我が胸中に在り 4



(戦など、人のおらぬところで存分に)
変わり果てた町並みを見ながら、嫁ぐ前と同じ思いが彼女の胸によみがえる。しかしその思いは、
もはや他人事のようなそれではなく、
(戦がなくならぬのは、われらが弱いからじゃ…足利が強くならねばならぬ)
「御台様、御方様、雨の降り出さぬうちに」
警護の武士どもに促されて姑へ軽く頭を下げ、千寿王と共に輿の内へ再びこもると、途端にそれはぐらりと揺れた。
(南朝方と仲たがいしたのが、なんとも拙かったの)
腕の中で抱き締めた我が子を無意識にあやしながら、幸子は宙を見据えて考え続ける。
(幕府とはそもそも、皇家を頂いてこそのもの。様にならぬからと言うて、形骸だけの北朝を
建てたのからして拙い。皇家や取り巻きの公家ども自体には何の力も無い…大納言やら関白やら、
大層な名前を並べてはいるが、皆、肩書きだけのデクノボウじゃ。だが、象徴としての権威だけは
馬鹿には出来ぬ。それを、形だけでも征夷大将軍として武士の棟梁になりさえすれば、力のある武家の
支持は得られると考えたのが、初代様の読み違えであったなア)
尊氏がもしも幸子の考えていることを知れば、きっと激怒したであろう。もちろん、彼女の考えには
  彼女の偏見や独断が多分に混じっている。そもそも「女子供には必要のないこと」と、政治向きの話は
  とんと聞かされぬのだから仕方がないのだが、
(皆、心のどこかで正当な皇家は南朝方であると考えておるし、何より後醍醐帝を吉野へ追い落として、
そのまま身罷られるまで捨て置いた、というのも、こちらにいかな諸事情があったとしても
申し開きは出来ぬ事態。御霊を慰め申し上げるために、夢窓国師が献策によって天竜寺を建てたというても、
南朝方では片腹痛いわと嘲笑っておろう…形だけの皇家である北朝方に征夷大将軍に任じられても、
武士どもは懐かぬ。反って舐められる元になっておるのじゃ)
幕府が『反幕府側』の武士どもに舐められているという認識は、あながち間違っているとは言い切れぬ。
実際、いざ足並みを揃えて攻めかかれば敢え無く敗走する、このような「征夷大将軍」では舐められても致し方ない。
(幕府が…われらが舐められぬために、女の身でも出来ること)
だがそれは、『男社会』では限られている。考えあぐねて、思わず大きく息をついた時、
「御方様。ようよう山を越えました」
籠の外から、侍女の声がした。
「あれ、あのように大きな水溜りが…ここからでもよう見えまする」
「琵琶湖とか申す湖ではないかの」
中から言葉を返しながら、幸子は鼻を少しひくつかせた。
なるほど、頬に当たる風に、いささか水のにおいも混じっている。そしてふと気付くと、腕が痺れたように重い。
(あれあれ)
雨で冷えた我が子の肌が妙に温みを帯びてきたと思ったら、
(幼子は他愛ないの…)
思わず口元のほころんだ母の腕の中で、千寿王はいつの間にか無邪気な寝息を立てていた。
(この子が「三代」になるまでに)
姑が言っていたように、果たして戦は無くなるのであろうか。そもそも、「近江落ち」せねばならぬほどに
切羽詰った幕府側の行く末さえ今は見えぬし、
(心の底で、女など…と小ばかにしておる男ども…将軍家御台とは申せ、私の考えなど誰も聞かぬであろう。
将軍家の正室じゃというのも所詮は肩書きよ)
肩書きに心から頭を下げる人間などいないのである。
(じゃが、それをありがたがるだけでなくて、存分に利用することができれば…この世が男どもによって
作られた舞台であるなら、女がそこへ食い入るためには)
「おお、佐々木様よりのお迎えが…あれ、あのように。もう安心にござりまするぞえ」
「ウン」
「御方様、お疲れ様にござりました」
「アア」
輿の周りで安堵のため息をつく周囲の言葉へおざなりに返事をしつつ、幸子は澄んだ眼差しを
輿の天井へ向けたまま、考え続けた。
(一番良いのは仲直りすることなのじゃがなア)
幸子が「政治」というものと真っ向から向き合うきっかけになったのは、この「近江落ち」が
最初であったと言っていい。
(仲直りするということは、つまり不自然に北と南に分かれてしまった皇家を一つに戻すということ。
夢のような話じゃが、たれかがやらねばならぬ。じゃがそれは女である私の役目ではない…
女たる私には、能の舞台と同じで出番が与えられておらぬゆえ、それは到底出来ぬ相談じゃ。
戯言を、というて笑われるのが落ちであろう)
坂を下る輿の周囲で、次々と加わる警護の兵によるざわめきが次第に大きくなる。やがて
再び雨が振り出したらしい。パラパラと細かいものが当たる音と共に、
「御方様、千寿王様、真に失礼かとは存知まするが、お顔をお出し下されますまいか」
窓のすぐ側から、野太い声もする。
「手前、佐々木道誉にござりまする。このたびは、尊きお方を我が家へお迎えできまいて、まっこと光栄に」
「…存じておりまする。懐かしいのう」
すらり、と、窓を開けて幸子は顔を覗かせ、そこに赤く照り映えた坊主頭を見つけて、顔をほころばせた。
「こなた様の振る舞い、見事な役者ぶりよと思いながら、折々京の屋敷にて拝見しておりました。
じゃが、こうしてじかに言葉を交わすのはこのような折が初めてとは…なんとも粋なめぐり合わせ。
面白いものと思うておりまする」
「これはなんとも…ハッハッハ。いやはや、そう申されればまことに粋なめぐり合わせ」
幸子の挨拶に、洒落たことの好きなこの「ばさら殿」は、剃りこぼった頭を分厚い手のひらで
つるりと撫でて豪快に笑う。
(この挨拶、まこと良し。何とも出来た奥方じゃ)
「左様左様。人生とはさほどかように、予測不能の面白きもの…我が家へ次期将軍とそのご一族を
お迎えすることになりまいたのも、何かのご縁。さあさ、これよりはこの道誉にお任せあって、
心安らかに。なあに、近江は平安の昔より佐々木源氏の地。手前がしっかと守うておりまするゆえ、
毛筋ほどの無礼者も近づかせはしませぬ」
「これは頼もしい見栄を切られる」
幸子が言うと、周囲に一層、安堵のざわめきが広がった。
この道誉、義詮がかつて播磨へ出兵した際には、尊氏との密約でもって赤松則祐と共にわざと
朝側へついて南朝側を油断させ、義詮と共に京を挟撃して奪還したり、一時的に南朝と
  仲直りした際には、後村上天皇から直義追悼の綸旨をもらうよう尊氏へ進言していたりもする。
このように「なかなか食えぬ」坊主ではあったが、道誉自身にとっては
(尊氏を頂いた武家政権をこそ…)
と、それのみを考えての行為であり、平常の彼は常に陽気で洒脱、加えて人の細かい失策や
欠点を追及したりはしないので人気も高かった。
この時、道誉の本拠である勝楽寺へ向かいながら、
「いずれ初代も鎌倉より戻られましょうし、則祐も無論、手前も二代様と共に
京を奪還いたしまするゆえ、今少しご辛抱を」
そう語る彼の口から幸子が初めて聞いたのが、先ほど戦死した細川頼春の息子、頼之の名である。
「あれもなあ、阿波より日に夜をついで戻っております最中の模様。親父殿に似ず生一本の『堅物』
ではあるが、それゆえに信頼できるし学も深いし和歌もものしまする。二代様の補佐には、
年は若いが頼之をこそ、と手前は義詮様にも申しておりますのじゃが」
「…細川殿のご忠誠は私ども、身に染みておりまする」
窓を開け放しながら話し合っていると、水の匂いがいよいよ濃い。京と同じ盆地でありながら、
どこまでも広がるかと思える田の向こうには、曇り空を移して灰色に彩られた湖が小さく見えており、
「そのおせがれ様ならば、二代様もきっと信頼なされましょう」
(京は遠くなったもの…)
目を細めながら、幸子は言った。
勝楽寺へ向けて、幸子と千寿王、そして登子を乗せた輿は進み続ける。京とは違った、湿り気の濃い、
しかしどこか暖かい風は開け放った小さい窓から吹き込んで、
「起きやったか」
幸子の腕の中で眠っていた千寿王の頬をくすぐったらしい。
「ほれ、御覧なされ。こなた様が眠っておいでの間に、ここまで参りましたぞえ」
ぐずりかけた我が子へ、窓の外を指しながら幸子が言うと、千寿王はつぶらな瞳を見張って母の指差すほうを見た。
「京は、まこと、遠くなり申した」
丸い頬へ唇を寄せるようにして彼女が言うと、千寿王は鈴を転がしたような声を上げて笑い、同じように外を指す。
彼の指した方角の田畑には二、三羽の燕も飛び交っており、
「…春も、遠いの」
それを見ながら彼女がつい漏らした言葉に、
「なんと。ついこの間、過ぎ去ったばかりではございませぬか」
侍女は怪訝な顔をしたが、道誉は口を結び、「フム」と頷いた。
「道誉殿」
「は」
どうやら道誉にはその言葉の意味が通じてしまったらしいと苦笑しながら、幸子は、
「お屋敷へ寄せて頂きましたらなア、早速ですが折り入ってお話したいことやお聞きしたいことが
たんとござりまする。お時間を頂けましょうか」
「おお。それはもう」
道誉はそこで、我が胸をどんとばかりに叩き、
「二代様、そしてこなた様の御父、義季殿も、皇家の方々との折衝を終え、おっつけこちらへ
参られると伺うておるが、それまでには間があろう。それゆえ、手前で分かることでございましたら、
出来る範疇でお答え申しあぐる」
「それはよかった。よろしゅうお願い申しあげまする」
(出来る範疇で…とはのう)
さすがにここが、「食えない坊主」らしいと苦笑しながら、幸子は千寿王を抱き直して軽く頭を下げた。
勝楽寺は、大津より琵琶湖を左手に見ながら、湖南側をぐるりと回って京からちょうど東に位置している。
曇り空がいよいよ暗くなってきた頃、
「やあ、到着しまいた」
道誉がガラガラ声で叫んだ。警護の武士や侍女は、それを聞いて疲労の色をさらに濃くしたが、
(いよいよじゃ。これからじゃ、戦いは)
道誉の家族や郎党が総出で頭を下げるのへ頷きながら、幸子は一人、気を引き締めていたのである。
「…左様、この十九日で我等もなんとか天皇を再び頂くことが出来まいて」
供の者達ともども顔や肌の汚れを落とし、道誉の屋敷にようやく落ち着いたのが、その日の夕暮れ。
千寿王は旅の疲れもあったのだろう、案内された寝所でことりと眠りについてしまい、
「これで幕府としての面目は保てようと、我らも安堵致しましてござる」
中庭に面したとある一室。ほのかな明かりの元で、顔を引き締めた幸子と二人、向かい合った道誉は、
そう言って安心させるように微笑った。
実際、「このままでは逆賊扱いとなり、攫われた皇家の方々の奪回もならぬしお守りすることも出来ぬ」
とまで言って、義詮は広義門院へ迫ったのである。これにより、さすがに門院の心も折れた。
よって二七日に官位その他を正平一統前のものとする広義門院の令旨が出され、滞っていた政もようよう
回転するようになったのである。またこれにより、優位に立ったはずの南朝側の立場は、再び覆されてしまった。
「その旨、軍旅の道中におわす初代様へも早馬を立ててお知らせしておるゆえ、御台様方にも
どうぞお心を安う、と、手前、先ほども登子様へ申しあげまいた」
「…それは良かったこと」
「さて、それでは」
そこで道誉は襟を正して幸子へ向かって平伏し、
「御方様が手前にお尋ねになりたいこと、伺いましょう」
一度深く頭を下げ、引き締めた顔で彼女を見上げた。
雨は断続的に降ったり止んだりを繰り返している。冷えてしまった手のひらで、勧められた
熱い湯の入った茶碗を包むようにしながら、
「この際であるから、ハッキリと申しあげておきましょう。私が貴方様に問いたいと思うておりまするのは」
しばらくしてホッとひと息をつき、幸子もまた、父の同僚をまっすぐに見つめ返した。
「幕府を強くする方法じゃ」
「…さ、それは」
「男のみによって政は動く。それゆえ女の出る幕は無い…女じゃから出来ぬ、と見られておるが、
そんなはずはない。女じゃからこそ出来ることがあるはず。貴方様なら恐らくそれをご存知。
それゆえ、貴方様にのみ問いまする」
さすがに困った風に、腕組みをしながら大げさに天井を仰ぐ道誉を見つめる幸子の目は揺るがない。
「今の足利幕府は弱い。女である私でさえ、どう贔屓目に見てもそう思えまする」
「…はい、その通りじゃ」
そして道誉も、
(これはおなごにしておくには惜しい…二代様なら口にも出さぬことを)
己の娘ほどの年ではあるが、次期将軍の正妻といった立場にもかかわらず、彼女は二代義詮よりも
冷静に今の幕府のあり方を見つめている。ゆえに、この女性にはいつものホラやハッタリは効かぬと
腹を定めたらしい。彼は視線を幸子へ戻して、
「そもそも初代様が京に幕府を定めたのは、吉野の南朝に対抗する上で、京を離れるわけには
行かなかったがゆえ。それとこれは手前のみの考えながら」
その大きく、切れ長の目を見ながら語った。
「いずれは朝廷の官位をも取り込んでしまおうと…そういったお心なのではないかと」
「なるほどのう」
幸子は頷いて、道誉を促す。
「幕府が弱いのは、初代様が先の帝、後醍醐天皇を武力で持って京から追い出した…それが未だに
尾を引いておるからじゃ。たとい形骸のみとは言うても、まだまだ皇家の人民に対する権威は侮れぬ。
誰もが心の底で、今の幕府が頂いておるのは仮初めの帝じゃと思うておるし、またそれが当たり前じゃと
手前は思うておりまする…否」
道誉はそこで苦笑し、
「貴女様の御父、義季殿、赤松の則祐、政所執事の斯波一族、そして先ほどの戦で亡うなった
細川頼春…皆、どこかでそう考えておる」
「それゆえ、幕府は弱い…内でも一枚岩ではない故」
「左様」
後を引き取って幸子が言うと、道誉はそこで一旦口を結び、大きな鼻の穴からふうっと息を吐き出した。
つまり、幕府の重臣でさえも「自分たちは作り物である」と考えていて心が定まらぬ折がある。
それゆえに戦いにも力を出しきれぬ、と、道誉は言いたいのだ。重臣でさえ南朝側を「正統」と
考えてしまうのだから、一兵卒なら何をかいわんや、であろう。
「皇家同士の仲直りは…まだ出来ませぬのう」
「仲直りと。いやまこと、そうですなあ。積年の恨みがござるゆえ、仲直りは未だ難しい」
また女性らしい言葉を聞いたものと、南朝側との交渉役を一手に引き受けてきた道誉は苦笑しながら、
「まずは、足並みを揃えぬと…幕府についておれば、一応は甘い汁が吸える…そのような考えを持つものが、
幕府の中から出でて再び南朝側へつく」
「ふむ…甘い汁が吸えぬとあって幕府へ弓引く時、その者どもらの寄り付く先は南朝。そもそも皇家が
歩み寄れぬとあれば、こちらとしては内から強く。攻め込まれてもこちらが強くあれば、いずれ先方が
枯れゆく道理。じゃが、いざ南朝側が結託して向かってくると、我らの心はあまりに脆い。
それゆえ舐められて戦が絶えぬ」
勝楽寺への道々、考えていたことを幸子が話すと、道誉は大いに頷いて、
「左様、まこと左様。足利将軍家を頂いた我等はかほどに強いぞと、一度の戦で示すことが出来れば
それにこしたことはない…しかし頂点におわす二代様にしてからが…まあ、それは、のう…」
「いや、仰りたいことはよう分かりまする」
つい出たらしい道誉の失言に、幸子もまた苦笑した。
彼女の夫である義詮には、側にいる幸子の方が気の毒に思うほどに覇気も、そしてハッタリを
飛ばすほどの度胸も、そして清濁併せ呑む度量も無い。加えて美男子ではあるがあまり健康でもない。
要するに、兵たちを『姿をあおぐだけで畏服させる』要素がまるきりないのだ。ゆえにそれもまた、
「足利幕府の頼りない要素」の一つになっているのだろう。
「いやいや、これはしたり。どうぞ今の手前の発言は夫君には内密に…じゃが、御方様」
道誉はそこでかすかに笑って幸子を見直した。だが彼女をじっと見つめるその目は、もはや笑ってはいない。
「貴女様には千寿王様がおわす。義詮様の御代で成し遂げられぬことでも、貴女様が初代様が
目論んでおられることをお継ぎになればよろしい。貴女様次第でお世継ぎに箔さえつけることも出来よう」
「私が? …私に出来ましょうか」
突然、襖の向こうが明るくなった。どうやら雨を降らせていた雲が途切れて、そこから月が顔を出したらしい。
その光は襖越しに彼ら二人の顔をこうこうと照らし、
「…男ならば角が立つことも、おなごであれば成し得る、そういったこともござりまする」
しばしの沈黙の後、すっかり冷めてしまった己の分の湯呑みを取り上げて口へ運びながら、
道誉はぽつりと言った。幸子の顔も、ほのかに蒼い月光に照らされて冴え冴えと冷たい。
ここまで臣下から無礼な発言を受けて、普通の女性なら怒り出すどころか、
(怒りさえもどこかへ置き忘れたような)
道誉が心の中で密かに苦笑しているように、目の前の幸子の表情は、どこかとぼけているような、
他人事のようなそれなのである。だが、
(むしろ逆に、奥方のほうにその素質があるのではないか)
恐らく、彼女は京から逃れてくる道々、そのとぼけた表情の下でずっと「幕府を強くするには」と、
それのみを考えていたのだろう。亡き細川頼春が、彼女を息子の室にと切望していたその目は
やはり正しかったのだと、改めて彼は将軍正室を見つめ、彼女の言葉を待った。
「…よう分かりました」
やがて、疲れたように息を吐き出して、幸子は白い両手に包んでいた湯呑みを受け皿へ戻した。
その表情は、やはりどこかとぼけているが、
「お時間を使わせてしもうて済みませなんだ。じゃがなあ」
「はい」
裾を裁いて立ち上がった彼女のために襖を開けた道誉へ、
「貴方様との話し合い、まことにためになり申した。かたじけなく」
敷居に片足を乗せながら、軽く頭を下げた幸子を包む空気は、この部屋へ通された時のそれとはまるで違う。
「何の。手前との話がお役に立てまいたのなら、それはそれでまことに結構なこと」
道誉も、むしろそんな彼女の変化を楽しむように、口元へ笑みを浮かべ、
「もう夜も遅い。今宵は手足を伸ばされ、ゆるりと休息を取られよ。明日には二代様とこなた様の父御も
到着されようゆえ、そうなればいよいよ京奪還の始まりでござるぞ」
言い終えて、カラカラと笑ったのである。
こうして北朝側は、「正平七年」を彼ら側の元号である「観応三年」に戻し、弥仁親王を同年八月には
即位させて後光厳天皇となさしめ、なんとか体勢を立て直した。立て直すや否や、父尊氏が鎌倉を、
子義詮が京をそれぞれ奪還し、京の八幡男山まで迫っていた南朝側を再び賀名生へ追い落とすことに成功する。
(昨日は東に今日は西に、なんと忙しいことよ。人の心というものは、かくも揺れ動きやすいもの)
そして京へ再び戻る輿に揺られながら、幸子は苦笑していた。このたびの戦勝は、もともと北朝側であった守護だけではなく、
(北朝側が体勢を立て直せたと聞いて、改めて北朝側へつき直した者のおかげもあろうの)
たとえ今は味方であるとはいえども、容易く心を許してはならないということをこの時、彼女は学んだのである。
ともかく、何とも煮えきらぬながら、後の世に「観応の擾乱」と呼ばれるこの戦いは終結を見た。ただし、
ここで後光厳天皇が即位したことで、その兄筋である崇光天皇は嫡流から外され、その系統は後に
伏見宮家として存続することになる。
(これがまた、『喧嘩』のタネにならねばよいがの…)
痛んでしまった屋敷の修復の槌音が、今日も響く。暦の上では初秋ではあるが、盆地である京の暑さは未だ厳しい。
(まこと、男どもとは仕様のないもの。くだらぬ地位に血眼になってしがみつく)
膝元で、他愛ない遊びに興じている我が子を見ながら、幸子は襟元を少しくつろげて、そこへ扇で風を送った。
すると、かすかな虫の音がする。思わず扇の先で我が肌を叩いてそれを見やり、
(…蚊じゃ。これも己のみが生き延びるために必死か)
幸子は口元にかすかな笑みを浮かべたのである。



to be continued…


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