我が胸中に在り 6



平和時であっても、物事の創設期は慌しいもので、人の心も落ち着かぬもの。
尊氏が彼に従うものへ、鎌倉幕府が許さなかった直接の領国経営を「守護」どもに許したのも、
北に南にと揺れ動く武士どもを何とか掌握しようとしてのことなのだが、その結果、守護どもが
守護「大名」と呼ばれるように力をつけていったのは、なんとも皮肉なことである。
無論、細川氏もその「おこぼれ」に預かった者のうちに入るのだが、
「じゃがなあ、こういう折であるからこそ、愉しさを忘れてはならぬのではないかの」
明けて貞治元年(正平十七年)。正月の行事もそこそこに、元・九州探題足利直冬征伐のため、
共に九州へまでも行く道すがら、清氏は折々そうこぼした。
「人の上に立つものが、そういつもいつも仏頂面ばかりしていれば、下々とて息もつけまい。
別に俺を面白がらせろと言っておるわけではなし」
この戦に出立する折り、頼之は尊氏に、九州における闕所処分権の譲渡を願い出て拒否されている。
闕所というのは、何らかの罪を得て、家はおろか、畑も家畜も、まさに「根こそぎ」その地位を
剥奪された領主が治めていた元の領土のことで、この時代は尊氏によって「征伐」された守護大名の
領地のことを指す。いわば財産刑とも言える。
これを処分するのを、大将に任命されたからには己に任せよと頼之は申し出たわけで、
「緊急事態であるからそう願い出た。何も私するわけではない、一時的で名目上のこと。
全て幕府に返上するつもりであった。行く先々で降服した敵の知行を我らのものとしておかねば、
いずれまた離反するゆえ。しかしそれが聞き入れられぬとあっては、また同じことの繰り返しじゃによって」
言い出した大将としての面目が立たぬゆえ阿波へ帰る、と頑なに言い張ったこの従弟を、清氏は、
「貴様を此度の大将にと推薦された『ばさら殿』の顔を潰すつもりか」
と、何とか説得したばかりなのである。
(一体どうやったら、このように硬く育つのやら。戦は強いし、何よりも誠実ではあるが)
幼い頃からの付き合いで、そこは清氏も十分に認めている。たとえ、昨日は敵であったとしても、
頭を下げられて庇護を求められてしまえば、もう頼之にはその相手を攻めることは出来ぬ。頼られると、
とことん侠気を見せるのがこの従弟の性分で、清氏に言わせればそれが「良くも悪くもある」ところらしい。
それに、頼之が兵を労わること家族のごとくなので、「口煩くはある…」が、そこそこに信望もあるのだ。
亡き父の分国を任された後、将軍家の命ぜられるまま、着々と四国での反足利派を排除して
足場を固めて行ったところなどは、こういった手堅い彼の性格をそのまま現しているようである。
「今少し、笑って見せたりもせねば」
「おかしいこともない折に何故笑わねばならぬ。別に私は、己が愉しゅうなくてもよろしい。
守護というお役目を果たすためには何事も隠忍と、そう思うております。現に」
先立っての戦では、後光厳帝を自ら負ぶって近江塩津の山越えをした従兄へ、やはり頼之は
しかめ面のまま言って、前方を指し、
「山名どもらの顔は、己の身の栄達ばかり図って緩んでおる。ああはなりたくないもの」
ことあるごとに足利氏へ反発している山名一族は、同じ中国地方の大名、大内氏とも語らって直冬側についていた。
一族の長の山名時氏に言わせれば、これも直義へ対する尊氏のあまりな仕打ちに憤慨したから、ということなのだが、
(そればかりではあるまい。いずれは己がと思うておるに違いない)
頼之がそう考えているように、それが表向きの理由であることは誰が見ても分かる。普段から
野心満々の時氏なのだ。いずれは己が尊氏にとってかわろうとしているのは明らかで、
(「残念ながら」あの折の初代様の処置は正しい)
大声で兵士たちへ檄を飛ばしながら、彼は妙に冷静にそう思った。
尊氏がその弟を殺したという人々の記憶は、事件より数年しか経ていないために、未だに生々しい。
感情に訴えるのは分かりやすいだけに、その野心を隠す格好の手段となる。
(卑怯な)
父から尊氏の苦悩を聞き知っている若い頼之には、それが我慢ならない。それに、直冬は確かに公には
認められていないが、尊氏の実子であることには間違いないのだ。よって妾腹ではあるが長子である
彼こそが尊氏の後を襲うべきである、との「大義名分」もまた、
(実父に顧みられぬ気の毒な公達…侠気に溢れた叔父に育てられて、その叔父も殺されて)
と、深い事情を知らぬ人々の同情を、憎いほど煽りやすく出来ている。それがために、
(許せぬ)
誰しもが犯してしまいがちな、若き日の過ちにつけこむようなやり方が、頼之には到底許しがたかったのである。
よって、「尊氏派」の攻め方は、大将である彼の激憤をそのまま表したかのように激しかった。
結果的には頼之率いる幕府軍が勝利を収めて、山名、大内両氏は一旦はなりを顰めるのだが、
「さても、京へ報告しに帰るべきであろう」
いつしか、清氏がそう言うのが口癖になっている。
二人が遠征して、気が付けば二年半になろうとしていた。そのうちに頼之は備前、備中、伊予、安芸など、
瀬戸内海に面した領土の八割を平定、「中国大将」と呼ばれて軍政ばかりではなく行政指揮も任され、
降服してきた武士諸家の所領安堵などに忙しかった。京にも戻れず、山名時氏、大内弘世本人らを
なかなか追い詰められなかったのも、ひとつにはその処理のせいもある。
この日も、幕府側となった武士の館に留まり、戦の後始末に忙しい頼之の部屋を尋ねて、
「これほどまでの功を成したのだ。一度はわれ等が自身で報告しに行かねばなるまいよ」
清氏は言ったものだ。
暦の上では、そろそろ梅雨にさしかかろうとしているが、瀬戸内地方の雨は、夏でも少ない。ただ風ばかりが
吹き抜ける晴天に照らされた縁の先で立ったまま、清氏が眩しげに目を細めながらせかせかと言うのへ、
「…よきように」
頼之は書類を広げた床机から目を離さぬまま、頷いて答えた。頼之に言わせれば、勢力を着々と削ぎつつあるとはいえ、
山名と大内の大物二人がこのまま引き下がるわけはない。この地方の、幕府側による支配体制を整えるべく、
「征伐」を続けるべきなのだが、
「貴様の仕事を手伝いたいが、俺にはあいにく、そういった細々とした政務に向く頭を持っておらん。
それに、尊氏様がいよいよ危ういらしいというのでな」
弁解するように続けるこの従兄の心配は、そちら側であるらしい。一応の戦果は挙げたのだから、報告を兼ねて
幕府の様子を窺いに行きたいと、気もそぞろのようである。
「よろしい。こちらは私が引き続き、征伐を続けよう。ただ今は万事、こちらに有利に運んでおる。
このままいけば山名、大内は逼塞する道理、他の武士どもは恐れるに足りぬ。ゆえに私一人で十分。
兄者が京へ報告しに行きたいと仰るなら、好きになさればよい」
「かたじけない。貴様のことも悪いようには申しあげぬゆえ」
「私のことは結構」
苦笑しながら頼之が従兄へ言ったまさに当日、清氏は逗留していた館を引き払い、自分の手勢を引き連れて
京へ戻っていったそうな。
時に、北朝が改元して延文三年(一三五八年)六月七日。尊氏はその波乱に富んだ生涯を閉じた。
義詮正室、幸子が、姑の登子に呼ばれ、京北山の別院北等持寺に伺候したのは、まさにその深夜のことである。
暦応六年(一三四三年)に尊氏が開いたこの寺は、彼の死後に等持院と改められ、その後、足利代々将軍の墓所となった。
方丈の北に池を挟んで清蓮亭と名づけられた茶室があり、
「夜更けにもかかわらず、ようお越し」
「お姑様こそ、このたびは大変にお気落としのことと」
先にその部屋で待っていた登子は、己を気遣うように入ってきた嫁の姿を見て、目を細めた。この姑が
嫁に抱く好意は、幸子が義詮の元へやって来た時から変わらない。
「御召しによって急いで参りましたが、このように遅くなりまして」
「構いませぬ。遅うに御身を呼びつけたのはこちらゆえ。お寒うござったろ。ささ、もそっと側へお寄りなされ。
二人きりでお話したいことがござりまする」
梅雨時の京は、夏とは言いながら朝と晩がことに冷える。ために、小さな茶室の中には火鉢が二、三置かれて、
その一つへ手をかざしていた登子は、自分の側へ来るように嫁を差し招いた。言われるままに幸子が侍女を遠ざけて
姑の側へより、同じように両手をかざすと、
「初代様は亡くなられました」
しばらくの沈黙の後、登子は事実を確かめるように、長い睫を伏せて言った。
「よう治まっている時でも、代替わり時には一波乱あるもの。此度は初代が亡うなっても、義詮殿が
その後を襲うと決まっておるが、だからとて幕府は安泰じゃとは言い切れませぬ」
幸子に話しているというよりも、自分自身に言い聞かせているように、登子は一言一言をゆっくりと口にする。
「時に、紀家の良子殿がご懐妊とか。このままゆけば、秋には和子がお生まれになろう」
「…はい」
苦労人であるこの姑は、普段から嫌味を言うような人柄ではない。よってこの時も、幸子が懐妊せず、
息子の愛妾であるところの紀良子が子を授かったと、ただ事実を淡々と述べているだけなのだ。
だが、ただ愚痴を零したり説教をするためだけに、幸子をわざわざ深夜に呼びつけるような姑でもないということも、
幸子はよく知っている。
故尊氏や、登子自身の子供達である義詮、後に鎌倉公方ともなる義詮の弟、基氏、崇光前帝皇后である頼子とも、
至極仲がよい、おっとりしているようながら、実は大変に気配りの出来る、頭が良いしっかりものの女性なのだ。
(何か仰りたいことがおありなのであろ…)
幸子は相槌を打つのみで、姑の言わんとするところを聞き入った。
「良子殿があげられる子は、太郎であれ姫であれ伊勢貞継殿預かり、ということになりまする」
正室の子ではないため、将軍邸で育てることも、しかし次期将軍の子ではあるため紀家で育てることもならぬ。
よって、世話係として政所の財務を預かる伊勢家で育てられることとなる、と、登子は言う。
「正室とはいえ、子を持たぬ女の立場は弱い。…お分かりじゃなあ?」
そこで、登子は伏せていた睫を上げて幸子を見た。
(お美しい御方じゃ)
苦労が磨きあげたに違いない慈母のような表情を、何の嫉妬も衒いもなく幸子は眺めた。彼女もこの姑が
『好き』であったし、自分が経験させられてきたことに対する恨み言を一切口に出さぬところが、
(尊敬すべきことじゃ)
幸子自身には到底真似できぬことと、常日頃感服もしているのである。よって、
「…まこと、左様にござりまする。お姑様にはさぞかしそのことでご心労を…われながら、まこと不甲斐なく」
幸子は姑に、真心から頭を下げた。夫婦の営みは、義務的とは申せ千寿王丸夭折の後も変わらず続いているのだが、
それでも正室が子をなさぬのでは、
(頼之殿にまで言われるのも無理はないわなア)
幸子は寂しく苦笑した。
登子のほうでも、幸子の素直な性分や、幸子が自分へ寄せてくれている限り無い好意を知っている。よって、むしろ
労わるようにしんみりと、
「いや、こればかりはこなた様のせいでもありますまい。天が」
少し弱くなった火鉢の炭を、火かき棒で起こしながら、
「天が、なあ…こなた様には子を成すよりもせねばならぬことがある、と、申されているのではありますまいか。
ただ子を成すだけでよいのであれば、他にもおなごはたんとござるゆえ」
この人には似合わぬ激しい言葉である。
「…お姑様」
(天が、とはまた)
消え逝く命ばかりを見つめてきたゆえに、運命論者になったわけでもなさそうであるがと、思わず驚いて
登子の顔を見つめなおす彼女へ、
「こなた様の皇家や公卿の方々への働きかけ、ありがたく思うておりまする」
白刃を思わせる、凄みすら漂わせた表情で姑は言った。
「それもこれも、上様(義詮)が不甲斐ないがゆえ。正室以外のおなごの尻を追う前に、二代として
なさねばならぬことはたんとあろうにのう…こなた様が上つ方のつなぎを取ってござるのは、
我らを強うするためであろ」
「はい。左様にござりまする」
この姑には、もともと嘘やごまかしは通用しないが、その時はなお一層。まるで人が変わったような登子に
圧倒されて、幸子は頷いていた。
不毛な争いがかくも長引いたため、見栄を張っている皇家と公家の内実は、幕府側についている武家よりも苦しいし、
先述のように自殺者すら出ている。ことに、食うことと身を飾ることのみに余念の無い上に世間知らずである
女性というものを、それらは多く抱え込んでいたから、切り詰めねばならぬところを逆に金ばかりがかかる。
切り詰めねばならぬと言い聞かせれば、苦労を知らぬ女どもらは不足を言い立て駄々ばかりをこねる。
当時、所領の「持ち分」は男女に関わらず等しい権利を与えられていた。よって、幸子も父である義季から、
己の食い分として所領を与えられている。だがそれは例によって武士だけの慣習で、公家や皇家にはない。
鎌倉幕府が出来、耳慣れぬ武士だけの守護、地頭という役職の者らにじわじわと荘園を蚕食されていくのを、
指をくわえて見ているだけの人々であったから、
(ご自身と公家どもらのみを優遇した後醍醐帝のお気持ちも分かる)
鎌倉幕府が滅び、その広大な所領のほとんどを己と公家とばかりで分けた南朝初代の帝の気持ちも分かるし、
それらの人々からの余計な恨みを受けぬためにも、何らかの援助が必要だ。つまり、
(彼らの体裁と見栄を満足させ、生活を保障してやればよい…その「構え」だけでも見せておくことじゃ。
さすれば幕府の評判も少しは回復しよう)
幸子は、持ち前の大雑把さでそう考え、早速実行に移したのである。
近江から帰還してより、己の所領から得ている「収入」の一部を、彼女はそれらの人々へ贈り物という名目で
ずっと援助し続けてきている。義詮の方も、幸子が勝手にやることだからと特に問題にもしていないし、
幸子が特に隠そうともしていないので登子ももちろん知っていた。
「…無論、こちらとしてもきりがないゆえ、お助け出来る方々は限られておりまするが…いざという時の
女どもの団結力は、男どもにもひけを取りませぬ。それに、おなごが男どもへ及ぼす影響力というものはやはり大きく」
「まこと、その通りじゃ」
そこで、二人は顔を見合わせて苦笑した。どんな男でも、女に「かわゆく…」迫られてしまえば、冷静な判断を
しているつもりでもどこかに私情が入るものだ。
「…いずれは、幕府だけではのうて皇家をも動かせる力と成り得るかもしれぬなア」
「いえ、そこまでは私は」
登子が言うのへ、幸子は苦笑して首を振る。だが、
「私には、思っていてもそれが出来ませなんだ…いざとなれば勇気が出ぬ。せいぜいが、我が娘を皇家へ差し上げ、
娘にまで忍耐を強いるのみ。紀良子殿なら尚更、考えもせぬであろ。ゆえに、なあ」
火鉢の上へかざしていた彼女の手を、登子の老いた手がしっかりと握り締めた。
「良子殿の腹になるお子が、もしも男であれば、こなた様が母となられよ」
「…は…それは」
「愛妾の子を己の子として育てることが出来る権利を持つのは正室だけじゃ。子を産むだけなら
良子殿へ任せておけばよい。じゃが、三代目を胆力のある後継に育て上げられるのは、こなた様だけじゃと私は思うています」
答えかねて、幸子は思わず顔を伏せた。気が付けば辺りは静まり返っている。雨も一時的にとはいえ止んでいるらしい。
(幕府と皇家の結びつきを強くする。三代目の後見となる。すなわち政に介入するということ…
あくまで陰で支えることが出来ればよいとのみ思うておったが、私に、そのようなことが出来ようか)
ともかくも彼女が答えようと口を開きかけた瞬間、襖の向こうが光り、
「幸子殿」
登子が彼女の名を呼んだ。遠くでかすかに雷が鳴る音もする。
「今宵はなあ、このままこちら様に泊めて頂きなされ」
幸子の手をつ、と離しながら、姑は立ち上がる。明日は葬儀であるから、というわけであろう。
幸子は登子の顔を見上げたまま、黙って頷いた。

翌日は、皮肉なほどに晴れ渡った。
足利尊氏の訃報を聞いて集まってきたのは、戦場から駆けてきた細川清氏その他、斯波、佐々木など、
「今のところは」幕府に忠誠を誓っていると見られる武士どもである。
特に斯波氏一族の長、高経などは、文和四年に直冬が乱を起した際、共に京へ攻め入ったりなどもしたが、
その翌年に再び帰参を願い出て許されるなど、何度も離反と帰参を重ねている「面の皮の厚い」
人物だった。今回も尊氏が亡くなったとみるや、剃髪して道朝などと称し、そ知らぬ顔で葬儀の列に
加わっている。つまり、そういった離反常ない武士でさえ頼みにせねばならぬほど足利幕府は弱いと見られ、
舐められていたと言えよう。
こういった斯波高経を取り込むため、「ばさら殿」佐々木京極道誉は、己の娘を彼の三男である
氏頼へ嫁がせることを約束し、尊氏へも献言した。この縁組によって幕府内における斯波高経の、
地位の安泰を約束したことにもなる。それゆえに斯波高経も「安心して」葬儀へ出席したのに違いない。
(やれやれ、寝足りぬわ。蒸し暑いしのう)
読経が響く中、幸子は常の彼女のごとく、ともすれば漏れそうになる欠伸を堪えていた。
(お姑様の仰らんとすることは、ようく承知したのじゃがなあ、それはそれ、これはこれ。
眠いのは眠いのじゃによって)
もとが開け放しな性格であるし、幸子自身は、特に舅である尊氏に思い入れがあったわけではないから、
(このような堅苦しい席は肩が凝るわ)
というわけで、彼女は前列で同じように正座している登子の様子を窺いながら、こっそりと己の肩を回したり、
首を左右へ傾けたりしている。
「…御方様。此度はさぞやお力を落とされたことと」
そんな彼女に、小声で擦り寄ってきた者があった。
「こなた様は…おお、こなた様こそ、此度はご苦労でありました」
「なんの。手前、将軍家の御為とあらばいずこへでも」
これなん、細川清氏である。幸子は苦笑して、縁へ出るように彼へ合図し、立ち上がった。
初夏の太陽の光を、寺の池はぎらぎらと照り返している。
「さて、手前になんぞ」
その池に近いほうの縁へ出ると、読経の声も聞こえてこない。そこへ片膝をついて、清氏は幸子を見上げた。
「こなた様のお従弟殿は、未だ帰還ならず、かの」
「は、それは…このような時でござりまするのに、融通の利かぬヤツで、現地の平定こそが先だと頑なに申しておりまして」
「山名や大内に手こずっておられるのかや」
「いや、それらは我等がいちどきに蹴散らしまいたら、尻尾を巻いて領国へ逃げ帰りましてござりまする。
我等、手を結んで事に当たりますれば、さほどに敵は脆く」
「なるほどのう」
ちょっとした手柄でも、大げさに言い立てて恩賞をより多くもらうというのは、鎌倉時代から続く慣習のようなものである。
それゆえに、清氏が今回の戦の功績について、大風呂敷を広げても咎められはしないが、
(眉に唾して臨まねばなア)
次期将軍御台とはいえ、所詮は女であるから戦のことは分からぬ、と、そう思ってもらっては困るのである。
「頼之殿は、誠実な御方なのじゃなあ」
「は」
「確かにこの非常の折、得た領土を放置したまま京へ帰ってまいれば、初代様の葬儀に乗じて
乱を企む輩も出ようでなあ。戦の後始末を黙々とやってのける…これは何より初代様への供養ともなろう。
お従弟殿も、そうお考えなのかもしれぬなあ。これはひょっとすると、一番手柄ではないかの」
「いや、それは」
幸子が言うと、頼之の姿が無いことを、彼の先だっての無礼な態度と合わせ、当然のごとく彼女が責めると
思い込んでいた清氏は、意外な言葉に少々慌てた。
「こなた様の従弟殿のような御方こそ、二代様の補佐に相応しかろう…なるほど、ばさら殿は、さすがに
人を見る目がおありじゃ。女どももな、そういった締める所ではきちんと締める、そういう殿方にはめっぽう弱いゆえ、
結構よろめいておる者もあるし、頼之殿を噂にするものも多いわえ。加えて頼之殿は男前ときてござる」
「ありゃ、しばらく!」
二代目義詮の補佐をする、ということは、ゆくゆくは政所執事になる可能性もあるということで、その地位を
継ぐのだと公言して憚らない清氏にとっては、たまらぬことであろう。
それに、女によって広められた噂の威力は、それが根も葉もなく、さらには人を腐すものであればあるほど
強さを増すのだということを、さすがに彼は知っている。
「頼之は、確かに誠実な男ではありますが、四角四面すぎまいて、人の些細な過ちを許せぬ、
度量の狭いところがござりまする。それに、年齢的にも未だ若い。若い者に顎で遣われるとなれば、
熟練のお歴々は果たして納得致しましょうや? よって、背いた者どもの征伐、ということならともかく、
政務を執るということになりますと、疑問符がつくと手前、考えまする」
「…フム」
従弟であると言いながら、酷い評し方である。だがそれは、
(確かに、これはこれでひとつの見方ではあるの…)
頼之と初めて出会った時に幸子が抱いた印象と一致する。
「政所執事に、となりますと、清濁併せ呑む、ということが何より肝心かと考えまする。
畏れながら、頼之ほど、その質に合わぬ者はなく」
必死に言い募れば言い募るほど、清氏の口は尖っていく。それを見て、
(まるきり、狂言の『ひょっとこ』じゃ)
義詮との婚儀前、一度きりではあるが、実家の渋川邸で見たことのあるその面を思い出し、
今度は吹き出しそうになるのを堪えながら、
「なるほど、なるほどのう」
幸子はとりあえず神妙に頷いた。
「では、こなた様のご意見も、私にではなく二代様に述べてみられたがよい。が、いずれにしてもようよう
皆と協議を重ねなくてはなりますまいの。殿方も大変じゃなあ」
もっとも、最後の慨嘆には多少の皮肉も含まれている。直接の政局から一歩離れたところで眺めていると、
武家諸氏の離反と帰参は結局、
「己が中心となって思う様、政権を揮ってみたい」
ということに尽きるのが良く分かる。己の野心を満足させたい、つまり己が頂点に立ちたい、その一点に凝縮されているのだ。
(一旦は、斯波殿に政を執らせてみねば収まりますまい…かのような人物が、政を私せぬはずがないゆえ、
いずれはそれを理由に遠ざけることも出来よう。あるいは、彼の自尊心をくすぐってやれば、
逆に頼もしい味方に成し得るやもしれぬ)
「は、ご正室様にそう仰って頂けましたらば、我ら犬馬の労を取る甲斐があるというもの」
清氏は無論、幸子が意外なほどに冷静に「足利」や己らを見ているとは知らない。所詮は女子供の申すことと、
文字通りにその呟きを受け取って、媚びるような笑みを見せる。
「はい。苦労をかけましょうが、向後もなあ、二代様ともども、よろしゅうにお願い申し上げまする」
(これも、己がいずれは…と思うておろうなあ)
幸子はそんな清氏の表情を見ながら、
「はい、我らにお任せあれ」
「頼りにしておりまするえ」
彼が胸を叩いて言うのをさらりと受け取った。
「おや、曇ってきましたな」
清氏の言葉に、幸子は天を振り仰いだ。晴れ渡っていた空の一点に黒い雲が見える。それが見る間に
広がったと見るや、たちまち池の表面を細かく叩く雨が降り出してきて、
「やれ、ここにいると濡れてしまう。じゃがこれで、少しは涼しくなりましょう。…いや、本日は
貴重なお時間を取らせまいた。これにて」
幸子は清氏へ軽く頭を下げ、まだ読経の響く寺の広間へと戻って行ったのである。


to be continued…


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