我が胸中に在り 10



ともかくも、春王(後の三代義満)、乙若(満詮)兄弟の養育は、正式に幸子へ
  任されることになった。
母を亡くしたことも、その繊細な心に深い影を落としたに違いない。今や義詮は、
幸子の口上に「その通りにせよ」と言うばかりである。将軍という立場にあり、坊門殿、と
一応は敬意を持って呼ばれていながら、皆が実際に恐れつつあり、頼りにもしているのは
その妻のほうであることを、神経質ゆえに感受性の強い彼が気付かないわけがない。
朝廷や公家らの後ろ盾があるということで、元々それらに神聖な惧れを抱いている武家どもも、
いつの間にか幸子の顔色を窺うようになってきているし、将軍の母が息子の義詮ではなく、
嫁の幸子へ後事を託したということも、暗黙のうちに知れ渡っているものだから、
(俺は一体何のために将軍の位にいる)
義詮はそう思い、しかしそうは思ってはならぬと激しい自己嫌悪に陥っていたであろうことは、
想像に難くないのである。
政治を実際に取り仕切っているのは、斯波高経、義将親子であり、しかも彼らもまた、
己の一族のみで幕府の高官を占めるようになっている。これでは義詮自身も結局「飾り」に過ぎず、
斯波一族を除いたところで、また同じような輩が現れることの繰り返しだと、彼は一層投げやりになった。
それやこれやで、義詮が以前よりも病に起き伏す度合いが増えた頃、
「…もうそろそろ、斯波殿にも、舞台より退場願いましょうか」
幸子が、彼の枕元でぽつりと言うと、
(いつの間にか、俺はここでも操り人形になっていたのではないか)
義詮は思わず体を震わせて、妻の顔を見上げたのである。
時に登子が亡くなって一年あまり。汗が胸の谷間にじっとりと湧く七月のことだった。
この頃には、細川清氏その他武士失脚の「本当の担い手」が誰であったのかを、
さすがに義詮も知っていたから、
(この女は、なんと恐ろしいことを淡々と)
戦場では敵を駆逐することに何のためらいも見せぬ彼も、病床で日常を送っていると、
まともな精神を取り戻すらしい。
今日も今日とて、道誉が控えている前でも、
「しかし、斯波を罷免してしまえば、他に適当な人間はおらぬではないか」
女の身でありながら、平気で政治に口を出す妻を苦々しく思いながら、
「こうもたびたび、政の頂点を担う人物を変えていては、政権も安定せぬし、その一族も納得しまい」
義詮が脇息にもたれて言うと、
「その人物や一族のみが嘆くほうが、無辜の民を嘆かせるよりも、数の上でまだ
ずんとマシにござりましょうが。簡単な計算でございます」
幸子は低く、はっきりした声で答えを返した。
「我が身やそれに連なる者のことばかり考えている人間を、いつまでも頂点に
据えておくことほど、罪なことはござりませぬ」
夫の額に沸いてくる汗を見て、それへ扇子で風を送りながら、
「斯波殿が泣くというのなら、泣いてもらいましょう。高経殿はともかく、義将殿はまだ若年ゆえ、
これから良きように成長する可能性もある。一時、領国の越前にでも、おとなしく引っ込んでいて
もらえさえすれば良いだけのこと。能役者とて、演技が下手ならば即刻入れ替えられて、
『大根役者』と呼ばれるそうな。いわんや、政の中枢を担う者をや、にござりまする」
きっぱりと言う幸子の顔は、涼しげでさえある。義詮は救いを求めるように道誉を見たが、
娘婿がいるとはいえこちらも元より、斯波一族には好感を抱いてはいない。
つい最近では、五条大橋の造営を担った道誉が、京都の民から棟別銭を徴収して橋を建設するという
やり方をしていたのを無視し、斯波高経は自腹を切って工事を推し進めてしまった。なるほど橋は早くかかって、
道誉もそれはそれで良いやり方であると認めはし、市民にも金を出さずにすんだと感謝されたが、
「ばさら殿」の面目は丸つぶれである。
先だっての戦で自身の白旗城へ幸子と春王をかくまった赤松則祐も、この三条坊門建設の折に、
「割り当ての場所の工期が遅れている」
との理由で所領の一部を斯波高経に没収されてしまったため、さすがに高経へはよい感情を抱いていないという。
また、寺社や公家側へも、高経は細川清氏の時で懲りていたはずの半済を、再び強行した。
これにより寺社の一大勢力を成していた春日大社さえも、幕府は敵に回すことになってしまい、
「これでは、われらに好意を抱いて下さっている公家の方々や朝廷にも、またそっぽを向かれまする」
皆で仲良くとの己の精神に反する、と、幸子は思うのである。
「…致し方ない」
義詮は、ついにうなだれた。彼としても、幸子へは、将軍正室とはいっても己が頼りないせいで、
京から二度も離れさせ、苦労をかけてしまったという負い目があるし、京極道誉には、
京を奪われるたびに助けてもらったという義理がある。つまり、反覆常なかった斯波一族よりも、
ずっと佐々木京極一族の存在は重い。よって、
「高経と義将を、執事職とその後見より解任する」
額から滝のように汗を流しながら、長い吐息とともに義詮は言ったのである。
太平記によると、貞治五年八月八日(旧暦。現在の暦では九月十三日)、義詮は将軍の名の下に、
三条坊門において軍勢を終結させた。その上で、斯波高経へ向かって、
「急ぎ守護国へ下向すべし、さもなくんば」
罰を下す、という使者を送ったという。
義詮将軍就任当初は、まだまだ脆いと観られていた幕府勢力も、皮肉なことに義詮が病を深くするほど
安定してきていた。山名、大内は帰参しているし、南朝側においても北畠氏などの骨のある武将は
次々亡くなっていくし、その跡を襲った子息もいまいち脆弱であるし、というので、
「時期を逸した。もはや抵抗できぬわ」
幕府に対する反抗勢力も勢いを失った。それゆえに反抗しようにも共にかたらう武士がいないと嘆きながら、
斯波高経は翌九日の朝に自邸へ火をかけた。越前を指しておちのびる前に、義詮へ向かって無実を訴えたが、
義詮は「将軍でさえも思いのままに動かぬ世ゆえ、どうにもならぬ」と高経へ涙で持って言い聞かせたそうな。
表向きの彼の罪は、政治を私したこと、越前にあった興福寺の所領、河口荘を彼の配下である朝倉高景が
勝手に切り取るに任せたこと、となっている。しかし、もちろんこれは高経があっては幕府のためにはならぬと
判断した幸子と、利害の一致する京極道誉及び赤松則祐の示し合わせによるもので、名目上のものに過ぎない。
事実には違いなかろうが、他の領土にもよく見られたことで、重大な訴えとして取り上げられる程度の
ものではなかっただろう。
この「貞治の変」により、また一つ、幕府にとって「敵に回れば少々鬱陶しい」勢力は削がれた。
だが、幸子とその一派による斯波氏への追及はあくまで厳しく、
「ここで徹底的に叩いて斯波を懲らしめておかねば、幕府の安定はござらん。すずめの涙ほどの情けは、
逆に無用とお知りなされ」
道誉はそう言って、これ以上の斯波追及を渋る義詮を叱咤した。
幸子もまた、
「斯波高経殿を討ち取ったならばすぐ、越前や若狭など、斯波一族の領土であった土地を御料所
(幕府の直轄地)となすべきでございます。また、彼らがかすめとった所領を、本来の持ち主であった
公家の方々や寺社に返すのが筋でございましょう」
そうしなければ、幕府の信頼回復は望めぬ、と、横から口を添える。苦々しい思いで、義詮は二人の言葉に頷いた。
斯波一族は、将軍など眼中にないように振る舞い、事実それだけの武力を持っていた。このように、
将来、またもや恐ろしい敵になるかもしれぬ部下の始末に、強いためらいを見せるというこの一点だけでも、
義詮はやはり将軍の器ではなかったと言えるのである。
幸子も道誉も、ここで高経を見逃せば、きっと他日、彼はまた幕府へ牙をむくであろう、と…
彼を始末した後には、まだ十八歳という年齢の若い義将を将軍からの温情として残しておけば、
斯波は従順な猫になる、と見ていた。これにより、道誉の三男であった京極高秀、赤松満範、
山名氏冬(時氏三男)、畠山義深、尊氏以来の家臣である土岐頼康などが義詮を大将とし、
大軍でもって斯波高経のこもった越前杣山(そまやま)城へ攻め入った。
この城は、鎌倉初期に源頼親によって築かれたと言われている。険しい崖を利用した
天然の要害ではあったが、いかんせん、右のように大挙して攻めてこられては、防御も何もあったものではない。
義将の篭る栗屋城もまた、同じように包囲されていると知らせられ、城内の高経は何ら有効な手を施せぬまま、
翌貞治六年(一三六七)七月に、城内で病没するのである。
「ようございました。お疲れでございましょう」
一年経って、凱旋して京へ戻ってきた義詮を、幸子は表門まで出て穏やかな笑顔で迎えた。越前、
若狭、越中、摂津は幕府の直轄となり、これによって幕府の懐もかなり潤ったし、また、斯波高経が
行った半済を、義詮が幸子の勧め通りに即刻停止させたため、寺社や公家らの幕府への信頼も回復した。
一応はこれで落ち着いたと幸子は思い、安心したのだが、京極高秀と赤松満範が、両脇から支えるようにして、
彼女の待っていた部屋へ義詮共に入るなり、
「御方様。坊門殿の典医をお呼び下され」
口々に言い喚たために、三条坊門の将軍邸は大騒ぎになってしまったのだ。
早速白い布団へ横たえられた義詮の唇は、その布団よりも白い。その癖、額からは真夏のこととて、
絶え間なしに脂汗が出てくる。
「疲れと暑さにやられなさりまいたかの」
兄を心配して、わざわざ宮中から頼子皇后が使わした典医は、言って首をかしげた。海に面している
若狭方面は、京よりもずっと風が強い。それゆえに鍋の底の様な暑さからは解放されていて、
実際、京よりはずっと過ごしやすかったはずなのだ。
だが、横になると、苦しげな咳が止まらない。食物を口の中へ入れても、上手く嚥下出来ずに
すぐむせてしまうので、ろくに栄養も取れず眠れず、義詮はどんどん弱っていった。
(やれやれ、将軍というものは)
悪い病気であれば、伝染ってはならぬというので、幸子や子供達は彼から遠ざけられている。奥の間で
春王や乙若が他愛ない遊びに興じているのを、目を細めて眺めながら、
(征夷大将軍というのは、どうやら並の神経では勤まらぬものらしいの…)
彼女は己の胸元へ扇で風を送り、しみじみとそう思った。
(ありゃ、『悪い病』ではないわ)
幸子が見るところ、義詮が弱ってしまったのは「悪い病気」のせいではない。人一倍、繊細で神経質な性格の義詮が、
(将軍の任には到底耐えなかった。病は気からというのはまことじゃなあ。ゆえに天は、これ以上
あの方を苦しめるに如かずと、召し返そうとしている。ただそれだけのこと)
と、彼女はそうも考えている。食えず、眠れずというのでは、幸子だけではなく、誰が見ても
義詮は長くないというのが分かるし、
(後のことじゃな…。頼子様にもつなぎをつけておかねば)
夫を夫として心配でないわけではないが、幕府に関わる人間としては、むしろ夫がいなくなった後の方を、
より心配しなければならぬ。いつ反対派が出てくるかも知れぬし、そうなると跡取りが手中にあるとはいえ、
少しでも隙を見れば、跡取りもろとも寝首をかかれかねないからだ。夫に対して薄情だと、
その点ばかりで彼女を責めることは出来ない。
今のところ、「将軍家の確実な味方」と思える諸侯は、幸子の目から見たところでは、
佐々木京極、赤松、細川の三氏のみである。
再び宙に浮いてしまった政所執事の座は、
(はて、ようよう細川頼之殿の出番が回ってきたというところかの。ばさら殿からも阿波へ手蹟が参っていようが)
幸子は考えて、ぱちりと扇を鳴らす。心得てやってきた春王乳母、庸子へ、
「頼之殿へ、この私からも一筆、したためまする。庸子殿、よろしゅうお口添えを」
言うと、庸子の顔に緊張が走った。
庸子は元々、北朝の名の元になった持明院の現当主、保世の娘である。教養はそれなりに深いが、
関与しないために政治感覚には疎かった。それが女の身でありながら、幸子の側近くに仕え、
幸子が頼之を京へ呼ぶとあって、
(いよいよ我が夫が政所執事に)
それくらいのことが、即座にピンと来るようになっている。
「…我が夫に、そのような恐れ多い役割が勤まりましょうか」
庸子へ言うなり、硯を引き寄せて紙へさらさらと筆を走らせる将軍正室へ、震えを隠せぬ声で、
恐れながらと彼女は言った。
(御方様ならいざ知らず)
と、近頃では庸子ですら、そう思っている。慎ましい彼女は、口に出すのも憚っているが、
(どのような時でも己を見失わず、これと思えば断が素早い…)
真に将軍たる素質に恵まれたのは、その妻である幸子のほうではなかったかと、改めて畏敬の目でもって
己の主を見直しているのだ。義詮が病に起き伏ししてからというもの、幕府からの指示は義詮から
出ているように見えるし、道誉の進言も入れて、ということになっている。しかし、ともすれば義詮を
素通りして、幸子の意見でほとんど幕府の政治が動いていたことを、彼女に近い人間は皆知っていた。
諸事、迷いに迷って決断の遅い義詮に、斯波一族へ施したような思い切った処置が出来るはずがないからである。
だが、庸子や周囲が見ているほど、幸子が将軍の器であったかどうかは疑わしい。幸子の政治感覚は、
彼女自身が意識せず表舞台に立っていたとしても、あくまで「観客」としてのそれであったし、
ために一種の気楽さがつねに彼女の周りに漂っていて、「大物である」と勝手に思われていた節がある。
彼女が周囲に恐れられ、顔色を窺われるようになったのも、「やれることをやっているだけのこと」と
思っていた幸子にとっては、まさに望外のことであったろう。
「細川頼春殿、頼之殿ご父子の忠誠はなあ、私も心に深く刻んでおりますゆえ。それに、我らのためとは申せ、
頼之殿はお従兄まで討ってのけた、その誠実さは坊門様もようようご承知じゃ。ばさら殿も再三、
頼之殿ならばとお勧めされておる。頑なに辞退なされてこられたが、他に適任はおらぬゆえ、
もうよいじゃろうと私も思うたに」
「…まあ。あの、そのようにお気軽な」
(確かにのう。まるで友人を呼びつけるようでもあるし)
幕府の中枢を担う役目就任のことを言っているにしては、あまりにも気軽である。庸子が目を丸くするのへ、
幸子は苦笑して、
「それそれ、気楽にお受けくださればよいのじゃとな。幕府の政の頂点におるからとて、そうきつくきつく
構える必要はないわえ。生真面目な方ゆえ、ご自身ばかりで荷を負おうとなさろうが、周りにももっと
お任せなされば、と。三代様の後見たる資格を持ちまいて、私からも書きましたゆえ。お渡しくだされ」
「は、はい」
これは、事実上の命令である。さらりと巻かれた白い紙を見て、受け取ろうと差し出した庸子の手は刹那、震えた。
(さても、あの頼之殿がどのようにお役を勤めるのかの)
庸子が去っていき、一人になると、急にしんとした晩秋の冷えが幸子を襲った。
(義詮様の気を晴らすために、能役者らをこちらへ呼ぶのもよいか。ばさら殿や赤松殿も共に呼んでのう)
つ、と、立ち上がって襖を開けると、庭では紅葉が美しく色づいている。
それを見ながら、
(まこと、政も能舞台のようなもの。はて細川殿には何の役が似合うやら。よもや、ひょっとこや
おかめの類ではあるまいがの)
不謹慎にもそう考えてしまい、幸子は思わず喉の奥でクツクツと笑った。
中国、九州地方が安定したと見られた時点で、細川頼之は中国管領を解任され、変わって四国の統一を
命じられていた。そこで勢力を張っていた河野氏をほどなく追討し、今度は「四国管領」として
阿波や讃岐を治めていたのである。
(他に適当な人物もおらぬしのう)
という幸子の言葉が伝えられたわけでもなかったろうが、ともかく、細川頼之の元へは、使者が急ぎ走った。
義詮が「天へ召し返された」のは、幸子が庸子へ頼之への書状を託してわずか二週間後、
年の瀬も押し迫った貞治六年十二月二十八日(旧暦十二月七日)のこと。頼之が京へ到着したのは、その数日前である。
「…もはや信頼できるのは、こなただけじゃ」
幸子に支えられながら、義詮はそれだけを言うのにも喘ぎ、何度も咳き込んだ。布団を敷いたこの部屋には、
病人が発する独特の匂いが濃く漂っていて、それが時折つんと鼻をつく。どうやら二代将軍の「その時」の瞬間には
(間に合ったらしい)
不吉なことをと内心で己を叱咤しながら、それでも頼之はしみじみと己の主の顔を見直さずにはいられない。
(征夷大将軍というものを、到底、負うことの出来る方ではなかった)
整っていたかつての面立ちは、見る影もない。咳と嘔吐を繰り返し、げっそりとこけてしまった頬を
懸命にこちらへ向けながら、
「私は、父の跡継ぎとしてやらねばならぬことを、何一つ出来なかった」
自嘲気味に笑ったその顔は、まさに幽鬼のそれである。思わず背筋を震わせながら、
「何をおっしゃる。まだまだこれからではござりませぬか!」
不安な目をして成り行きを見守っている春王とを等分に見つつ、頼之は膝をついたまま、
一歳年下の将軍へにじり寄った。
「私を近江へ逃がすために、こなたの父は京で死んだ。こなたは私のために従兄の清氏を討った…
こなたが忠誠、片時も忘れたことはない。ゆえに、後を頼む」
「上様。気弱なことを。我等が幕府のために忠誠を尽くすのは当たり前の事ではござりませぬか。
どうか気をしっかりとお持ちなされて」
「…頼む」
痩せ細った震える手が、頼之へ伸びる。思わず差し出した彼の両手を、義詮の青白い手が
思いがけない強さでがっしりと掴んだ。
「私の手でなすべきであった、皇室の一本化…結局それも出来ずに、幸子にも、春王にも、
夫らしい、父らしいことは何一つしてやれなんだ。私には全て分不相応、手に余るものであったのかと思うと、
胸が張り裂けそうになる…ゆえに、こなたへ頼む」
言葉もなく、ただ己の顔を見つめる頼之から、義詮はつと目をそらして側の春王を見やり、
「父は今、新たな父をお前に与える。その教えに背くことなかれ」
言ったかと思うと、
「…疲れたわ」
背後の幸子へかすかに笑いかけて、彼女の肩に頭を乗せ、目を閉じたのである。


to be continued…


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