蒼天の雲 4





「ですがしょう様」 
目指す本陣、光照寺が、晩春の眩しくなりつつある光の中に見えてきた。「北条殿は、『悪さ』
をしない…」とは知っていても、民衆はやはり息を詰めてそれぞれの家の中に隠れているらしい。人っ子一人
見当たらぬ沿道には、ただ、伊勢軍が駆る馬の蹄の音や、剣戟の音が響くのみである。 
「しょう様、ですが私は、貴女様とこうやって戦へ出られて、まっこと、大変に嬉しゅうございます。
それに、そう思うております者は、私だけではござりませぬ」 
「ありがとう、市右」 
それらの大音響の中で、幼い頃からの友の励ましを志保はしっかと胸へ受け止めた。 
 やがて馬の駆ける速度が緩んだ。馬から下りて寺へ続く石段を上がると、本堂の前で先に着いていた祖父が、 
「よう無事にお着きやった」 
にこにこと笑って彼女らを迎える。 
「これよりの戦はなあ、負けることがないゆえ、のんびりと構える。よってこなた様もそのおつもりでな」 
境内には木陰が多いとはいえ、日差しの中を駆けて来た兵士達は一様に汗をかいている。手水のところに
群がっている彼らを見やって、やれやれという風に笑い、 
「こなた様も、市右も、寺の方々に申して湯など使わせていただきなされ」 
祖父は陣幕の中へ姿を消した…。 

「公方を戴き、助けねばならぬお役目を捨てた管領家など恐れるに足らぬが」 
南北朝の内乱を辛くも逃れた鎌倉時代以来の名刹や古刹なども、この両軍の小競り合い 
で大半が失われ、 
「まこと、心が痛む…」 
と、長氏はこの長い滞陣の間、幾度も嘆息した。 
長氏自身が決めた法律である「早雲寺殿二十一箇条」において、彼は「仏神を信ずべきこと…」と書いている。
宗派の垣根を飛び越え、志保の祖父にとってあらゆる寺社は、全ての人の祈りが込められた、
心のよりどころとなる場所なのだ。そればかりではなく、戦時に己の家を焼け出されて行き場の無い村人の、
身を寄せる場所でもあった。 
 それが、 
「すべて無うなってしもうては、我らも鬼と罵られましょう」 
永正十三(一五一六)年、六月。 
「入道のない玉縄など、恐れるに足らぬ…」とばかりに、またもや性懲りもなく扇谷上杉が攻めてきたとの
報を受け、光照寺の伊勢軍本陣は慌しく動いていた。長氏の指示に従って、二千の兵をこの場へ残し、
残り五千は長氏と氏綱それぞれが率いて朝良を挟み撃ちにしようと出立の準備にかかっていたためである。その中で、 
「このあたりの者どもの救助を、お留守の間、我らにお命じ下されませ」 
志保が祖父の袖を捕らえて申し立てていた。 
「飢え、渇いているのは三崎の城にいる者どもばかりではござりますまい。我らが海三方に合わせて
陸の四方全てを包囲してしまっておれば、民衆にも日々の糧が入らぬようになる道理。それゆえ、
我らが戦場に携えた備蓄でもて、彼らをお救い下されたく」 
老骨に堪えるからと、鎧を一切まとわぬ法衣の袖を引いて、懸命に言う孫娘の申し条を、長氏は目を細めて聞いた。 
 一も二もなく「諾」を与えて、祖父は馬の腹を蹴る。 
「難儀しておる民を助ける…これもなあ、戦わずして勝つ戦の一つではないかの?」 
次々に出立していく馬の蹄の音を聞きながら、背後のそれぞれ左右に立った左衛門と市右衛門へ、
志保は振り返りながら笑ったものだ。 
 実際、その時の志保の策ほど、「伊勢氏」の信条に沿ったものは無かったろう。三崎城にこもる
  三浦方をなるだけ刺激せぬよう、困窮していた戦争難民達の救助活動は、早速始められた。 
(飢えておるなあ…) 
 お抱えの軍医や薬師へ命じつつ、自らも兵糧米を運ぶなど救護に当たりながら、志保は、ぎらぎらと
  ただ目ばかりが光っているその付近の村民達を、特に子供達の様子をつぶさに見、心を痛めた。 
 梅雨の時期である。どこへも行くあてのない民たちは、焼かれた屋根をそのままに、雨ざらしになっている。
  それら民家の修理を志保が命じたのは言うまでも無いが、特に彼女の哀れを誘ったのは、村はずれに
  無造作に作られた、まだ新しい土饅頭の群れ…墓であった。その前に植えられた、可憐な白い花が
  無残に踏み荒らされているのを見て、 
(申し訳ない) 
 戦の巻き添えで死んだ民たちへ、たれが手向けたのかは知らぬ。だが、その心を思えばあまりに
  哀れで申し訳なく、志保は救護の合間に村はずれへ出かけ、白い花を植え直すようになった。 
 三浦との争いは、彼女が陣の留守居役を引き受けた時から不思議なほどに無い。その日もようよう
  『彼女の戦』を終え、とある民家を出たときには、珍しく雨は止んでいて雲の隙間から月が顔を覗かせていた。 
(あの花は) 
 根付いたろうか、と首を左右に曲げながら彼女は思う。くたびれ果ててしまっていたが、一日でも見ねば
  気が済まぬ。市右衛門そのほか、兵士達も灯した松明の元で未だに忙しく救護の手を動かしており、 
(大事ないであろ) 
 供についてこられるのも面倒だとの思いから、志保は独り、こっそりと村はずれへ向かったのである。 
(根付いたようじゃの) 
 その、名も知らぬ白い花はどうやら土饅頭へ一応は再び根を下ろしたらしい。そして、この辺りは今、
  志保達が救護活動を行っている三崎城に一番近い村よりもさらにそちらへ近い。三浦方が篭っている
  その城は、ここから見ると暗闇の中、城内のたいまつに照らされて浮き上がっているように思える。 
時折、顔を上げて城を眺めやりながら、志保がかがみこんで、そのあたりの土をそっと抑えていると、 
「このあたりの娘か」 
 鎧の音とともに、よく通る声が背後からかけられた。思わず腰のものへ手をやり、身構えながら立ち上がって振り向くと、 
「この墓に詣でているのか」 
「…はい、いいえ、あの」 
 いつの間に現れたのだろう。花へ気をとられるあまり、背後がおろそかになっていたらしい。 
どことなく、やつれた顔はしているが、志保がいつも接しているような身分の低い者ではなさそうである。
緋縅の鎧に黒烏帽子といういでたちのその青年は、少し笑うと彼女の方へ近づいてきた。 
「私も気に病んでいた。戦続きで、村の者達にも多大なる迷惑をかけている上に、死者に手向けられた花も
馬の蹄で踏みにじった…それが気になって城より抜け出してまいったのだが」 
 今宵、やっとやってきたのだと彼は言う。年のころは志保より五、六は上であろうか。 
「北条の者が、近隣の村へ来ていると聞いたが…乱暴はされておらぬかの。いや、北条なれば、我ら武士なら
いざ知らず、民には乱暴はせぬであろうの。そもそも、民を見捨てて己らだけ、食い物携え城へ逃げれば、
民心は離れる道理じゃ」 
「は…」 
「健気に腰のものなど携えて。無理をさせているな。まこと、相すまぬ」 
そして彼は、どうやら志保を土着の民の娘と思っているらしい。なんと答えてよいのか戸惑っている彼女の傍らで、
地面へ片膝をつき、夜風に白い花をそよがせる土饅頭の群れへ若武者はそっと手を合わせる。その横顔を
しばらく見つめた後、 
「あの、貴方様は…いえ」 
「うん?」 
「なんでもございませぬ」 
一体たれなのかと問いかけて、志保は地面へ再びかがみこみ、花の植わっている土を再びそっと抑える。すると、 
「手伝おう」 
若武者はポツリと呟き、彼女の隣へかがんだ。 
(猛々しい武士のなりながら、なんと優しい心根) 
土を盛り上げただけの墓の前で、ともに白い花を植え直しながら、志保は時折かの武士の横顔を盗み見る
。いわゆる足軽のような下卑た風情でもなく、猛々しさの中にも一種、涼やかなものを漂わせているように思えるのだ。 
しばらくして、 
「…白いの。白すぎる」 
「…は」 
「先ほどまでは気づかなんだが」 
ふとその手を止めて、彼も志保を見つめた。先ほどまでの優しさが消え、厳しく鋭い光がその目から放たれている。 
「こなたの手は、さほど荒れておらぬな。それに顔も…白すぎる」 
 指摘されて、志保は思わずはっと手を引っ込めた。そこへ、 
「しょう様ッ!」 
 馬の蹄と共に、友であり家臣である若者の声が響く。同時に志保とその若武者の間を、空を切って槍が飛び、 
「何者ッ! しばらく控えよっ」 
「市右…ッ」 
それは志保と若武者よりも一、二間離れた地面へぐさりと突き刺さって重く震える。 
「…こなたは?」 
 しかし慌てもせず、かの若武者は、やってきた乱入者へ静かに問いかけた。その側にいた主を
  乱暴に手元へぐいと引き寄せ、 
「松田城城主、松田左衛門が孫、市右衛門! こちらのお方は我らが御大将、伊勢入道が孫姫におわす!
みだりに近づくことは相成らぬ。見れば只者とは思えぬ。及ばずながら手前、お相手を」 
市右衛門は開いた片手で腰のものへ手をかけた。 
「市右、やめよ」 
志保がそれを制すると、 
「…そうか。そうであったのか」 
若武者は呟くようにそう言ったのみである。目から放たれていた鋭い光はみるみるうちにその鋭さを失い、 
「平入道が孫娘…このような、三崎に近い場所へ単騎でのお出ましはあまり感心出来ぬな。それに、
失礼だがそちらの者では私の相手にはならぬ」 
苦笑と共に、彼は続けた。 
「武士は戦場で戦うもの…ごめん!」 
そしてそのまま、彼はくるりと背を向けて去っていこうとする。その方角には大きな楡の木があった。
そちらから馬のいななきが聞こえてきたところを見ると、どうやら彼もまた、単騎でここまで駆けてきたものらしい。 
「あの、お待ちを!」 
「…何かの?」 
呼び止めた志保へ振り向いた若武者の目は、先だっての優しさを取り戻している。それへ胸の高鳴りを覚え、
そのことに狼狽しながら、 
「貴方様は、どなたにござりまする」 
先ほど問いかけて止めた問いを、志保は口にした。 
「敵じゃ…こなたの敵よ」 
 青い月光が、彼女に応える彼の口元へかすかに浮かんだ苦笑を浮かび上がらせる。 
「三浦義意。道寸義同が子じゃ」 
その言葉は、志保と市右衛門の足を一瞬すくませた。その隙に若武者は素早く楡の木へと姿を消したのである。 
「…なんにせよ、無事でようございました…まこと、肝を冷やしまいた。どうぞお独りでのご行動はお控え下さりませ」 
「アア…フム」 
「とまれ、戻りましょう。よりによって敵の大将の息子がこのようなところへ来ておったとは…
今晩のことは、この市右一人が胸に収めておきまする」 
「…アア」 
 やがてその木の下から馬の蹄の音が遠ざかっていくのを聞こえてきた。市右衛門が懇々と諭すように言うのへ、
志保は呆然と三崎城を見やりながら頷いている…。 




…続く。