真訳・東夷伝 18




…上空からは見えなかったが、
(ここだ)
人型に戻ってその山の周りを少し巡ってみると、そこかしこにぽっかりと口を開けている無数の洞窟の
中のひとつから、
(…邪気)
何度となく敵対してきた、懐かしくまがまがしい気が立ち上っているのが分かった。
火の山から立ち上る毒の煙のせいか、それとも山が噴火して時折溶岩を吐き出すためか、通常の
山とは違ってあたりはごろごろとした岩ばかりで、それは山を登るにつれ酷くなっていく。
山全体が熱気を発しているような道なき道の中、
(なぜ晶瑞は雌(おんな)なのだ)
額から伝い落ちてくる汗を、片手の甲で無造作に拭いながら那陀は考え続けた。
この世に生きている物には必ず雄か雌かの区別がある。これは那陀や彼の父天帝さえ生まれる以前、
大自然の女神である女禍によって定められた法で、雄と雌があるからこそ、生き物は
子孫を残せるのだ。
だとすると、那陀の異父妹だという晶瑞にも、母である九尾狐と、何者かは分からないが父がいるに
違いなく、
(誰を相手に、母は異父妹を生み出したのだ)
性別を固定した邪鬼としてこの世に生み出されたからには、少なくとも自分のように光と闇とが混在している
者ではない、とは言える。
(やはり同じように邪鬼の者か?)
考えていると、どうしてもその洞窟へ向かう足が鈍る。全ての疑問は、彼らに会って直接尋ねたら良い、
それが一番なのだとは分かっていても、
(何故、何を私は恐れている)
その洞窟の前にとうとう到着してしまい、那陀はしばらく佇んでいた。
遠目からではよく分からなかったが、思った以上に大きな洞穴である。那陀の背の3倍はあろうかと思われる
入口を見上げると、そこからは火山灰が固まって出来たと見える白く尖った岩が垂れ下がっている。
(…熱い)
やがて、那陀は一歩一歩、踏みしめるように中へ入っていった。中へ続く道のそこかしこに溶岩が噴出していて、
それは時折、那陀の前に熱い岩の塊を吐き出しさえする。
それら溶岩が発する熱と沸騰音が反響して、洞窟内はやけに賑やかに思えるのだが、
(何故、誰も現れない)
予想に反して、中は「静まり返って」いた。
何よりも邪鬼の親玉の巣窟なのである。先ほどから、気配は肌に突き刺さるほどに感じているし、
九尾狐だとて那陀がそちらへ向かっていることに気付いていないわけがない。
それなのに、彼らを敵とみなしている那陀へ襲い掛かってこないのは、
(母が止めている…?)
認めたくはないが、やはり己の母が九尾狐であることは事実で、だからこそその子である那陀を
邪鬼たちは襲わない。そういうことなのだろうか。
(私は…私の母は)
このまま出来るなら逃げ帰ってしまいたい。この国のどこか、誰も知らない場所へ気配を殺して、
(あの葛の葉と晴亮のように)
ひっそりと生きることを許されたい。
しかしその場合は、
(タケル、翠)
友人たちの顔を思い浮かべて、那陀は思わず立ち止まった。その拍子に汗がどっと噴出して、那陀の目を
かすませる。
(一人で、ずっと)
「まがいもの」でも神人である。寿命が尽きるまで、気の遠くなるような年月を一人で過ごさなければならないだろう。
(それはあまりにも寂しすぎる)
それに、今はそれ以上に真実を知りたい。
(己の目で確かめて、それからだ)
再び強く思い直して、那陀はさらに奥へと進んだ。
急な下りになり、上りになり、『道』は続いている。進むうち、いつの間にか溶岩が噴き出ている場所が
減ったと思っていると、
(なんと…!)
奥から吹き付けてくる冷風に、那陀は思わず我が身を両手で抱き締めて身震いをした。
今までの熱さで噴き出ていた汗が、たちまちのうちに引いていき、
(寒い、だと?)
側の火山岩には、霜さえ積っている。溶岩の代わりに氷が道に張るようになり、那陀の白い直垂姿が通り過ぎるのが
それに映った。
時折吹く冷たい風には、細かい雪が混じっている。その雪が大きくなり、風が激しくなるのと比例して、
感じられる邪気はどんどん高まる。
「!!」
油断無く辺りを見回しながら歩いていた那陀は、突然目の前をふわりと横切った白いものに気付いて
たたらを踏んだ。
「…晶瑞、か?」
鼻先を、冷たい狐の尾が掠めて通り過ぎる。それを右手で思わず払いのけながら声をかけると、
「そうよ。ようこそ、異父兄様」
その狐はクスクス笑いながら、那陀の目の前で見覚えのある人型を取った。
初めて出会った時と変わらず、平安貴族の装束を身につけながら、やはりその裾は膝丈までしかないため、
少女のような笑顔とあいまって何ともちぐはぐな印象を受ける。
「あら、乱暴」
腰の短刀を抜きざま、それへ向かって切りつけた那陀の身体は、彼女の身体を突き抜けた。
「無駄よ。だって今の私は幻影だもの。お母様がね、私の影だけを飛ばしてくれたの。異父兄様が来たら
案内してやれって」
向き直って己を睨みつける那陀へ、相変わらず無邪気な笑みを浮かべながら、
「知りたいのでしょ?」
ひょいと那陀の側へ近づいて、燃えるような瞳で彼女を睨み続ける那陀の顔を覗きこむ。
「己が何者であるのか。知りたいのでしょ? 『碧玉の魂(こん』は、異父兄様がお考えのように
お母様が持ってるけど、それが欲しいのでしょ? だけどそれを天宮へ持って帰ったところで、
異父兄様のお父上は、異父兄様を認めてくれるかしら?」
「お前が知ったことか」
繰り返される問いに、忌々しげに答える那陀の声はしかし弱い。
「でも、龍の気を取り込んで満たされたでしょ。異父兄様の正体は、あの時、天宮の皆に分かってしまったと
思うの。それでも異父兄様は、天宮へ戻るというの?」
異父妹の幻影は、立ち尽くす那陀の周りをふわふわと飛びながら、カンに触る問いを発し続ける。
「お前は結局、何が言いたいのだ」
長い睫を伏せて、那陀は震える声でようやく問い返した。
「決まってるじゃない!」
すると得たりとばかりに異父妹、晶瑞は頷いて、
「異父兄様と私とお母様で、この国を私たち邪鬼が住める場所にするってこと! ううん、邪鬼たちばかりじゃない、
自分にとって邪魔だからって、天帝が隣の国や天竺から追い出した妖(バケモノ)たちを受け入れるために、
この国をお母様が統括するの。異父兄様、当然味方になってくれるわよね?」
「…」
「分かってるわ、分かってる」
言葉を失った那陀へ、晶瑞は心得たように再び二つほど頷く。
「出会ってからまだ日が浅いものね、私たち。お母様は悲しがられるでしょうけれど、そんなのから
信じられないことばかりあれこれ言われても、いまいちピンと来ないのは当たり前だわ。だから」
そこで顔をぐっと近づけて、彼女はにっこりと笑った。
「教えてあげる。お母様から言い付かってきたから」
言って、その人差し指の先で那陀の額をちょいと突付く。
「何を…っ!?」
驚いてその手を払いながら、思わず那陀が身を引いた途端、
(これは!?)
目の前に煮えたぎった溶岩が広がった。あっという間に那陀の華奢な身体はその中へ取り込まれ、
「ご自身で、ようくご覧になると良いわ」
言い終えて高笑いをする異父妹の気配が消えた。

(…どこまで落ちていくというのだ、私は)
煮えたぎる溶岩の中をゆっくりと下降していきながら、那陀はしばらく呆然と周りを見回していた。
どこを見ても同じような赤い溶岩ばかりである。なんとか抜け出そうと、短刀に力を込めて
払ってみても、
(無駄らしい)
短刀に切られたさら、溶岩がその場所を閉じてしまうので、那陀もすぐに諦めた。
目を閉じて、溶岩に運ばれるままに任せていると、
『那陀』
聞きなれた父の声がする。思わず目を開けるとその前には、
「父上!」
溶岩の中、ぽかりとそこだけが黒く縁取られ、中には苦渋の色を浮かべた父天帝の顔が一杯に広がっていた。
『どうしても生まれて来なければならぬ運命であるのなら、せめて雌(おんな)であれ』
「父上? どうなさったのです?」
叫んで問い返しても、目の前の父には聞こえていないらしい。そこへ、
『いずれはこの天宮の後継にもなれるよう…どうかお前様は、雄(おとこ)として生まれて来られるように』
新たな女性の声が響いて、眼前の景色に晶瑞に良く似た女性の姿が加わる。
父とその女性は、にこやかに微笑いあいながら、しかし、
(少なくとも父の方は)
天帝が心から笑っているのではないということが、那陀にはすぐに分かった。
艶やかな長い黒髪、思わず口付けたくなるような赤い唇に白い肌を持つその女性は、膨らんでいる腹を
愛しげに撫で、
『お子には、何と名を付けていただけるのでしょうか』
思わず背筋のぞくりとするような…それは決して恐怖から来るものではない…淫靡な笑みを浮かべる。
そして父は無表情に、
『那陀、と』
ただそれのみを答えた。
そこでようやく、
(これは私の胎内の記憶か…!)
那陀は悟った。ではやはり、父と共にそこにいる女性は、まぎれもなく己の母なのだろう。
そして己は、二人に忠実であるように、父と母双方に義理を立てるべく二つの性を備えて生まれてきたのだ。
それが可能になったのは、ひとえにそれぞれ強すぎる光と闇の妖力のせいである。
(己というものを持たぬもの)
そして人は、付けられた名にもある程度その生を左右される。そう呼ばれる都度、心の奥に
覚える疼痛を押し殺し、気付かないフリをして生きてきたのは、
(父上…貴方は私の母を)
今、眼前に繰り広げられる光景の中で、母を追い出した父の愛が欲しかったからだ。
これでは確かに、母が父を憎むのも無理はない。自分を抱いたのも、龍と邪鬼との融和のため、
子を成したのも、邪鬼が龍に刃向かうのを防ぐための質にするため…つまり全ては義務だったと
いうのであるから、
『…吾子。那陀』
いつしか場面は、先ほど那陀が通り過ぎた氷室のような場所に移り変わっている。その中で
ぼろぼろに傷つき、体中から血を流した先ほどの女性が、地面から突き出た氷の結晶にすがりつくように
して泣き悶えるのを、誰も笑えぬだろう。
しかもその唇から漏れるのは、他の誰でもない那陀自身の名なのだ。
『返して、私の子を。あのまま返してくれていたなら』
…一時だけとはいえ、肌を重ねたあの時に抱いたままの感情を、貴方へ抱いておけたものを。
繰り返し恨みを述べ、女性は宙を仰いで泣きじゃくる。カッと開いたその両目からは、いつしか
血の色の涙が流れており、端正な唇から吐き出される一言一言が、情念そのままの火が炎となって吐き出される。
『よろしい。それなら私は東の方の国の神の子孫を取り込んで、私の味方となるものを
もっと作ってやる。そしてその者たちと共に、いずれ貴方を…!』
言い終わると、余計に
「うわ!」
その炎が己に向かって吐き出されてきて、那陀は短刀を握ったままの右腕で反射的に己の顔を
かばった。
同時に、
「…分かった?」
「!!」
驚くほど近くで異父妹の声が聞こえた。那陀の耳に口をつけんばかりに近づいて囁いた晶瑞を、
顔をかばった手で払いのけると、例のごとく彼女はひょいとそれを避けてクスクス笑う。
辺りはまた、先ほどの氷室に戻っていて、
「お母様、可哀相だとお思いにならない?」
「…お前は誰との間に出来た子だ」
(晶瑞のテに乗ってはならない)
警戒しながら、那陀は問われたこととは無関係のことを尋ねた。
すると、
「あら、そんなことを知りたいの?」
彼女はさも驚いたように、少しつり上がり気味の目を丸くする。
「教えろ」
構わずに那陀が素っ気無く言うと、
「異父兄様、知ったらショックを受けるかもしれないわよ? それでも知りたい?」
「御託はいい。教えろ」
「仕方ないわね」
右手の袖で口元を覆いながらクスクス笑って、晶瑞は左手の人差し指をつ、と、氷室の天井へ
向けたかと思うと、それを腕ごと大きく一回転させた。
「私の父の名は、オシロワケノスメラミコト…この国の神の子孫。送り名は」
途端に今度は、見るからに寒々とした氷の色が那陀の眼前に広がる。
その中で、
「景行天皇。倭建の実の父親よ」
異父妹の声もまた、冷たい笑いを含んで響いた。



to be continued…


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