沙ニ抗ス 3
この条約で、清は多額の賠償金を払わされた上で、香港をイギリスへ割譲するのを認めさせられ、
さらには関税自主権、治外法権の放棄を認めさせられ、広東、厦門、福州、寧波、上海の
五つの港を開港させられた。
また、戦争の原因を作った責任を取らされて、林則徐は清帝国の最西方、新疆地区のイリへ
流されることになった。正しいことをやって戦争を吹っかけられ、負けた挙句に責任を取らされる…
彼の政敵はともかく、多くの人が処分された彼を悼んだに違いない。林はいわば、
貧乏くじを引いたようなものだ。
武器の点からしても、大砲、鉄砲といった圧倒的な強さを誇る近代的なそれの前に、
昔ながらの刀や鎧が「歯がたつ…」わけがないのだが、
「武器など、なければないで、戦い方はごまんとあるものを」
自国の歴史的大敗を知った宗棠は、そう言って切歯扼腕した。彼に言わせれば、近代的であろうが
古臭くあろうが、武器など使う者次第である。
「俺に指揮を取らせれば、英国など寄せつけなんだものを」
しかし、そう思っていても、さすがに彼もその類のことは口にしない程にはなっていた。
その先を言えば、身の程知らずとして笑われるだけでは済まず、悪くすると政道を批判したということで、
手が後ろに回ってしまう。だもので、彼の心の中にはその分だけ、さらに鬱屈したものが溜まったに違いない。
戦争終結後しばらくして宗棠は、勤めている塾でも生徒たちに向かって、
「今の中央政府によくいるような、芯まで腐った役人にはなるな」
「お前達は、今諸葛亮ともいうべき俺のような人間に教わっているのだから、大変に幸運である。
であるから、もっと謙虚に学べ」
と言っては彼らを失笑させ、科挙に失敗した塾生たちには、
「この俺が教えているのに、なぜお前は不合格になったのだ」
と、落胆している彼らをさらに鞭打つような言葉をかけるようになった。
そんな話が塾外に伝わるのは時間の問題である。
城南書院の賀兄弟の引き立てがあったとはいえ、このような人間を?江書院側もよく雇っていたものだ。
やがて人々は彼をいささかの揶揄を込め、「拗ね臥龍」と呼び始めた。臥龍とはむろん、
諸葛亮孔明のことを指している。
「口先だけの人間にはお似合いであろうよ」
というところであろう。確かに世が太平であったら、「拗ね臥龍」の名に相応しく、変わり者と
噂されたままで一生を終えたに違いない。
アヘン戦争が起きて、清帝国が大敗したといっても、
「清は所詮、夷狄(女真族)が作った国であるから」
というように、人々はそのことを重大視していなかった。中国大陸に住んでいる人々の大半が漢民族である。
だから人々の全てが、つまるところ夷狄である女真族が負けたこの戦争に関心を持っていたわけではない。
「これまでと同じで、清王朝が続くというなら続くだろうし、そうでなくてもまた、
新たな漢民族の国が交代に現れるだろうよ」
とまで楽観的とはいかないものの、人々の意識はこの時点では、まことにお気楽なものだったのだ。
そもそも中華が夷狄(中国では広く異民族を指す)に破れることは、これまでにもままあることだったし、
戦争の起きた場所が、帝国の中央から遠く離れた広東に限られていたということもある。
それに何より清帝国の鎖国制度のせいで、欧米列強のことをまるで知らないし、知ろうとも思わない、
というように思想教育されていたのだから無理もない。この点、初めて黒船が現れた時のわが国に良く似ている。
しかし、この出来事を重く見ていた政府高官や有識者も当然ながら多かったわけで、例えば、
林則徐の幕僚でもあった思想家の魏源などは、イギリスが今までに出現してきた夷狄とは異なる相手であると
感づいており、林が清国最西端のイリへ流されるにあたって『海国図志』の編纂を任されている。
宗棠も無論、この著作に目を通し、その語るところの、「夷ノ長技ヲ師トシ以テ夷ヲ制ス」といった
一文に大きく頷きながらも、
「このまま古い体制を維持しようとすると、国はだめになる…だが俺は官吏ではない」
うつうつとした感情を抱いたまま、失意の日々を送っていたのだ。
実際、官吏でもない人間がいくら声を上げたところで、帰ってくるのは冷笑ばかりである。
たとえ先ほどの科挙に合格していたところで、やっと下っ端の役人になれたばかりの年齢、
という計算になろう。そのような人間の言うことになど、誰が耳を傾けるだろうか。
だが、運命とは面白い。そうして宗棠が国の行く末を憂えて忸怩たる思いを抱えながら、相も変わらず、
「ありとあらゆる知識を身につけている俺に比べて、お前達はまだまだだ」
「たとえ科挙に合格しても、役立たずの官吏にはなるな。アイツらときたら、自分で自分が生きているか
死んでいるかさえ分かっておらん。その癖、金だけはどうにかして少しでも多くもらおうとしおる」
などと、好き放題を言い散らかしながら塾に勤め続けていたある年、たまたま湖南に帰省していた陶樹が
彼を訪ねて来るのである。
地方総督の中でも、特に南京を有するために高い位置づけにあった両江(江南、江西両省を統括したので
そう呼ばれる)総督その他、要職を歴任して功績をあげたこの人が、故郷である湖南省へ戻ってきたのはまさに偶然で、
「この私塾には、拗ね臥龍がいるそうな」
と言い言い?江書院を訪れ、はじめは興味半分で宗棠に面会を求めた。
恐らく書院に勤め始めて数年経った頃ではないかと思われる。その頃には、宗棠の「変人ぶり…」は故郷や
書院だけではなくて、湖南省一体に広まっていたらしい。
政府の高官が訪ねてきたということで、
「左先生が吹きまくったことが、何かに触れたのではないか…」
怯えた塾生や教師たちも、しかし陶がただ純粋に宗棠を訪ねてきただけで、しかもたった一度のその面会で、
「私の息子の家庭教師になっていただきたい」
「貴方の娘さんを私の息子の嫁にぜひ」
と、宗棠を口説いたということが分かり、
「高官に見込まれるくらいだから」
と、現金なもので、宗棠への見方をがらりと変えた。
乾隆五十三(一七八八)年生まれのこの高級官僚には、晩年にもうけた幼い息子がいたのである。
しかし肝心の宗棠のほうはといえば、家庭教師のほうはともかく、
「私ごときの娘を貴家へ嫁入らせるなど、とんでもない」
そう言って最初は固辞した。
陶と宗棠では、当たり前だが年齢といい、身分といい、あまりにも差がありすぎる。普段は大言壮語して憚らない彼も、
(娘が苦労するのではないか…)
己の志とそれとはまた、別の次元の話である。
宗棠は一人の父親として、娘が嫁入った後、身分と風格の違いから、彼女が不当な扱いを受けるのではないかと
心配したのだ。それにさすがに娘を自分の出世のための道具に使う気にもなれぬ。
なるほど、高級官僚と姻戚関係になれば、彼にも幾分かのおこぼれは期待できるだろうし、ひょっとすると
彼が昔夢見た進士でなくとも、幕賓として政治の一端を担うことも出来るようになるかもしれない。
しかし、そのようなやり方で出世するなど、
(己が信ずるのは、己の才のみ。我は今臥龍なり)
とする、誇り高い彼の性分には到底合うものではなかった。
しかし、右のようなことを正直に述べ、再三固辞する宗棠を、逆に陶は余計に気に入ったらしい。
「ともかく、息子の専属教師になっていただくだけでも」
そう言って、彼の湖南の邸へ丁重に招いた。宗棠も、陶のこちらの要望にはとりあえず、
「誠意を持って、ご子息の薫育に当たりましょう」
と返事をした。
(あとはゆっくり口説けばよい)
陶がそう思ったかどうかは定かではないが、ともかく政府高級官僚専属の家庭教師ともなれば、
古くからの慣習によって、その邸へ家族ごと住み込むことが出来るようになる。家族同然の扱いと敬意も受ける。
そうなった場合、宗棠の側にしても衣食住の心配がなくなるのだから、
(後々、断りづらくなろう)
「左先生」「左先生」と、ことあるごとに己の長子と同じ年ほどの宗棠を敬意でもって呼びながら、
決して悪意からではなく、陶はそう考えた。考えたばかりではなく、
「先生のご夫人の両親もこちらへ招かれ、共に住まれたが良い」
と言い、自分の屋敷からさほど離れていない場所に、周夫人の両親のために、小さくはあるが快適な屋敷を建てもした。
つまるところ、陶?はそれほどまでに宗棠に惚れこんでしまったのだ。こういった陶の真心からの厚意を
むげにし続けるわけにも行かず、ついに宗棠も?江書院を辞めて、家族とともにその屋敷へ移住した。
アヘン戦争終結からおよそ二年後のことである。
この大陸には昔から「奇貨置くべし」、つまり自分にとってこれはと思う人物がいれば、損得を考えずに
その人物に入れ込むという、侠気から発した精神的伝統があるにはあるが、それでも人を見る目が
少しでもある人間は、滅多なことで他人を認めたりはせぬ。両江総督まで勤めた人物に気に入られたと
いうことからも、宗棠が周りから噂されていたように、ただの大言壮語癖のある変わり者ではなかった
ということが伺えるであろう。
結果的に彼の娘は陶の幼い息子に嫁ぐことになり、宗棠の陶家滞在は実に八年の長きに渡っている。
この間に高齢であった陶?は亡くなったが、宗棠は変わらず陶家に滞在し続けて、残された娘婿の指導に当たり、
陶の女婿であった胡林翼という人物と知り合った。
胡もまた進士試験に合格したエリート組で、すでに幾度か地方総督を任ぜられたこともあるという、
錚々たる官僚である。当時は湖南省のちょうど西にある貴州の知府として働いていた。
「伺えば私と同い年ということだが」
と、胡はそれだけでも宗棠へ好意を抱き、親戚ということで、政治向きの話だけではなく、互いが抱く
世界情勢観などまでも宗棠と語り合った後、
「貴君には何でも話せる、相談できる」
ついには宗棠自身に魅せられ、そう言うまでになってしまった。
頑固で偏屈な人間はその分不器用で、自分にも裏表を作ることが出来ない。良く言えば、まことに正直で
素直な情熱家で、悪く言えばごくごく単純な性分である、といったところだ。だもので、自分を
見込んでくれた人とは誠意を持ってとことん付き合うし、また、そういう姿勢を素直に態度に表す。
あくまで負けん気が強く、時には彼と親しい人間でさえも呆れるほどに頑なではあったが、宗棠もそんな
侠気たっぷりな一面を持ち合わせていたに違いない。
「貴君の学識は深く、見解は素晴らしい。貴君ほどの才能を持った人がなぜ世に出ず、埋もれているのか。
私も含めて世の人は、人物を見る目がない」
胡は、宗棠でさえ照れてしまうほどに彼を褒め、それからはそれとなく、またははっきり、
「この国に左宗棠あらずんば」などと宮廷なり地方府なりで、宗棠のことを吹聴するようになった。
変わり者の宗棠を気に入ってしまうくらいだから、胡もかなり寛容な人物だったのだろう。言い方は少しく
乱暴だが、胡は左宗棠の「エリートであれば絶対にしない物の考え方」に感服したのではないだろうか。
早い話が、育ちの違いに魅せられたとも言える。
ともかく胡林翼は、宗棠の噂をばら撒くだけではなく、実際に林則徐にも彼を会わせた。林がアヘン戦争の
責任を取らされ、天山山脈北西にある辺境都市イリに流されていたことは先に述べた。その時ちょうど
赦されて雲貴総督を拝命し、任地へ赴く途上だった林を、
「面白い人物がいます。旅の垢を落とされるついでにでも、ぜひお立ち寄り下さい」
と言って、胡は引き止めたのである。
胡も、まだまだ駆け出しの官僚である。その下っ端に招かれて、無礼を怒るどころか林もまた、「どれどれ」と
ばかりに気軽に応じたものだ。
林則徐は、アヘン戦争以前の道光十七(一八三七)年、二人の住んでいる湖南、湖北省を合わせた湖広の
総督をも勤めている。そのこともあって、胡林翼も義理や「宗棠を世に押し出さねば」という使命感ばかりでなく、
相当の懐かしさと親しみを込めて林を招いたのではなかろうか。それに、ひょっとすると林のほうも、
胡のばらまいていた湖南の拗ね臥龍の噂を聞き知っていたかもしれない。
さすがに恐れ入りながら、しかしいつものように、
「先の戦の根本的な敗因は、わが国が諸外国のことを知らず、また調べようともしなかったことにあります。
敵を知れば危うからずというではありませんか。わが国もいたずらに歴史を誇るだけではなく、学ぶところは
イギリスなどの西洋諸国に学び、軍備を充実させねばならぬと私は考えています。西洋式に学び、
十分な訓練を施せば、我が国の兵とて、決してイギリスやフランスなどにも劣らぬはずです」
陶?邸において、宗棠は自分の考えを熱く語った。
現在ならば常識過ぎるくらい常識のことで、何を当たり前のことをと一笑に付されるかもしれないこの考えを、
しかし「わが国こそが最強である」と信じていた当時の中国の人が持てたということは奇跡に近い。
時に国内での小競り合いや乱はあるものの、長らくの鎖国状態で「この国以外のことを特に知らずとも生きてゆける」と、
ほとんどの人々が、貧しくはあってもそこそこの太平な生活に浸りきっていたし、なによりも「三千年の長きに渡って
存在し続け、周りの国へも文化的な影響を及ぼしてきた我等が漢民族」としての誇りが、自国以外の文化を学ぶのを
邪魔していたからだ。
一度口を閉じた宗棠の顔をじっと見つめながら、林則徐はしばらく黙って考えた後、
「君たちを含めて世の人々は、イギリスやフランスの海軍を恐れているようであるし、事実、彼らはわが国とは
比べ物にならないほどの軍事力を持っているが、私の意見とは少し違うな」
宗棠へも、同席している胡へも等分に目を注ぎながら、ゆっくりと口を開いた。
「それはどういう事でしょうか」
「君たちの考えも一つの意見ではあるが」
自分の顔を見つめ返してくる青年達へ頷きながら、
「本当の脅威は、わが国と陸続きであるロシアだ」
林は老いた、いかにも好々爺といった顔で、ニコニコしつつそう断じた。
若かりし頃は髭も濃く、見るからに精悍な面構えであったと聞く。しかしこの時分には鼻の下と顎に優しげな
白い髭をふっさりと蓄えて、
「イギリスやフランスの人間達と同じ肌色目色をしていながら、ロシア人のやり口は、彼らよりも小ざかしく、
老獪だ。よってわれらの脅威となるのは、北や西から容易くわが国を狙えるロシアである」
笑顔と口調は柔らかいが、その口から繰り返し語られる言葉は厳しい。
彼もまた、腐敗しがちな政治の場では珍しいほどに正義感の強い、清廉潔白な人物で、何より嘘を嫌った。
湖広総督であった頃もアヘンの取り締まりに大層厳しく臨み、ついにはこの地方からアヘンを根絶させた。
それにその前からも他の地方の行政官として、この国の基本産業である農業に欠かせぬ治水問題にも取り組み、
大いに成果を上げているから、彼を慕う国民も多かったのである。
不幸にも左遷の憂き目を見たが、新疆イリでも、彼は同じように善政を敷いた。イリはまさにロシアとの国境に
面しており、周辺に住む少数異民族が遊牧を営んでいる。
三年という短い期間ではあったが、それら少数異民族をよくまとめて、彼らの言うところによく耳を傾けながら、
清へ向かってじわじわと南下してくるロシアの脅威を林は肌で知ったのだ。
(わが国にとっての真の敵は、ロシアか)
そしてこの老政治家の言葉は、宗棠青年の心の中に深く刻み込まれた。林も、彼が裏表の無いまっすぐな人間だと思え、
またそんな彼の気性を気に入ったからこそ、ここまではっきり言ったのであろう。でなければ、欽差(特命)大臣まで
勤めた彼が、何の官位も爵位も無い人間に対して、国際問題にまで発展しそうなことを語るわけがない。
林がこうして何気なく宗棠に告げたことが、後に清朝廷において、対ロシア戦略を唱えた塞防派を形作る元に
なったのだから、まことに運命とは分からない。林の左遷は彼自身にとっても、清帝国にとっても、
決して不幸であったとは言えないかもしれぬ。
林則徐は、それから間もなくの道光二十九(一八四九)年に引退したが、その翌年に起きた太平天国の乱に対するために
再び欽差大臣に任命された。しかし、任地である福州へ赴く途中の晩秋、六十五歳で亡くなっている。
つまり、彼が宗棠に語った言葉は言うなれば遺言に等しく、
(この国を護らねば)
という、宗棠の火のような意志に油を注いだ結果になったのである。また、胡にばかりでなく、林にまで
知られたことにより、左宗棠の名は、
「湖南に拗ね臥龍あり」
として、いよいよ広まることになった。
この拗ね臥龍が本格的に世に出た、というよりも清朝に正式に知られたのは、林則徐が亡くなった翌年、
いよいよ太平天国の乱が清朝廷においても「捨て置けぬ」となった咸豊元年のことである。
to be continued…
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