我が胸中に在り 14



康暦元年半ば。再び義満は南朝勢力の掃討を命じ、大和や紀伊へ土岐頼康らを初めとする
反頼之派の武士らを派遣していた。だが、ほぼそれと同時に近江では京極高秀が反頼之の兵を
挙げたのである。それに呼応して、土岐、斯波らは紀伊へ向かうどころかその兵力でもって、
完成間近の花の御所を囲んでしまった。
彼らの要求するところは、もちろん「管領家の罷免及び討伐」と「これらの軍事行動に対する容認」で、
それを聞いた頼之は、
「兄者(清氏)がかつてしたことの罰を、私が受けることになろうとは。これが仏罰、というものであろうかの」
と、自嘲したという。
「庸子殿、そのお支度は」
「永らくのお暇ごいに参りました」
康暦元年半ば。すっかり旅支度を整えた様子の庸子が己の前に手をつくと、さすがの幸子も動揺した。
「それはまた、なにゆえに…庸子殿だけは、ここへ居てくださるものばかりと」
「面目次第もござりませぬ」
「そのようなことを…何、頼之殿が罷免されたとしても、それは一時だけ、形だけの事。
生きてさえあれば、復帰も可能ではありませぬか。少しくらい図々しくとも、人は存外、
何も言わぬものじゃ。こなた様も、これまでの我らのやり方をご存知であろ。あの斯波一族とて、
すぐに赦されているではありませぬか。此度とて、それと同じなのじゃ」 
必死で言いながら、思わず彼女の側へにじり寄り、幸子は自分よりもずっと痩せたその肩へ片手を置いた。
すると、庸子は目に涙を滲ませ、震える声で、
「頼之は先日、上様に向かって、邸へ火をかけるゆえ後始末を頼むと申し上げ…一族を連れて
阿波へ引っ込むと言うておりまする」
「…なんと…いつもながらあのお方は、せっかちすぎじゃ」
「まことに」
幸子が言うと、庸子は苦笑し、
「こなたはここへ残ってもよいぞと、頼之は申してくれやったのでござりまするが」
そこで大きく息を吸い込んで、
「私は、細川頼之のただ一人の妻ゆえ…夫の参るところへなら、どこへでもついてゆくのが、
妻の務めではないかと考えましたゆえ」
一気に言い放ち、声を殺して一声泣いた。
「庸子殿」
「申し訳ござりませぬ。お見苦しいところを」
放心したように己の名を呼ぶ幸子へ、庸子は涙を拭きながら、
「頼之が皆にそっぽを向かれて一人になりまいても、私のみは大方様の庇護によって、こちらへ
仕えておられる他の侍女方に、いじめられることもついぞござりませなんだ。馬鹿馬鹿しいと
思われるでありましょうが、大方様に私が庇われてきたゆえに、私が被るべき非難の分まで、
頼之へ行ってしもうたのかと思うと…」
「ああ」
幸子は思わず頷いた。確かに庸子が義満の乳母であり、幸子の「お気に入り」でなければ、
心ない女どもは頼之のことにかこつけて、庸子を虐げたに違いない。
(それにしても、まことにお優しい御方よ)
そんな幸子へ庸子は少し笑って、
「大方様、恐れ多いことながら、私は貴女様が『大好き』でございます。それゆえ」
傍らの小さな荷の中から、何かを取り出した。
「僭越ながら、これを…私が毎日、夫や大方様のご無事を祈念しておりまいたもの。
よろしければ、お受け取り下されませ」
「…しかと受け取りました」
それは、千手観音が坐した、十寸(約三十センチ)ほどの小さな銅製の仏像である。
両手でそれを押し頂く幸子へ、
「大方様がこれからも息災でありますよう…私に代わりまして、その仏様が大方様を
お守りくださりますよう、阿波よりお祈りしておりまする」
「庸子殿」
畳へ頭をこすり付けるように平伏しながら言って、庸子は立ち上がる。幸子が再び呼ぶと、
彼女は静かに振り返る。むしろ淡々としたその表情に、胸をきりきりと絞られるような痛みを覚えながら、
「必ずや、戻って参られよ。いつまでもお待ちしておりまする」
幸子が言うと、庸子は涙を零しながら深々と頭を下げた…。
こうして、細川頼之も管領の地位にあることほぼ十年で失脚した。これが、後に康暦の政変と呼ばれる
政権交代劇で、さすがに幸子も大きく息を吐いた。
(今回ばかりはまことに肩が凝った…疲れまいた)
義満にも胸に迫るものがあったろう。彼もまた幸子同様、半年間ほど片づけを命じもせず、
そのままにしておいた六条万里小路の焼け跡を訪れては嘆息したものだ。
その後を襲ったのは、反頼之派がこぞって推した斯波義将である。
新管領の正式な任命式は、完成したばかりの花の御所で行われた。これによって、幕府の政治の中枢は、
再び斯波一族で占められるようになったのだが…。
かつて坊門邸でも嗅いだ、すがすがしい畳の匂いを胸へ吸い込みながら、
「庸子殿から手蹟が来たのじゃが、頼之殿は、阿波へ戻られる途中で出家なさいましたそうな」
(忸怩たる思いであられたか…しかし、逆にさばさばしておられたかもしれぬなあ)
幸子は縁側へ座って庭を眺める義満へ、茶を進めた。
「はい、その通りです。私には、直接頼之から知らせが来ました。気候は温暖、海からも山からも
採れるものは美味いゆえ、折があれば、ぜひ讃岐へもおいでなされと」
軽く頭を下げてそれを受け取りながら、義満は答える。
敷地だけでも、御所の二倍にも及ぶと言われた花の御所は、永和六(一三八一)年に、やっと
その外壁が完成した。待ちかねていた義満は、既に完成していた寝殿に己のみ住まっていたのだが、
完成を聞くやいなや、一族を招いて長年住み慣れた三条坊門からそちらへ移らせたのだ。
政変の折、武将らが囲んだのはこの寝殿のほんの二、三間先で、
「上様にも、お疲れであったろ」
二年前の出来事をしみじみと瞼に思い描きながら、幸子は義満をねぎらった。
「…母上様にしては、間の抜けたことを仰る。年を取られたという証拠でしょうか」
 すると、義満はニヤニヤと笑って母の顔を見るのである。
おやおや。確かに年は取りまいたが…何か、おかしいかの?」
「いや、私も少しやりすぎたかと思うて。頼之がまさか、あそこまで生一本とは思いませなんだ故。それ、ここに」
 いまいち要領を得ない幸子へ、義満は懐から一枚の書状を出して示し、
「頼元からの赦免を乞う書状が届いておりまする。私は近々、頼之を『赦す』ことになりましょう」
「…なんと仰せある」
「母上もようご存知のように、そもそも私は、頼之を父と思うておりこそすれ、毛ほども憎んでおりませぬ」
「それは、のう…」
『母』の驚いた顔がおかしかったらしい。義満はますますニヤニヤと相好を崩し、
「母上様の真似をしようと思うたが、母上様がおやりになられた以上の騒ぎになったと、ただ
それだけのことにござりまする。男が動くと、かほど事は大仰になるのかと、私も驚いたもので。
まさか細川以外のほぼ全てが、『敵』に回るとは思いもしませなんだ。しかし、それゆえに
反ってやりやすかったというもの」
「上様」
幸子は思わず「息子」の顔を見直していた。
つまり幸子がやってきた「武士どもらを互いに争わせて勢力を削ぐ」こと、それを真似したのだと、
義満は言っているらしい。
「そろそろ私も、頼之から離れても良い頃。そう仰ったのは母上様ご自身ではありませぬか。
頼之には何の恨みもありませぬが、何、辛いのは一時のこと。ほとぼりなぞすぐに冷めようから、
いつなと復帰させればよい…そう割り切りましたらば、物事がよう見えるようになりました」
何事も無いように、義満はカラカラと笑う。事実この数年後、彼は将軍としての睨みを聞かせるために
西国へ旅するのだが、その際に阿波へ立ち寄って頼之と大いに旧交を温めもしているのだ。
「頼之は、世を去ってしもうたが赤松則祐やばさら殿、そして今目の前におわす母上様同様、
私が心から信頼している数少ない人間の一人。じゃが、それはそれ、これはこれ…情と政とは別じゃとなあ。
これも母上様の口癖にござりましょうが。信頼しすぎれば細川とていつまた、幕府をしのぐ勢力を
持たぬとも限らぬ。それゆえ、これくらいの荒療治は良いであろうと」
「まあ…まあ、上様は」
(ほんの数年前には、私が頼之を憎んでおるのかと詰め寄った御子がなあ…)
彼女の知らぬ間に、義満は幸子から多くを学び取っていたのだ。
「母上様」
ただ驚いている幸子へ、義満は、これだけは幼少から変わらぬ下膨れの頬を少しだけ引き締め、
「土岐康頼は老いぼれで、斯波は思慮に欠けるゆえに、機嫌さえ損ねなければ手綱を取りやすい。
よって管領にしたところで、さしたる支障は出ぬ。山名はいずれ始末をつけるつもり…さすれば、
皆は幸せでござりましょう。ま、頼之のように、やり過ぎはいかぬが」
そこまで言って、再び豪快に笑いながら「少憩は終わりにござる」と、政務の場である
表座敷へと戻って行ったのである。
(そうよなあ。私も年を取った。登子様がお亡くなりになった年になるまで、あと十年。
庸子殿にも再び会えようか)
いつの間にか将軍らしく、頼もしく成長していた義満を見送りながら、幸子は深々と息を着いた。
気がつけば、自分はもう五十に手の届く年になっている。ふと周りを見回せば、己に仕えている者は
新しく雇い入れた若い侍女たちばかりで、見知った者は数少ない。
(少し薄ら寒いわ。これも年を取ったゆえかのう)
ふと心に忍び込んできた「寂しさ」を、努めて感じないようにしながら、
「さて、観阿弥でも呼ぶかの。ここで能のお仕舞いを見せてくれやるように、使いを出してたも」
幸子が明るく言うと、途端に若い侍女達が騒ぎ出す。老侍女は、それを苦笑いしながら制する。それを見て、
(そうじゃ。人の上に立つものが、辛気臭い顔をしていてはならぬわ。こうして生きてある限りはのう)
幸子の唇に再び笑みが浮かんだ。
斯波義将や、頼之の伊予における政敵であった河野氏らの要求を一度は呑んだ形で、頼之追討令すら
出したらしい義満も、その翌年にはそれを撤回している。義詮ならば到底不可能であったばずの
それを成せたということは、義満自身が次第に幕府の政治を執りつつあるということで、
(なるほどなあ)
幸子は、先だっての義満の言葉が大言壮語ではなかったことを、改めて認識したものだ。
頼之がいなくなったから、というので、ヘソを曲げていた春屋妙葩も再び五山側の代表として就任している。
このことからも、
「妙葩殿も、ひょっとして頼之殿失脚に一枚噛んでおったのではありますまいか?」
いつであったか、
「上様にチエをつけられたのは、妙葩殿では?」
いたずらっぽく幸子が問うと、義満はトボケた顔で、
「さあ、それはお母上様のお考えのままに…」
と言ったものだ。
寺社勢力に対しても、義満は強気に出ている。頼之失脚と相前後して、奈良興福寺の信者どもらが
春日大社の神木を担ぎ、
「南朝方の武士である十市遠康に奪われた寺社領を、幕府の力で取り戻せ」
と、京へ強訴にやってきたことがあったが、この折も、春日大社を信奉している藤原系公家らは、
神木の祟りを恐れるばかりで、宮廷へ出仕しようとしなかった。
この中で、義満のみは、
「恐れ多くも清和帝の御血を引く源氏であり、藤原氏にあらず」
よって神木の祟りは己には降りかからぬ、と出仕を続け、翌康暦二(一三八〇)には、中断を
余儀なくされていた宮中行事である御遊始、作文始、歌会始などを立て続けに、しかもことさら大仰に催している。
「日の本の帝に楯突くならついてみよ。神の子孫たる皇家を護らねばならぬはずの木が、
その主に祟るとは片腹痛い」
とばかりに、強訴にやってきた信者どもらを、無言で逆に威圧したのだ。このため、信者らは、
十市遠康討伐の約束を辛うじて幕府に取り付けただけで、同年十二月十五日に奈良に戻っていったのである。
今回の神木を担いでの強訴は、いわば史上初めての失敗に終わって、これにより寺社勢力は
大打撃を受けたといっていい。この鮮やかな「芝居の結末…」に、京の町民らはやんやの喝采を送った。
こうした中で、幸子は、花の御所が完成したその年、後円融天皇が行幸された折に、
従一位を授けられている。これはかつて、夫の義詮も授けられたことのある、女性としては最高の地位で、
「幕府と朝廷の融和を図り、朝廷へ多大なる尽力を捧げた…」
との言上とともに、彼女へ下されたものだ。これは無論、朝廷の中でまだ脈々と息づいている
「渋川幸子派」の斡旋によるもので、同時に、義満の亡くなった生母、紀良子や、義満の正室、
日野業子にも従二位を与えられた。
もともと幸子は、朝廷の地位は「飾り物」だと考えている。だが、将軍の母が、曲がりなりにも
最高の地位を与えられたということはやはり、
「幕府に箔はつきましょうなあ」
ということで、
「まこと。飾りは飾りではありましょうが、役に立つものは大いに使わねば。役者へも、投げ銭がなければなりませぬ」
天皇一行を花の御所から送り出した後、共に「肩が凝る」などといつもの口癖を言いながら、
母子は二人して顔を見合わせて、大いに笑った。
そして、義満が自ら政権を握り、奉公衆と呼ばれる将軍直轄の御家人制度を作ってから、幕府の権威は
より一層高まった。これは守護大名や国人から選ばれた武士で構成されており、その数は総勢五千から一万とも言われている。
(守護大名となった諸侯に対抗するには、ただその上に乗っかっているだけではならぬ)
頼之失脚により、義満自身が考え出した己のためだけの軍事力で、これはその子、義持の代になって
より強化された。さらには公家社会における地位でも、かつて公家衆へ向かって啖呵を切った二条良基の
援助を受けながら、権大納言にまで上っている。
こうして、北朝側が義満の代になって着々と足場を固め、さらにその勢力範囲を全国へ広げていったのに対し、
南朝側は昔日の勢いを急速に失いつつあった。気弱になっていく南朝側へ、義満は、
「一本化に同意なさってくだされば、皇室の方々、公家の方々の生活は保障しまする」
「一本化となっても、これまでどおり、持明院、大覚寺、それぞれの系統で交互に皇位について
いただけるよう、お約束しまする」
「お聞き入れなき場合は、それらは全て保障いたしかねまする」
折々に使いを送っては脅し、なだめ、すかし、交渉という名の揺さぶりをかけていったのである。
かくして、康暦の変から十年あまり。斯波義将には口を出させても断は取らせず、細川頼之を
康応元(一三八九)年に正式に「赦免」して、その弟である頼元ともども、再び京へ呼び寄せた義満へ、
「…もう、私が差し出た口を挟むこともなくなりました。上様はもう、お一人でも十分におやりになれる」
幸子は庭に散る桜と、その下で戯れる初孫(後の義持)を見ながら、しみじみと言ったものだ。
思えば、幸子が誕生した六年後に『室町幕府』は創設されたのである。いわば幕府は幸子の人生そのものと言ってよく、
(よくもここまで来たもの…)
戦を失くす、そのためには幕府を存続させることこそ肝要…そのことだけを思って己の評判など気にも留めずに走り、
その結果、不本意ではあるが今でも陰では畏れられている。義満が自身で政務を執るためには、それが逆に障害になるだろう。
(これまでとて、でしゃばってきた覚えは無いのじゃがの。なるだけ早う、潔う引っ込まねば)
ふと息をついて、
「まこと、肩が凝りましたわ。もうよい年じゃものなあ。ようよう負っていた荷を下ろしまいた気分にござりまする」
幸子は正直に愚痴った。
(庸子殿も、阿波へ戻られて間もなく亡くなっていようとは)
戻ってくることを約束したはずの「友人」も、鬼籍の人となってしまった。そう思うと、
今までには気付かなかった疲れが、体のあちこちを蝕んでいるのが分かる。
「なんの。母上様には、皇家が『仲直り』するまでを見届けていただかねば。それも恐らくは、
まもなくのこと。この義満が催す、一世一代の芝居となりましょうゆえ、どうぞお楽しみに」
すると、義満は彼女の肩を揉みながら笑うのだ。
「…上様は、まことお元気であられること。つくづく私は年を取ったと思いまするわえ。昨日は土岐、
今日は山名と、二つながら始末を付けられるとはのう。さすがお若いだけに、精力がたんとおありじゃ」
そんな「息子」へ幸子が嘆息するのも最もで、康応元(一三八九)年には土岐氏を、
明徳元(一三九〇)年には、全国で六十六カ国あると言われていた当時の所領のうち、
十一カ国を保有していたゆえに、六分の一殿と呼ばれていた山名氏を、それぞれ逼塞させているのである。
「いやいや、土岐はともかく山名までもが、一気に片付くとは私も思っておりませなんだ。
いつもながら、まことに母上の教えは素晴らしい」
義満がまた、ニヤニヤしながら言うように、そもそもこれらの戦は、義満が両氏を挑発した結果なのだ。


to be continued…


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