蒼天の雲 6





こうして、志保は限り無い空漠感と共に帰陣したのである。ちょうどその頃、祖父と父は、
玉縄城を攻めた扇谷朝興を完膚なきまでに叩きのめし、ついに後方の江戸城へ立ち退かせて
意気揚々と帰陣したばかりであったのだが…。 
 日付はもう変わっていて、真夜中過ぎになっている。だのに伊勢本陣の光照寺は沸きかえっていた。
  玉縄の七曲りより氏時が繰り出した兵と共に、扇谷を挟み撃ちにしただの、朝興はほうほうの体で
  逃げ帰っただの、兵士達が声高に話している中を志保が通れば、しかし瞬時に彼らは口をつぐみ、
  頭を下げる。 
 強張った顔の志保が中央の大きな陣幕の前へ進むと、控えていた兵士がさっと幕を開けた。
  中にいて、松田左衛門となにやら話していた父が、彼女を振り向いてたちまち眉をしかめる。 
その前へ、 
「…ただ今、戻りましてござりまする」 
志保は生き残った半数の若者どもとともに大地に座し、手を仕えた。 
「志保ッ!」 
たちまち、鋭い平手がぴしりと音を立てて彼女の左の頬へ飛ぶ。父はどうやら、すでに左衛門や
留守居の者などから事情を聞き知っているらしい。 
「我らがこなたに命じたのは、この陣の守備であろう! 一体たれが敵側へ潜入せよと申した」 
「…申し訳ございませぬ」 
あまりの勢いに、地面に転がりそうになるのを辛うじて堪え、志保は深く頭を垂れた。打たれた頬は、
みるみるうちに赤くなっていく。潜入ではない、和睦を勧めに行ったのだと仮に言っても、それは父の怒りに
油を注ぐ結果になるだけであろう。 
 口では神妙に侘びを申し述べていても、志保の脳裏に去来するのは、 
(三浦方がちゃんと我らの声に耳を傾けてくれさえすれば) 
あの城門で、いきなり矢など射かけさせず、彼女の声に応えてくれたならと、その思いばかりである。 
「こなたの勝手な行動で、ヘタを打てばさらに我が軍の犠牲が増えていたかもしれぬのだ。市右だけでなく、
他の兵士どもはこなたを守るためにあたら若い命を散らしたのだぞ! 留守居とはいえ、こなたは一軍の将。
我らを信じて従う命を預かる重い役目がある。それを…」 
抑えきれぬ怒りとともに、再び父は平手を振り上げる。そこへ、 
「ありゃ、しばらく! どうか今しばらくッ!」 
割って入ったのは、「志保のせい」で、孫息子を喪った当の左衛門である。 
「おひい様の行動を止められなんだ我が孫や、我らの咎こそ重うござりまする。おひい様もこれ、
このようにご無事にございました。それゆえどうか、これ以上の御叱責はこのじいに免じて、どうか」 
「無事でなくばなんとする。左衛門、そこ退けい! 頬打ち据えただけでは、こやつのために
死んでいった者らに示しがつかぬわ!」 
大地に額を打ち付けんばかりにして言い募る左衛門を前にして、氏綱はさらに怒りを煽られたらしい。
いつもの彼に似ず土を荒々しく踏み散らし、腰の刀に手をかけたところで、 
「氏綱殿、しばらく」 
静かな声が背後から響いた。その拍子に、ばちりと大きな音がして彼らの近くのたいまつが爆ぜる。
陣の周りを覆う幕がさっと払われて、 
「軍を統べる将の責は、確かに氏綱殿が言われるように重い。志保どのが犯した過ちものう」 
「父上」 
氏綱がさっと面容を改めて、現れたに長氏入道へ向かって地面に片膝をついた。息を詰めて
見守っていた家臣たちも、一様に膝をつく。 
「じゃが、志保どのはこの爺のため、伊勢のために良かれと思うてやったこと…。その意気込みが強すぎて
こたびの事態になった。まだまだお若いゆえ、思い込むと周りが見えのうなる…それは氏綱殿とて身に
覚えがござろう。無論、この爺もの。それに、たれよりも志保どのご自身が、よう御存知であろ」 
「しかし!」 
「なあ、志保どの。志保どのは賢いゆえ」 
 思わず膝を前へ進めた息子を手で制して、「大将」長氏はどっかと孫娘の前へ腰を落ち着け、
  地面につけた両膝の上で固く握り締められている孫娘の両手へ目をやった。 
「おお、おお。これ、このように赤う…おなごの頬へ手を上げるものではないわいの」 
彼はむしろ哀れむように、彼女の頬を節くれた両手で包んでこちらを向かせる。今の今まで、 
(和睦に応じなんだ三浦方がすべて…) 
悪いのだと頭に血を上らせ、復讐をすら考えていた志保は、思いかけぬ言葉に雷に打たれたような衝撃を覚えた。 
「…おじじ様」 
やっと志保は伏せていた瞳を上げ、祖父の目を見つめる。 
「うん?」 
「ただ今これより志保は…志保の、お留守居の将の任を解いてくださりませ。志保は小田原へ戻りまする」 
「フム」 
 何においてもまず報復を、と考えて、以降もこの軍に居続けるつもりであった意地が、祖父入道の
  柔らかい言葉にどんどん溶けてゆく…。 
「ですが、その前におじじ様へ…将として、最後のご報告を」 
「聞かせなされ」 
誰よりも敬愛している祖父に許されることが今は何よりも恥ずかしく、この場に到底居耐えぬ思いを
志保に抱かせる。祖父がただ甘やかしているのでもなく、彼女をかばっているのでも、さらには揶揄や
嘲笑で言っているのでも無論ないということも、志保には十分すぎるほど分かっていた。 
(志保どのがご自身で、とっくりと考えること…) 
 そのような考えから、祖父は彼女を許したのだ。 
「…あの折、敵方の将に遭遇しまいて改めて分かりました。今や三浦方にかろうじて戦意のある者は、
敵将道寸義同およびその子、義意と、兵士達を預かる将たちのみ。そのほか兵士どもは、気力を振るうどころ
かまず腹に一物も入れておらぬし、入れる食料も食い尽くしたゆえ、槍を持つ力すらないのだと…そう、
申しておりましたし、志保もこの目で見まいた。じゃによって、お味方の勝利は…はい、間違いないと志保は、
志保も思いまする」 
(降伏も和睦もない、と。義意様…市右) 
 あの折の模様を同時に思い、ともすれば震えそうになる声を励まし励まし、志保はようよう言い終える。すると、 
「分かった。ご報告、ありがたくお受けする」 
祖父は大きく頷いた。 
「信頼できる情報であるか否か、分かりませぬ」 
父がまだ、憤懣に耐えぬ面持ちで口を挟むと、 
「志保どのが命をかけて確かめてきたことじゃ。間違いない。それを父であるこなたが疑うのかや」 
 たれから聞いたとも志保へは問わず、長氏は大きな声で言葉を返す。言うまでもない事ながら、
  祖父にはきっと、彼女の言う敵方の将とはたれのことなのか、お見通しなのだ…。 
「本日これより、志保どのはこの陣のお留守居役ではなくなる。残るは三崎の城の三浦のみ。再びこの長氏が
この軍の指揮を合わせて執る」 
 静まり返っていた全軍が士気を取り戻し、わっと沸き立った。その喚声を陣幕の内でぼんやりと聞きながら、 
「こなた様は、兵庫や傷ついた者どもらを率いて小田原へ参られよ。将として、爺が命ずる最後の責じゃ」 
祖父が言うのへ、志保はただ頷くのみだったのである。 
「我らは本日十日、夜更けを待って三崎城へ総攻撃をかける!」 
 長氏の声を背中で受けて、志保は俯いたまま陣幕の外へ出た。 

      3 

そして、志保は小田原へは戻らず、箱根権現へ馬を走らせたのである。 
「八重」 
石段を登った先に友の姿を認め、声を震えさせながら、 
「市右は…」 
「聞いております」 
言いかけると、市右衛門の許婚は固く強張った顔のまま顎を引いた。 
「…大殿様の小田原へのお戻りは、まだまだ無いようでござりまするなあ」 
「…ウム」 
「私も、市右…そのほかの方々の武運をお祈りしまいて、このお社へ写経しに参っておりました」 
「八重」 
「志保様」 
言いかける志保を遮って、友は具足姿のままの彼女の前へ膝をつく。 
「無事の御帰還、まことにうれしゅう存じます。お味方の勝利も間近とか。市右もきっと、
己の役目を果たし終えて満足したに違いありませぬ。左衛門のじいが手蹟にて我らに戦況を報せてくれて
おりましたゆえ…覚悟は出来ておりまいたゆえ」 
小田原城へ届く松田左衛門からの手蹟のうち、その一番新しいものを常に肌身離さず持ち歩いていたのだと、
八重は言った。そのまま毎日のように箱根権現社を訪れ、社の別当を担っている『菊寿様』を相手に、
墨をすりながら許婚を思いため息をついたという。 
「ここはまこと、静かなものでありました。ほんの山一つ、海一つ隔てたところで戦が起きているのだとは信じられぬほど」 
「…」 
話し声を聞きつけて、志保の若い叔父が方丈より出てきた。その腕に赤子であった志保の弟、
お千代殿を抱き上げて、後ろへ乳母を従えている。姉の姿を見てたちまち騒ぎ、もがく彼を乳母が
抱き取って土の上へそっと下ろした。 
お千代殿も、今はようよう立って歩くか歩かぬか、というほどに成長している。彼は今日も姉と同じ
年恰好の八重の後を慕い、ともに権現社へ詣でているのである。 
そして今では、社の境内を我が物顔に歩き回り、乳母をきりきりまいさせているらしい。
歓声をあげている弟の声をぼんやりと聞きながら、 
「すまなんだ」 
やがてぽつりと志保は呟いた。 
暦の上でははや、七月。かしましい蝉の声を聞く季節に差し掛かり始めている。 
「いいえ」 
 志保が震える声で告げた『謝罪』を、八重は首を振って受けた。 
「市右はしょう様をお守りするのが役目…敵の槍にかかりまいたお味方の武将方、ことごとく
首や手足をもがれ、酸鼻を極めた有様でありましたとか…じゃが、あの日、市右や他の者ども…
しょう様に従いまいた兵どもら、三浦方によって清められて昨晩小田原へ海路、丁寧に送られて参りまして
…船を使えば、戦場より一日もかからぬとはお味方の船団のお言葉で。ゆえにしょう様より先に、
市右は帰ってまいったのでござりまする。白い押し花を挟んだ白い紙を胸に携えて、長綱様御自ら読経を
上げていただきながら、市右は笑っておりました」 
「白い、花?」 
「はい…失礼ながら検めさせていただきまいたが」 
志保の問いに頷いて、懐から八重は折りたたんだ小さな紙を差し出した。 
「北条の勇敢なる姫君へ、と、言葉が添えられておりまいた。皆皆、市右が私あてに残したものだと
思っておわしまいたようで…それゆえ、手もつけられずにそのまま。墓へ持たせて参るよりは、
貴女様がお持ちになるのが相応しいかと」 
受け取ろうとした志保の右手が震えた。泣くまいと堪えていた熱い雫でたちまち視界がぼやける。 
「私も、市右も、しょう様を恨んでなどおりませぬ」 
それをなんと受け取ったのか、八重は囁くように言葉を続けた。焼けるように熱い喉へ唾を
送り込むように飲み下し、志保は受け取った紙切れを開く。 
 強い夏の日差しに照り映えて、白い紙が眩しく彼女の瞳を射抜く。中にあったのは、確かに、
  かつて義意とともに根付きを確かめた名も知らぬ花と同じものだった。 
 木陰に居ても、じっとりと汗は沸く。二人の会話を、その側でまるで眠っているかのように両目を閉じて
  聞いている長綱の袖を、一陣の風がはためかせた折、 
「枯るる樹に また花の木を植え添えて もとの都に なしてこそみめ」 
八重が祖父の歌を呟いた。 
「市右も、私も、同じ夢を見続けておりまする」 
思わず顔を上げた志保に、小さな弟が体当たりするように抱きついてくる。 
「お聞きやったか」 
二、三度目をしばたたいてから、彼女はその白い紙を折り目通り畳んで懐へ入れた。お千代殿の小さな体を抱き上げて、 
「こなた様のなあ、おじじ様が詠じられた歌じゃ。…この夢、我が父上が成し遂げられるか、
それともこなた様が継ぐかの?」 
泣き笑いしながら、首をかしげて弟を見ると、彼もまた同じように首をかしげて姉を見つめ返す。そこへ、 
「おひい様!」 
「…じい」 
「小田原のお城を探しまいてもお姿が見えぬもので、もしやと兵庫殿へお尋ねしましたならば…
やはりこちらへおわしましたか」 
孫を失った故だろうか。戦に出かける前よりもめっきり薄くなり、ところどころに地肌が見える白髪頭を
振り立て振り立て、松田左衛門が鎧姿のまま、志保へ駆け寄って片膝をついた。 
「戦はお味方が勝利にござりまする。伊勢入道におきまいては、十一日に見事、三崎のお城を落とさせまいて
後々の始末など終え、こちらへゆるゆると向かってござる」 
「しかと左様か」 
「はい。このじいが、なんでおひい様へ嘘を申し上げましょう。こなたは先へ参って志保どのへ告げよと、
はい、これは入道様直々にこの左衛門へ下されたお言葉にて」 
言うと、温厚篤実な『小田原以来』の家臣は懐から汗みずくになった手紙を取り出した。 
「仔細は、こちらへ」 
おそらくこのたびも、長氏がたれよりも愛している孫娘のためにと、その一念で老骨に鞭打ち、
昼夜馬を飛ばしてきたものであろう。 
抱いていた弟の小さな体をそっと地面へ下ろしてその片手をつなぎ、志保はそれをもう片方の手で
受け取って額に押し頂いた。 
「感謝致しまする。じいも、まこと、ご苦労でした」 
「はっ」 
志保の言葉に、左衛門は恐縮しきって頭を下げた。その前でさらりと祖父から来た手紙を広げ、
読み始めた志保の眉は、読み下していくうちに再び曇った。 
「道寸、三崎城庭にて切腹致しまいて候。義意、奮戦の末討死。一兵として我らに降伏した者も無く…」 
三浦一族と、道寸、義意親子に従っていた兵士たちが傷つき、倒れて流す血で、相模の海面は油のように
なったそうな。そして、 
(討つものも、討たるるものも 土器(かわらけ)よ 砕けて後は もとの土くれ…) 
手紙の最後にあった歌は、三浦道寸が自ら命を発つ前に詠んだ歌であると、祖父は書いていた。
これから何を志保が感じ取るか…おそらくそう考え、敢えて長氏は記したものに違いない。 
(なんと…) 
歌としては限りなく拙い。だが、それから伝わる何ともいえぬ刹那く、激しい虚無感に襲われて、
彼女は慌ててその歌から目を逸らした。 
「他は…他には…義意様、いえ、義意はどのように…最期は」 
「おお、我らを散々に苦しめまいた道寸の子めは」 
志保が問うと、左衛門は心持ち胸を反らし、 
「十一日の未明にござりまする。もはやこれまでと覚悟を決めまいたものか、我らが三崎城の閉じられた
大手門へ引っ掛けまいた鍵手の縄を、こう、エイオウと引いております途中に、自らその門を開きまいて、
わっと彼奴を取り巻いたお味方をば、これも散々に切りつけ死なせた挙句、やおら懐の短刀を抜き放ち、
自らのそっ首をばかっ切りまいて落馬」 
「…」 
弟の小さな手を握り締めた手に、思わず力が入った。弟が痛がってもがく。彼女の手から長綱が
そっと弟の手を離すままに任せ、志保はただ左衛門の言葉へ耳を傾けていた。 
「これにて、はい…わずかに残った三浦方の兵もさすがに戦意をくじかれたものと…市右もこれにて
浮かばれようと、このじいは老年ながら胸のすくような思いで」 
「市右の仇は、大殿が討って下されたのじゃ。そうですなあ、左衛門のじい」 
「おお、そうとも」 
八重もまた、左衛門が語る戦況の模様に少なからず興奮を掻き立てられたらしい。頷きあう二人を半ば呆然と見比べながら、 
「じい、八重」 
志保は跪いている二人へ、渇ききった唇を動かして言葉をかけた。 
「お千代殿を連れてな、先にお城へ帰っていてくだされ。…後々で、また迎えを寄越してくださるよう、城のものへ」 
「しょう様」 
「…しばらく一人にしておいてくだされ。それゆえ、早う」 
不審げに二人が彼女の顔を見上げる。瞳を閉じて志保が告げると、 
「では…」 
「祝賀の準備をば、先に致しておりまする」 
口々に二人はいい、長綱と志保へ頭を下げた後、乳母を促して去っていく。 
「菊兄さま」 
やがて再び、境内は蝉の声に包まれた。去っていく一行の姿がようよう見えなくなった頃、
志保はぽつりと若い叔父の名を呼んだ。 
「仇を討つの討たれたのと…戦とは、まこと嫌なものでござりまするなあ」 
「…ハイ」 
 彼女の述懐に、長綱はただそれだけを言って顎を引く。祖父と同じ香の匂いのする、若い叔父の
  墨染めの衣に爪を立ててしがみつき、志保は頑是無い童女のように声を上げて泣き始めた。 
「…落ち着かれまいたら、ともにお城へ」 
細い肩を、これも幼い子へするように軽く叩きながら、 
「迎えを寄越されるまでもない。お城へはこの叔父が御挨拶がてら、しかとお届け致しましょう」 
長綱は優しい声で言った。境内では、相変わらず蝉の声がかしましい。 






…続く。