沙ニ抗ス 1


 一  拗ね諸葛亮

(やれやれ、やはり俺には堅苦しい四書五経を読むなど、性に合っておらんのだ)
進士試験、不合格。二回目のその通知を家で受け取って、左宗棠は苦笑した。
時に宗棠二十七歳。清王朝の道光十八(一八三八)年のことだ。
彼は湖南省湘陰県の出身である。この地方は清王国の首都北京から南南西方面、直線距離にして
約一四〇〇キロの所に位置しており、年間を通して比較的温暖で雨が多い。そのすぐ北を長江が流れており、
北の湖北省との境に洞庭湖もある。豊かな自然に恵まれた、まことに風光明媚な土地と言えよう。
(蒸し暑い)
「やっておられんわい」
今、彼が住んでいるのは妻の家である。その窓を開け、彼はぼやいた。
(この俺を合格させんとは、役人どもの目はどうかしているのではないか)
軒では柳の青い葉が、降り続ける細かい雨に濡れて、時折雫を降り零す。
(さて、これからどうするか。どうやって食っていく)
それをぼんやりと眺めながら、蚊にでも食われたのだろうか、宗棠は懐へ無造作に片手を入れ、
左の乳首の周りをぼりぼりと掻いた。そんな様子からは後に、
「宗棠、覇才アリ、而シテ民ヲ治ムルハ即チ王道ヲ以ッテコレヲ行ウ」
と称えられたほどの「気迫溢れんばかりの才能」があるとは到底思えぬ。
(ああ、やめだやめだ。カビの生えたようなくだらん書物の暗記など、クソ面白くもない)
窓を開放していようがいまいが、部屋は変わらず蒸し暑い。宗棠青年はいまいましげに
鼻を鳴らして窓を閉めた。
同室にいた妻は、そんな彼の姿をちらりと見たきり、座っていた椅子に深くかけ直して、
手にしている書物に再び没頭し始める…。

この頃、すでに清帝国はイギリスからのアヘンの密輸で国内を侵されていた。
なぜイギリスが清へインド産アヘンを密輸出するようになったのかについては、清、イギリス間における
貿易不均衡が原因だと言われている。
イギリスは、清の貿易によって茶、陶磁器、絹などを大量に輸入していたが、逆に清向けに輸出できるものが何もない。
イギリス国内で生産していたものといえば、時計や望遠鏡といった、いわば富裕層向けの高級品で、それはどう見ても、
普段の生活に多量に必要とされるものであるとは言えないだろう。
よって、たちまちイギリスのほうが輸入超過の状態に陥ってしまった。そこでイギリスは、当時の植民地の一つだった
インドで生産していたアヘンを、インド経由で密輸することにより、収支のバランスを取ろうとしたのである。
今も昔も、一度薬物に侵されてしまった人の心身を元に戻すのは容易なことではない。清帝国としても、
決して手をこまねいていたわけではなく、既に嘉慶元(一七九六)年、アヘンの輸入を禁止していた。
しかし今も昔も政府のやることは遅い。禁止した頃には既に手遅れで、一般庶民の間にまで広まってしまっていたのだ。
いくら法令を出して取り締まったところで、禁断症状に苦しむ人々は役人の目を盗み、必ず何らかのルートを辿って
手に入れる。だもので、密輸はなかなか止まらない。加えて清政府は、アヘンの輸入代金をその当時の通貨であった
銀で決済したものだから、経済方面もみるみるうちに破綻への道を辿ることになったのである。
宗棠が生まれたのは、清帝国が最初にアヘン輸入禁止令を出してから、およそ二十年の後、嘉慶十七(一八一二)年。
清王朝が少しずつ綻びを見せていた時だった。
彼は湖南人である。この地方に住む人は、一般的に脂ぎってピリリと辛い料理が好みで、激情にかられやすい性格を
しているという。そんな人々からでさえも、
「剛峻ナルハ天性ニ自ル」
強く激しい性格は持って生まれたものだ、と、評されていたのだから、宗棠がどれだけ頑固で偏屈であったか、
というのは容易に想像がつくであろう。
そんな宗棠が、
(これはいかぬ…)
欧米諸外国の圧力に、徐々に押されて衰退のかげりを見せている国を立て直すには、俺という人間が必要だ、と、
いかにも若者らしい壮大な理想に燃えて、最初に科挙に望んだのが二十歳の時のこと。
明が滅びた後に異民族が建てた清という国もまた、科挙という官吏登用試験をそのまま用い続けている。
宗棠は、彼が最初に受けたその、第一次試験ともいうべき郷試には合格して、挙人の資格を得ることは出来た。
だから今度は二次試験である進士の資格を得ようと学問を続けていたのだが、必須だった教養試験は、
当時の中国社会において一般常識そのものとされた儒学や、特に八股文といった文学の丸暗記というようなものである。
八股文に通じることが一番肝心とされていたのに、その古典は彼の興味を引くところでは無かったらしい。
彼の関心はむしろ、三国時代を代表する軍師であった諸葛亮孔明の著『武侯全集』、『孫子』や『唐書』そして
農学関連の学術書といった、いわゆる実用的な学問や兵法に向けられていたのだ。だから自然と学問も実学へ熱が入る。
進士試験のために必要な科目の勉強をそっちのけで、自分の好きなことに熱中していたのだから、不合格となったのは
むしろ当然の結果といえるかもしれない。
郷試の際も、実は一旦は不合格になっていた。ところが、主任試験管が念を入れてもう一度、不合格者の回答を
見直していて彼の論文を見出したので、彼はなんとか合格者の枠に入れたのだ。
(官僚になるには、また三年も勉強せねばならんのか。ああ、面倒な)
宗棠が思わず右手で頭を乱暴に掻いて、白い物を辺りへ撒き散らしながら心の中でぼやいたように、次の科挙は、
三年後である。面倒でもあるし、妻やその両親との約束で、次の試験に不合格だった場合は諦めると言ってある。
従って、宗棠もついに諦めた。
地元では、その科挙を受けて、挙人の資格を得られたというだけで十分尊敬され、話題の種になる。しかし、
「確かに頭は悪くはなかろうが、宗棠さんは、もう少し丸くならねばなるまいよ」
と、周りの人間の見る目はやや冷ややかだった。
自分を「湘陰の諸葛亮孔明である」と、当時から彼は吹きまくっていたのだから、無理もない。最初は、
「若いときには己を何でも知っている逸材だと思うもの…」
若者にありがちな、若者らしい冗談として笑い飛ばしていた人たちも、それが度重なれば鼻につくようになる。
当然の結果として、
「科挙を受けたといっても、進士になれたわけではなく、たかが挙人の資格を得ただけの若造が、
己をかの軍師になぞらえるとは」
彼は「変わり者」「大言壮語を吐くだけの奇人」という目で見られるようになった。
それでも、地域の人から彼が決定的に疎まれなかったのは、宗棠が十八歳の頃から通っていた有名な私塾、
城南書院を開いていた賀兄弟の引き立てを得ていたからである。
人間的に偏屈の匂いがするし、自己顕示欲の強すぎる性格であるから、両親の次に彼を心配してくれるはずの
親族からも少し疎ましがられている。だから、彼が二十一歳で同い年の女性、周詒端を娶った時、
「いくら賀先生の紹介であるとは言っても、よくあんな若者に嫁が来てくれたものだ。嫁も相当な物好きなのではないか」
と、近所の人間は大いに驚いたものだ。
最も、宗棠本人はそれを別段気にしていた風もなく、
「かの諸葛亮孔明もそうだった。天才は若いうちは理解されぬものさ。俺の嫁は、いわば黄月英夫人さね」
と、むしろ楽しげに嘯いていた。
確かに周夫人は、美人とは言いがたいかもしれなかった。だが、知性に秀でた穏やかで美しい瞳をしていて、
何より人々に対する時の笑顔が良い。そんな彼女を捕まえて、醜女と評判だったかの軍師の妻になぞらえるとは、
と、近所の人はまた苦笑した。
頑固で、偏屈で、他の人間の目など気にもしない…そのような彼の性格は、祖父、左人錦による所が大きい。
左家はいうなれば中流階級で、当時の中国一般家庭がそうであったように農業を営んでいた。要するに、
よくある普通の家庭だったというわけだが、学問に対する造詣は深く、
「お前も学問をしろ。世の中のことをよくよく考えられる頭を持て」
「人の基本は農である。農があるから人間は食える。よって農を考えると、おのずと生き方も見えてくる。
お前達も自ら鍬を持ち、大地に親しめ。その声を聞け」
と、言い言い、祖父は宗棠がわずか三歳になるかならないか、という時分から、宗棠の兄の宗?と共に彼を
厳しく指導した。兄弟二人の母は、宗棠を産んでまもなく亡くなっていたから、祖父にとってはこの孫達が
余計に可愛く、不憫でもあったのだろう。
その人錦も、宗棠が五歳の時に他界している。だから祖父との触れ合いは、彼が物心ついてからのたったの
数年でしかないわけだが、(厳しく、しかし暖かい祖父)の思い出は、幼い頭に深く刻み込まれた。
従って、右に述べた宗棠の性格が形作られたのには、祖父の人錦の教育を受けたということが多分に
影響しているのではないか、と言えるのである。つまり人錦も、相当に変人だったということに他ならない。
祖父の死後、彼ら兄弟の教育は父の左觀瀾に引き継がれた。人錦に鍛えられていただけあって、
觀瀾もそこそこ「学者」になっている。兄弟と共に畑へ出、土を耕す傍ら、この国の農学を教え、
地理を教えること十年、
(そろそろ俺だけでは役不足だ)
親の欲目もあったかもしれないが、兄弟が意外に頭が良いのを見て、觀瀾はもっと学問を身につけさせてやりたいと考えていた。
(ひょっとすると進士試験にも通用するかもしれない)
というわけで、湖南省長沙にある、進士試験に強いと評判の城南書院をたびたび訪れ、息子たちのことを
売り込みもした。だが、念願かなって息子達を書院へ入学させることが出来た矢先、彼は亡くなってしまったのである。
いつもと変わらぬ様子で畑を耕している最中、いきなり倒れてそのまま動かなくなったのだから、何が死因なのかは分からない。
この時、宗棠は十八歳。働き手である父を失って、兄弟は非常に困惑した。母親もいないから、
左家に残された者といったら彼ら二人だけである。このままでは城南書院へ月謝も払えない。とにかく食っていくために
野良仕事へ本腰を入れねばならず、そのためには学問も諦めなければならないか、と思ったとき、二人に手を差し伸べたのが、
書院の塾長、賀煕齢だったのだ。
煕齢は早くから兄弟二人の、特に次男坊である宗棠の才能に注目していたらしい。
「学問を続けろ。学費は払わずとも良い。生活費の面倒は私が見る」
とまで言い、若い二人を励ましながら、実際にその面倒を見てくれた。もっとも、煕齢にとって、
将来性のある若者を育てることは、半ば道楽のようなものであったらしい。
さらに、行き過ぎに見えた宗棠の積極性を、兄である賀長齢のほうがより一層買ってくれた。賀長齢は以前、
清の朝廷で雲貴総督(わが国で言う県知事のようなものといえる)などを勤めた高級官僚で、思想家の魏源とともに
皇朝経世文編一二〇巻を編纂した知識人としても知られている。
その邸に蓄えられている書物は千とも万とも言われており、彼が気まぐれに城南書院を訪ねた折、
「見所があるから」
と、弟から紹介された宗棠をそれとなく観察した後、
「確かにこれは逸材である」
と絶賛し、宗棠に書物庫へ出入りする自由を与えた。若年とはいいながら、熱い志と学問への情熱、そして、
今まさに傾城の憂き目を見ている清国家への深い見識を抱いている彼を、高く評価したためである。
清帝国のほころびを繕う役割の一端を担っているために、長齢も大変に忙しい。だが、その忙しい合間を縫って、
長齢は宗棠に会うたび、
「君は素晴らしい才能と覇気がある。わが国のためにそれをぜひ役立てて欲しい。つまらん周りの言葉で気力を萎えさせるな」
そう言って励ました。科挙必須科目の八股文に通じていないが、とりあえず郷試に宗棠が合格できたのは、
実に彼らのおかげであると言っていいかもしれない。
もっとも、長齢は(いざという時の「憂国の士」を、もっと育てておかねばならぬ)と常々思っていたから、
右の言葉は、宗棠のみへ向かってかけたものではなかったかもしれないが…。
先に述べたように、変わり者の彼に嫁を世話してくれたのも、彼ら賀兄弟だった。彼らの塾に通っていた人物の親で、
特に懇意にしていた周家が、娘の婿を探しているという話を聞いたからである。
その娘が宗棠の妻となった周詒端だった。詩もよく吟じて自ら作り、古典にも親しむといった才女である。
彼女の両親がそういった、女性にはむしろ無用のものと思われていた学問を、彼女にも身につけさせていたところを見ると、
周家は湖南でもそこそこに裕福な家の部類であったと考えられる。加えて彼女の父は、学問を続ける貧しい若者にも
理解があったし、自身や息子の経験から、科挙試験の厳しさも知っている。そんな周家の娘ならば、宗棠の方も
打ち解けるのではないか。
しかも宗棠は次男坊である。父母の面倒を見る義務は、それらが存命であっても長男ほどにはないし、そもそも
父母は他界しているから、経済的なことは別にして、詒端本人にしても嫁ぎやすいに違いない。それに宗棠のような
「覇才のありすぎる…」男には、彼と同程度とまでは言わないまでもやはり聡い女性か、あるいは逆に自分というものが
なさ過ぎる女性か、両極端でないと合わぬ。
それやこれやで、長齢から初めて左宗棠という若者を引き合わされた詒端の父は、
「経済的には貧しいが、真面目で一徹、志の高い若者です。きっと将来、頭角を現します」
という風に紹介されて、目の前にいる彼をつくづく眺めた。
見れば見るほど、一癖ありそうな若者である。唇は頑固そうに結ばれているし、年長者である自分への態度は丁寧ながら、
どこかふてぶてしさが見え隠れしている。しかし考えようによっては、それは逆に頼もしいとも言える。
自分の娘の詒端も、手慰みには良いだろうと学問を勧めたところが、娘自身がのめりこんでしまい、色っぽい方面とは
すっかり無縁になってしまった。男へ興味の欠片も示さず、本ばかりを相手に過ごしてきたものだから、才女としては
そこそこの名声を得たが、女性としては変わり者だと思われてしまっている。容姿のほうは十人並みなのだが、
なまじ学問がありすぎるため、男のほうも敬遠してしまうのだ。
よって当時にしては珍しく、二十一歳で未婚であった。要するに嫁き遅れである。そのことを心配していた彼女の父にとっても、
長齢からの紹介は渡りに船だったわけで、
「科挙試験合格を目指しているため、その間は自力で妻女を養うことは出来ません。援助をお願いすることになりますが、
必ず二度目までには結果を出します。合格できなかった時には、潔く諦めて働き口を探します」
さらに宗棠本人からもそう聞かされ、詒端の父も二人の結婚を承諾した。
こうして宗棠は、妻の実家から城南書院へ通うことになったというわけだが、
「試験の準備をしている間は、お前には指一本触れぬ。子作りはせぬ」
新婚当初から彼は妻にそう宣言し、そういったことに疎かった詒端の目さえも白黒させた。宗棠にしてみれば、
「役人でもない無職の身で、子など作れるか。それでは子供に対して無責任である」
という理屈になるのであって、自分が間違っているとは勿論思っていない。
結果的に彼は二度目の科挙にも失敗しているから、嫁いだといってもほぼ六年、詒端は生娘のままだったということだ。
いくら頑固者だとは承知していたといっても、これにはさすがの義父も呆れたろう。「子はまだか」と何度となく
催促したであろうことは、想像に難くない。
それに、何といってもまだ二十代の若者なのである。女性という「好餌」が目の前にちらついているというのに、
「俺にはまだその時間も資格もない。子作りをしてしまえば、俺は嘘を吐いたことになる」
と、宗棠は頑なに言い張るのみだった。
詒端経由でそれを聞かされて、宗棠の言うことはもっともだと頷きながら、(あの婿には正常な性欲というものが無いのか)と、
同性であるだけに、詒端の父などは特にそう思い、余計な心配もしたに違いない。
古くは紀元前から中国人の考えを支配していた儒教の観点から見れば、彼のしていることは不孝の極みである。
ゆえに陰では「周家の婿さんは種無しではないか」という、大変不名誉な噂さえ立つほどだったのだ。
しかしそんな頑固な面がある一方で、宗棠は詒端に対しても、例えば彼女が詩を作って吟じようが本を読んでいようが、
自分の学問の邪魔さえしなければ、うるさいことは一切言わなかった。
妻が作る飯のことついても、それを出す時間には「学問の時間に支障が出る」と、異常なほどこだわるものの、
その味や作った飯そのものには全くこだわらない。とにかく腹に溜まりさえすれば良いようなのだ。
農を研究している人間らしく、「いかに収穫量を上げるか」「この土地にはどういう作物が出来るか」と
いったようなことには大変に関心が高かったが、それが食い物として自分の前に出された途端、おかしなことに
興味を失うらしい。妻にとって、ある意味かなりありがたい夫ではあったと言える。
従って詒端のほうも、結婚したとはいえ実家暮らしであるし、読書や詩作に熱中していても夫も何も言わないし、
で、娘時代とあまり変わらぬ生活を送っていた。繰り返すが、彼女自身、文学に対する造詣は深くはあっても、
男女関係という点での機微には少々疎い。
よって夫が自分に手をつけずとも一向に構わないと思っていたのだが、あまりに実父から子作りを督促されるものだから、
さすがに彼女も困惑して、その都度夫である宗棠へそれとなく訴えはした。
妻からの訴えの頻度はあまり多くはなかったが、それでも、
「他のヤツの言うことなど放っておけ。俺には俺の考えがあるのだ」
と、やはり宗棠は頑なな態度を崩さない。
彼も「男」である。いくら理解してくれているとは言っても、一家をなした男がいつまでも経済的に妻の世話になっているなど、
彼の矜持が許さないのだ。妻にも話すことはなかったが、
(いつかこの借りは返さねばならない。妻の両親を、早くに亡くした実の親とも思って孝養を尽くさねばならない)
とも宗棠は考えていたのである。
かくて道光十九(一八三九)年。彼は二回の科挙に失敗し、
「今まで面倒をかけて、まことに相済まなかった」
彼は妻と義理の両親の前で、そう言って頭を下げることになったというわけだ。
「あの変わり者が、塾に勤め始めたらしいよ」
妻の家の門に宗棠が自身でかけたらしい垂れ幕を指差しながら、近隣の人々が囁くようになったのは、
それから間もなくのことである。
科挙に失敗した人間が生計を立てるには、私塾を開くか有力者の子弟の家庭教師になるというのが一般的な方法だった。
宗棠が勤めたのは、湖南省醴陵の?江書院である。書院から招かれたのを幸い、彼も同じ道のりを辿ったというわけだ。
ちなみに彼が門前に掲げた幕に書かれていた文字は、
「文章ハ両漢ノ両司馬、経済ハ南陽ノ一臥龍」
といったものである。ちなみにこの時代の経済とは、経世済民すなわち「政治によって民を救う」ということであり、
現代で言う一般的な経済学を指しているのではない。
つまり、文章を書かせれば前漢、後漢の代にそれぞれ活躍した司馬遷、司馬相如並みであり、政務を執らせても
「南陽ノ一臥龍」、すなわち諸葛亮孔明並みの才能がある、という意味で、
「宣伝にしても度が過ぎる」
ついに人々は、憐憫すら伴う微苦笑でもって、彼を眺めるようになった。周家の人々にしても、自分の家の婿だと思えばこそ、
宗棠自身には面と向かって文句は言わなかったが、この行動にはかなり閉口したであろう。
こうして宗棠は、官吏として衰退していく国政の一端を担いたいという志に燃えながら、その志とは裏腹であるが、
(いつまでも妻の実家の世話になっていてはならぬ。妻や子は自分で養う)
と決意して、私塾の一教師として教鞭を執り始めた。その傍らで、幼い頃から続けていた農学や地理の研究を再開している。
その他、給金が実際に手元に入ってきてからであるが、彼は子作りも行っている。詒端との間に最初に娘が
出来たのを皮切りに、その数年後にはまた二人の息子を立て続けにもうけた。よって、彼が種無しであるという
怪しからん噂は自然に消えた。
一方、詒端は詒端で、
(この人は、こういう人なのだ)
と、結婚十年目にしてやっと、夫の性格の一端を理解したような気がしていた。
一度自分でやると口にしたことは決して後から取り消さず、必ずやり遂げる。良くも悪くも、自分は決して
間違うことがないと信じている。彼の心の中には独自の信念があって、それに従って動いているのだ。
例えば、収入を得られるようになってからの宗棠は、彼女の両親がどんなに「もう十分に返してもらったから」と
断っても、必ずその中からいくばくかを渡し続けている。
彼らがすまながって、「せっかくだが…」ともらった金を娘の詒端を通じて返させたことがあったが、その折も、
「何故受け取らん。俺の誠意は、お前の両親にとってそんな程度のものか」
そんな風に反って烈火のごとく怒ったので、ついに義理の両親も諦めて、その誠意を受け続けることに決めたのである。
その仕送りは、後に宗棠が官位をもらって大陸を転戦するようになってからも、彼女の両親が亡くなるまで続いたのだから、
(コツさえ飲み込めば、むしろ扱いやすい夫)
その頑固さを微笑ましいものとして見るようになっていた詒端も、この「誠意の押し売り」とでも形容すべき、
しつこいまでの義理堅さにはさすがに辟易したことと思われる。
さて、こうしてこの頑固者が塾に勤め始めたのと同じ年、清政府は高名な政治家である林則徐を広東へ派遣し、
アヘンの取り締まりに当たらせていた。
林は取り締まりを徹底して厳しくした。清、イギリス両商人達へ向かっては「アヘンを二度と清国内へ持ち込まず、
取り扱わない」という誓約書を出させ、彼らが隠し持っていた、一四〇〇トンを超えると見られるアヘンを
同年六月六日には全て焼却処分している。
さらには、この法に従わなかった商人達を港から追放したりもした。道義的に言っても彼のしたことは正しいし、
高く評価されるべきなのだが、
「わが国の商人を退去させたのは遺憾である」
当時のイギリス監督官、チャールズ・エリオットは、これを不服として即刻、無条件での貿易再開の申し立てをし、
実際に誓約書を出して貿易を再開しようとした自国のトマス・カウツ号その他の商人達を、軍艦まで出し威嚇した上で、
再度同じような申し立てをした。
が、これも当然のごとく、林は却下している。
非人道的で一方的な貿易のやり方を執拗に押し付けてくるのだから、林でなくても拒絶するのが当たり前である。
しかし、このような毅然とした林の処置を、イギリス側は清を攻めて自国側を優位に立てる格好の口実にしようとしたのだから、
「こんな恥さらしな戦争はない」
イギリスの国会内でも、保守派のウィリアム・グラッドストンらがそう批判した。
つきつめれば麻薬の密輸が開戦理由で、人道的な観点においても大国がする戦争とは到底思われぬ。いうなれば、
貿易摩擦が高じた結果のアヘン戦争がついに勃発したのが、同年の十一月三日のこと。
イギリス国会内でも開戦賛成派が二七一票、反対派が二六二票の僅差であったこの戦いは、清側も奮闘したものの、
結局は清の大負けであった。大敗の報せに慌てた時の皇帝、道光帝は、一族である愛新覚羅耆英を和平大使として
交渉に当たらせ、清にとって大変に屈辱的な南京条約を結ぶに至る。


to be continued…


MAINへ ☆TOPへ