我が胸中に在り 12



四 政変、そして

(大方様も親父(道誉)殿も、気楽に過ぎる)
頼之のほうは頼之のほうで、二人の様子へ少し不満を抱いている。
応安元(一三六八)年、宗鏡禅師(碧潭周皎)に深く帰依して建立した、この地蔵院の方丈で、
座禅を組んで軽く瞼を閉じながら、
(幕府の頂点に近いものとして、今少し緊張感というものを抱いてもらわねば)
考えることは、周辺の竹がもたらす静寂とは裏腹だった。
しばらく阿波へ引っ込んでいたので、いまいち中央の状態には疎い。だが、
(幕府の権威を高めるためには)
と、これも幸子とは違う立場で「まだまだ脆い幕府をより強くする」ことのみを
考えているという点では同じである。
それにはやはり、幕府は一枚岩でなくてはならぬ、と、彼は幸子とこの点でも同じことを考えているし、
義満を託されたことは、幕府すなわち義満を守らねばならぬという、その思いに一層拍車をかけた。
というよりも、その一方向に偏ってしまった、といっていい。事実、義満に関わる行事のことごとくを、
将軍の威を高めるためとして、彼は日頃の彼に似合わず、大仰すぎると非難を浴びるほどに派手にしてのけているのだ。
もともとが「与えられた仕事は十二分にこなすのが勤め」と考える、生真面目一方な人物なのである。
生真面目なのは彼の家庭においても同じで、
「家庭を守り、世継ぎを生むのが妻の役目」
としながらも、正室の庸子があげた我が子が早世して後、一向に子に恵まれぬことに悩んでいる彼女を見て、
愛人一人持とうとしない。ために庶子でも我が子と呼ぶものを、生涯持たなかった。
「だからといって、妻のほかにおなごを作って悲しませるのは、余計な罪作り」
と、公言して憚らぬ「カタブツ」なので、子としては実弟の、年の離れた頼元を養子に迎えて跡継ぎとなしている。
つまり、「こうと思い込んだら、それのみしか目に入らぬ」、悪く言えば年をとっても角の取れぬ
頑なな人物であったということで、幸子の方もまた「己は己、人は人」と割り切って考える個性を持っている。
このような強烈な個性の者同士がぶつかりあえば、強く惹き合うか、あるいは逆に強く反発しあうかの
どちらかしかない。幸子はともかく、頼之が、
「大方様には、今少し危機感というものを持ってもらわねば困る。能やら狂言やら、あのように
怪しげな連中をお邸へ出入りさせて」
と、折々その弟や妻に漏らし始めても、幸子の方は、頼之が自分のことをそう言ったと、
庸子から済まなさそうに告げられた時ですら、
「あの御仁なら、そう申されるであろ。あな、おかしや」
と、ただ無邪気に手を打って笑うのみであったし、
「芝居のような感覚で、男どものなす政に口を挟まれても困る」
頼之のみは、道誉や赤松則祐と違って彼女と同世代であったということもあり、幸子が政
治を「どこか面白がっている一面がある」ことを鋭く見抜いてもいたから、次第に苦言を
呈するようになったのも、致し方なかったろう。
繰り返すが、女性というものは、あくまでも家庭を守り、陰で男を支えるのが役割であ
るし、女性は男が護るべきものだというのが頼之の信条であった。それゆえに、幸子のように
「おなごでありながら」政治に口を出し、夫を亡くしても悲嘆の色も見せぬと言うのは、まことに
あるまじきことのように彼には思えたのである。
管領就任から二年。その間に寺社に対しては五山制度を出し、宗教への統制を厳しくする一面で、
幸子にも絶賛された応安大法を、朝廷の勅許を得るという形で義満の名でもって施行しているし、
 義詮時代に一度朝廷へ謙譲した室町邸を、義満へ再び下されるよう、交渉を重ねてもいる。
(全ては、義満様の御為…)
義満への威信が高まれば、それは幕府の権威が高まることにもつながる。早くに実父を亡くしたという不憫さも相まって、
「上様の御父代わり、お疲れ様にござりまする」
「ありゃ、これは。気付きませなんだ。お許しあれ」
彼の側へそっと近づいた宗鏡禅師が微笑ましく思って言うように、頼之が義満へかける愛情は、実の父そのものであった。
「ま少し、肩の力を抜かれては如何かな。わが師が存命でおわせば、きっと御身を心配されておわしたろうが」
「いやいや、手前こそ、国師にさえご心配頂けるのは恐れ多い。ですがそれはなかなか」
完成したばかりの地蔵院を訪れた時は雨であったが、今ではそれがじりじりと焼け付く夏の空に変わっている。
(…清氏兄を討った私は羅刹じゃ) 
軒先から見上げたその空は、雲ひとつなくどこまでも蒼い。その蒼さに、ふと何年か前の夏の出来事を思いながら、
(まだまだ、羅漢を見つけるには遠いわ)
彼は嘆息した。
「肩の力を…なかなか、できることではありませぬ。手前、未熟者ゆえ」
「上様には帝王学を、そして内と外には政を…気骨が折れることでござろ」
言いながら、宗鏡は冷えた緑茶を頼之へ勧めた。畳の色はまだまだ新しい蒼で、すがすがしい草の香りを放っている。
どうやら宗鏡も、自らが差配したこの寺が気に入っているらしく、毎日のように入り浸っているという。
「いやさ、手前」
その茶は少しほろ苦いが、喉へ流し込むと通った場所から彼の喉を冷やす。少しずつ味わいながら、
「国師の仰っていたような、羅漢にはなれませぬなあ。まこと、不肖の弟子にござる」
彼は方丈の前の、十六の石を見て苦笑した。
自分で自分を「こうあらねば」と、常日頃から厳しく戒めているためか、他人に対しても、ついそれを求める。
失敗をするのは人の常だとは思っていても、
(幕府の大事な政を預かる身でありながら)
と、つい思ってしまって、些細な過ちでも見過ごすことが出来ぬところなどは、己でも嫌気がさすほどで、
かつて頼之がとりなして、一命がつながったはずの山名時氏の縁に繋がる氏清でさえ、たったの二年で
彼を煙たがるようになってしまった。
そして、頼之を煙たがる人間は…当然のごとく、というべきか…もう一つの隠然たる勢力と見られている
三代将軍後見で前将軍正室、渋川幸子へすりよるという、
(大方へ、あらぬことを吹き込んでおるのではないか)
幸子がそうそう、人の噂に左右される人間ではないと、妻の庸子からも常日頃聞かされているにも関わらず、
つい、そう心配してしまうように、彼にとって甚だ面白くない結果になっているのが現状である。
もっとも、そこには反頼之派の武士らの、
(大方様も、現管領家を面白く思っておられぬはず…)
という、勝手な見方があったし、そう見られる十分な原因は確かにあったのだ。
二代将軍、義詮が亡くなる一年前の貞治五(一三四八)年に、幸子の実兄、渋川直頼の子である義行が
十八歳で九州探題に任ぜられていた。幸子の甥であるからというわけで、義詮は半ばお義理でこの栄誉を
義行に与えたのだろう。しかし、世間は幸子が強引に勧めたと噂しあった。結局のところ、義行は菊池氏などに
阻まれて九州へは一歩も入れなかったので、頼之はこれを罷免して、頼之と親交の深い今川貞世を派遣した、
それを幸子が恨んでいる、というのである。
実際のところ、いくら恐れられているからとは言っても、幕府の人事に幸子がそこまで関与できたはずがない。
勧めたというのは事実だったかもしれないが、採用を決定するのはあくまで当時の将軍、義詮だったのだ。
たとえ幸子が勧めたとしても、義詮がつっぱねれば、幸子の性格からして、それ以上強く推そうとは思わなかったに違いない。
責任を問われるべきなのは幸子ではなくて、若すぎる義行を九州における南朝討伐という、重要な任務を負う
九州探題に任命した、義詮のほうであろう。
渋川義行が九州探題を罷免されたのは、単に彼の実力不足のためである。役に立たなかったから罷免される
というのはむしろ当たり前で、何より彼の叔母である幸子が、
「不甲斐ない甥じゃなあ」
と言って、わざわざ義行を三条坊門邸へ呼びつけて、叱り飛ばしさえしている。その後義行は、
世を拗ねて政治の表舞台から引っ込み、さらに出家して道祐と称して、罷免された五年後の
永和(一三七五)元年に二十八の若さで亡くなっている。
ともかく、幸子は幸子で、
「義行よりは、今川殿のほうがなんぼうかマシな働きをなさろう。管領家の処置は正しいわえ。
甥とはいえ、大事なお役目を果たせなければ、お役御免は当たり前。私は一向に気にしておりませぬし、
私に遠慮なさることはありませぬ。じゃが、世間というものはまこと、次から次へと面白いことを
考え付くものじゃ。一度は私も、噂するほうへ回りたいものよなあ」
と、カラカラ笑い、
「言わせたい者には言わせておけばよい。我らは事実を知っておる。いずれその事実が噂を消すであろ。ま、放っておかれよ」
談判に言っても、頼之の妻の庸子を、ちょうどよい相手として茶を飲んではそう言うのが常で、
これも彼から見ると、面倒ごとをのらりくらりとかわしているとしか思えない。結局、頼之と幸子の間にある
「誤解」を解こうともせず、武士どもらへ弁解しようともしないのだから、流れる噂のいちいちにイライラしている
頼之には、歯がゆがるしか出来ない有様なのだ。
そこへもってきて、
「こなた様が五山の決まりごとを整えられまいた折、大方様からも色々とお骨折りを頂きましてな」
宗鏡までが、空になった自分の湯呑みへ二杯目の茶を注ぎながら、
「あのお方も、貴方様と同じで大したお方じゃ。政に深く関わり、羅刹ばかりの中に身を置いておられながら、
なお人生を楽しむコツというものをご存知のようにみえる。幕府の中におらるる方のうち、大方様こそが、
ひょっとすると、羅漢に一番近いお方かもしれませぬな」
と言うものだから、
(大方様は、ただ面白がっておるだけじゃ)
無理に自分を管領の地位につけておりながら、協力もせぬ癖に、と、頼之、いよいよもって面白くないのであった。
幸子の方では彼へ特に悪感情その他を抱いていないのであるから、そこで頼之が我を捨て、幸子と
手を組んでいたならば、義満にとっても、それ以上ないほどの頼もしい『父』と『母』となり得たし、
幕府の安泰はもっと早く成し得たかもしれない。だが、
「宋の昔の言い伝えにも、おなごが政治に口出しすると、家が滅びるとありまするが」
憮然として、頼之は言い張る。何がおかしいのか、
「いやはや、おっしゃることじゃ」
たちまち声をあげて笑い出す宗鏡禅師へ、彼がむっとしたまま、
「政を預かる者は、己の身を削っても、他の者の幸せを考えねばならぬのではありませぬか。手前は、
己が幸せでのうてもようござる。じゃが、大方様は違う。まず自分ありき、自分が幸せでなくてはならぬと仰る。
そのお言葉どおり、能や狂言を鑑賞するためじゃというては、怪しげな連中を出入りさせる。
上つ方の風紀の乱れは、下にも通じる。これでは何のために手前が、ばさらを禁じたのか…その意味がありませぬ。
今は皆が一丸となって、己よりも幕府のことを考えねばならぬという時に」
「それそれ、そこが肩の力が抜けておられぬと拙僧が申す所以。羅漢はなあ、思いつめている人間には
ようよう見つけられぬもので」
反論すると、宗鏡は笑いを引っ込めて静かに言う。さすがに彼の言葉の中に深い意味があると悟って、
考え込んでしまった頼之へ、
「一歩引いておるからこそ、物事がよう見えるということもある。今一度、お考え下され」
あまり多くを語らず、禅師は再び微笑んだ。
(…知恵を拝借しに参ったのじゃがなあ)
貴重な『休暇』は、あっという間に終わってしまった。傾く夏の日差しを背中で受けながら、
六条万里小路の自邸へ馬を走らせ、
(相談する気が失せてしもうたわ)
頼之は何度もため息を着く。
応安三(一三七〇年)七月。先に頼之が制定した五山制度のせい、とは一概には言えぬが、それにより、]
以前からくすぶっていた信教上の問題が表面化した感がある。仏教の伝統的勢力であった比叡山と、幕府が保護した
新興禅宗の南禅寺との争いであった。
事は当時、幕府も経済面で援助していた南禅寺の楼門建造に端を発する。恐らくは新興派と伝統派、そして
信教の違いからであろうが、南禅寺と叡山派園城寺の争いにおいて、南禅寺僧定山祖禅がその著作で天台宗を非難した。
比叡山側も黙っているはずがなく、神輿を奉じて入京、朝廷に定山祖禅の流罪と楼門の破却を求めたのである。
もともと、神輿を奉じての「強訴」は、平安時代から比叡山側のお得意芸。久しぶりの「懐かしい風景」を、
京市民は無責任に面白がって騒ぎ立て、囃しながら眺めたものだ。さてもこの、「伝統のある」強訴に対して、頼之は、
「禁裏を護ることこそ第一である」
として内裏を警護させ、神輿の御所への「入場」を断固、阻止して僧兵を一歩たりとも中へ入れなかった。
宗教上の争いは、各自が信じている心の中の「何か」を護るためのものである。いわば互いに互いの考えを
否定しあうことになるために、今も昔も仲裁は真に難しい。これを、
「さてあの堅物どのは、いかに裁くやら。私が口を挟むと、あの御仁はよい顔をせぬし」
と、幸子はまたしても、ただ面白がって見ていただけなのだから、真に人が悪い。
さてもこの勝負は、朝廷の要請によって定山祖禅は流罪、しかし南禅寺の楼門造営は続行、という、頼之なりの
裁定で落ち着きかけたように見えたのだが、叡山側は、それでは引っ込まなかったのだ。楼門破却を求めてなおも強訴を続け、
その喚きは連日、三条坊門邸まで聞こえてきたというのだから、
「暑い中を、ご苦労なことじゃ。蝉より鬱陶しいのう。頼之殿は何をなさっておるのやら」
と、幸子が零したのも無理はない。しかしこれも「大方様はやはり管領殿へ不快感を示している」と、
大げさに周囲は伝えていく。
結局、朝廷や諸将も比叡山の威力を恐れた。宗教に心身を捧げたものは、死を恐れぬゆえに、
相手にすると武士よりも厄介なのである。
頼之も朝廷側の懇請によって、七月中には楼門撤去をやむなく命じることになった。すると今度は五山側代表で、
夢窓疎石の甥にあたる春屋妙葩が、
「大変に遺憾である」
と、幕府の象徴でもあった天竜寺住職を辞め、阿波国光勝寺や、丹後国雲門寺へ引っ込むことで、
その裁定に抗議の意を表したのである。これで、五山側とも埋めきれぬ亀裂が残ることになってしまったのだ。
武士の多くは、禅宗を心のよりどころとしている。その筆頭たる頼之の差配が拙かったから、妙葩がヘソを
曲げてしまったのだと言われて、
「ではどうすれば良かった…」
妙葩と直接話し合いたいと、何度か会談を持ちかけてはいるのだが、妙葩は「今の管領家では何を言っても
無駄じゃ」と、いっかな聞き入れようとしない。
「まこと、管領の仕事というものは頭が痛くなるものよ」
嘆きたいのはこちらのほうだと、坊門邸を訪れるたびに、頼之は妻、庸子の前で何度もため息を着いたものだ。
さらにその一ヵ月後の八月には、彼にとって再び頭の痛い問題が持ち上がっていた。かつて南朝に奪われ、
賀名生へ連れ去られた皇族のうち、祟光上皇が我が子の栄仁親王に皇位を譲りたいとごねていたのである。
(皇家のことであるから、皇家で判断下さればよいものを)
幕府管領の頼之にまで皇位継承問題を持ち込んでくるのだから、ただでさえ常に忙しなく頭を働かせている彼にとっては、
(恐れ多いことながら、わずらわしいだけじゃ…)
ということになり、せっかく彼の寺である地蔵院を訪ねても、心は癒されぬ。
頭を痛めていたのは幸子も同様。これは亡き夫、義詮の妹でもある頼子后や、栄仁親王生母の源資子に泣きつかれてのことで、
「…肩が凝るわ」
「御所へのお運び、まことにお疲れでござりましょう。お察し申しあげまする」
と、庸子が、坊門邸へ戻ってきた幸子を慰めていた。主従とはいいながら、今ではその垣根を越えて、
長年付き合いのある親友のように彼女を思っているのだ。
現帝である後光厳天皇は、祟光上皇の同母弟である。祟光上皇は、
「所詮、弟は我が身が南朝側へ奪われた時の身代わりに過ぎぬ」
と、常々言い続けてきた。後光厳天皇は、当時の幕府の事情で立てた、いわば「急ごしらえ」の帝であり、
普通なら実父がなるところの治天の君は、例外的にその母である。よって権威は弱いと思われ、その分
軽く見られていた節があった。味方であるはずの北朝内でもそうだったのだから、まだ若いはずの後光厳帝が
心身ともに疲れて、子である緒仁親王へ譲位を漏らすのも無理はない。
そこへ、待ったの声をかけたのが、祟光上皇だったのである。「兄」である自分の後継が
次代天皇となるのは当たり前だという、これも無理からぬ要求だ。
「急用じゃと申されるから、何事じゃと思うたら」
おお暑い、などと言いながら、幸子は庸子が差し出す冷えた茶を飲む。
 これが事実上、初めての「義妹」との対面で、
「嫂上様におすがりするしかございませぬ…」
挨拶もそこそこに、宮中の一室に通された幸子の右を頼子、左を栄仁親王生母の資子が固めて泣きの雨を見せるのである。
「はっきりとした返事は、私などの口からは申せませぬ」
と、幸子が困惑しながら言うと、
「そこを曲げて…嫂上様は、いつも私どもをお助けくださいましたではありませぬか。今ひとつのお骨折りを、どうか」
と、また泣き続ける。
(こればかりは私ごときに申されても、何ともならぬというのに。我が子を帝位につけようと思う者が、
泣いておるばかりでもなァ)
ともかくも考える猶予をくれと言いつつそれを慰めて、幸子が御所からようよう退出させてもらえたのが、
もう日も暮れて京の町に夜の明かりが灯りだす頃だった。これによって幸子は上皇派であると見られてしまったのだが、
彼女自身は例によって、まるきりそれを自覚しておらず、
「しかし義詮様に、よう似ておられたわ。頼子様を拝見申しあげて、我が夫の顔をな、それそれ、そんな風じゃったと
ようよう思い出すとはなあ、ほほほほほ」
のんびりとそんな風なことを話しもするのである。
「左様でございますか」
庸子は苦笑しながら、今度は袂から扇を出して幸子へ風を送っている。それへ「すみませぬなあ」などと言いながら、
心地よさそうに目を細め、
「…まこと、どうにもならぬわ」
しばらくの沈黙の後、幸子はぽつりと言った。庸子はそれへただ黙って頷き、同意を示す。
もともと幸子は、「政に支障がなければ、天皇位にどの親王が就いても同じ」だと思っている。
祟光上皇の子であっても、後光厳天皇の子であっても、天皇と名のつく者を上へ戴いてさえいれば、
彼女の理屈の上では幕府は幕府として成り立つのであるが、
「義妹君にまで出てこられてはのう…」
自らは女性でありながら、考えることは甚だ男性的である幸子も、嘆息せずにはいられない。頼之も
頑固なことは頑固であるが、彼の場合とはまた違って、女性なだけに思い込むとより一層、周りが見えなくなるため、
これも僧兵の強訴と同じで甚だ扱いに困る。だが、
(『母』としては、お気持ちは分からぬでもない…まこと、人の情というものほど、厄介なものはないのう)
とも、幸子は思う。その資格がある者の家に生まれた子を、人間の世界での最高位につけてやりたいと願うのは、
母親として、ごく当たり前の感情であろう。それを「手前勝手」の一言で片付けてしまうのは簡単ではあるが…。
京の夏の夜は蒸し暑い。じっと座っているだけでも体中から噴き出してくる汗を拭おうともせず、幸子がただ、
蝋燭の炎を見て何事かを考えている風情なので、
「いかにお返事なさいますので?」
幸子の額の周りを飛び交う蚊を扇で追い払いながら、庸子は心配になって声をかけた。
すると、幸子はふと顔を上げて首を少しかしげ、庸子の顔をじっと見つめる。やがて、
「…こなた様の夫御と示し合わせて、芝居でもやらかすかの」
そう言った彼女の顔は、もう笑っていた。
「…は?」
「そうじゃそうじゃ、それがよいわ。実は以前、頼之殿は何の役が似合おうかとこっそり考えたことがござっての」
「はい…」
幸子が何を言い出したのか掴みきれず、きょとんとしている庸子へ、
「失礼ながら、ひょっとこやおかめではあるまいと思うた次弟じゃ。ほほほ」
幸子はなおも、上機嫌で笑い続けたのである。
そして八月が終わる頃、
「皇家の存続問題に関わること、そもそもはご聖断によるものであり、我等が口を出すのも恐れ多い事ながら」
と、頼之は朝廷からの勅使へ、苦虫を噛み潰しつつ平伏することになったのである。
「光厳院のご遺勅により、皇位は後光厳帝御皇子、緒仁親王殿下へお譲り下さるように」
言うと、勅使も尊大にそれを受ける。
これは、幸子の提案である。調査の結果、上皇、天皇の実父である光厳帝の遺言が見つかったとすればよい、
それを示せば、さしもの上皇側もなりを潜めるだろう…。
(その通りにはなったのだがのう)
祟光上皇や、その后、頼子らも「遺勅がござったのであれば致し方ない…」と、泣く泣くながらこれで諦めたらしい。
嫂である幸子への好意は変わらぬながら、やり場のない無念さは、幕府、すなわち実際に政務を執っている
頼之に向けられることになってしまった。
勅使がもったいぶりながら坊門邸の廊下を歩いてゆく。その後ろにつき従いながら、
(どうも納得行かぬわ)
元々頼之はムッとした顔のまま、何度も鼻の穴を膨らませて息を吐いた。もともと彼は、現帝である
後光厳天皇系が皇位を世襲すればよいと、単純に考えていたのであるから、いうなれば「天皇派」である。
よって、この度の幸子の「遺勅がなければ作ればよい…」との提案は渡りに船であったはずなのだが、
(役者は観客をたばかるのが仕事ゆえ)
言って、カラカラと笑った彼女の顔が瞼にちらついて離れない。幕府管領という地位を、役者に置き換えて
表現したのが気に食わぬし、それが必要なことであったと重々承知していながら、「ないものをあった」
ように見せて周囲を欺いて、その結果、自分が上皇派から恨みを買うことになったのも、
正直と誠実を信条とする頼之には耐え難い。
「此度は管領家にのみ泥を被せて、申し訳ござりませなんだ。じゃが政治とはそのようなもの。それ、
そのように難しいお顔をなさりまするな」
直接幸子へ不平を漏らすと、肩の力を抜け、と彼の師の一人である宗鏡と同じことを、彼女も言った。
つまり、割り切れ、ということなのだろうが、
(皇家まで欺いて、割り切れも何もないものだ)
それへ密かに(政治を知らぬおなごが口を出し、俺に全て『罪』を被せて知らぬふりを)と、逆に反感と
闘志を燃やしてしまう頼之なのである。
南朝側の楠木正儀を寝返らせたり、名将と名高い今川了俊を九州へ派遣して、そこで未だに勢力を張っていた
南朝側の懐良親王の威力を削ぐように命じたり、と、南朝側への牽制が功を奏して、南朝の勢力はかなり
衰えてはいるのだが、それでも気ぜわしいことには変わりない。そんな時に、北朝内から問題が
生じるようではまことに困る。
それでも、頼之が管領職についてからは、京周辺での戦がなくなった。幕府の運営も滞りなく進んでいるので、
それぞれの生活が安定し始めて精神的な余裕が出てくると、人々の関心は、もっぱら面白く揶揄できる事件が
勃発しそうな所へ集まるものらしい。
今一番の「実力者」同士が、上皇派と天皇派に分かれて争った…口さがない、事情を知らぬ人間どもは、
幸子がさぞや不快であろうと噂したものだ。
「対立」というものは大抵の場合、こういう無責任な話が事実となって広まった結果として起こる。
頼之へ不満を持っていた者どもは、この根拠のない噂に力を得て、山名氏清や先に討伐された斯波義将を
筆頭として集まりつつある。その中には、なんとあの「ばさら殿」の実子である京極高秀さえも加わっていたのだから、
「さてもさても、さしものばさら殿も、お子のご指導は誤られましたかの」
「いやはや、これは」
幸子が、京の佐々木京極邸を訪れて、その枕元で揶揄を込めて言うと、食えぬ坊主はさすがに苦笑した。
 何様、彼ももう七十をはるかに越えた。このごろは「寄る年波には勝てませぬ」と、先だって亡くなった赤松則祐同様、京の自邸にへ引っ込みがちの道誉なのである。
 幸子が訪れたと聞いて、慌てて寝床から起き上がろうとするのを、
「こなた様は、私の師ゆえ」
「いやさ、これは…年を取ると、涙もろうなるもの」
楽に、と、幸子が推し留めた時、彼は彼らしくなく、目を潤ませたものだ。
「大方の仰せのごとくにござるのう。手前も則祐も、頼之ならではと思うたゆえに、生きてある限りは彼奴めの防波堤の役目を果たそうと誓いあったものじゃが、まさかその堤を崩しかけておる者の一人が、我が三男であったとはなあ」
「…まこと、殿方とはどうしようもないものにござりまするなあ」
「いやまこと、左様左様」
そこで、この「盟友」たちは顔を見合わせ、喉の奥で笑った。
「頼之は、上様の御為、我は上様の父じゃと二言目には必ず口に出す。それがより、他の者どもの
反抗心を煽るということに気付いておるのじゃろうが、そうなればなったで逆に一層、
上様の権威を振りかざしてかかる。困ったものじゃ」
政権は、これも当然であるが、道誉らよりも若い者達に移りつつある。頼之と変わらない世代の諸侯らは、
ことあるごとに「三代将軍の代理」という言葉を頭上に振りかざされるのだから、面白くないと思うのは
これも当たり前で、京極高秀などは、
「六角殿とのあの一件で、倅めはすっかり頼之にヘソを曲げてしもうた」
佐々木京極の親戚である六角家の跡目相続争いで、頼之が自分に不利になるような裁きをしたと言い言い、
相当激怒しているというのである。
幕府に従う武士ども、つまり「身内」には処罰や裁定は厳しく、しかし幕府に新たに帰参してくるものや
頼ってくるものにはなるべく厚遇を、という、これまでの頼之の政策は全て、守護時代の彼らしくなく
強引で高圧的なものだった。
一度反感を覚えた人物を再び赦せるほど、人の心は広くはない。
例えば、頼之の工作によって南朝から寝返った楠木正儀のことがある。南朝から正儀が攻撃を受けているからと言って、
それを助けるために河内へ幕府の大軍を向けさせた。これが、彼に反感を抱く者から再び、「自分を頼るものだけを
贔屓する」と取られてしまった。
楠木正儀の救援は、幕府の大多数の反対を押し切っての決定だった。諸将にしてみれば、正儀一人を助けたところで、
大した恩賞が出ないのは分かりきっていたし、実際に大した戦にはならなかったのだから、頼之に対する反発は
さらに高まってしまったのである。
頼之にとっては、それもこれも、全ては「義満の威厳を高めるため」であり、
(一度己を頼ってきた者を、突き放せるものか)
という、彼なりの侠気を示したつもりなのである。さらには、彼が二言目には口にする「上様の父代わり」という言葉も、
決して彼自身が政を私しようとした心から出ていたわけではない。
「彼奴をよう知っている手前や則祐には、それが分かるのじゃが」
「…ですが、世間はそう見ぬ」
「うむ。上様は成長なさったと申しても、まだ十四歳…そろそろ妻を娶っても良いお年頃ではあるが、その幼い上様から
全幅の信頼を得ておるのを良いことに、好き放題しておる、あれではかつての斯波と同じではないか…となあ。
しかし、手前ミソかもしれぬが、頼之はあれでも一応、政を担う役者としては、ましな部類に入るのではないかと。
さて大方様には如何」
「はい、それはもう。頼之殿は、まっこと面白き役者殿にござるゆえ」
「ははは、確かに彼奴は生真面目で面白味がないゆえに、そこがまた面白い男。大方様にお分かり頂けておれば、手前も安心」
幸子が微笑みながら頷くと、道誉も頷いて笑い、
「ゆえに手前と則祐は、頼之がことを体を張って庇おうとなあ。ワキを二人で固めておれば、上様が成長なさるまでは
何とかなろうと。ところが則祐の阿呆めが、手前よりも先に逝ってしまいおった」
「…こなた様と赤松様には、まことに骨折りを頂いて」
「いやいや、大方が御礼を言われるには及ばぬ。頼之を推したのは、手前と則祐。しかし、瀬戸内へ出陣した折のような、
あの癖が折々出るのには参る。シテがたびたび出家を言い立てて、勝手に舞台を退場しかけるようではなあ。
観客席から座布団が舞いましょうて」
「ほほほほほ」
「笑い事ではござらぬが」
幸子が思わず笑うと、道誉も苦い顔をしながら、しかし笑わざるを得ない。
道誉のいう頼之の癖というのは、「己の主張が通らねば寺に篭る」というそれである。管領という地位に就いて
諸将からの非難を受けるようになると、その癖は頻繁に顔を出した。
義満のためによかれと思って強引にしたことが裏目に出て、周囲の猛烈な反発を買ってしまう。そのことは
覚悟はしていたのだろうが、彼の神経が耐え切れなくなる。そんな時には必ず、
「到底管領の任に耐えず」
と、義満に退官を言い立てては寺に篭り、出家したいと零す。その都度、彼を父と慕う義満はもちろん、
赤松則祐、そして京極道誉になだめられて気を取り直しては政務に戻る、の繰り返しだった。
(気持ちは分からぬでもないが)
と、それを聞くたびに幸子は苦笑したものだ。
「堤防役」の一人であった赤松則祐が、応安五(一三七二)年一月に亡くなってしまったので、諸侯の反発の激流は
いよいよ堤を破り、頼之自身を直接飲み込もうとしている。
(じゃが、そのたびに振り回されてオロオロする庸子殿のお気持ちも考えてみられたがよい。一度管領に任ぜられたら、
とことんやり通してもらわねば)
彼のやっていたことが、かつての斯波氏のように私心ではなく、「誠忠」から発していたことを知っているだけに、
(憎むなら、とことん憎んでみよ、と開き直るだけの心根が欲しかったのう。ようよう信頼出来る人物に出会えた、
と思えただけに、惜しいこと)
今では、彼女も頼之に対して呆れ半分にそう思っている。
「まあ、確かにのう」
幸子は大きく息を吸って、
「主役にたびたび消えられては、舞台としては成り立たぬ。シテはどんと構えておればよいものを。少し
ヤジられたからと言うてメソメソしておるようでは、観客としては面白うないゆえなア。このままでは、
お従兄(清氏)殿と同じ、贄になるのがオチじゃ」
深々と吐き出した息と共に、そう言った。
「大方様」
すると道誉は、おどけた顔を引き締め、彼女を呼ぶ。
「先ほどは、大方様にお分かり頂けていたらなどとと申したが、もしも、のう。もしも、頼之がその任に耐え得ずと
判断なされたら、これまで我らがしてきたように、なあ」
「…よろしいのかや?」
「言うにや及ぶ。否」
老いた目に、かつての炯々とした光を宿し、
「手前と則祐に代わり、大方ご自身が泥を被る覚悟がおありなら」
(あるいはこの女性なら)
力を込めて言いつつ、道誉は思った。
(泥を泥と思わず、これからも飄々とことを成す…)
「…そうじゃな」
道誉の考えを見ぬいたように、幸子は頷いて、
「どうやら私のお役目は、舞台を統括する裏方であったらしいわ。確かに私では、舞台に出まいても喝采は浴びられますまい」
「いやはや、手前とても大根役者。この上は潔う『失せにけり』と参りたいものじゃな」
二人は再び笑い合ったのである。
それから間もなくの応安六(一三七三)年九月十二日、一代の怪物と言われた道誉も亡くなった。
道誉の死によって、尊氏以来の「宿老」は、土岐頼康を除いてほぼいなくなり、政権は幸子と同世代の
「若手」に移った。同時に頼之に対する諸将の反感は、事あるごとにはっきりと現れるようになる。

to be continued…


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