍛錬することによって、
たとえどれほど長い年月がかかろうと、いつかは不利な状況をひっくり返すことは可能であるというのが彼の理屈なのだ。
(あくまで隠忍自重。戦は最後に勝つ者が勝ちなのだ)
というわけである。頑固な人間は大抵短気さも持ち合わせているが、このことからも、宗棠が決して
頑固なだけの人間ではないということが分かる。
今回の場合の敵は西洋諸国であり、太平天国であるわけだが、とにかく彼の考え方は当時の清国の人々にしては新しく、
それゆえに少数派で、大半は、
「金ピカの武装でもって威嚇して、こちらにばかり不利な状況を押し付けおって」
と、とにかく西洋列強憎しという感情で動いている。
憎悪の感情は、どんな理性的な人間でも、「これが同じ人物か」と周囲が思ってしまうほどに、その人の理性や
普段の人間性さえ吹き飛ばしてしまう。そんな憎悪渦巻く真っ只中に、自分を気にかけてくれた若い皇帝がいて、
気の弱い彼がこのことによってどれほど苦しんでいるのかと思うと、宗棠にしてみればとても他人事とは思えない。
「俺がすぐにでも北京へ飛んでいけたら」
実際に北京へ行けた所で、どういう風に役に立てたかは分からないが、宗棠は繰り返しそう言い言い、
咸豊帝が気の毒なのと、悔しいのとで胸を一杯にしながら、音を立てて歯を噛みあわせたものだ。
実際、咸豊帝は、ついに北京へやってきた連合軍に到底敵わないとばかりに、後を異母弟、恭親王に任せて
わずかな側近を引き連れて熱河へ逃げてしまっている。
そして、置き去りにされた格好で後に残った恭親王もまた、
「一人ではどうにもならない」
と言いたげに、どこかへ雲隠れしてしまった。周囲が認めていたように、覇気があるだけではなく、
聡明な上に先見の明もあった恭親王だったから、自分の国が世界と比べて格段に劣っていることも
十分承知していたに違いない。
しかし、いくら覇気があったところで、己より優れている者へ立ち向かっても敵わないのが道理である。
それにもともと皇位継承の件で、普段から異母兄へはあまり好意を抱いていない彼であったから、
「こういう時にだけ皇帝ヅラして命令しおって。戦続きでろくな装備もない、こんなボロボロの軍隊で、
どうやって最新式の兵器を備えた軍隊と戦えというのだ」
と、全てを自分へ押し付け、さっさと逃げてしまった咸豊帝に対する当てつけも、そこにはあっただろう。
それにしても二人とも、皇帝とその一族の癖に無責任だし、あまりにも不甲斐ないという気がしないでもない。
一方、イギリス・フランス連合国軍は、そんな政府を尻目に「誰もいない」北京をいともやすやすと占領、
名高い円明園を焼き払ったり、貴重な国宝を略奪したりの乱暴を尽くした上で、
「このまま出てこないとなれば、我々にも考えがある」
と、いっかな出てこない「清国代表」恭親王へ向かって、最後通牒を突きつけたのである。
そこで北の大国、ロシアの登場とあいなった。清国政府の大半の人間が、
「イギリス、フランスは脅威である」
と、憎みながらも恐れていたから、ロシアが仲介を申し出たことに、むしろホッとしたかもしれない。
ロシアが「おせっかいながら」と腰を上げたのだから、恭親王も姿を現さざるを得なくなった。
これ以上引っ込んでいては恥の上塗りになるだろう。
こうしてアロー戦争の条約交渉は、北京で行われた。もちろんこれは不平等条約である。
賠償金の支払いはもちろん、先だって交渉していた天津条約の施行、香港島を含む領土を一部割譲することなど、
連合国側により有利に改正された条約で、これにとっとと調印してしまったのだから、恭親王もまた非難の矢面に晒された。
さらに、
「ひょっとすると西洋と通じているのではないか」
とさえ思われて、排外主義者からは「鬼子六」、つまり「西洋の鬼どもと手を結んだ六男坊」という、
実に手厳しい、不名誉なあだ名で呼ばれる羽目になる。
さらに、直接の交戦相手だったイギリス、フランスばかりではなく、
「我らとも同じような条約を結ばないのは不条理である」
などと言って、仲介役に立ったことを恩に着せつつ、ロシアまでもがちゃっかりそれに便乗した。
ロシアが主張したのは、当時外満州といわれていた地域の一部だったウスリー川東よりアムール川南までの地域の割譲と、
中国の支配下にあった新疆地区の都市カシュガル、モンゴル地方のウランバートル及び張家口における商取引の自由である。
ロシアは割譲された土地を沿海州(別名プリモルスキー)とし、州都をウラジオストクとした。つまり元々、
この地域は中国側の領土だったのだ。北の地にあるロシアが、凍らない港をどれほど切望していたかは周知の事実であるし、
その気持ちは理解できなくもないが、これではどちらが不条理なのか分からない。
「やり口が酷すぎる。やはり林殿の見解は正しかった」
そしてこのことは、宗棠の考えをいよいよ強固なものにした。彼のほうではこの間、太平天国の討伐のために組織した、
  五千名の義勇兵「楚軍」を引き連れた堂々たる将帥になり、中国大陸南部地域をあちらこちらと転戦している。
「外の敵まではさすがの俺も手が回らぬから、せめて内の敵の一つなりと、皇帝陛下のためにも鎮圧したい。
そうすれば彼の憂いを少しは取り除けるだろう」
と、彼は近しい人に漏らしつつ、その言葉どおりに太平天国軍を迎え撃つさら鎮圧したから、大将である曽国藩からも
高い評価を得た。その推薦で咸豊十一(一八六一)年春に宗棠は清政府から浙江巡撫に任じられている。
しかし彼は喜ぶどころかむしろ浮かない顔で、
「たかが浙江巡撫では、国家の危難を救うことは出来ない。もっと働きたくとも、権限に限りがありすぎる。
これくらいならいいだろうと働けば、すぐに誰ぞが足を引っ張って、越権行為だなどと言う。言われないためには
俺をもっと高い地位につけることが必要だというのに、政府の連中はまるで分かっていない。俺はもっと役に立つ人間なのだ」
彼が今しも任ぜられた浙江省へ赴こうとしていた折、祝いの言葉を述べに訪ねてきた胡林翼にそう零した。
「相変わらずだな、君は」
穏やかな胡も、宗棠のこのような「独特の正直さ」には時々辟易することがある。宗棠自身も、そんな自分が時折
嫌でたまらなくなるということは知っているが、
「皇帝陛下の憂いは、浙江一省における太平天国を一掃したところで、到底晴れぬよ。この国は、根元から間違っている。
思い切った改革が必要なのだ」
「それは正論だが」
と、その気宇壮大さに本音からの苦笑がつい漏れてしまう。
世に出た当初は己の才能を表現する場として見ていたかもしれないが、宗棠は今や、心からこの国の行く末を強く憂えている。
その強い憂いはどこから発しているのかと問えば、
「全ては俺を気にかけてくれた咸豊帝陛下のためだ」
と彼は言うだろう。
内には太平天国や捻匪の乱、外からは西欧列強の圧力を受けるなど、まさに内憂外患といったこの状況下、
優しい気性の咸豊帝の心身が耐えられるはずがない。繰り返すが、優しさはこういった動乱の時期には到底向かないのだ。
それに、それら二つの敵を裁ききれぬということは、清政府自体の土台がぐらついているということに他ならない。
実際、見る人が見れば、清はもうダメだということになるのだろうが、
「たとえそうなるにしても、俺の目の黒いうちにはそうさせぬよ」
宗棠は熱を持ってはっきり言い切った。
「君ならやってくれるだろう。私は信じている」
(彼は有言実行の人間だ)
彼同様、小鬢に近頃めっきり白いものが増えた胡林翼は、信頼を込めて頷く。
「君は、いずれは海軍も構築するつもりなのだろう」
「その通りだ。わが国も海に面している以上、列強と肩を並べるためには必ず必要になる。場所としては福建が最適だ。
福建で俺は、フランスに協力させて我が国の海軍を創る。時間がかかるであろうから、俺の目の黒いうちに
完成させられぬかもしれないが、その母体を作ることは出来るだろう。そのことも常々、大将(曽国藩)に進言しているから、
いずれその通りになる」
「そうだな。そうなるとかなり心強い」
胡は、こういった「自分なら、思っていても実行する前から諦めるだろう…」ことを、五十歳近くになっても
果敢に実行する友を、改めて尊敬の目で見直したものだ。
宗棠は、一度腹を割って話し合った人間を、自分からは決して裏切らない。自分から去っていく人間を
追い求めたこともない代わりに、戻ってきた人間をまた容れる度量もある。
しかし、あまりにも自尊心が高すぎるため、自分よりも年上だろうが年下だろうが、一旦彼が「話すに足らず」と
思い込んでしまうと、たちまち見向きもしなくなってしまう。つまり、彼が他の人間を容れる心の幅そのものが、
もともとあまりにも狭い。そのため、
「頭は良いが頑固で偏屈すぎる。思い込みが激しすぎる。ゆえにとっつきにくい」
と、初対面で周りの人間に思われてしまう。
実際、もう一人の恩人であるはずの曽国藩に対してさえ、曽が彼の弟や息子で己の周りを固めようとした時、
宗棠は遠慮なく「軍の私物化に繋がる」「軍記がたるむ」と、彼にとっては間違いであると信じているところを糾弾した。
太平天国の乱を平定した後、清政府に睨まれるのを恐れた曽国藩が、直属の軍隊を解散させたことについても、
「何もやましいところがないのだから、何故そこまでする必要がある。貴方のそういうところが、小心者といわれるのだ」
と、面と向かって非難したものだ。
その他の折にでもふとした拍子に言い合いになったとき―その大半は、宗棠が一方的に曽国藩を罵るといった
風だったのだが―あまりにもその語気が激しいので人々は、
「大将ですら、宗棠とはウマが合わない」
と見て、
「抗行シテ少シモ屈セズ、スナワチ時ニ合イ時二合ワズ」
と言い切ってしまった。
なにさま、宗棠が己の心に思いつくままを怒鳴り散らかして歩くので、人はその美点に気付きにくい。よって、
彼を好きな人間はとことん好きになるし、嫌いな人間は嫌いなまま、と、評価が極端に分かれてしまう。
若い者は特に、宗棠という人間を理解することが難しい。己以外の人間をより深く理解しようという辛抱強さが、
年寄りに比べるとやはり欠けているからだ。
それに宗棠のほうでも、彼を気遣って曽国藩がわざわざ彼の元へ寄越した若い者さえ、気に食わなければ
遠慮なく叱り飛ばして、そのまま曽の元へ送り返してしまう。彼より若い者が未熟なのは当たり前で、
だからこそ長い目で見て育てなければならないのだが、
「この切羽詰った折に、そのような悠長なことをしておられるものか。俺に必要なのは、今すぐ役に立つ人間だ。
俺はこういう短気な人間なのだわい」
そういうわけで、この点では、宗棠の気の短さが剥き出しになっているし、彼自身もすでに彼の性癖を改められず、
開き直ってしまっているらしいのも大変に惜しい。
だが、曽国藩自身と宗棠は、本当にウマが合わなかったかどうか。
宗棠は多分に、
(大将なら、俺が何か無礼を言っても笑って聞き流してくれるし、重要だと思ったことはきちんと聞き入れてくれる)
と、ある意味一つ年上の曽国藩に甘えていた節がある。先ほどの国藩を罵った言葉も、弟が兄に対するのと
同じような気持ちから、つい出たものではなかろうか。
曽国藩のほうでも、宗棠が限り無く不器用で、しかも裏表のない、ある種大変に魅力に溢れた豪傑であることを
十分に承知していた。それに彼ほどの人物なら、他人が自分に対して本当に好意を抱いているかどうかくらいは、
すぐに察しただろう。
怒鳴りあっているように見えても存外、その怒鳴りあうこと自体が二人にとっては―他人から見れば
一風変わった―楽しみでもあったかもしれない。
胡林翼もまた、この二人の間に漂う独特な空気を感じ取っていたから、周囲の人間ほど気を揉んでいたわけではない。むしろ、
(なるだけ素直な後継者に恵まれれば良いのだが)
と、例によって人付き合いという方で宗棠を心配しながら、
「私ははこれから、武昌へゆくよ。太平天国軍がまたぞろ、湖北省へ入ってこようとしているのでね」
安慶へ向かった曽国藩の弟、曽国?を助けに行くように頼まれたのだと告げた。
「しばらくお別れだが、何、浙江とならさほどの距離ではない。君の噂も即日、入ってこようよ。それを楽しみにしているさ」
「ああ、俺も君が窮地に陥っていると聞けば、すぐに助けにゆこう」
「頼りにしているよ」
二人は言い合って、固い握手を交わした。
だが、そんな風に、誰よりも彼を好きでいてくれた胡林翼という得がたい友は、それから半年後の九月末、
任地先である湖北省武昌で病没してしまった。そのことを伝え聞いた折にも宗棠は、情の豊かな人間らしく、
「アイツはいいヤツで、俺なんぞを好きだった。俺なんぞを好きだったヤツなのだから、いいヤツに決まっている。
なぜいいヤツばかりが先に死ぬのだ」
と、繰り返し叫んでは号泣したものだ。
たとえ知り合っていても、深く惚れ込まなければ、胡とて決して、積極的に宗棠を売り出そうとはしなかったろう。
そしてそんな胡がいなければ、宗棠は世に知られることさえなかったはずである。
『読史兵略』という書まで表していながら、あくまで慎ましく、穏やかな性情であった胡林翼は、宗棠や曽国藩とともに
清中興の名臣とされ、功績があった臣下に対して通例の、文忠の諡号を贈られている。



to be continued…


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