沙ニ抗ス 5


 二 外ハ五省ヲ援ク

こうして宗棠が張の客となったのが、太平天国の連中が蜂起してから二年ほど経った
咸豊二(一八五二)年七月のこと。永安に滞在していた彼らが、そこから北上していよいよ宗棠の護る
湖南省の省都(県庁所在地のようなもの)である長沙へと迫ってきていた頃のことである。
その前月、彼らはすでに、省の最大の川である湘江のほとりにまでやってきていた。
湘江は長沙のほぼ中心で瀏陽河と撈刀河の二つに分かれて流れ、さらに大小の川と合流して一つの大河となり、
その先の湘陰県の濠河口で再び左右に分かれて洞庭湖に注ぐ。当時も現在も変わらぬ、
この地方の重要な動脈路なのだ。この川の流れに乗れば、流れに沿って主要な各都市を落とすことも可能だった。
この川畔での戦いで、清軍側は太平天国幹部の一人である馮雲山を破り、戦死させていた。
だがその弔い合戦を、というわけで、天国側の士気は衰えるどころかいよいよ盛んなのである。
「先生の考えを聞きたい」
早速彼を総督府へ招いた湖南巡撫、張亮基もまた焦りつつ、少々半信半疑で宗棠に言った。
胡林翼が特にと推したので己の幕下に加えたが、胡と共に現れた目の前の人物ときたら、肩肘張って見るからに
傲岸不遜、一癖も二癖もありそうな面構えをしているのだ。
(挙人には合格したと聞いているが)
なるほど、確かにこれは、進士つまりエリートの顔をしていない、と、宗棠を改めて見直しながら、
少々失礼なことを張は思った。教養のほうは大したことは無さそうだ、と、つい考えてしまったのである。
それに対して、
「長沙は昔から主要都市ゆえ、特に固い壁によって護られております。よってさらに城壁を高くし固く固く護れば、
速戦を願う彼奴らめの目論みは崩れ、いずれは自ら腐敗を起こして撤退するでしょう」
まるで鼻歌でも歌いだすような涼しい顔で、横に長い机を挟んだ向かい側に立っている宗棠は答えた。
中国の一般的な大都市は、その周りを城壁で持って囲まれているのが普通である。つまり町というよりも
一個の城砦のようなものだ。確かに町ごとあげて護り、持ち堪えることが出来れば、遠路はるばるやってきた賊軍も
いつかはさすがに撤退するだろうが、
(なんだ、そんなことか)
彼の答えに、張はやや失望して、いつも眠そうなその目を一層細くした。
不敵な面構えであるから、それにふさわしい何か奇策のようなものが飛び出てくるかと思えば、その程度のことである。
それなら誰もがやれそうで考え付くことであり、実行しては失敗していることだからだ。しかし宗棠が続けて、
「しかしその兵力は我々が自分たちで作り上げるのであって、朝廷からの援軍を当てにするのではありません。
城内の民に自分の町を自分で護ることを教えるのです」
そう言った時には、さすがに張の瞼が開いた。
張亮基とて、曽国藩率いる湘軍、同様に李鴻章率いる淮軍などの民間義勇軍のことを聞いているし、
十九世紀初頭に白蓮教徒の乱が起きた際、清政府が民間で組織させた「団錬」と同じ名前をその義勇軍が
名乗っていることも知っている。
だが、それを自分が実際にやるとなると、
(曽国藩だからこそ、成功したのではないか)
俺が同じことをしても、と、つい腰が引けてしまう。
「武器の扱いすら知らぬ一般の民に、それが出来ようか」
「やってやれぬことはありますまい」
ややためらいを見せながらも、身を乗り出した張へ、宗棠もやや身体を近づけ、
「清帝国のためではありません。自分たちの生活を護るために戦うのだと励ますのです。そうなれば、
たとえ武器を持っていなくとも立派な兵力になりましょう」
途端、張は腕を組んで思わず唸った。
湖南省においても、はっきりと形にこそなっていないものの、民衆の心の中で清帝国への不満が渦巻いていると
言えなくもない。敵を欺くにはまず味方から、というが、「帝国のためではなく自分たちのため」に故郷を護る
という言葉は必ずしも嘘にはならない。そう言えば恐らく民衆も納得しようし、結果的にはそれが
帝国を救うことにもつながる。
(なるほど、胡が推すだけの人物だわい)
概して、中国の人々は日本人よりも故郷に対する愛着と執着が甚だ強い。これはその人口を構成している人々の
多くが農民であったことと、あながち無関係ではないかもしれない。農民は基本的に自分の耕している土地から
あまり離れたがらないし、そういった意味では故郷に対する、というよりも自分の土地に対する愛着のほうが強いと言える。
「やってみよう。民の扱いは先生に全てお任せする」
張はしばらく考えた後、そう言った。
失敗したところでその責任を負うのは、皇帝にまで名を知られた左宗棠である。責めを負わされそうになった時は、
そう言えば自分の身は安全であろう、と、彼は考えたのである。従って、
(やれるだけ、やらせてみればよい)
むしろ、肩の荷を下ろしたような気分でそう思った。
この発想が浮かんだのは宗棠ばかりではなく、先ほど名の出た団練の大将、曽国藩や李鴻章も同様である。
もう少し詳しく述べると、団練というのは、科挙試験の郷試に合格して、挙人などの資格を得た「郷紳」
などと呼ばれる人物によって組織された民間兵組織のことである。よって郷試には合格している宗棠にも、
もちろん団練を組織する資格はあった。
もっとも、宗棠は宗棠で、頭から成功を確信しているため、
(兵法書にも載っているこんな簡単なことを、どうして誰もが実行しようとしないのか)
と、常々疑問に感じているのだ。
いつも胡に零しているように「今の政府が弱体化したのは教養を重んじ実学を軽んじたせいである」と、
さすがに上役である張へは彼も言わないが、やはり頭でっかちの進士らしく、民衆に目を向けるといったことを、
普段からあまりしないために、民に協力を求めることまでは考えが及ばないのだろう、とも―
これには幾分かの偏見が混じっているが―思っている。
進士は、言うなれば政府から給料をもらっている身分である。だから上に弱いし、その言うことに唯々諾々と
従ってしまうのは無理もない。それに対して客である宗棠のほうは、皇帝からのお墨付きがあるとはいえ、
まだ正式に官位をもらっていないため、上に縛られているわけでも義理があるわけでもなかった。従って
その発想は清政府を根本に置いておらず、実に自由で伸びやかであったと言える。
どちらにせよ、上役からのお許しが出たのはありがたい。宗棠は早速、長沙の人民を胡林翼やその他、
湖南省出身の役人たちにも説かせて、とうとう民兵なるものを創り上げた。民衆のほうにしてみれば、
宗棠は別にしても、地元出身の官吏に説かれては、しぶしぶながらも参加せざるを得ない。
そのほとんどが官吏らと親戚関係にあるからだ。
自分たちの土地を護るための戦いである、と聞かされても、
(結局は、帝国のいいように使われるのではないか。太平天国と連呼しているが、そんな胡散臭い連中なぞ、
相手にしていなければ、いずれ雲散霧消するのではないか)
と、ここに至っても省都の人民のほとんどが半信半疑であった。
そんな民衆の前で、
「武器は扱えずとも良い。扱えずとも戦い方はごまんとあるのだ。敵はもう、川の向こうにまで迫っている。
まもなくこちらにも攻めかかって来よう。戦乱が起きれば、あなた方の畑は必ず荒らされる。となれば食うに困る。
そうならないために、各々の生活を護るために、我々は戦わねばならない」
宗棠は熱く説いた。
湖南省省都、長沙は、古くは楚の国があったところで、中国最初の最高学府である岳麓書院が置かれるなど、
経済的にだけでなく文化的にも重要な大都市のひとつである。よって、湘江沿いにある都市の中でも、
特に太平天国の格好の目標となったのだが、
「…せっかく耕した田や畑を荒らされるのはかなわぬ」
というわけで、宗棠が指揮を任された民兵たちは、彼が思った以上に善戦した。
彼らにしてみれば、支配するのが清であっても、太平天国という胡散臭い国であっても、その年の収穫さえ無事なら
それでいい。とにかく、糧を荒らされるのがたまらないのだ。
戦が起きて畑がめちゃくちゃになれば、ただでさえ重税のせいで少ない自分たちの食い分が、さらに減ってしまう。
極端に言えば「明日の生死を左右する」のであるから、
「これ以上ひもじくなるのは困る」
というわけで、自ら陣頭に立った宗棠の指揮の下、武器は持っていなくとも、街を囲むように高く築かれた壁の上から
大きな石を転がしたり、糞を浴びせたりと、なんとも民衆らしい戦い方で、一八五二年九月には、ついに
太平天国側幹部のもう一人の生き残り、蕭朝貴をも戦死させることになる。
この二人の幹部が戦死したことで、太平天国内部での力関係は微妙に変化し、太平天国の内紛、「天京事変」に
繋がっていくのだが、さすがにこれで太平天国側も長沙の攻略を諦め、一旦囲みを解いて遠方へ退いた。
二人までも殉死させてしまったのだから、弔い合戦へ対する意気込みは高くても、兵士達の動揺は避けられなかったらしい。
こうして奮闘すること二ヶ月。賊軍から一応は主要都市を護りきったということで、
「やはり君ならでは」
胡林翼は無論、もろ手を上げて喜んだ。現金なもので、張亮基もこの時から宗棠に深い信頼を寄せるようになり、
「貴方のおかげで一面の危機は去ったわけだが、我々としてはこれからどうすればよいと思うか」
と、彼に今後を問いただしている。
なるほど、太平天国は長沙からは確かに遠のいた。しかしそれは一時的なもので、またいつ何時、気が変わって
攻め寄せてくるかもしれない。その時には長沙をまた攻めるとは限らず、長沙のある湖南省と隣接している
他省を襲うかも知れぬ。
実際に方向転換をした太平天国軍は、一度だけとはいえ、湖北省の省都、武昌を陥落させたこともあるのだから、
事態はまだまだ予断を許さない。
「その時に備えて、戦火がこちらへ飛び火せぬように護り、飛び火してきた場合にのみ先だってのように戦うか」
「いや、それではあまりにも消極的過ぎます」
張亮基の、いかにも保守的な考え方に宗棠は苦笑した。
確かに張の役目は湖南巡撫であるから、極端にいえば湖南省だけを護っていれば役目を果たしたことにはなる。しかしそれだけでは、
(真に湖南を護ったことにはならない)
と、彼は考えている。
もっとも、張にしてみれば、ようやく太平天国を追い払ったばかりで、湖南省内一帯が大変にゴタゴタしている時に、
再び攻めてこられてはたまらない。まずは湖南省自体が、政治や経済、民衆の暮らしなど、色々な方面で落ち着くことが
必要だと考えている。そしてそれにはかなりの時間を要しよう。湖南省鎮撫だけでも、
(正直、手に余るわい)
と、いささかうんざりもしているのだ。
しかし、そんな彼に宗棠は黙って、
「内定湖南、外援五省」
の八文字を書いて差し出した。五省というのは、湖南省と隣接している湖北、江西、貴州、広東そして広西それぞれの
省のことである。案の定、たちまち張は険しい顔をして、
「外ハ五省ヲ援ク、など、なかなかもって無理な話だ。確かに湖南を内定することには異論は無いが、せっかく得た安定を
放棄して、わざわざこちらから戦火の中へ飛び込むなど、愚の骨頂ではないか」
と言い、自分の思っていることを正直に述べた。
張の言い分も分からぬではない。このまま湖南省を護れば自分の地位はとりあえず安泰で、お咎めを受けることも無く、
上手くいけば褒賞さえ出よう。そんな官僚意識丸出しの上役に対して、
「ですから、それでは本当に湖南を護ることにはなりません。これから先、そのよう事なかれ主義では、
この省すら護れないでしょう」
と、宗棠はいよいよ持ち前の頑固さを剥き出しにして説き始めた。事なかれ主義、など、仮にも上役に向かって
言うような言葉ではない。共に伺候している胡林翼が、ハラハラしながら彼を見守っているのも意にも介さず、
「乱を起こしているのは、何も太平天国ばかりではありません。政府に対して不満を持つ者どもが、
アヘン戦争に乗じて、国内至るところで蜂起の機会をうかがっていると言っても過言ではないのです」
宗棠はさらに食い下がった。
「それは分かっている」
張のほうも不機嫌さを隠さず、面倒くさそうに片手を振って、また眠そうな目をした。
宗棠のおかげで、今回の手柄は張のものになるが、それを恩に着せているわけではないらしいことも、目の前にいる
宗棠を見れば分かる。しかし、
(もう十分ではないか。我等が他省のために骨折る必要などないだろう)
これまた進士らしい考え方で、張は思っている。
宗棠の言うようにしていたら、五省だけではなくて、いずれはこの国全てを助けなければならないではないか。
五省それぞれにも張と同じような巡撫使はいるのだし、
(俺にそんな力はない)
それに、無駄な労力を使う必要もない。そんな風に張が思っていることを、頑固だが聡明な宗棠はすぐに察し、
「五省はそれぞれ、昔から湖南と緊密な関係にあります。いずれか一つの省内に戦乱が起きても、その省ばかりだけではなく、
これら五省にも動揺が走りましょう。その結果、便乗して乱を起こすことを企む輩が出ぬとも限りません。
内部に亀裂が走るのですから、外部に対してただ固く守っていればいい、というばかりの問題ではありません。
よって、これらを援けることこそ、湖南をも安定させる道に他ならぬと私は考えています」
再び熱っぽく説かれて、張も鼻から大きく息を吐きつつ低く呻いた。
(確かに、街中で乱を起こされては事だ)
よくよく考えてみると、確かに宗棠の意見には筋が通っている。長江流域では太平天国が暴れまわっていたが、
政府の首都のある黄河流域では、捻軍とか、捻匪とか呼ばれている農民反乱軍があちこちで蜂起しているし、
(もしもそういったような輩に倣って、こちらで農民どもが騒ぎ出しても困る)
食うに困った、なかばヤケクソになって蜂起した農民達の結束力は、太平天国の例に見るまでもなく強い。
「よし、やろう」
 ようやくそこで、張は重い腰を上げた。宗棠がいった「五省」に向けて使者を発し、
「有事の際は援軍を差し向ける。援け合おうではないか」
と言わせたのである。これにより、太平天国に恐々としていた湖北などの省は、驚きながらも安心した。
中には内乱を密かに企てていた農民達もいたかもしれないが、
「あの太平天国から省を護りきった奴らには叶わない」
ということで、なりを潜めたろう。
それから三年、湘江流域の六省は、互いの団結によりひとまずは安定した。
この功績により、張亮基は湖広総督に任ぜられることになる。いわば栄転であるが、
「所詮はこんなものかい」
宗棠は、そういって苦笑いせざるを得なかった。今回の功績は、ほぼ全て宗棠が挙げたものであるのに、
実際にその栄誉に預かったのは上役のみで、
「上手くおだてて使われたものだ。この今臥龍が」
皇帝もその名を知っていると言われながら、宗棠自身には何の沙汰も無い。自分の能力を発揮し、
それが周囲に認められたということには大いに満足しているが、やはりそれに対する何らかの評価は
欲しいのが人情というものだろう。
それが清政府から授けられる官位や爵位である、というわけではないが、
「なにやら、虚しいな」
彼は、友人の胡林翼にそうこぼした。所詮、宗棠は政府の人間にとって「挙人風情」でしかなく、
正式に官位を持っているわけではないから、
「それを与えるわけにはいかん、というところか」
「そういうわけではないはずなのだが」
胡林翼も、慰めるように言って、この頑固で偏屈な友人のために気を揉んだ。
とにもかくにも賊軍から町を護りきった、その功績は多大なのだから、
「朝廷の人間が知らぬはずはないし、張殿とて何らかの根回しをしてくれているはずだ。だから、
どうか気を落とさず、これからも湖南のために尽くしてくれ」
張が湖南から去ると同時に、胡もまた、湖北巡撫に任ぜられている。故郷である湖南から離れたくなかった
胡にとっては、痛し痒しといったところだったろう。
後任の湖南巡撫には駱秉章という広東省出身の、これまたエリート組である進士が任命されてやってくるらしいが、
「進士を相手にするのははもうこりごりだ。俺を利用することしか考えていない。俺は見返りを
要求しているわけではないが、利用するだけ利用して、後は捨て去られる。そんなことはもう真っ平ごめんだ」
どうやら宗棠は、このたった一度の出来事で、すっかり臍を曲げてしまったらしい。
「君に去られてしまっては、私は安心して湖北に赴くことが出来ない。それに君は、この国を護るのは
俺自身だと常々言っているではないか」
胡は、心底困った様子で眉をひそめ、言った。
「今回の君の活躍については、私も大将の曽国藩殿へいちいちを報告している。私も君が、
見返りばかりを求めている人間ではないことを知っている。主力は追い払ったとはいえ、まだまだ太平天国の
残党は五省でくすぶっているのだ。君がいなければ湖南を護りきれぬし、駱秉章殿もまだ見ぬ君に
大いに期待していると聞いている」
「君がそこまで俺を買ってくれるのはありがたいが」
この素直な友へ、しかし宗棠はあくまで首を振った。
「駱秉章殿とて進士だろう。君は別としても、おそらく俺とは折り合いがあわぬ。俺は俺自身を
誰よりも良く知っているよ。俺は自分を曲げてまで人に合わせることは出来ん。俺なりのやり方で
この国を護るさ。その方法をこれから故郷に帰って探すことにする」
そして唇をゆがめて笑い、
「俺は結局、そうやって民草の間で拗ねているのが一番お似合いなのだ」
言い放つ。その言葉に、胡もまた腕を組んで嘆息した。
確かに、左宗棠という人間を理解するのは大変に難しい。何より宗棠のほうが、彼自身は意識していないのに、
仕える相手を選んでいるように―実際にそういった節は無きにしも非ずなのだが―見えてしまう。さらには、
「己の信ずるところはこうこうこういったことであり、いささかも動かせぬ」
といった頑なさでもって、上役にも遠慮なく食ってかかるものだから、そのような人間を
相手にしたことのないエリートはまず、それだけで竦んでしまうか、激怒はせぬまでも限り無い不快感を覚えて、
二度と宗棠を用いるまいと思ってしまうかもしれない。
つまり、使いこなすのには相当の根気が要る、癖のある「馬」と言ったところであろうか。張とのやりとりが良い例である。
(だからこそ張殿は、己が栄転しても宗棠のことをあまり上へ言わなかったのだろう)
宗棠へは言わないが、胡はそう思っている。あれほどの功績を挙げさせてもらっておきながら、
張亮基が宗棠のことを喧伝しないのは、ウマが合わなかったということも一因ではなかろうか。
そもそも客というのは、己はあまりでしゃばらず、雇い主に功績を立てさせていくら、というものなのだ。
宗棠とてそれは重々承知しているのだが、
(それでも納得いかぬ)
一旦賊を追い払って、湖南には平和は戻ってきたものの、そんな風になおも宗棠はブリブリと怒っていた。
張からの宗棠への給金が、張が栄転すると同時に、宗棠自身には何の沙汰も無く打ち切られてしまったために、
(俺は軽く扱われた)と彼が思い込んでいるせいもある。もしも張亮基が長沙を去る時にでも、少しでも給金を
水増しして宗棠へ与えていれば、彼もさほど不満は抱かなかったかもしれない。
 また、そういった、「性格的に合わない人間とはとことん合わせることが出来ぬ」という己自身を、
(俺はこういった不器用な人間なのだ。己が世に出るために人に媚びへつらうなど、到底出来たものではないわい)
と、聡明な宗棠は十分自覚しているのだから、余計に始末が悪い。
繰り返すが、確かに彼は実学に精通していて、実際にそちら方面の才能が突出していた。しかし
「自分の見るところは常に正しい」と、口には出さぬでも頑固にそう思っており、間違っていると思えば上役でも
歯に衣着せず、ずばずばと追及するような人間である。こういう人物が役所勤めをするなど、
どだい無理な話なのかもしれない。
そういった(己には到底真似出来ぬ)ところも、胡林翼は「大いに好もしい」と認めているのだが、
「君の気が向いたら、また出てきてくれ」
ともかく、その時はそう言って宗棠が故郷に帰るのを止めなかった。この頑固な友が、一度言い出したことを、
他者の言葉では絶対に翻さないのを良く知っていたからだ。

to be continued…


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