真訳・東夷伝 19



白、白、白…どこまでも続く白い景色の中を、那陀の身体は飛んでいた。
その中で、
「なぜお前は、私に両手をついて私の助けを請わぬ」
太い、苦しげな声が響く。
(…父上!?)
その声は、あまりにも那陀の父天帝と似ていて、那陀は思わずそちらを振り向いた。
しかしそこにいたのは、長い髪を両脇に「みずら」と呼ばれるこの国古代独特の形に結い上げた
一人の中年男性で、
「なぜ何もかも独りでやってしまおうとする…なぜお前は私に一言も『助けてくれ』とは言わぬ。
さすれば私は喜んでお前を向かえ、後継者の地位にでも何でも据えようものを」
(ああ、これは)
思わず我が胸を右手で抑えながら、那陀もまた苦しげに顔をゆがめる。
心を搾り取られるような悲痛なそのうめき声こそ、倭建の父帝のものに違いない。とすると、
彼が景行天皇すなわちスメラミコトとかいう人物なのだろう。
(彼は倭建を心底愛していたのだ)
がっくりと背を丸め、畳に両手をついて呻くその姿を見、声を聞いたなら、誰でもそれと分かるだろう。
しかし統率者ゆえに…その同腹の兄で当初の後継者である者を、故意ではないとはいえ殺してしまった弟…
一度下してしまった罰を覆すことは出来ない。統率者である者が決断を覆してしまうと、周りの者への示しがつかぬ。
(それゆえに、タケルヘ愛を示すことが出来なかったのか)
昨日は九州へ、そして明日は東国へと次から次へ、通常の者ならとうに根を上げそうな賊の討伐を命じたのも、
倭建からの「歩み寄り」を実は期待していたからだったのだ。
それは恐らく、「統率者ゆえ」という名分に隠された、素直になれぬ父帝の性分もあったろう。
呻いて唇をぎりぎりと噛むその姿は、この国の神の子孫というよりも、子への愛を上手く表現できぬ、
哀れな独りの父のそれで、
(…)
那陀は胸を掴んだ手に、より一層の力を込めた。
しかし、その背中にふと誰かの影が過ぎり、同時に麝香の匂いが鼻腔をくすぐって、
(…母上っ!!)
那陀の大きな目は驚きに見開かれる。
「主上」
「…そなたか」
「はい」
これも、解けば長いのだろう。つやつやと光る艶やかな髪を、頭の頂上で麗しく結い上げた一人の女性が、
「小碓様のことでは、さぞやお悩みのことと心中お察し申しあげまする」
白く細い指でもって景行天皇の背へそっと触れ、さも同情したように柳眉を寄せて言った。
(…晶緒!?)
その顔は、見れば見るほど那陀の異父妹そっくりであるし、なんといってもかつて天宮で赤子だった己を抱いていた
女性そのものではないか。
(やはり母上が)
己の胸が早鐘を打つ。急速に乾いていく口の中へ、無理に唾液を流し込もうとする那陀の目の前で、
「わたくしごとき、貴方様のお悩みを代わって差し上げることなど到底出来ませぬが」
かの女性は言い言い、畳についている帝の片手をそっと取りながら、己の胸元へ導く。
「軽くして差し上げることはくらいは…いつものように、何でもお話くだされませ」
「おお」
そして彼女は、袖の中へ帝を引き寄せる。中年の男が、まるで甘えるようにその胸元へ頭を埋めた。
「小碓めが…なあ」
「はい」
「クマソをも征伐して、東の国へ参ったわ…あれは、優れておる」
(なんと)
タケルからは聞いた事のない、タケルを褒める言葉である。
「あれは私の子にしては、出来すぎておるよ。私も大碓を廃してあれを後継にしようと何度考えたか。
だが、実の兄を殺した罪は重い。あれへ下した罰、今更変える事は出来ぬ。周囲にも、私の怒りは
それほどまでに大きいのだと思わせねばならん…だからこそ、あれから何か言ってくることが必要だというのに」
「小碓様を、お許しになりたいのでござりまするなあ」
「…」
彼女が言うと、その袖の中で帝の肩は一瞬ぴくりと動き、
「…そなたには隠せぬ」
やがて、長い長いため息と共に、再び聞いているこちらのほうが苦しくなるような声が漏れた。
そして彼がふと顔を上げると、赤く濡れたその女性の唇が、帝の唇をそっと盗む。
唇が離れると、白いその頬をごつごつとした両手で捉えて、
「そなたは、このような夜に流星と共に現れたなぁ」
しみじみと景行天皇は言った。
「そなたの予言は常に正確で、そなたの持つ知識は豊富だ。海の向こうの大陸のこともよう知っている。
やはりそなたは皆が申すように、神の使いであったわ」
「恐れ多いことにござりまする」
彼が心から感謝するように言うと、その背を撫でながら女性は喉の奥で笑う。
(…神の使い…違う!)
叫んでも、眼前の二人には伝わらないもどかしさ。
「もしもこれまでのように、わたくしめを信頼してくださるのなら…主上」
そして女性は那陀の背筋をぞくりとさせるような声で笑った後、
「これまでのように、小碓様が、どうしても主上のお力がなくては悪い神を討伐できぬと
言って寄越されるまで、同じことを繰り返しなさればよろしいのでは?」
耳元へ唇を寄せんばかりにして囁くのだ。
「…お父上のお心がお分かりにならぬご子息…悟らせるには、まだまだ熱いお灸が必要だと
いうことにござりましょうや」
「うむ。そう、そう、だな」
そして彼女が言うままに、景行天皇は頷く。節くれだった手で、艶やかな彼女の髪を撫でながら、
赤い唇を見つめる瞳は恍惚としていて、
(術にかけているのだ…!)
見る人が見れば、これもすぐに分かったに違いない。
「今、小碓様は那須野原とやらの集落にいらっしゃるそうにござりまするなあ」
「うむ」
「ここは一つ、小碓様と気心の知れた人物を遣わして、お父上様の御心をそっと説かせてみられては?
ほれ、ヤハギとか申す、ちょうど同齢の者がおりましたでしょう」
「ああ、いたな」
「ヤハギへ赴かせ、お父上様である貴方様のお心を説かせなされ。さすればきっと小碓様も
お分かりになる」
その言葉に、ただただ頷くだけの帝と、口元に妖しげな笑みを浮かべているその女性の姿が消えると、
「…帝がそうおっしゃったか」
(…ヤハギ!)
場面は突如、建物の外へと切り替わった。そこには多数の兵士達を後ろに従えた、那陀にも見覚えのある
男が立っている。
「ならば致し方ない。いよいよ俺も覚悟を決めねばならん」
告げた使いへそう言って、ヤハギはくるりと後ろを向き、
「我らも東国へ参る! 任務は…ミコトの行軍を阻む!」
(こういうことか…タケルの死は、私の母が遠因か)
出発していく兵士達を、那陀はうつろな目で見つめていた。
倭建の父帝が意図するところは、そこまで極端なものではなかったはずだ。それが「帝の意」という一言が
加わっただけで、
(途中でこうまで捻じ曲がって伝わるとは)
双方が高貴な身分でなければ、ここまで事態がこじれることは無かったかもしれない。
(タケル)
あまりといえばあまりの運命の悪戯に、しかし那陀が気を取り直す暇もなく、
「主上。恐れ多いことながら、貴方様のお子が出来ました」
ぬれぬれと光る唇で、あの女性が景行天皇へ告げ、そして、
「…お分かりになった?」
「…っ!!」
気がつけば、辺りの景色は先刻の氷室に戻っていた。驚くほど近くに異父妹の顔があって、那陀が
思わず飛びのくと、その様子がおかしかったのか、
「やだ、異父兄様ったら」
晶瑞はクスクス笑う。
「なぜだ」
「なぜお母様が私を作ったかって?」
「…」
那陀の問いを先回りして、異父妹は言う。言葉を失った那陀の顔を、首をかしげてつくづく見やりながら、
「この国の神は、おかしな神だわ。人と交わるうちに神の血はそれに凌駕され、やがて薄れた…その神の血を残そうと
焦って、近親との婚姻を繰り返す。人の血に限り無く近くなってしまったことを知らずに。ただ人の癖に
近親婚を繰り返せば、奇形が生まれるっていうのに」
「だから? お前が言う意味は分からない」
睨む那陀など何処吹く風、晶瑞はあっけらかんと、
「でも私は九尾狐の子だわ。それに親の片割れも、まだまだ人の血が限り無く薄い、神に近かった頃の
神の子孫だわ。だから」
己自身のことなのに、他人のことのように話すのである。
「だから、神の子孫と何度交わっても、その子は近親婚の産物にはならない…時代が下っても、ずっとずっと
この国の中枢にいて、この国を自分の良いように操ることが出来る。違って? だからお母様は私に、子を産むことの
出来る雌を選べって言ったの。だから私は雌なの」
「お前…お前達は、なんということを」
「だけど、国自体もそうだけれど、この国の人間って、お人よしではあるけれど馬鹿ではないみたい。
お母様もその点は甘く見ていたって認めていらっしゃるわ…私を、代々の天皇に嫁がせることが出来なかったってね。
だから、とうとう表に踊り出たってわけ。そしたら異父兄様のお父様が邪魔しに来たのね」
「…お前たちがこの国にいられるのは、この国がお人よしであるからではない」
「あら。だけど、この国の神がだらしないから、代わりに私たちが護ってあげてるってところもあるわよ?」
怒りを含んだ那陀の言葉を、晶瑞は一笑に付して、
「もう一度、よ」
言った。
「もう一度、とは何だ」
「もう一度」
膝丈までの十二単の裾を翻し、彼女は繰り返す。
「異父兄様のお父様…天帝はこの国へやってくるわ。一度は異父兄様と異父兄様の従妹君が追い払ったみたいだけれど、
今度はどうかしら? 二度の偶然はありえない。今度天帝の加護を受けたあの軍勢がやってきたら? あまりにも
お人よしすぎて優しすぎるこの国の神だけで護れるのかしら」
「お前たちは二度、タケルを殺した。だから私も二度、この国を護る」
「あらあら。そういうことですってよ、お母様」
那陀が髪の毛を逆立てながら言うと、異父妹はクスクス笑って氷室の天井を仰いだ。意外なほどの高さのある
その天井からは、やはり無数のツララが下がっているばかりであるが、
「残念ねえ。目的は同じなのに、意図するところはまるで違う…せっかくここまで来られたのだから、
お母様にせめて一目、会っていただきたかったのだけれど」
そこで言葉を区切り、晶瑞はさっと右手を振った。鮮やかな十二単の袖が氷室の宙を舞ったかと思うと、
それらのツララが一斉に砕けちる音がして、那陀の頭上へ降りかかってくる。
「今は無理だわ。というよりも、もうずっと無理かも」
「待て、晶瑞! 母がこの先にいるのなら、母に会わせろ!」
思わず顔を庇った腕を、ツララの切っ先が掠めては衣服をちぎっていく。
「無駄よ。無駄、無駄。うふふ、あははは」
そんな那陀の様子を見て、さもおかしいといった風に、異父妹はついに声を上げて笑った。
「味方にならないなら、敵。中立なんて立場はありえない。私たちがここに落ち着くまでに学んだことだもの」
言い終えるや否や、彼女は両手を交互に振った。その袖から繰り出される風がツララの根元を断ち切り、
一層の鋭さを増して那陀へと襲い掛かる。
二郎神君譲りの短刀を振るっていても、時折それは那陀の白い頬を傷つけて、辺りへ飛び散る。
「倭建は、この国を愛してる! お前にとっての異母兄なのだぞ? なのにお前は、この国を利用しようと」
それをかいくぐりながら、那陀がそれでも諦めきれずに叫ぶと、
「顔も知らない異母兄など、他人と同じだわ」
肩をすくめて晶瑞は言い、
「異父兄様。今の貴方と同じで、ね」
再び声を上げて笑ったのである。
そこへ、
「那陀様っ! やっと追いついた!」
甲高い、聞き覚えのある声が響く。思わず振り向くと、
「翠! お前がどうして」
「話は後だよ。これ!」
懐かしく愛らしい猫又が、溶岩と氷室の境目にいた。那陀とは違って「異生物」であるから、ここへたどり着くまでに
数多くの妖に襲われたに違いない。
その証拠に、傷だらけの猫又の背後からは無数の妖怪のうめき声が聞こえてきて、
「受け取って! 草薙だよ!」
それでも翠は健気にその剣を投げて寄越す。
「僕のことは気にしないで!」
「すまない!」
地面へ突き立ったその剣は、那陀が引き抜いて構えると、薄暗がりの中で神々しい光を放ち、
「異父兄様…!」
それを見た途端、晶瑞の瞳はみるみるうちに赤く染まった。
「どうあってもお母様には会わせない!」
「違う、違うんだ! 味方になる、ならぬなどという問題ではない」
無数のツララを草薙の光がなぎ払う。なるだけツララだけを払うように気を配りながら、
「お前の言うように、九尾狐が私の母だというのなら、私は母に会って」
「会って、どうするの!?」
「会って…っ!」
(母を説得する…味方にならぬということになる)
再び問いかけられ、思わず絶句したのである。


to be continued…


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