我が胸中に在り 2



   一 観応の擾乱
 
さて、話は初代尊氏が持明院党側の天皇家を頂き、幕府を開いたとされる時から十余
年が経った、観応二年四月頃へと遡らねばならない。
「幸子様。お父上様がお呼びにござりまする」
襖の外から、侍女の声が遠慮がちに響いた。
足利二代将軍、義詮の住むところから、さほど離れてはいない場所に位置していた、渋川義季の屋敷である。
部屋の中にいた女性は、その声にふと、文机へ向かっていた顔を上げてそちらを見た。
襖の向こうでは、春の午後の日差しが明るい。彼岸に差し掛かったばかりだというのに
今年はめっきり春めいて、京の四方の山々にも桜の花が咲き初めていた。明日明後日には
満開になるであろうと屋敷の者どもは言い言いして、花見の準備などしているらしいが、
(桜なぞ、のう。父上は大層お好きと見えるが、私はそれよりも狂言のほうが)
神妙に手を仕えているらしい侍女の影が、くっきりと障子に浮かび上がっているのを見つつ、彼女は立ち上がる。
途端にこみ上げて来た欠伸を、一応は慎ましく口の中でかみ殺しながら、
(なんの、毎年人を見たか桜を見たか分からぬ。疲れるだけじゃによってなあ)
それでも、父が命令すれば自分は出かけなければならないのだろう。
「何用でお呼びなのじゃ」
足利氏の支流であり、清和天皇から続く河内源氏の末裔だということを誇りに思う父、
義季の顔を心の中で思い浮かべて、彼女は苦笑しつつ障子を開いた。
「はい、いいえ」
幸子の先に立って歩きながら、侍女は彼女の問いかけに首を振る。
「私はお聞きしてはおりませぬ。何事もまずお姫様へお話するからと殿様は仰せで」
「やれ大仰な」
父の物言いは、いつも一方的である。母や娘である彼女へも、何か話があると言って申し渡された時には、
既に父の中では決定事項であり、屋敷の者の周知の事実となっているのだ。いわば、事後報告である。
特にそれへ反発を覚えたことも無いが、
(なんぞ、重大事であろうか)
少なくとも、花見の相談ではないらしい。そう思うと再びの苦笑が幸子の顔に浮かんだ。
女子供「ごとき」に先に話しておかねばならぬ…屋敷の者へも明かさぬ事情が、今回はあるようだと思いながら、
幸子は磨き上げられて黒光りのする床を、白い足袋でひそやかに踏んで歩く。
長い廊下を曲がって父の…というよりも屋敷の表側に位置している大広間へ近づくにつ
れ、渋川邸に仕えている郎党どもの姿も次第に多くなっていく。彼らは幸子の姿を見ると慌てて廊下の端へ避け、膝をついた。
その中には彼女にも覚えのある赤松氏や細川氏、そして斯波氏の家来などもおり、
(男どもとは、よほど戦好きに出来ているもの…)
それらへ頷き返しながら、彼女はまた、沸き起こってくる欠伸を口の中で噛み殺した。
時に初代将軍弟、足利直義が幕府の重臣であった高師直を排除しようと、あろうことか南朝側について、
『兄』へ刃向かったのが、昨年、北朝側の年代では観応元(一三五〇)年のこと。
これが後の世で「観応の擾乱」と呼ばれる戦いである。
この戦いに乗じて兵を挙げた阿波国守護、小笠原頼清を討伐すべく、若かりし折の細川頼之が
派遣されたのも観応元年。頼之の小笠原氏「征伐」と同様、この戦はその二年後の一三五二年まで
続いていたのだが、
(よほど規模の大きな…)
所詮は、男が勝手にする戦なのだ。その真っ只中でありながら、他人事のように幸子は思うのみである。
父が戦の最中でも頑固に催そうとする花見も、どうやらその兵士たちの慰労のためらしい。だが、
(迷惑なこと。戦など、人のおらぬところでこそ存分になさればよいものを)
どちらにしろ、女である自分は蚊帳の外に置かれている。実の父を含む男どもの事情など、
(知らぬことよのう)なのだ。
「参られました」
侍女が引き戸の側で膝をついて指を揃えると、締まっていた障子がすらりと開く。身分の高い娘らしくなく、
今にも大きな口をあけて欠伸をしようとしていた幸子は、そこで慌てて顔を引き締めた。
「おお、幸子か」
彼女の姿を見ると、父、義季は顔をほころばせた。
「こちらへ、近う、近うござんなれ」
「お帰りでありましたか」
幸子が軽く頭を下げながら言い、部屋の中央を進むと、
「おお、おお。今は戦の合間の少憩よ。いわば『忙中、閑有り』といったところかの」
家の者には密かに亭主関白振りを微苦笑で眺められているのを知らぬ、さらには子煩悩を
もって自認しているこの父は、
「うん、美しゅうなった」
己の前に手を仕えた娘の顔を上げさせて、独り頷くのである。
「改まられて、何の御用にござりまするか」
幸子は、色白の頬に黒目がちの瞳をまっすぐ父へ向けて尋ねた。
親の目から見ると、その幾分おっとりとした、というよりも物事にさほどこだわらぬらしい性分は、
(あまり『己』というものが無うても…まあ、器量は悪うないが)
自分の意思を持っていないようで、どこか漠としていて、いささか物足りぬ。だが、
「こなたの嫁入り先を決めてきた」
「まあ、それはまた急なことで」
「いやいや、こなたにとっては急でも、父にとっては急ではない」
いきなりそう切り出しても、どこか他人事のように目を見張るのみの娘の様子を、
この時ばかりはありがたいと、義季はしみじみ思ったものだ。
「こなたの叔母が直義殿に嫁いでおる縁での、以前よりなんとなく話はあったのじゃ。それが
今の時期となっただけのこと。こなたももう十八じゃ。まだ嫁に行かぬのかと周りがうるそうての。
なまじ将軍家に近い家柄ゆえ、選り好みをしておるなどと、あらぬことばかり申しおる」
「別に周りが何を申そうが、どうでも良いことではござりませぬか。それに、どこへ嫁に
参りましても私は私でございます。特に口へ入れるものの嗜好が変わるわけでなし。して、
どちらの殿方の元へ私は参ればよろしいので?」
(ありがたいことはありがたいが、あっさりしておるの…)
万が一、娘が拒否した場合のことを考えて、説得の言葉を用意していた義季は思わず苦笑を漏らしながら、
「二代様の元へ参ってほしい」
「二代様…と、申されますと、もしや義詮様」
「左様」
そこで、父はぐっと幸子のほうへ膝を乗り出した。
「我等、細川殿らと同じ、幅ったいが将軍家と同じ血を引くもの。このようなご時世ゆえ、
同族のよしみとて、せめて我等、源氏の血を引く者だけはがっちりと結束を固めておこう
と。それゆえに、こなたもそのつもりでのう」
「そのつもり、とは?」
「これこれ」
(少し育て方を間違えたかの…)
聞き返してくる幸子へ、義季はまたそこで苦笑する。自分のことであるのに、やはりどこか他人事のような様子に、
(まず、致し方ない)
いざとなれば京も戦場になるかもしれぬからと、常日頃言い聞かせてはいたのだが、そこは親心。
跡継ぎの直頼はいざ知らず、なるだけ妻や娘といった女子供は戦から遠ざけておきたいし、また実際に遠ざけてきたのだから、
(無用の戦を避けるため、と申しても分かるまいのう)
言っても現実味が湧かぬに違いない。
「ともかく」
義季は、そこで腹の底から息を吐き出しながら、
「二代様との祝言、異存はないということで、各位へ申し上げても良いな」
「もう皆様方でお決めになったことなのでしょうに。今更私の意志など確かめなさって、どうなさるおつもりなので」
「…よろしい。となればのう」
決して嫌味ではなく、むしろ淡々と返してくる娘へ、義季は頷いた。
「いつまた誰ぞが背くやもしれぬゆえ、出来る限り早く参ったが良い。父の用はこれだけじゃ。大儀であったの」
…娘が二、三頭を縦に振って去った後、義季は天井を仰いで嘆息した。
(どうも、のう…)
父としては、今一度幸子へ念を押しておきたく思う。だが、あまりくどいのも反って、
(せっかく参ると申しておるのだから)
娘の『その気』を損なうのではないかと…ひいては、将軍家へは嫁がぬと言い出すのではないかと、
それが憚られたのである。
しかし、あっさりしていればいるで、寂しいものだと義季は思い、我ながら身勝手なことよと苦笑した。
我が娘ながら、幸子の性格は今ひとつ掴みきれぬ。
決して投げやりになっているのではない。父が行けと言うのだから嫁に行く。それは当然のことと
割り切っているようで、素直といえば素直といえるのかも知れぬ。だが、私は私、という言葉が出るのは、
強烈な自己を持っていることの表れとも思える。
ともかくも、
(結束の固いと思われたご兄弟ですら、二つに分かれて争う世ゆえ)
「御所へ参る」
義季は近習の者へ言い、両膝を叩いて立ち上がった。初代尊氏や彼の一番の信頼を得ている
播磨国守護赤松則祐、近江守護の佐々木京極道誉らへの報告のためである。
(このまま、平穏が続けばなァ)
屋敷の外へ出ると、うららかな陽光が彼を包んだ。つい二ヶ月ほど前までは戦の只中にあったと思われぬほど、
穏やかな昼下がりである。

室町幕府とは、まことに不思議な武家政権であると言わねばならない。
武家の棟梁でありながら、その中枢を担う将軍は三代義満に至って公家の最高位である太政大臣をも兼ね、
それがために将軍家は「公方」と呼ばれることになる。彼が構えていた「花の御所」の場所が京の室町にあり、
彼の時代に至って初めて政権が安定したことをもって、この幕府を室町幕府と呼ぶのだが、この頃の
足利幕府の権威はまことに弱く、頼りなかった。
将軍というものは、天皇を上に頂いてこその征夷大将軍であり、現在の幕府に抱かれた天皇家は北朝と呼ばれている。
その天皇家が所有している皇位継承の象徴である『三種の神器』は、初代尊氏によって吉野へ追われた、亡き後醍醐帝が、
「直義に迫られてやむなく渡したが、あれらは偽者である。本物はこちらが持っている」
と主張して憚らなかった。つまり、南朝が正統な皇家であると言いたかったのである。
よって、隙あらば幕府に楯突こうとしている武士にとっては、
「何とも様にならぬの。締まらぬ話じゃ」
豪放、豪快、率直な人柄で、ほぼ誰からも愛された赤松則祐でさえ、時折苦笑いで持って言っていたように、
「今の天皇家は名のみであり、正統な天皇家ではない」
として、格好の大義名分になったし、それがために乱が絶えぬと言えなくもない。もともと、
初代尊氏その人が、時の天皇であった後醍醐天皇を追うたというので、南朝側からは当然のこと、
味方からでさえどこか、反逆者と見られてもいるのである。
(お辛いであろうのう)
義季は、無論、同族だからという理由だけでは無しに、尊氏へ同情している。外に敵がわんさといるからこそ、
幕府のうちではがっちりと結束を固めねばならぬというのに、それぞれ両腕と頼んでいた
将軍家執事と弟までもが二つに分かれたのであるから、
(せめて我等と細川殿…源家の血を引く者だけは、将軍家を支えねば)
打算抜きで、真実、彼はそう思っていた。
さらに言えば、今回の戦とて、直義に反発した尊氏執事、高師直によって「知らぬ間に」
反直義側にまつりあげられてしまっていたのであり、これも尊氏にとっては本意ではなかったことを、
尊氏の味方である武家の棟梁たちは知っている。それになんといっても義季の妹が尊氏の弟である
直義に嫁いでいるのである。彼にとっても他人事では済まぬ。
(妹のためにも、ご兄弟の和睦の道を、のう…)
「御免つかまつる」
案内されて詰めの間へ入っていくと、そこにいた同僚たちが一斉に彼を振り向いた。
「おお、各々方、お揃いで」
それらへ軽く頭を下げ、細川頼春がずらして空けてくれた畳の上へ義季が座を占めると、
「して、ご息女は」
挨拶抜きで、赤松則祐がいきなりそう切り出した。挨拶の無いのがまた彼らしいし、
それでいて決して不快にはならぬ。そう思わせられるのは、則祐の持つ、一種独特の人徳のためだろう。
京の町では相撲人として名を馳せているように、元々ががっしりと武張った体つきであったが、
近頃はさらに肉置きも豊かになった。ために、
(熊のような、とは、あれのことを指すのではないか)
実物の熊を見たわけではないが、そう評して女どもが少し怖がっているのも無理もないかも知れぬ。だが、当の則祐は、
「いや、何事も無く、二言で承知いたしてござる」
「左様でござったか。いや、それはまず一安心」
義季が苦笑しながら返した言葉に、大げさに笑って腕を組み、二つ頷く。その様子に、また何ともいえぬ愛嬌があるのだ。
「なにせ、顔を合わせるのも初めて同士じゃ。いかに義季殿が説かれたとは申せ、幸子どのにもいささか
異論がござろうと。いや、娘御がご承知ならば、初代様も安心なさろうて」
「ははは」
則祐の、いかにも単純な安心の仕方に、義季は再び苦笑をもらした。
「いやさ、素直は素直ゆえ、二代様とも案外に上手くやれるのではないかと思うてはおりますのじゃが」
すると今度は、細川頼春が、
「娘御には、あのこと?」
「告げ得ませなんだなぁ」
「無理もない。じゃがそう聞くと」
そこで一度、口を結んで鼻から大きく息を吐き出し、
「やはり我が倅にくれて欲しかった、とのう、思いまするなぁ。将軍家にしてやられましたわい。
こいうった話は早いもの勝ち、とはよう言うたもの」
「未練じゃぞ、頼春殿」
則祐がからかうように言うと、一座は好意の笑いに包まれた。
幕府二代将軍、義詮には、当時思いを寄せていた公家の女性がいた。後に彼の側室に入って三代義満を含め、
二人の男児をあげることになる紀良子である。
渋川義季が娘に告げることが出来なかったのは、つまり「次代将軍の愛人」の存在であり、細川頼春が
それに対して無理もないといったのは、同じ親としてその気持ちが分かるからであろう。
確かに身分の高い男性には、愛妾の一人二人いても不自然ではない。が、自分もそうであるとはいえ、
いざ娘を嫁がせる立場となってみると、やはり複雑なものがあるらしい。
「いやいや、冗談ではなく」
一座の笑いが収まると、頼春が再び口を開いた。
「渋川殿の娘御なら、我が倅の嫁女に頂きたかった。頼之は親に似ぬ堅物ゆえ、未だもらわぬうちから、
もらったからには女房殿一筋と決めてござる。それゆえ嫁女を泣かせることはまずあるまいと、
なあ。いかにも未練じゃ」
この頼春、幸子が二代義詮に嫁ぐと決まってから、残念そうに義季へその意を告げたのである。
「それそれ、そのお倅殿」
京の町を、戦など知らぬげに春の日差しは照らしている。尊氏の「お出まし」には
まだまだ時間がかかるらしく、彼らの話も尽きぬ。
「頼春殿に代わって小笠原の征伐に参っておられるとお聞きしたが」
則祐が、丸っこい膝へ、これまた分厚い両手を乗せて、ぐっと頼春のほうへと身を乗り出した。
「ありゃ、それにつきましてはのう。逐一、勇ましい返事が届いておりまする。いやはや、
折に触れて戦況を知らせて寄越せとは申しておりましたが、月の二十日には必ず、
我が家へ便りが届くよう、差配してござる。程度というものを知らぬで。合戦の最中に便りをしたためる、
そのような暇があるのかと。我が子ながら、なんとも融通の利かぬ者でな」
「いやいや、全く便りの無いより、そのほうがなんぼうかマシではござらぬか」
「そう申して頂けると」
則祐が苦笑すると、頼春もまた苦笑した。
「とまれ、それによるとまもなく阿波は平定、伊予支配も安定できようとのこと。後は、将軍家が…
いや、なにより早うこの戦が終わって、民の心が落ち着くのが一番」
言い掛けて、頼春は慌てて言葉を濁した。一座の者たちも彼の失言に、苦笑を禁じ得ぬ。
実際、何とも規模の大きい「兄弟喧嘩」である。ここに集っている者たちばかりでなく、誰もが
一日も早く皇家の一本化を、ひいては生活の安定を願っているのだから、
「あれほど仲の良い兄弟だったのだから、早く仲直りを…」
と、言いたかったに違いない頼春の気持ちは、渋川義季の心にも突き刺さった。
己は、そういった危うさの中へ娘を送り込もうとしている。果たしてそれが、あの「自分は自分」とする、
おっとりとした幸子のためになるであろうか。
(いやいや、『男親』の感傷じゃ。あれならば存外、あっけらかんと乗り切ってゆくやも)
ふと生じた不安を、義季は首を振って追い払った。そこへ、
「尊氏様、おなりにござりまする」
そんな声がして、彼は一座の者達同様、慌てて平伏する…。

この頃は、いわゆる幕府創設期である。創設してまだ十数年であったからというばかりではなく、
当初から幕府の内外では戦が絶えなかった。
幸子が嫁ぐことになった二代、足利義詮は幼名を千寿丸。父尊氏と、その正室、登子との間に
生まれた嫡子である。庶出の兄に、叔父直義の子として育てられた直冬と、幼くして夭折した竹若がいる。
順から言えば、三番目の子であった。
直冬は、いまだ登子を妻に迎えぬうちに、尊氏が身分の低い女に産ませた子であり、生涯父に認知されなかった。
それを哀れに思った直義が実子として育てたのであり、そのことは内外に広く知れ渡っていた。
無論、直冬本人もそのことを承知している。
よって、直冬が「冷たい実父」よりは、我が子のごとく可愛がってくれた猶父へより親しみを抱いたのは、
人情としてむしろ当たり前だったかもしれぬ。
今回の戦でも当然のごとく直義へ味方し、直義が一次的に失脚すると九州へ逃れて、そこで南朝側の
懐良親王とも結び、着々と基盤を築きつつあるらしい。
観応二年一月には、直義が京へ攻め寄せ、ために二代義詮は当時直冬討伐のために備前にいた父尊氏のもとへ走った。
二月には、尊氏は戦達者の直義には勝てぬと折れて、「仲直り」をしてはいるが、その際、直義は対立していた
執事の高氏兄弟(師直、師泰)を殺害している。何と言っても、高兄弟は尊氏お気に入りの執事であった。
確かに直義の腹の虫は治まったであろうし、
「我が弟のしたこと…」
と、苦笑いするのみですませたとはいっても、尊氏の心の中には何らかのしこりが残ったに違いないのだ。
「本当の仲直りを」と赤松則祐や細川頼春らがそう願いつつ、内心ハラハラと気を揉んでいたのも無理もないのである。
ともかく、表面上とはいえ兄弟が仲直りしたおかげで、南朝側とも一時的に講和が結ばれることになった。
これにより、直冬も九州探題に正式に任ぜられて、幕府の内外は一応、落ち着いたように見えてはいる。
つまり、渋川義季が、その娘、幸子を嫁がせようとしていた先は、このように先の見えぬ、内外共に真に
不安定な政権の中枢を担わなければならない「次代将軍」のところだったのだ。
義詮は、蒲柳の質である。そうとまで言うのは酷であるとしても、どこか頼りないという感じは否めない。
千寿王を名乗っていた四歳の頃、まだ鎌倉幕府は細々と続いていた。父が六波羅探題を攻めるのに合わせ、
父の名代として鎌倉討伐に出た。もちろん本人の意思ではなく、尊氏の打算が働いていたからであり、
名代とはいえ、四歳という幼さで血なまぐさい戦場に出たことが、その後の彼の成長に何らかの影響を与えたかも知れぬ。
どちらにしても、武士の棟梁に望まれる豪胆さやホラを吹く機転に少し欠けていた。
その代わりに、天は彼に人を気遣う繊細さや聡明な頭脳を与えたらしい。蒲柳の質の人間は、
しばしば優れた人間洞察者であるもので、
「渋川幸子にございます。以後、よろしゅう…」
戦の最中とて、将軍家の後継にしてはまことに簡素で慌しい祝言を挙げた夜、幸子が義詮の前へ言って手を仕えると、
「頼りない二代ではあるが、こちらこそよろしゅう」
言って、彼は端正な顔を少し歪めて皮肉に笑った。母の登子は色白の美女であるし、そう思ってみればなるほど、
義詮はその母に似ている。
「予は、予のことをよく知っているつもりじゃ。こなたの父や管領どもが予を歯がゆがっておるのものう。
それゆえ、こなたも予にはまず、多くを期待せぬことじゃ」
「まあ、それは」
こともあろうに初夜、夫が寄越したのは、何とも投げやりな諦めきった言葉である。それを聞いて、
幸子は大きな瞳をより丸くした。
義詮の繊細さは、果てなく続く戦に耐えられなかったのだろう。
(俺は到底、将軍二代という器ではない)
だが、武士どもの頂点に立つ者は、弱音を吐けぬ。義詮も配下の前では決して右のような言葉を
口に出したりはしなかったが、
(能天気な顔をしおって)
幸子と向かい合ってみると、彼女の様子があまりにも開けっ放しなのが、いささか癇に障ったらしい。
(良子にも似たようなところはあるが、それでも危機感は抱いていた)
傷つきやすい人は、同じように繊細な人間を己の周りに選ぶ。彼が恋うていた紀家の良子もまた、
彼と雰囲気の良く似た、細かく気の付くなよやかな公家の娘だったのだ。
が、どうであろう。
「期待、などと…そのように考えたこともござりませんでしたなあ」
目の前の娘は、さも驚いたといった風に頷いて言うのである。
「人は人、自分は自分、それで良いのではござりませぬか? 将軍家ともあろうお方が、
いちいち周りを気にして、周りの思うとおりに自分を型にはめていては、息も出来ぬでしょうに」
悪気はないのであろう。だが、あっけらかんと放たれた幸子の言葉は、義詮の心を鋭く抉った。
いつ南朝側へつくか分からぬ武家どもゆえ、なんとか幕府側へ引き寄せておかねばならぬといつも彼らへ
気を配り、機嫌を取るようなことをしていた…それが『媚』であると、幸子にずばりと言われたような気がしたのだ。
(この娘は、苦しむということがないのか)
彼女は、紀家を含んだ、じり貧に陥りつつある公家の家や、我侭な武士どもの手綱を取らねばならぬ
武家の棟梁の家に生まれたわけではない。よほど幸せに育てられてきたらしいと、義詮は妬みを少々含んだ
複雑な気持ちで改めて『妻』を見る。
(顔立ちは悪くはないのだが)
すると、彼女もまた、わずかに笑って首をかしげ、己を見返してきた。
「存じておるかもしれぬが」
(この娘、苦しむ時はどのような顔をするのか)
その顔を見ていると、衝動的に「傷つけたい」といった気持ちがこみ上げてくる。しばらくの沈黙の後、
義詮は乾いた唇で言った。
「予には、こなたの他におなごがいる。…こなたは好いておらぬ」
これもまた、初夜に交わす夫婦の会話としては、あまりにも残酷である。だが、
(…少しは苦しんでみるが良い)
すでに幸子を「無神経な女」として己の中へ位置づけてしまった義詮は、意地悪な喜びで持って彼女の反応を待った。
「それは…致し方ありませぬなあ」
案の定、幸子は少し傷ついたような顔をして、長い睫を伏せる。
「私と貴方様の婚礼も、周りの思惑で決められたもの…さぞや、お心は進まなんだこととお察し申しあげまする。ですが」
そこで、幸子は伏せた目を上げ、
「人というものは、周りに与えられた場所で、己の意に染まぬことをせねばならぬ時もある。
ですが、どのような時も人は人、自分は自分。私が貴方様の正室であるという事実は、もはや変えられませぬでも、
己さえ持っていれば大丈夫」
まっすぐに義詮を見た。
「貴方様が、どれほど他におなごを作られても、私を心からお好きになられぬでも、私は私。貴方様の
正室でござります。私の実家ともども、どうぞ大いに頼られて下されませ」
「…よう分かった」
義詮は、怒りを帯びた震える声で、
「夫婦の勤めは果たす。予も腹をくくろう」
搾り出すようにそう言ったのである。


to be continued…


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