我が胸中に在り 15



一国の領主を挑発するには、起こらぬはずがない所領争いにこちらから首を突っ込んで、
引っ掻き回すのが一番手っ取り早い。代替わりになったところでその所領を削ぎ、
「惣領」と仲たがいしている人物に与えてやると、必ず一族の内紛に発展する。
「内輪で争わせ、弱ったところを叩く、となあ。母上のやり方をここでも真似たつもりで
ござりましたが、山名の場合はてこずりまいた。同じ手を用いて弱らせたと思うたところが、
まだまだあのように余力があった。私の読み違えで、朝廷や公家方にもまこと迷惑を
おかけ申しあげまいた。このたびばかりは私も実は、冷や汗をかきました。民が無事であったのも、
母上の宰領あってこそのこと」
「またお口がお上手な」
京の市街で一両年、久しぶりに激しい攻防戦が行われたのは、昨年のこと。これも、山名一族の
所領争いに乗じて、その勢力を削ごうと義満は画策したのだが、
「上様は土岐にしたのと同じ手を、我等に使おうとしておる」
と、かつて反頼之派であった山名一族の氏清が、わざわざ南朝側へ下り、錦の御旗まで頂いて、
京へ攻め入ってきたのだ。
最初は半信半疑であった重臣達も、氏清の甥の氏家が京を密かに退去したことにより、
これが事実だとようやく悟った。悟った頃には山名一族が京を包囲していた、というわけで、
幕府は完全に後手に回ったことになる。
ここで、渋る朝廷や公家を説得したのが幸子で、
「我等がお守りしますゆえ、どうか民をお庭へお入れくだされ」
との彼女の願いが聞き届けられ、京の民は曲がりなりにも、それぞれの公家邸や御所庭園内へ
避難することが出来た。これにより、
(京の町を灰に…またしても民を焼け出させてしまう)
そういった義満の精神的負担は、かなり軽くなったといっていい。民さえ無事ならば、京の町は
また再建されるからだ。
そして、幸子の楽観性を受け継いだはずの義満に、
「当家の運と山名家の運とを天の照覧に任すべし」
とまで言わしめた、この「明徳の乱」では、どうやら天は幕府に微笑んだらしい。本格的に両者が
矛を交えたとされる戦の中の、たった一日で山名氏清は敗れさった。そして山名一族は、十一カ国あった
その領土を但馬・伯耆などに減らされてしまい、一気に勢いを失ったのである。
この戦いには、僧籍であり、高齢であったにも関わらず、細川頼之も加わった。頼之自身のたっての
希望であったが、その無理が祟ったのか、それとも、義満の最大の敵となると懸念していた山名一族を
討伐できたので安心したのか、風邪を引いて寝込んでしまったという。
管領であった斯波義将は、「京へ敵を入れて民の生活を乱した」ということで、義満が解任してしまい、
代わりに頼元が、兄である頼之の後見を受けて管領に就任した。これ以降、「一氏による長期間の政権掌握は
よろしくない」ということで、細川、斯波、畠山の三氏が交互に管領の地位に就くことになり、「三管領」
の制度は事実上整ったと言える。
「まこと、一族で仲が悪いとろくなことはない。私も満詮(義満同母弟)と、せいぜい仲良うせねば」
「ほほほほ」
桜の下で戯れ続ける彼女の「初孫」は、実は義満正室の子ではなく、すでに義満が多くたくわえていた
側室の一人、藤原慶子を母としている。
彼はその豪放な性格でもって、その後も、判明しているだけで合計九人もの女人を愛することになるのだが、
むろん、幸子はそのことを知らない。
「それらの女人の腹になる上様のご兄弟も、母を異にするとは申せ、仲良うしなされとのう、
しかとご薫育せねば。側におわす頼之殿は、さぞや口うるさいのではありませぬかや?」
「これは」
さすがの義満も「母」に言われると照れるらしい。額に手をやって、しきりと恥ずかしがる、
もう三十三にもなった息子を微笑ましく見ながら、
「頼之殿、と申せばのう…あの方にも、上様がお小さい時から、まことにご苦労をおかけしました。
上様には、わざわざ御前沙汰まで設けられて、六十を越えた頼之殿をこき使われてのう」
「ははは。僧籍にある頼之を再び使うために設けた決まりごと。それだけ私が、頼之を
信頼しているという証ではございませぬか」
そこで義満は、庭へ降りて我が子を抱き上げ、子への茶を淹れるよう、控えていた侍女の
一人に手振りで命じながら、
「頼之は私の父、そしてなさぬ仲とは言いながら、母上様が私の母。『父母』ならば、
生ある限り子の仕事を助けてくださるのが当たり前。いや、母上様が私の母上で良かった!」
おどけて言った。
「まあ、お言いやること。女人へもなあ、その調子でさぞや上手いこと、口説いておいでなのであろ」
幸子も道化て返すと、また辺りは笑いに包まれる。
(父母、のう)
そこで、彼の乳母でもあった頼之の妻、庸子のことがふと思い出され、
(阿波までついてゆくのが妻としての勤め、とのう。とうとう他におなご一人作られず、
それゆえに妻にそこまで思われて)
庸子は自分だけが頼之に愛されていると信じていたから、そう思えたのだろう。ただ幕府を強くするため、
と、ただそのことだけを考えていたために、その他を考える余裕がなかったといえばそうなのかもしれぬが、
仮初めにも夫であった義詮一人さえ愛することもなく、きちんと向き合うこともしなかった。
そんな自分と比べて、
(私は、女としては不幸であったかもしれぬなあ)
「憎い御方よ」
心の中に浮かべた頼之、庸子、どちらへともなくほろ苦く笑って幸子が呟くと、
「私は、私と契ったおなごは全て幸せにする自信がござる。頼之は、おなごの無用の恨みを買うと
相変わらず煩いが、何、それこそ無用な心配と申すもの」
自分のことを言われていると思い込んでいる義満は、唇を尖らせてひょっとこの真似をした。
我が子を肩へ乗せ、能役者の真似をして舞い始める彼へ、周りの者が手を打って笑っている間にも、
桜はハラハラと散り続ける。
(まこと、政も人生も、能の舞台のようなもの。私の出番は終わった)
花びらの一枚が、春風に吹かれて幸子の膝の上へ落ちたのへふと目をやりながら、
(このうえは、上様の邪魔にならぬように、己で幕を引いて『失せにけり』と参りたいものじゃ、
なあ、ばさら殿。私の幸せはまあ、『及第点』といったところであろ)
彼女は心の中で亡き道誉へ話しかけていた。

終 「失せにけり」

そして明徳三(一三九二)年四月。細川頼元に案内されて、西の外れの地蔵院を訪れる幸子の姿があった。
「今となってはもう遅いが、地蔵院とやらへ参りたいもの」
と漏らした幸子の希望を入れたのである。
「大方様。雨で地面が滑りやすうござりまする。足元には気をつけなされて。どうぞ無理をなさいませぬように」
西芳寺に面しているあの急坂を登りながら、近頃は、とみに胸の動悸が激しくなったという幸子を、
頼元は折々振り向いて気遣った。
「恐れ多いことながら、手前が大方様を負ぶうても」
「それには及びませぬ。まこと、すみませぬな。どうも胸が苦しゅうて、早くは歩けぬだけじゃに」
その彼へすまながりながら、まことに短い坂の途中で、幸子は時々足を止めては嘆息をついている。
結局、戦の後始末もあって、幸子とはその後再び話す機会もないまま、頼之は二週間前に風邪をこじらせて
亡くなっている。義満主催の葬儀が相国寺で行われ、頼之の遺言によって宗鏡禅師も眠る地蔵院に葬られたのだ。
「兄は、上様にとって一番気がかりであった山名一族の勢力を削げて、もう思い残すことは無いと申しておりました」
「お風邪でお亡くなりになるとは、私も思いもしませなんだ。お年を召されておられたゆえなあ。
無理をおさせしまいて、すみませなんだのう」
幸子が苦笑しながら応えると、
「なんの。最後の最後まで使うて頂いて、兄も私も、感謝しておりまする」
彼は首を振って言うのである。
二十五年前、兄弟で眺めたのと同じ場所から、今度は幸子が京の町を見下ろしている。桜は今年も
町のあちこちで美しく咲いており、
「さぞや、私をお恨みであったろ」
雨の中、桜色にかすんだような街並を眺めながら、しみじみと彼女が言うと、
「いいえ。京に戻りまいてから、兄は大方様にお詫びを申しあげたいと常々」
「さてもお詫びとは大仰な」
「いえ、いいえ」
これが実の兄弟かと思うほどに、頼之とは似ていない角ばったその顔を「大仰に」振り、
「大方様という御方を誤解申しあげていたこと、なんとしても風邪を治して正直に申しあげ、謝罪せねばと、
晩年はそれだけを気にしておりました。ささ、ま少しの足労を願わねばなりませぬ。こちらへ」
掌を上に向けて頼元は言うのである。
性格はどうやら、頼之ほどではないが彼に似て生真面目であるらしい。そう思ってみれば、幸子に向けている
頼元の背中の雰囲気は、やはり兄に似ている。
「これはまた、清々しいたたずまいにござりまするなあ」
山門をくぐると、幸子は感嘆して息を吐いた。本堂へ続く砂利を敷いた道の両脇には、雨に打たれて
かすかに葉ずれの音を立てる竹やぶがうっそうと茂っていて、
「右は方丈。庭には十六の羅漢に見立てた石を飾っておりまする」
「羅漢、とのう。たしか、宋よりもずんと向こうの、天竺の仏様とか聞いた覚えがあるが」
「はい。見つけた人間を幸せにするそうにござる。宗鏡禅師のお心遣いにて」
「ふむ。じゃが」
得々と説明する頼元へ、しかし何を思ったか幸子は首をかしげ、
「幸せというものは、石っころの中にあるのではなくて、人がそれぞれ、己の中に見つけるものではないかの。
羅漢を見つければ幸せになれる…となれば、羅漢を求めることそのものが目的になってしもう人も出てこよう。
それでは本末転倒ではないかや」
「これは…ふむ。仰せのごとく」
(なるほど、禅師が申されたように、このお方は羅漢じゃ)
確かに尼形ではあるが、それは夫を亡くした妻としての、形式上の出家である。だもので、幸子自身は
特に仏教に対する造詣が深いとも思えない。恐らくこれまでの経験と、生まれもった感覚でそれを知ったのだろう。
彼女の言葉に感嘆すると同時に、
(確かにこれでは、あの兄とは合わなかったに違いない)
頼元は、彼の兄が幸子に苦手意識を持っていた理由が、わずかながら、ようやく納得できたように思ったのである。
その幸子は、
「おお、疲れる。肩の凝る話はやめじゃ。さても頼之殿はどちらにおわす?」
「こちらの左で、宗鏡禅師とともに眠っておりまする」
まるで、まだ頼之が生きているかのように問いかける。微苦笑を漏らしながら頼元が示すように、本堂の左には
小さな道がついていて、どうやらその奥に頼之の墓はあるらしい。
「…雨は止みまいたなあ」
そちらへ足を運びかけて、幸子はふと空を仰いだ。供の者達もつられて顔を上げると、なるほど、どんよりと
空を覆っている雲の隙間から、少しずつ光が漏れ始めている。
「頼元殿へ例のものを」
そして彼女は後に付き従っていた頼元を振り向いて、傍らの侍女に持たせていた包みを解かせた。中から出てきたのは、
「観音菩薩、にござりましょうか」
「左様。ゆえあって、私が庸子殿からお預かりしたものじゃ。今、お返しいたしまする」
「…それは」
「庸子殿が、朝な夕な、もったいなくも私や頼之殿ご一族の無事を祈られておったもの。
せめてこの仏様だけでも、頼之殿の側に」
「…かたじけのうござりまする」
侍女の手から渡されたそれを両手で押し頂き、頼元は幸子へ深々と頭を下げた。それへ少し笑って、
「傘は要らぬ。頼之殿と話がござりまする。少し、一人にしておいてくだされ」
幸子が言うと、頼元はしばらく配下や幸子付きの侍女と顔を見合わせていたが、
「それでは我等、方丈へ参っておりまする。後ほど、誰ぞを呼びにやりまするゆえ」
軽く頭を下げて、本堂を右へ曲がって行った。
(まあ、これはなんと)
途端に幸子は目を丸くする。
地蔵院の二代目住持、宗鏡禅師と並んだ頼之の「墓」は、
(このように、大きな岩をでん、とばかりにのう…)
次に幸子が苦笑したほど飾りもなく、素っ気無い。
余計な飾りや塔は要らぬからと、これも生前の頼之のたっての希望であったというが、木を挟んで
 両隣に大岩を置いただけの墓標は、
(まあ、貴方様らしいと申せば、まこと貴方様らしい)
幸子はそう考え、クスクス笑ってその岩の表面へ手のひらをそっとつけた。
(生国の三河にも、自国の領土の備中や讃岐にも戻らず…貴方様は、お亡くなりになっても、ここから上様を
お守り下さっているのであろ。阿波に葬られたという庸子殿は、貴方様のお帰りを今か今かと待っておられたであろうに)
その岩の表面は、雨を含んでしっとりと濡れている。
(死してなお、上様を…お役目を果たしておいでとはのう。私には到底、そこまでは出来ませぬ。まこと、
お疲れ様にござりました。お互いになあ)
思った途端、幸子の頬を雫が流れた。木の葉から落ちてきた雨の雫かと思ったが、
(あれあれ、私は泣いておるわ)
今まで誰の死にも心を動かさず、涙すら出なかった幸子は、泣いている自分に驚きながら、
袂から取り出した懐紙で己の頬を拭った。
(もしも、のう。貴方様のお父上の懇望どおり、貴方様の元へ私が嫁入っていたら…否)
そこで幸子は泣き笑いの表情になり、
(いやいや、やはり貴方様と私が夫婦というのはなあ、想像も出来ぬわ。まるきり狂言の舞台ではないかえ。
大根役者同士でのう)
若かった頃のように、思わず声を上げて笑ったのである。
「大方様。お茶の用意が出来ましたゆえ、お迎えに上がりました」
そこへ、若い侍女が遠慮がちに声をかける。振り返っていたずらっぽく笑いながら、
「頼之殿となあ、話をしまいた」
「まあ、どのような」
木の根に足を取られて滑りかけた幸子を、その侍女が支えながら問うと、
「さてもさても貴方様はやはり、まこと肩の凝る御仁じゃ、となあ」
幸子は再び笑った。その瞬間、我が胸を押さえてうずくまる…。

そのまま倒れた彼女が、義満の願いも虚しく、昏々と眠り続けて帰らぬ人となったのは、それから三月の後、
明徳三年七月十五日のこと。この「女傑」の死を、義満のみならず皇家も惜しみ、葬儀には丁重に使者を送って
追悼の念を表している。
幸子が望んでいた両天皇家の「仲直り」、南北朝の合一が行われたのは、それから間もなくのこと…。
もしも意識があれば、
「最後の『大芝居』をぜひとも見たかったのう」
と言って笑ったかもしれぬ幸子は、嵯峨香厳院に葬られた。幸子が庸子からあずかり、頼元へ託した
千手観音菩薩坐像は、その後も地蔵院に国宝として大切に保管されている。


…終



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