真訳・東夷伝 17




硬く閉ざされた部屋の扉の前である。二郎神君は苦笑でもってその話を結んだ。
「…ちゃんと聞きましたか、妹々?」
彼が扉の向こうに確認するのは、言わずと知れた彼の異母兄妹の話である。
相変わらず、竜王公主からの返事はない。ないが、しかしそこからはわずかにしゃくりあげる声が
聞こえてきて、
「父上としても、やむを得ぬ措置であったのではないかと私は思っています」
彼が言うと、
「酷い」
涙もろい彼の婚約者は呟いて、またしゃくりあげる。
「妹々」
二郎神君はそこでまた苦笑し、
「貴女は、那陀を好いていたのでしょう?」
言うと、しゃくりあげる音がぴたりと止まった。
「違いますか? 婚約者である私よりも、那陀のほうを」
続けると、不意に目の前の扉が開く。中からは目と頬を真っ赤に腫らした彼の従妹の姿が覗いて、
「顕兄」
中に入れ、と、伏せた目で彼女は言外にその意味を含ませた。
「ようやく開けて頂けましたね。…貴女は少し痩せました。周りのものが心配しますよ?
少しは何かを口にせねば」
「…」
二郎神君が、その長く形の良い指で頬へ触れながら言うと、竜王公主は黙って頷く。
「座っても構いませんか?」
再び続けると、やはり梨花は黙ったまま頷いた。華麗な彫刻が施された椅子に向かい合って
ちょこなんと座り、二郎神君が黙ったまま座り続けていると、
「顕兄」
やがて居心地が悪そうに、もじもじと尻を動かしながら梨花が彼を呼んだ。
「ごめんなさい」
「なぜ貴女が謝るのです?」
そんな彼女に、白銀の髪をさやさやと揺らして二郎神君は微笑む。
「だって…顕兄をお兄様としか思えなくて。だから、ごめんなさい」
「良いのですよ、そのようなこと」
両の白い手で己の膝をぐっと掴んで、梨花は再び俯き、唇を噛んだ。公務で忙しく、身のこなしも
洗練されていて、頭脳明晰、どこから見ても完璧な次期天帝…誰もが惹かれる二郎神君よりも、
「…私、太子が好きだったの。ずっとずっと小さい時から」
気がつけばいつも側にいて、ともに親しんだ異母兄妹…神としてはあまりにも不完全で、脆く、
はかなくそれゆえに優しい…のほうへ梨花が好意を寄せるのは、当然といえば当然であったかもしれない。
「だから、太子を助けに行ったの。本当は、ヤマトタケルっていう人間なんかに、太子を奪われたくなかったの。
だから…ずっと雄(おとこ)でいて欲しかったから」
震える声で言いながら、胸にぶら下げた水晶勾玉へそっと指先で触れる。
いつか当然のように、自分は二郎神君へ嫁ぐ。己の本当の思いと一緒に、その時にでも
那陀へこっそり託そうと考えていたその勾玉は、
(結局、渡せなかったわ。罰が当たったのかもしれない)
今も透明な神々しい輝きを放って、竜王公主の胸の上にある。
「人間なんかに太子を取られないって思っていたから、『ヤマトタケルのおかげかしら?』なんていう風に言えたの。
太子だって、当然否定するって思ってた。なのに太子の答えは…私の予想外のものだったわ」
二郎神君は、その告白を黙って頷きながら聞いている。
「おまけに太子が龍喰いだったなんて…でもね、でも、顕兄」
「…はい」
梨花はそこで腫れぼったい瞼を上げ、彼女の婚約者をまっすぐに見つめた。
「私、多分また太子を助けに行くわ」
「そうですね、貴女なら」
それへ二郎神君は穏やかに笑って答える。
「でもそれは、那陀が全てを受け止めてからになるでしょう」
「そうね、そうだわ」
彼の言葉に梨花はようやく元気を取り戻したように、いつもの強気を瞳に浮かべながら頷いて、
「顕兄も、太子を待っているのでしょう。太子が自分で自分のことを決める時を」
「そうです」
「あ…」
強く攻めてみたつもりが、あっさりと肯定されて、彼女は素直に戸惑いの色を顔に浮かべた。
微笑んでゆったりと立ち上がりながら、
「私は、那陀が二つの性を備え始めたときからずっと、あれを愛してきました。
あれが雌(おんな)になれば良いと思っています。父には言いませんでしたが、あれが雌であれば
私にも制せる自信がある。なぜなら、那陀は己を愛してくれる者を決して裏切らない。害することが
出来ぬ性質(たち)ですからね。それに『龍喰い』が私の妻になれば、誰も私には逆らわないし、
逆らえないでしょう。違いますか? 那陀にとっても、それが一番幸せであるはずです」
「顕兄…貴方、貴方って」
呆然としたまま自分を見上げる婚約者へ、二郎神君は続けて、
「しかし雄(おとこ)になれば、私は次期天帝の面目にかけても、あれを滅せねばならない」
「…顕兄!」
「そういう宿命なのです。私は、龍族のみならず、全ての長として、龍喰いを始末せねばならない。
なぜなら、私は天帝の跡継ぎだから。古来からこの世界を見守ってきた神である龍を滅ぼす者の
存在を許していたら、この世に秩序はなくなるでしょう。妹々」
さらりと言うには、あまりにも重大すぎることである。理解するには時間がかかるだろうと思いながら、
二郎神君は穏やかな笑みを崩さず、
「貴女がすべきことは、健康を取り戻すことです。食事を摂りなさい。いいですね?」
言い置いて、竜王公主の部屋を出た。
那陀がかつて飛び込んだ水脈へ向かっていると、その脇をすり抜けて、梨花が同方向へ走っていく。
驚いて思わず左右へよけた神人たちが、次にはその後からゆったりと歩く二郎神君を眺めるのへ、
相変わらず軽く頭を傾けて見つめ返しながら、
(那陀、お前はどちらになるのでしょうね?)
二郎神君は奇妙な笑みを浮かべた。
やがて水脈のほうから、何かが落ちたような大きな水音と、混乱したような人々のざわめきが聞こえてくる。
(困りましたね)
その騒ぎの原因を知りながら、二郎神君はなおもゆったりした速度でそちらへ向かう。
(もしも那陀が雄になれば、梨花も共に滅しなければならない)
そう思いながら、しかしその顔はさほど困った様子でもない。
奇妙な笑みは端正な顔に張り付けたまま、二郎神君はその水脈へかがみこんで、中を覗き込む。
(那陀)
爽やかな青緑に輝いていた鱗が、今や真っ黒に変化している龍がその中には映し出されていて、
(火の山)
それが向かう方角が、活火山であることを知り、またその後を、小さな白い猫が剣を引きずりながら
必死に追いかけているのも見えて、
「神君。如何致せばよいでしょう」
あわやはっきりと笑い出しそうになったのを、二郎神君は梨花につけられた龍族からかけられた声で、
辛うじて思いとどまった。
「今は彼女の思うままにさせてあげてください。あれは私の許婚でもある。いざとなったら、
梨花だけでも私が助けますよ。ですからご安心を」
「しかし、那陀太子は龍喰いで…!」
「その通りです。私があれの妖力を解放してしまった。申し訳ない」
思わず『禁句』を口に上せてしまい、慌てる龍族の一人へ、神君は苦笑しながら頷いて、
「ですから、その責任は取ります。どうか私を信じてください。この目にかけて、梨花は私が護ります」
白い指先で己の額に触れながら穏やかに言われて、龍族の神人たちも不承不承ながらに引き下がる。
天帝から引き継がれた額の第三の目があれば、なるほど、梨花がどこにいても助け出すのは容易いだろう。
(そう、そしてこの目と『龍喰い』があれば…父上、貴方は愚かなことをしたものだ)
引き上げていく龍族たちを、神君は頭を下げながら見送る。
彼らの姿が見えなくなって水脈へ戻したその顔は、また穏やかに微笑っていた。
龍族に属している梨花にも、水に近しい土を、わずかではあるが操る妖力が備わっている。それはしかし竜王に近い血の
ためで、他の龍族全てが同様に二つの力を操れるわけではない。
他の神属にしても同じで、火を操る朱雀の長ならわずかながら風を同時に操る、土を操る玄武の長ならわずかに水を操る、
といった具合なのだ。
それと同様に、天帝の血を受け継ぐとはいっても、いわば傍流である那陀に備わる力は、
封印されていたということもあって、水を操る妖力のみであったはずなのだが、
(同時に他の力も目覚めたことを、まだあれは知らない)
彼が解放したのは、那陀の邪鬼としての力である。よって、邪鬼が一般的に得意とする
火をも操る妖力をも身につけたはずである。
通常、相反する妖力をその身に宿すことは、額に第三の目を持つ天帝にしか出来ないことなのだ。
しかし光と闇とをその身体の内に持つとなれば、
(未知数、でしょうね。だからこそ、それゆえに私の役にきっと立つ)
「愛していますよ、那陀」
楽しげに呟いて、二郎神君は水脈から離れて政務の間へ足を運んだ。西域では突風が断続的に
吹き続けているらしい。
西域を担当している神族、白虎一族のみでは収まりがつかぬため、天宮での議題に上るところとなったのだ。
いつも穏やかな笑みを浮かべている次期天帝を、会議の間にすでに集まっていた神人たちもまた、
穏やかな笑みでもって迎えた。

さて、こちらは火の山つまり阿蘇山への道を走っている翠である。
(…お前は普通の生を生きよ、だなんて!)
人でいるよりも、猫に戻ったほうが走る速度は速いし体力もさほど消耗しない。
泣きたいほどに怒りながら、白い毛並みを持ったこの猫又もまた、火の山へ向かって走り続けていた。
那陀が心で呟いたあの時の言葉は、風が彼にはっきりと届け、
(僕はもう、妖(ばけもの)なんだからね! 今更普通の猫として生きていけるわけがないじゃないか。
那陀様に追いついたら、絶対に文句を言ってやるんだ!)
とはいえ、小さな猫の足である。空を飛べる龍とは違って、走っているうちに柔らかな肉球は
尖った石に傷つき、息も切れてくる。重い剣を引きずりながらであるから、無理もない。
「那陀様ぁ…」
近くに見えるのに、案外に遠すぎる火の山を見上げて、ついに猫又は道端に蹲ってしまった。
涙がじんわりと滲んだその目の前に、いきなり空から落ちてきたものがある。
「わ! 梨花様っ!?」
「…翠?」
倒れこんだ竜王公主は、懐かしい小さな猫を見て微笑んだ。
意地を張って、ろくに食事を取っていないせいで、地上に降りてくるだけでも精一杯である。
「どうしてそんなに痩せてしまったんですか? 一体天宮で何があったの?」
人型を取り、自分の体のことも忘れて駆け寄る翠へ、梨花は首からかけていた勾玉の紐を力任せに
引っ張った。
意外に大きな音がして外れたそれを、公主は震える手で猫又の手へ受け取らせ、
「持っていれば風と土の技が使える。風を操る貴方の妖力を増幅させる…風に命令すれば、
貴方を貴方の望む場所に運んでくれる。だから、翠、貴方にあげる。太子を助けて」
「梨花様…」
「お願い。悔しいけれど、私はここで待っているから」
「でも」
「私なら大丈夫だから、早く!」
「はい! では梨花様!」
梨花の身体を、近くの木の側へ寄りかからせて、翠は再び猫へ変化し、早速空へ飛び立っていく。
(そうね、私がいなくても)
かつて「この国は優しい」と那陀は言った。その言葉そのままに、大地に手を触れていれば、この国の
大地は梨花へわずかずつではあるが気を分け与える。
(翠がいれば、きっとなんとかなる。太子はまた、私のところへ戻ってきてくれる)
思いながら目を閉じた竜王公主の頬を、木漏れ日は優しく照らし続ける。



to be continued…


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