我が胸中に在り 8



三  父として母として

(さても、それがいつ来るか。さほど遠い日ではあるまい)
明けて康安元年(南朝元号正平十六年。一三六一年)。細川清氏が反旗を翻すのを、てぐすね引く、
といった心構えで待ち構えながら、幸子はそれとなく、「播磨落ち」の準備を始めていた。
(義詮様へは、ばさら殿の元へとお勧めせねばなるまいし、則祐殿とも話を通しておかねばなるまい)
幸子の元には、これからどうなるのかという問い合わせが、公家どもや皇家からも頻々と
届くようになっている。戦に慣れてしまった感のある庶民どものほうが、いち早くキナ臭さを嗅ぎ付け、
まだ春も訪れていないうちから逃げ支度を始めているらしいのだ。
この最中に、幸子は父義季を亡くしている。戦ではなくて、長く患いついた上の病であり、
身分が身分ゆえに実父とはいえ軽々しく見舞うことは出来ず、
(…今はそれどころではない。父とてまずは己のことを第一に考えよと言うであろう。お許し下されませ。
私は貴方の娘である前に、将軍家正室。全ての者の母にござりまする)
実兄直頼からの懇望があっても、頑として葬儀にも出なかった。父へは心の中でそう語りかけながら、
仏壇へ香を一本手向け、両手を合わせるだけに留めていたのである。
その胸の憤懣を抑えて、義詮が「そなたが言い出したことであろう」と、清氏へ再び南朝討伐を命じたのが、
その年の八月。もはや幕府の全権を握ったと安心しきって、清氏が出発し、河内へ向かった九月に、
義詮は後光厳天皇に細川清氏追討の宣旨を仰いでいる。これもまた、佐々木道誉や斯波高経との
示し合わせであることは言うまでもない。
仰天した細川清氏は、幸子が予想していた通り南朝側につき、あの楠木正成を父とする正儀とともに、
無実を訴えながら軍勢を引き連れ、京へやってきた。
「無実じゃと言い言い、武で威嚇するとはまた」
義詮を近江へ伴うために将軍邸へやってきた道誉は、同じようにやってきた赤松則祐を
振り返って苦笑したものだ。
「公家方へはなあ、お方様の仰せのごとく、御所内へ避難致すようにと含めておきまいたゆえ、
ご安心召されよ。なあに、皇家の方にまでへ手出しをすれば、百年の後まで非難は免れぬ。
清氏とてそこは分かってござるよ」
「ご苦労をおかけしまする」
我が背へ抱きついてくる春王を手元へ引き寄せながら、幸子は二人へ頭を下げた。
「いや、なに…気がかりをよそへ移して京をからっぽにしておれば、心置きなく戦える。
お方様には、こやつの白旗城にてどんと構え、勝利の報せをお待ちあれ」
道誉は言って、赤松則祐と顔を見合わせ、豪快に笑った。事実、攻め上ってきた細川清氏と
楠木正儀は、大した戦もせずに京を占拠できたことに首を傾げたが、そこを待ち構えていた
幕府軍に包囲され、命からがらそれぞれの領地へ逃げてゆくことになる。
かくして、義詮は我が子ともさほど触れ合わぬまま道誉のいる近江へ、そして幸子と春王は
赤松則祐の本拠である白旗城へ、それぞれ逃れていった。この時に、細川頼之の妻であり
春王の乳母であった庸子も同行している。
清氏方の兵がどこに隠れているかも分からぬということで、赤松則祐に護られながら、
警戒に警戒を重ねてようやく白旗城に着いたのが、冬に指しかかろうという十一月の末。
白旗城のある播磨は海端で、吹く風は冬でも京、近江よりはまだ温かい。
(何より底冷えせぬのがよいわ)
「良子殿は、おいでにならなんだか」
贅沢ではないが、丁寧に掃き清められた一室の上座へ通されて、夕餉を取りながら、
幸子は彼女の右手にいる庸子へ尋ねた。
「はい。水が変わるゆえ、どこにもゆかぬと。住み慣れた京が良いと申されまして、
ご一家の方々と共に御所へ避難を」
「お体はお弱くないのであろうが…心配じゃの。共に参られれば良かったものを。
こちらは暖かいし、何より京にはない海が見られるのが良い。心が洗われるようじゃ」
そこで小さく欠伸を漏らしながら、
「海など見ながら茶でも飲んで、とっくりとお話してみたかったのう」
運ばれた湯呑みを両手にとって、幸子がしみじみと言うと、庸子は驚いたように将軍正室の顔を見直す。
(まあ…私の評判も、良子殿の近辺では悪かろうしなア)
それに気付いて、幸子は軽く苦笑した。将軍側室、良子の実家では、正室の権威をかさに着て、
母から子を取り上げた女、これみよがしに金品をばらまいて、公家や皇室の心を獲ろうとする悪女…
恐らくそれに近いことを自分は言われているに違いない。
(良子殿や紀家の方々にお分かり頂けずとも良い。公家や皇家の方々に、幕府はやはり
頼りになると思わせるのが大事なのじゃ)
いかに漠としているように見える幸子でも、自分の悪評には人並みに傷つかないわけがない。
だが、それを言っても(詮無きこと)と、幸子はいつもの楽観性で自分の中で決着をつけ、
「このような折でなくば、春王殿にも海で思う存分、遊ばせてやれようがの」
「は…まことに仰せのごとく」
「こなた様も、お体をお厭いや」
まだ少し緊張しているらしい春王の乳母へ、彼女はいたわりをこめて言葉をかけた。幸子は、
庸子が産み落としてすぐの我が子を亡くしたことと、それだけに、庸子もまた、
(我が子が生きておれば同年…)の春王がかわゆくてならぬらしいことも知っている。
庸子のほうも、
(このお方も、お子の千寿王様を亡くされておられた)
「恐れ入りまする」
そのことに思い当たって、改めて幸子を見直し、深く頭を下げた。
「京は今頃、どのような有様かのう。清氏殿を京より追い出した、などと、則祐殿は
頼もしいことを仰っておられるが」
冬のこととて日は短い。辺りは既に暗くなっており、そうなると波の音がより一層大きく聞こえる。
それへ珍しそうに耳を傾けながら、
「こなた様の夫御、頼之殿はどうしておられるやら」
「…はい。恐れながら」
呟く幸子へ、庸子は旅を始めた頃よりはずっと親しみのこもった声で答えた。
(評判ほどお悪い方ではない…細やかなお気遣いができる方でもないようだが、むしろ
良子様よりも内に篭らず、意外に打ち解けやすいご気性)
二ヶ月ほどではあるが、共に過ごしている間に庸子の幸子への印象も改められたらしい。
「…恐れながら、申しあげまする。我が夫、頼之は、清氏様が阿波へ逃れてこられたと聞くや、
対戦の構えを見せてござりまする」
「ふウむ…頼之殿にとっては、清氏殿はお従兄殿。同族であるにもかかわらず、かや」
「はい。まだ将軍家から正式な命を受けてはおりませぬが、足利幕府へたてつくものは、
同族であろうと討ち取る、そういった考えのようにござりまする。頼之は名うての頑固者ゆえ、
一度こう、と決めましたらば、周りが何と申しても聞きませぬ。私の言葉でさえ、聞き入れては
くれぬようになりまする」
「なるほどなあ。失礼ながら、大変に頷けまする。かの御仁ならば、さもあらん。台本どおりに
演じるしか知らぬ役者のようじゃ」
「そう言えば御方様には、お芝居がお好きであられましたなあ。仰せのごとく、頼之はまこと
融通の利かぬ、名うての頑固者にござりまする」
「ほほ、奥方であるこなた様にまでも言わるるとはなあ」
幸子と庸子は、そこでふと顔を見合わせて微苦笑を漏らした。
「今頃、清氏殿とこなた様の夫御は、共にこの海に浮かんで戦ってござるのかのう。こなた様もご心配なことであろ」
「…恐れ多いことにござりまする」
どうやら清氏は、小豆島の豪族や水軍などを語らって、海上封鎖を行いつつあるらしい。
幸子はそのことを言っているのだ。
「この分ですとなあ、正月はどうやら、赤松殿のご厄介になることになりそうじゃ。
我等はせめて無事に京へ帰還できるよう、体調を崩さぬように努めねばなりませぬなあ。おやおや」
再び小さく欠伸を漏らして箸をおいた幸子は、彼女の隣の春王へ目をやって、顔をほころばせた。
「これ、春王殿。このようなところでお寝り遊ばしては、お風邪を召しまするぞえ」
いつの間にやら、春王は柔らかな頬へ飯粒をくっつけて座ったまま、膳の上でこっくりこっくりと舟をこいでいる。
「お連れ申しあげてくだされ。大事なお子じゃ。夜のものもお寒うないようになあ」
「はい。しかと心得まいた」
庸子もまた、微笑んで頷き、春王を抱え上げた。

逃れた若狭でも「無実」の声を上げながら、しかし次第に幕府に追い詰められて、
清氏は細川家の本拠であった阿波へさらに逃げた。そこにはまだ彼の従弟の頼之がいたし、
彼を慕う地下の者どももたくさんいると思ってのことである。
(頼之ならば従弟の誼で庇ってくれよう)
あわよくば、再起も図れる。諄々と説けば頼之も味方として抱き込めよう…などと考えていた
清氏の目論みはしかし、頼之の妻である庸子が言うように「頑固者で節を曲げぬ」頼之が、
康安二年(一三六二)三月に正式に義詮からの命令を受け、逆に彼に攻めかかったことで
敢え無く崩れた。
清氏は、威勢と度胸という点では頼之をはるかに上回る。だが、頭脳を働かせて…となると、
従弟には敵わなかったらしい。数を頼みに海上封鎖を謀ったのはいいが、
「降服するゆえ宇多津(現香川県綾歌郡)までお出でなされたし…」
との頼之からの申し出に、「従弟であるから情けをかけてやろう」などとコロリと乗せられて、
逆に己が捕縛される羽目になった。これが同年七月のことである。
「よくも俺を騙したな! それでも貴様は、俺の従弟か! 鬼め!」
頼之陣屋を少数で訪ねた途端、家来ともども縄をかけられ、従弟の前に引きずり出されて、
清氏は己のことを顧みずに見苦しく叫んだそうな。
「貴方の従弟である前に、この頼之は幕臣にござる。己の思うままに政を動かそうとした罪は重うござろう。せめて」
そんな従兄を冷徹に見下ろしながら、
「雑兵には手をかけさせますまい。私が直々に手を下す」
頼之は、すらりと刀を抜いた。
「兄者」
「なんじゃ! 早く殺せ!」
わめく清氏へ苦笑しながら、
「…この瀬戸内で、ともに大内や山名征伐に精を出しましたのは、つい数年前のことにござるのにのう」
「…」
「そのまま、貴方と手を携えてゆきたかった。まこと、残念にござる」
じりじりと地面を焼く夏の日差しが、汗が乾いて塩の吹いた従兄の首にも容赦なく落ち続ける。
それへ頼之はためらわず刀を振り下ろした。これと同時に、清氏に同調して鎌倉を我が物にせんとした
畠山国清の勢いも、一気に衰えたのである。
清氏の首が近江は佐々木道誉の元に届けられたのは、それから間もなくのこと。もちろん、使者が
播磨の海端を通っての報せであるから、白旗城にまず「勝報」はもたらされたことになって、
「京へまた移動か、やれやれ。播磨は過ごしやすい。ずっとここへ居ついてもよいではないかと
思うがなあ。たった半年ほどではないかや。光源氏の播磨落ちより短いわ」
「まあ、御方様」
「京へ帰るとなると、なぜか肩が凝るような気が致してたまらぬのじゃ。こなた様は違うのかや?」
己の顔を暑そうに扇子で仰ぎながら言う幸子へ、
「お気持ちは分かりまするが」
(この開け放しで気取らぬところが、将軍家正室様らしからぬ良いところ…)
この「間借り生活」の間にすっかり幸子贔屓になってしまった春王乳母、庸子は、苦笑しながら荷造りをしていたものだ。
「こなた様の夫御もなあ、大変なお仕事をなさった後じゃによって、少しはお休みになればよいものを」
「恐れ入りましてござりまする。頼之がそれを聞けば、さぞや喜ぶことと」
「私が申しても、生真面目な御方ゆえに逆に顔をしかめられそうじゃ、ほほほほほ」
幸子がそう言って好意の笑い声を上げると、庸子もつられて笑った。
庸子の夫、頼之は、従兄である清氏を討っても警戒を緩めなかった。足利直冬もまだ
しぶとく生存しているし、軍の士気が高まっているこの間にと、義詮に願い出て大内、
山名両氏への「征伐」を再開している。
幸子が彼を指して「忙しい御方じゃ」としたのはこのことに拠る。「忙しい」というだけであれば、
戦のたびに京から出ては東へ西へ移動する幸子やその夫、義詮も変わらぬくらいであったろう。
涼しい海風の吹く播磨から、同じ風が山の上を吹きすぎてゆく蒸し暑い京へ戻る途上、
「…何事じゃ?」
摂津の琵琶塚で、輿が止まった。尋ねる幸子へ武士が言うには、
「春王様が、景色をご覧になりたいとの仰せにて」
「ほう。どれ」
幸子もまた窓を開けさせ、外を覗いた。
(これは、確かに素晴らしいのう)
見れば、すっかり赤松則祐に懐いた春王が、熊のような彼の肩へちょこなんと腰掛けて、
昼のように眩しい月光に歓声を上げている。
時に葉月十五夜。雲ひとつない満月であった。岸辺には、淀川の流れが絶え間なく打ち寄せていて、
その一つ一つが月の光を反射しており、大変に美しい眺めである。
「この景色を担いで、京へ持ってまいれ!」
と、春王は言ったとか言わなかったとか。ともあれ、
「春王殿」
幸子が声をかけると、春王を肩へ担いだまま、赤松則祐が彼女の輿の側へやってきて、軽く頭を下げた。
「よいお子じゃ。これからも、その御心を忘れぬようになあ」
言うと、則祐は豪快に笑って幼子を担ぎなおし、春王は嬉しそうにはにかむ。輿には乗らず、
馬に乗るのだと言い張る『三代目』を抱えて「頼もし頼もし」などと言いながら、則祐は共に馬に乗った。
それを潮に、再び行列は京へ向かう。
(戦の間であっても、美しい物を美しいと素直に思う心のゆとりも大事…)
輿の窓を閉めながら幸子はふと、苦笑した。
夫の義詮にはそれがない。征夷大将軍ならそれらしく、どっしりと構えていれば良いものを、
信じていた者に裏切られるとすぐに狼狽えて京を捨て、己だけが近辺へ逃れるということの繰り返し。
それゆえ頼りないことこの上ない…と、初代尊氏より従ってきた周りの者にも見られている。
厳しい見方であるが、足利幕府を尊氏が創設してから、春王が義満として三代将軍になるまで、
というよりも、三代目将軍としての実力を確立するまでの幕府が曲がりなりにも存続し得たのは、
二代目の義詮の力ではなく、本人は自覚していないがその妻である幸子と、幸子を教え導いた
佐々木道誉のおかげと言えるかもしれない。
道誉が政の舞台に次々と「役者」を登場させては引き摺り下ろして、その勢力を削ぎつつ、
ついに幕府に従順たらしめた。幸子は、道誉のやり方を受け継ぎながら、北朝側の朝廷でさえ
ともすればそっぽを向くのを、なんとか幕府側につなぎとめ続けた。この二人がなければ恐らく、
足利幕府は尊氏が亡くなった時点で終わっていたに違いないからだ。
それだけに周囲の期待は、「二代様よりも胆力がある御方」と影で密かに噂されている幸子が
訓育している春王へ注がれている。右の話なども恐らくは、どんどん高まっていく周囲の期待によって
喧伝されたものであろう。実年齢四歳にもならぬ子供が、このような気宇壮大で大層なことを口にしたとは到底信じがたい。
意外に荒らされていなかった京へ戻り、その暑さに不平を零しながらも幸子が元の将軍邸に
落ち着いた頃、頼之は相も変わらず「中国管領殿」として中国地方は言うに及ばず、
四国、九州地方の平定に文字通り汗を流していた。
「中国管領殿は公平な方である」
とのうわさ通り、彼の几帳面な人柄のせいか、戦の後の評定がよほど良かったのか、帰服した武士のみならず、
大内、山名両氏の領土下にあった武士までもが協力者に転じた。武士の多くが土着の者たちであり、
両名に未だ従っている者たちにもそれらの親類が多い。親類同士のこととて、説得されるとどうしても
矛先が鈍る上に、本領安堵を確約して、それを律儀に実行していた頼之側へついてしまうのである。
兵に厭戦気分が漂えば、戦も何もあったものではない。まず大内一族の長である大内弘世が孤立し、
降服してきた。そのために支えを失った山名時氏も降服することになって、
「どうか一命だけは」
頼之の陣幕へ引き据えられてきた時氏は、大内弘世と並んで地に頭をこすり付けんばかりに平伏し、
「お助けくだされば、以前のように幕府へ犬馬の労を厭わず尽くしましょう」
言った。
「貴公らの処置を決めるのは私ではない、二代様である」
その二人を床机に腰掛けたまま見下ろして、
(さて、どうする)
頼之は苦笑した。二人が降服してしまったことで、直冬党とも言うべき反尊氏勢力は、一応は
無くなってしまった。直冬本人は負け戦と見るやそのまま逐電してしまった模様で…事実、幕府が
これより十年の後、今川貞世を九州へ派遣しても、彼の姿をそれ以降の史実に見ることは出来ない…
そうなると、山陰から中国、そして九州にかけての勢力を依然として保っているこの「大物」二人を処分することは、
(私個人の考えで出来ることではない)
頼之はそう考え、腕を組んで唸ったものである。これまでこの両名は、尊氏遺児の直冬こそが正統であるとして、
散々幕府へ盾突いて来た。しかしそれには、人情に照らし合わせてみれば最もな理由があるのだし、
人情を盾にしたやり方は卑怯ではあるとはいえ、物事の表面しか見ない大衆は、ひょっとすると二人を
「悲劇の子を立てようとして処罰された哀れな武将」と見るかもしれない。となると、幕府の評判は
悪くはなっても上がることはない。それに、こうして眼前で誓われてしまうと、頼之の「侠気」がむくむくと頭をもたげてもくる。
「貴公らの言い条、手前が手蹟でもって、二代様へお知らせ申しあげる」
そんな己に苦笑しながら頼之が言うと、大内弘世と山名時氏は現金にもたちまち顔を輝
かせた。
頼之が言ったことは、つまり幕府へ彼ら二人の助命を嘆願するということである。さらには両名とも、
頼之が呆れるほどに誠実かつ、頼ってきたものを見捨てることが出来ぬという侠気溢れる人物で、
一度口にしたことを違えた事はないということを聞き知っている。
「やれ、中国管領殿のご恩、我ら生涯忘れませぬ」
「ご苦労、気遣い、まことありがたく」
彼ら二人が口々に言うのを、頼之はただ黙って苦笑し、頷いて受けていたのであるが…。
さても、こうして細川頼之が西日本の始末をおおまかに終えようとしていた頃、
「さあて、いよいよ我らの『順番』でござりましょうが」
京では、斯波高経がそう言って道誉へ迫っていた。手っ取り早く言うなら、清氏の「失態」の始末をし、
さらにへこんでいる義詮の支えになるための次期政所執事を決めるために、真夏の将軍邸には
武家諸侯がむさ苦しい顔を揃えているのである。
「清氏ならばという貴殿の言もあったから、手前、納得して引き下がったのでござる。清氏を薦めた貴殿の責任は重うござる」
「左様。手前とてあのような騒ぎを清氏が起こすとはなあ、予想だにしておらなんだ。ひらに許されよ」
赤と黒のだんだら染めの布地に銀の刺繍、という、近頃はますます華美になった衣装で、
相変わらず人を食ったような顔をしている道誉は、その時ばかりは苦笑して頷いた。
(気に食わぬ坊主よ)
「しかしの、ばさら殿」
幾分の揶揄をこめて、高経は彼を初めてそう呼んだ。それまでは、彼を慕う者の中で「ばさら殿」と
呼ばれていた道誉が、「正式に」幕府の内外で、そう呼ばれるようになるのは、この時期からである。
せめて装いだけでも明るいものに、という道誉の衣装は、もはや彼の屋敷内に留まらず、灰色の戦が
続くのに飽き飽きした京庶民へもじわじわと広がりつつあった。
(そもそも武士とは質実剛健たるもの。華美に流れてどうする)
そんな道誉を見て、高経は天井を向いている大きな鼻の穴から、勢い良く息を吐き出した。
「いかな二代様のご信頼を得ているからと言うて、貴公、少し図に乗りすぎて、人選を誤ったのではなかろうかの」
「ありゃ、申してくださるな。重々分かってござる。この度はのう、まっこと、この坊主の読み違え、目違いでござった」
諸侯の居並ぶ面前で、ねちねちと執拗に道誉へ絡む斯波高経へ、道誉は瓢げたように片袖をぱっと広げ、
その手にしていた扇子で己の坊主頭をぺしりと叩く。たちまち周囲からは好意と呆れが半分に入り混じった失笑が漏れた。
どうもこの坊主は憎めぬ。
それへ満遍なく笑顔を振りまきながら、
(とは申せ、これはまあ「予期していた範囲内」ではあるのじゃがなあ)
心の中で、密かに道誉は嘆息している。
小物であるゆえ、到底その任に耐えぬと分かっていた細川清氏を政所執事にし、それが何らかの過ちを
起せば誰ぞに始末を…その「誰ぞ」に、まさか同族の細川頼之がなるとは思わなかったが…させたところで、
斯波一族を代わって任命し、一時的にであれ不満のガス抜きをさせる。その後、必ず失政をしでかすであろう
斯波一族を誰ぞに始末させる。
これは、幸子にも話をされたことで決めていた話の流れではあったのだが、
(幸子殿ではないが、男が絡むとどうも話は大げさになるのう)
今少し、この状況を明るく笑い飛ばせる余裕が己にも欲しいものだ、などと思いながら、
「二代様にも、大変にお力を落とされておる。ここで、今一番の勢力と誠忠を誇る貴殿が一族の
全力を挙げてお助けする、と申しあげられたなら、もろ手を上げて賛成なさると思うが。
無論手前も貴殿とそのご一族へ助力を惜しまぬ」
「…ふふん」
もとより道誉の腹の中を探るつもりもない高経は、彼の言葉に眉を挙げ、肩をそびやかして鼻を鳴らした。
お世辞だと分かっていても、高経自身が密かに恐れている「ばさら殿」にこう言われて悪い気はしない。
山名、大内両氏は帰参してきたばかりだし、同格の畠山国清は、幕府に楯突いたのを許されたばかりの
「反逆者」だ。細川氏は頼之が正式に継いだばかりで、本人が言うには「未だ若輩の身」である。
というわけで、今の幕府には、京極佐々木家を除けば斯波氏ほど実力のある家柄はないと言ってもいい。
ともあれ、このごろの義詮は、再び鬱々と楽しまぬ様子であった。再度近江へ落ちて無事に戻ってきたのはいいが、
底冷えのする近江の気候と湖風に吹かれたゆえか、崩してしまった体調が半年以上も元に戻らぬまま、
たちの悪い夏風邪を引き込んだとて、今日も寝床に臥せっている。
斯波高経と道誉が「斯波義将を執事に、後見は父である高経に」と奏上すると、それは「好きにするが良い」と、
いささか投げやりに受け入れられた。
「山名、大内両氏が降服してまいりました。これは上様の御代が明るいものであるという吉兆ですぞ」
「北畠親房も亡くなったによって、南朝側の勢力も日に日に衰えており申す。ゆえに、われらに有利なよう、
講和の話もぼつぼつ進めましょう。どうぞお力落としなきよう」
また、清氏が強引に進めた「半済令」が、妙な形で南朝側にも浸透してしまい、そちら側の武士にも北朝側に倣えで、
そ知らぬ顔をして公家や寺社の領土を侵食している者がいるらしい。

to be continued…


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