沙ニ抗ス 4


太平天国の乱はあまりにも有名すぎるので、その過程をいちいち記すことは省くが、要するに
「俺はキリストの弟である」と宣言した洪秀全率いる宗教団体「太平天国」が引き起こした、
清末期の大規模な内乱のことを指す。
太平天国の前身である拝上帝会が、道光三十(一八五〇)年に、広西省桂平県の金田村において
終結させていた信徒と、清帝国側の軍や自警団との間に小競り合いが起きたことがその発端とされており、
その翌年、道光帝の後を襲って即位したばかりの咸豊帝はまだ二十歳になったばかりの若さであった。
最初は、
「ただのよくある内乱…」
と軽く見ていた清正規軍であったが、次第にその鎮圧にてこずるようになる。
誰でも重税を課したり弾圧したりを繰り返す政府より、親身になって病気を治してくれたり、
粥の一杯でも恵んでくれたり、といった方をありがたがるに決まっているからだ。 
おまけに初期の太平天国の規律はかなり厳しく、略奪の一切を禁じていた。略奪どころか、民家へ
その主の断りなしに邪魔することすら禁じ、
「民家に右足を入れた者はその右足を切る」
と宣言していたように、それを実行していたらしい。確かにこれでは、戦のためだといっては民から
略奪を繰り返す清正規軍の方が、むしろ盗賊のように見えてしまうだろう。
この乱は実際、十年余りも続いているし、最初に清正規軍とぶつかり合った時の一、二万人あまりのうち、
男性はたったの三千人であったというのに、それでも数倍する正規軍に勝っているのだから、
それだけ清政府に対する民衆の不満や憤りは深く、また、逆に清政府は反乱軍を舐めていたと言えるのである。
そして、最初は革命軍というよりも、むしろ流賊的な性格が濃かった太平天国の信徒たちは、
金田村から広西省藤県を経て、ついには永安(現広西壮族自治区蒙山県)を落とした。なおかつ、
ここで半年ばかり滞在し、一つの国としての体裁を整えもしている。
まず彼らは、皇帝の位を禅譲する際に朝廷で使われた道具、玉璽を作っている。日本でいうなら、
三種の神器といったところか。太平天国お手製のその玉璽には、中央上から下に「天父上帝」の四字、
その右上と左上それぞれに玉と璽、二つの字が刻まれている。
さらに彼らは政府を真似て官爵や官吏の制度も整え、天王を称した洪秀全の下に、東王楊秀清、西王蕭朝貴、
南王馮雲山、北王韋昌輝、及び翼王石達開、といったようにそれぞれの王に五人の幹部を任命した。
こうして最終的には、湖南省東の江西省および浙江省、そして南京を含む安徽省南半分を占拠したのだから、
そのことからもこの乱の規模の大きさが伺えよう。
洪秀全に従った大衆も、真っ正直に彼のことをキリストの弟だなどと信じていたわけではないだろう。
中にはもちろん、諸外国の圧力に対する清帝国のあまりの不甲斐なさに対する義憤を抱いての参加者もあったろうし、
その他に貿易の仕事が激減して匪賊になったりなどというような、明日の糧にも困っている、
食いっぱぐれた民衆もいたのだ。
これには、当然ながらアヘン戦争も一枚噛んでいる。
鎖国政策を採っていたので、広東港でのみ貿易を許可していた清政府が、先だってのアヘン戦争で
負けた際に押し付けられた不平等(南京)条約で、広東以外にも開港しなければならなくなったのは既に述べたが、
そのことにより、これまで港で貿易の仕事に携わっていた人々の生活が激変した。広東一点に集中していた仕事が、
五港に分散されることになったため、広州に失業者が溢れる、そしてその失業者が匪賊化する、
という結果になってしまったのだ。
また、それより先に、清政府は国の東南部に住む人々に対し、戦費調達や賠償金支払いのためとして
重い税を課しているし、その上諸外国との不平等な貿易で、銀が大量に流出してしまったものだから、
いわゆる為替レートが既に大幅に崩れていたのである。
貿易においてだけではなく、清政府への税も、銭を国内の通貨である銀で換金して収めることになっている。
それやこれやでこの地方のみ、その為替レートが銀一両につき銭一千文であったのが、その二倍の二千文に
跳ね上がってしまったのだ。つまり、納めるべき税金も二倍になってしまったようなもので、
「他の地方では一千文のままであるのに、どうして我々だけが損をしなければならない」
と、普通の人間であれば誰もが不公平だと考えるだろう。
政府の失策のせいで失業してしまい、無収入になったのに、税は失業前と変わらず納めなければならない。
納められなければ、最終的に待っているのは牢屋である。税を納めたくとも納められないのに罪人に
なってしまうなどという、そんな馬鹿な話があろうか。
ともかく、そういった「やけのやんぱち」で匪賊になった者も、最初から洪秀全を慕って集まってきた者も、
清政府に不満を抱いているという点では一致していた。
そしてそんな民衆が集まったのだから、武器や兵術、といった方面はともかく、精神面での団結力において、
「義務的…」に兵役についている人々で構成された清帝国軍隊とどちらが上であったかは、比ぶべくもない。
そのように圧倒的な団結力を誇る太平天国の民衆達は、それからまもなく起きたアロー号事件
―この事件については後に述べるが―のために兵力を分散させねばならなくなった帝国の軍隊を、
幾度となく破った。そんな太平天国に、他の地方の匪賊たちも続々と集結したため、勢力は急速に膨れ上がり、
水軍、陸軍までをも形成するまでになっているのだ。
後世、中国では文革において太平天国が大変に持ち上げられた時期があったが、その乱が起きた経緯を考察してみると、
もっともだと頷ける。この乱を掃討した側の一員である宗棠らが批判を浴びたというのもまた、同様に
無理からぬことだと思えてしまうほどだ。
余談はさておいて、咸豊帝である。
即位前、周囲の誰もが、彼ではなく、覇気があり才気煥発と見られた道光帝第六子、恭親王を推していたのを、
父の帝が、
「彼は優しい気性であるから、それが良いのだ」
と押し切って、第四子である彼を帝位に就かせたという。そんな「いわくつき」のこの若き帝は、即位早々、
宗棠と同じ湖南出身の郭嵩Zを召し出し、
「お前は挙人の左宗棠を知らないか。どうして彼は朝廷に仕えていないのだ」
年は幾つだ、どんな人間だ、と尋ねた後、
「汝、書ヲ為リテ吾ガ意ヲ諭スベシ」
お前が宗棠へ手紙を書いて使いせよ、清朝のために働けと言え、と、命じた。咸豊帝もまた、先に亡くなった
林則徐あたりから宗棠のことを聞き知ったのかもしれない。
先にアヘン戦争を体験し、その後始末にヒイヒイと喘いでいる清朝にとっては、太平天国の乱は
まさに泣き面に蜂であったろう。贅沢の限りを尽くすばかりで、いざという時のために動けないでいるとなれば、
皇帝として非難を浴びて当たり前である。へたをすると太平天国や黄河流域にいる農民反乱軍
…清朝は捻匪と呼んでいたが…以外にも革命を起こそうとする者が出るかもしれぬ。咸豊帝もまた、それを恐れた。
(どんな人間でもいいから助けてくれ、出来れば俺と変わってくれ)
と、これが皇帝というには、心身ともにあまりにも脆弱で、その短い生涯を妻の一人である西太后の尻に
敷かれ続けたこの帝の本音だったかもしれない。
次から次へと起きる動乱に対するには、聡明さや優しさだけでは到底太刀打ちできぬ。林などの骨のある役人は、
高齢のために次々と亡くなっていくし、周りに残るのは私腹を肥やすことばかりに長けた官僚のみである。
このような動乱の折、ともかく己が頼みに出来る人間を、一人でもいいから側に欲しいと、文字通り
喉から出るほどに彼は願ったのだ。
ともかく、ようやくこれで宗棠の出番は回ってきた。もうただの嘯く拗ね臥龍ではない。
「まずは湖南巡撫、張殿の客になられたが良い」
皇帝からのお召しに、胡林翼も自分のことのように飛び上がって喜んで、宗棠にそう勧めた。通常なら、
皇帝直々の呼び出しなのだから、そのまま北京に上って皇帝に拝謁してもよいくらいなのだが、
その頃には太平天国が既に彼らの住む湖南の主要都市、長沙にまで迫ってきていたものだから、
「彼らからこの地を護り、それを手土産になされば良かろう。君なら出来る」
胡の勧めに、政治の駆け引きを知らぬ宗棠は素直に頷いた。彼とて元より賊から故郷を護ることに異論は無い。
張殿、というのは、張亮基のことである。この人も進士に合格したエリート組であり、湖南省出身であるというので、
太平天国に対するため、特にこの地方の巡撫に任ぜられた。
いったいにエリート組というのは、学識教養方面は豊かだが、実務や実学には甚だ疎いという学者バカの傾向がある。
よって、実学に長けた人を己の幕に集め、客として扱った。
故林則徐とそのお抱え思想学者、魏源の関係にもあるように、こういった人々を幕賓とか幕僚とか呼ぶのだが、
その客に対する給金は、進士らが懐を痛めて渡す、いわばポケットマネーである。性格的には、
前漢創設時代の劉邦が、智謀の士であった張良を客として迎えたのと同じかもしれない。
宗棠が具体的に世に出たきっかけも、最初は張亮基の客としてだった。
(俺の才能がどこまで通じるか)
進士試験に失敗した頃より少しは老成したかもしれないが、気概は少しも衰えぬどころか、それは
逆にはちきれんばかりの希望と共に、彼の五体の中で疼いている。
国内の乱を鎮めなければならない立場になった者としては、いささか不謹慎ではあるが、
(俺のことを世に知らしめる機会だ)
と、少しでも宗棠が考えなかったかと言えば嘘になるだろう。むろん「俺が国難を救う…」という、多分に
自己顕示の混じった気持ちのほうにも嘘偽りはない。
そういう意味では、太平天国の乱は宗棠にとって、「己が自己表現をすることで世のためにもなり、
己の自尊心も満足する」絶好の機会であったと言える。もちろん、そうなるためにはそれ相応の実力があることが不可欠であるが。
「しばらく家を留守にする。後は頼む」
妻、周詒端と義理の両親へそう言い置いて、彼はついに世へ出た。
時に左宗棠、三十八歳。まさに働き盛りの男盛りであった。



to be continued…


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