蒼天の雲 5





それから、さらに一月経った。鬱陶しい梅雨の空は明け、初夏の太陽がぎらぎらとまぶしく
伊勢軍本陣とその周囲を照らし始めていても、難民への救護活動は続けられている。 
(管領家を追い払ったゆえ戻るという報せはあったのじゃがなあ。おじじ様はいつお戻りになるやら) 
 蒸し暑く、蚊などもやけに多い。いぶすための煙が、伊勢軍兵士達によって少しずつ建て直されつつある
  民家のそこここから立ち込めてい、 
(暑いのう。水も食料も絶たれたあの城はもっと暑いであろうの…義意様は) 
 とある民家から出て三崎城を見やりながら、志保は義意を思った。 
義意は、勇猛さを謳われた三浦一族の中でも、特に武勇に優れた、まだ齢二十そこそこでしかない若者だった。
いずれ兵糧は尽き、腹が減れば兵士たちの気力も萎えよう。たれが見ても先行きに暗雲しか垂れ込めていない
三浦一族の心の張りは、まさに彼一人によって保たれていたと言っていい。 
(ゆえに、おじじ様は義意様をお味方にと考えられたのだ) 
「伊勢一族」から見れば、義意をそのままに生かしておけば、必ず彼は「氏綱殿」にとって手ごわい敵となる。
だが、手ごわい敵ほど逆に、味方になればこれ以上はないと思えるほどに頼もしい存在になり得る。長氏は、
義意の若さと武勇を何より惜しんでいたのだ。己の年を考えているのかと、敵に嘲笑されるような
「気が長いのやら短いのやら」な、兵糧攻めに入った長氏の心はどんなであったろう。 
ぽこりと小さい腫瘍のように出張ったような形の三浦半島の海上三方は、三浦水軍の奮戦こそあったものの、
今や伊勢氏のおびただしい船によって封鎖されている。さらに陸上においても、半島の入り口を玉縄城
で蓋をされてしまっては、いかに勇猛さを謳われた三浦一族でももはやなす術はあるまい。いくら待っても、
どこからも援軍は来ないのである。否、伊勢入道が来させない。義意の正室の父、すなわち彼の舅にあたる
真理谷氏は水軍を持ち、その勇猛さを誇っていたが、それですら圧倒的な伊勢軍包囲網の前に退却を余儀なくされていたのだ。 
そしてそのことを、三浦方でもよくよく承知しているはずだった。道寸の外祖父である大森氏頼の家を
志保の祖父が滅ぼす結果になったとは言っても、 
「戦とはそのようなもの…つまらぬ意地を捨て、ともに手を携えることが出来たなら、新しい国を作れようものを」 
伊勢軍にとっても三浦軍にとっても、気の遠くなるようなこの包囲戦のさなかで、祖父はそのことをも合わせて嘆いた。 
(今こそ、その時ではないか) 
 その祖父は、父を伴ってそれぞれ玉縄へ、当麻へ、出て行って留守である。祖父も父もいない間の、
  ただの「留守居役」ではなく、三浦との間に和睦を結ぶことが出来るなら、それこそ第一級の戦功であり、
  祖父の意思に沿うものではないだろうかと、 
(和睦を…あのお方なら分かってくださる。義意様…あの方なら。もう一度、お会いして) 
そう思うと、眠っておかねばならぬのにますます目が冴える。ついに彼女は寝床からむくりと起きだして、
自ら具足をつけ始めた。会いたいと、異性にそう願うことが既に相手を恋うているのだと、この時の彼女が
自覚していたかどうかは分からない。 
「しょう様。いずこへ」 
 さっと襖を開けて縁側へ出ると、かすかに虫の鳴く声がする。部屋の前で護衛をしていた市右衛門が、
軍装の彼女を見咎めて声をかけるのへ、 
「これから、私は三浦方へ和睦を勧めに参る」 
「あの、和睦を…?」 
「そうじゃ」 
 潜めている声が、つい大きくなる。幼馴染へ頷き返して、志保は縁側から庭へ降り立ち、寺の裏口へ向かった。
 昼夜交代で三浦方の動向を見張り続けているため、昼間出陣した兵士達はどうやらぐっすりと眠りこけているらしい。
『夜番』の兵士達の喚きが時折寺の中へ聞こえては来るが、そのほかは至って静かである。 
「おじじ様も望んでおられること。敵も味方も、これ以上の犠牲を避けるために…あの方なら、きっと話は通じよう」 
「あの方…あ、では義意…どのに直接掛け合うおつもりで」 
「そうじゃ、いけぬかの?」 
「なりません! 断じてその儀は」 
「なぜじゃ?」 
「三浦方には、岩のような意地がござる。数年前もお祖父上が何度、彼らへ降伏を勧めたとお思いか。
そのたびに大殿の書状も一顧だにされず、使者は手ぶらでむなしく戻ってござる」 
「だが、私が行けば違うかもしれぬ。私が勧めるのは降伏ではない、和睦じゃ。やってみねば分からぬ」 
言いながらも、志保は裏口の木戸から素早く外へ出る。この主君が、言い出したら聞かぬ性分であることを
重々承知しながら、市右衛門はなおも言い縋った。 
「しょう様! 大殿や氏綱様のお留守に勝手に動かれまいて、万が一のことがござりまいたら」 
「万が一が無いようにする。私ひとりで行くゆえ、こなたは待っていれば良い。それにの」 
形ばかりに作られた石段の途中で足を止め、志保は振り返って嘆息する。 
「我ら味方や地下の者ども…我らが助けようとしておる領民どもばかりが人間ではなかろう。それらよりも
もっと飢え、渇いておる者どもが三崎にいる。領民どもの家族らが兵に取られておるからの。我らの戦略のために
彼らの親兄弟が飢えて死んでいくのじゃ。それをこなた、何とも思わぬかの」 
「は…」 
 このたびの「救護活動」で、初めは敵意を剥き出しにしていた民も、近頃では「北条殿は悪さをせぬとの
  噂は本当であった」と心を開いてくれた。だが、その夫や父、そして息子や兄は今でも挑発された先の三崎城で、
  三浦方の兵として戦っているのである。 
「…では、この市右だけではなくて、貴女様の後ろにおります者どもへも、お供をお許しくださりませ」 
「何?」 
 思わず振り返ると、なるほど、友の言うようにいつの間にか彼女の背後に十数人の若者達がいて、
  それらが一斉に膝をついて控えた。 
「和睦を勧めに参るにも、供揃えは必要でございましょう。皆、何がありまいてもしょう様をお守りすると
固く誓い合った者ばかりにござりまする。お供をばお許しくださいましょうや」 
「…参る。ついて来たい者はついて参れ。ただし、のう」 
 彼らの気持ちがさすがに嬉しく、しかし多少の照れくささも手伝って、 
「戦にはならぬであろうから、褒美はないであろうがなあ」 
志保は彼らの脇をすり抜けて木立の中の坂道を下って行ったのである。 
満月に近い太った月が、空の少し西よりでこうこうと彼らを照らす。 
「今頃、我らがおじいは、しょう様ご不在に気づいて慌てふためいておるやもしれませぬ。いつものごとく、
難儀しておる住民をお救いに参られたのだと思うておったものが」 
 刻一刻と近づいてくる三崎城は、伊勢軍の本陣と同じようにたいまつが点々と灯されており、まるで昼かと見まごう明るさだった。 
「ふふ」 
 志保の走らせている馬の横へ、これもぴたりと己の馬をつけながら市右衛門が話しかけるのへ、
  彼女は苦笑する。 
「じいは心配性ゆえ…和睦の使者は、戦時下にあっても切らぬのが礼儀じゃというが」 
「三浦方は、我らを嫌いぬいておりまするゆえに」 
「意地、かのう…それとも、我らが『よそ者』ゆえにか、私のおじじ様が大森どのを滅ぼしたゆえにか」 
「いずれも我らには分かりかねますが」 
 いよいよ城壁から二里。三崎城にはたいまつは灯っているものの、まるで生きているものの気配すら感じられぬ。 
「おじじ様の兵糧攻めが効いておるのかの…」 
(だとしたら、不憫なこと…) 
 人間は、食わずとも当分の間は糞尿を垂れ流す。それが春や秋であればいわずもがな、夏になると城近くの
  村にまで漂って耐えられぬ臭気を漂わせるのだが、 
「…ひっそりと致しておりますな」 
「今少し、近づいてもよいかも知れぬなあ」 
 志保や市右衛門、そのほか兵たちが馬を下りて徒歩になり、足音を殺してひそと三崎城の大手門前へ近づくと、
その辺りは突如さらに明るくなり、 
「北条の奴ばらじゃ! 者ども、出会えぃっ!」 
三浦方の武将が叫ぶ。同時に城壁からも雨のごとく矢が降り注ぎ、 
「しまったッ!」 
市右衛門が舌打ちして吐き捨てるように言う。 
「しょう様、敵は聞く耳持ちませぬ。ただちに引ッ返して…」 
「三浦方の兵よ!」 
「しょう様ッ!」 
 己の手を引こうとした友を振り払い、志保は大手門へ向かって声を張り上げた。 
「我ら、和睦の使者として参った! 敵意はござらぬ。ゆえに武器を収め、門を開かれよ!」 
「女が使者だと、たわけたことをほざくなッ」 
しかし、彼女の言葉に返ってきたものは、前にも増して激しい矢の雨である。 
「義意どのに会わせ給え! 北条の孫娘であると申せば分かる!」 
「しょう様をお守りせよッ!」 
 矢の雨は、ますます激しい。 
「しょう様ッ…!」 
志保をそれからかばって彼女の背へ手を回し、引きずるように城壁から遠ざかろうとした市右衛門の体が、
突如地面へ崩れ落ちた。 
「市右…?」 
 咄嗟のことで、呆然と友の体を見下ろした志保の瞳に、市右衛門の喉を後ろから射抜いた矢が映る。 
「しょう様、馬へ!」 
 付き従っていた他の若者が、青ざめた顔で叫ぶ。その若者も背に矢を受けて倒れ、気がつけば大手門は
  内側から開かれていた。 
 何と言ってもこちらは「和睦」のために来たのである。腰のものは携えていたと言っても、
  不意を突かれた上に相手は重装備なのだ。 
「…今更和睦とは片腹痛い。北条の孫娘とか申したな」 
 志保に付き従っていた若者達は、見る間にその大半が討たれて地面へ転がった。志保をかばうように
  彼女の周りを取り囲んだ生き残りも、たやすく縄を打たれて捕らえられ、地面へ転がされる。 
「…三浦の者は、馬の上から物を問うのか」 
「フン。小ざかしい」 
鼻の先へ突きつけられた槍は、月光を受けて青く光っている。それを静かに見返して志保が言うと、 
「我らが若殿を識っておるらしい口ぶり、怪しげなり。どちらにせよ只者ではなさそうだ」 
 げそりとこけた頬に、ギラギラと光る目で彼女を睨み、その武将は馬の尻を向けた。 
「縄かけて、主の前へ引っ立てよ。供の者も同様にな」 
たちまち、志保や生き残りの若者達は縄を打たれる。だが、それが済んでしまうと、その様子を見守っていた
三浦の兵たちは一様に槍へもたれて、地面へペタリと尻をついた。 

(どうやら、我らへ先ほど仕掛けた攻撃は、気力のみによるものらしいの…) 
 生気がない、と、志保が感じたのは嘘ではなかった。事実、志保らへかけられた攻撃は、
  志保が捉えられたとみると長い嘆息と共にプッツリと止み、辺りは再び静まり返っている。 
縄をかけられた志保が歩かされた三崎の城の廊下や、庭先のそこかしこに槍を抱えて蹲っている
足軽どもの顔はいずれも明らかにやつれており、たまさかにこちらを見る瞳には、それでもぞっとするほどの敵意がこもっている。 
(食物をまるで摂っていない…伊勢憎しとの思いのみでもって、三浦の兵は戦い続けているのだ) 
医師でない志保にもそれが分かった。 
(死んでも良い) 
 小突かれつつ歩きながら、血が上って白くしびれたようになっている頭の中で、 
(市右が、死んだ…他の家の子、郎党も) 
 志保は考え続けた。貴重な命や友ばらを己の拙い思いつきから死なせた。ならば将たる己もまた
  死ぬべきではないか。その前に祖父の希いに沿うよう和睦を勧めよう、万が一にもそれが聞き入れられぬ場合は、 
(舌食い破って自害するまで…) 
「これは、紛れもなく北条の姫じゃ。手荒な扱いはならぬ」 
やがて、父道寸は疲れ果てて眠っているから起こすなと言いながら、三崎城の一の廓へ義意は姿を現した。
彼女を認めて驚いたように二重の目を丸くし、それから細くする。 
 とつおいつ、思いつめていた彼女は、 
「…縄を解いて差し上げよ。供ばらもな」 
義意が、彼の前に据えられた志保を見て言った言葉に、反って血の気が引いていくのを覚えた。 
「しかし、若」 
「父上には告げるな…いや、よい。告げてもよい。どちらにしても詮無い事ゆえ」 
 敵意に血走った目、そそけだった頬で詰め寄る家臣へ、彼はどことなく寂しく笑う。 
「義意様ッ」 
その彼へ膝を勧め、 
「和睦を…降伏ではありませぬ。私の一存ではありますが、和睦を勧めに参りました。どうか受け入れて下さりませぬか」 
「…」 
 すっ、と、彼の目が再び細くなる。左右へ並んだ三浦方の武将の目に、 
(まっこと、伊勢は憎まれておる…) 
たちまち「今更…」と、さらなる憎悪がみなぎるの志保は感じた。 
 三浦の「飢え」は、たれあろう、彼女の祖父がもたらしたものなのだ。彼らにとってみれば、
  まさに鼻先で笑うしかないではないか…。 
「失礼ながら、私めが拝見しまいたところによりますと、足軽どもは満足に食も摂れておらぬ様子…
私なぞが申しても詮無いことながら、哀れでござりまする。これ以上の戦は義意様もよう御存知、無意味でございます」 
それでも志保は必死に言い募った。 
「我が祖父も…伊勢入道も、これ以上血が流されることを望んではおりませぬ。貴方様のお父上様へも
さることながら、貴方様にも我ら、何の恨みもございませぬ。共に手を携え、歩んでいけたならと…
祖父の希いはこれすなわち、私の希い。私は…これ以上、義意様と戦いたくはないのでございます」 
「…こなた様という娘は」 
 言い終えて肩で息をする志保へ、義意は優しく哀しい目を向ける。その目を向けられて、 
(私は…彼を恋うていたのだ…) 
志保はやっと気づいたのだ。 
 義意には、すでに真理谷氏の娘が正室としてある。今だとて正室は、この城のどこかで兵士達とともに
  想像を絶する空腹に耐えていよう。 
(どのようなお方かは知らぬが、もしも私であれば) 
 彼とともに戦場を駆け巡ったかも知れぬと、志保は哀しく思う。 
「若、これがあの、にっくき老いぼれの孫娘に相違ないならば、我らが捕らえたが幸い。格好の質に
なりましょう。さもなくんば、切り捨てまいて屍を送り返せば北条の士気は」 
「ならぬ」 
 家臣の献策を一言で切り捨て、 
「こなた様は和睦の使者として参られた。そうであるな?」 
義意はゆったりと彼女へ近づき、片方の膝をついた。 
「…はい。祖父は関係ございませぬ。あくまで私の一存にて」 
鋭い瞳を見返し、志保は頷く。捕らえられても決して泣かず、物怖じしない「北条の姫」へ、
義意は軽く好意の微笑を漏らし、 
「聞いたか? 和睦の使者は切らぬのが慣わし。ただでさえその半数を我らは『誤って』討ってしまっておる。
これ以上の殺戮は三浦の恥になろう」 
顔を上げて家臣を見回した。 
「頼朝公の時代より、傍流とはいえ続いてきた我らが家のなあ」 
「義意様。どうぞ、和睦を」 
「北条の、勇敢なる姫よ。市右とか申したあの若者は…いや、今ここにおらぬとなれば、それは我らの所為であろう」 
 志保の縋るような眼差しが下に逸れた。義意もまたすっと目を伏せ、 
「…こなた様がご覧の通りじゃ。我ら将はともかく、足軽一兵卒にはもう、槍を持つどころか立ち上がる
気力さえない…こなた様のお祖父上は、敵ながら見事である」 
「それゆえ、どうか…」 
「しょう殿、と、申されたの」 
その名を、目線を上げて義意が呼んだ。たちまち熱い雫が志保の両目から溢れ、頬を濡らしていく。 
「こなた様の仰せられるように、和睦を…そうするのが、一番の道であろう。だが、今我らがここで和睦を
結んでしまえば、これまで我らを信じて散っていった兵達に相済まぬ。それに私も今更、北条の入道の申し条には
従えぬ…これはおなごには到底分からぬ意地よ。こちらの実情を告げたことで、乗り込んでこられたこなた様への礼とする」 
「義意様! 今更、ではありませぬ。遅くはござりませぬゆえ、どうかお聞き入れを」 
「北条の姫君と供ばらを、丁重に大手門までお送りせよ」 
叫ぶ志保から背を向けて立ち上がり、義意は言った。 
「北条本陣へ使者ご一行が本陣へ辿り着くまで、手出し一切無用。彼らを傷つけた者はこの義意が切る」 





…続く。