真訳・東夷伝 16




火の章

1  過去

「お生まれになりました。男子でいらせられます」
その言葉を、目を閉じたまま、少しだけ唇を歪めて頷きながら聞いた。
もともと彼の父が邪鬼側と勝手に決めた婚姻である。愛し愛されてのそれではない。
無論、彼の「第一夫人」であるところの竜王公主との間に愛があるかと問われても、
「無い」と彼は答えるだろう。
それは天帝としての義務のひとつであり、ならばそれを己は淡々とこなすのみである。
しかし、今回の相手は誰にも心の中を漏らしたことは無いが、彼が誰よりも嫌いぬいていた
「邪鬼の親玉」である。
その父は、息子である彼が天帝位を継ぎ、九尾狐を第二夫人に迎えると間もなく亡くなった。
「乳母はどうなさいますか」
再び問いかけられて、彼は今度ははっきりと苦笑を漏らした。
天帝の子でありながら、それさえ決まっていない。決められなかったのである。
なぜなら、
(龍喰い)
妖獣、九尾狐の血を引くものの特性として、生まれた赤子にはその能力が備わっていた。
彼でさえ、九尾狐と交わる時には、ふと気が遠くなるような錯覚に襲われたことがあったが、
それはあげて、龍の気を持つ者全ての精を意識的にまたは無意識に吸い取るという、
九尾狐の妖力のせいである。
彼が無事だったのは、
(これのおかげだ)
その部屋へ向かいながら、額の中央に片手の先をやって、彼は再び苦笑する。
だから、乳母にも龍の気を持つものを選べない。赤子の母のことは、誰にも秘密にしておかねばならなかった。
天帝と邪鬼、つまり光と闇との融和…これ以上邪鬼が人間に「悪さ」をせぬように練られた、
まさに苦肉の策だったのだが、
「陛下」
乳の匂いのこもるその部屋へ入っていくと、九尾狐はあでやかな笑みを浮かべて彼を見つめた。
茶色に近い琥珀の瞳、黒々と流れる艶やかな髪に、思わず抱き締めて口付けたくなるような淫靡な唇…
人型を取ったその姿を見たなら、相手が邪鬼であると分かっていても、並の者ではその思いを
抑えることなど出来はしまい。
龍の血を持つものがほとんどのこの宮内では、生まれたばかりの赤子に、彼女以外乳を与えることが
出来る者がいない。それが分かっているのだろう。自らの豊かな乳房を赤子に含ませながら、
「…お生まれになりました」
告げる「彼女」の声は、己に対する信頼と愛に満ちていた。
(僭越な)
闇そのものの邪鬼ごときが、光の化身の天帝である自分に懸想するなど、そして天帝から
愛されていると思い込むなど、勘違いもはなはだしい。
「乳母は、他神族の者から選ぶ」
「はい。それが良うございましょう」
彼が言うと、彼女は少し寂しげに言って頷く。彼女も、「天帝」に乞われて来たものの、
天宮において己に注がれる軽蔑と恐れの視線を痛いほどに感じ取っているから、
「そうしても、跡継ぎではないゆえ、皆も怪しまぬ」
「はい」
夫の言葉に再び頷く。母の乳房に頬を寄せる赤子は、乳を飲み終わって満足したらしい。
目を閉じて無邪気な寝息を立てる赤子の姿は大変に愛らしく、
(愛い奴だ)
邪鬼の棟梁の子であるということを、一瞬でも天帝にすら忘れさせるほどの魅力を湛えていた。
(触れてはならぬ…否)
そしてそのことを彼は恐れた。誰にでも愛される天性のものを備えている邪鬼の子。
それは九尾狐の血のせいであって、彼の持つ光の血ゆえではない。
(二郎神君にとって災いとなる)
先に生まれていた第一子を思い、天帝はその赤子に伸ばしかけた手を引っ込めた。
あろうことか邪鬼との間に出来た異母弟を溺愛し、正統な後継者をないがしろにしていると
噂が立ってしまえば、彼の威勢などすぐに吹っ飛んでしまおう。
(誰にも愛される妖力などは要らぬ。畏怖させる力さえあればよい)
敢えてそう思いながら…もちろんそこに、幾分かの嫉妬が混じっていることを彼は
重々自覚している…彼は額の目を開いた。
「…陛下?」
「この子はこの宮に置いてやる」
「あっ!?」
戸惑う「妻」の胸から、彼は赤子を取り上げる。途端、驚いて泣き出す我が子へ手を伸ばそうとする
九尾狐へ、
「だが、お前はここに置いておくわけには行かぬ。今すぐ我が宮より立ち去れ」
天帝は冷たく言った。
「ここは光の地。邪鬼ごときが足を踏み入れてよい場所ではない。この赤子は我々が育ててやる」
「陛下っ!」
九尾狐の瞳が、たちまち赤く染まる。少しでも信じていたかった夫、ずっと憧れていた
光へ少しでも近づけた喜び…しぶしぶながらでも、肌を重ねていたからには、少しでも
己に対する愛はあるはずだと縋るように思っていた希望が全て潰えて、
「どこなと去れ。お前はここに存在(い)て良い者ではない」
「…っ!!」
赤子を産んだばかりで妖力も満足に出せぬこともあり、九尾狐は絶望と怒りに震えた。
「ならば、吾子、吾子とともに参ります! お返しあれ!」
狂ったように叫び、赤子に両手を伸ばす妻に、しかし、
「この赤子は我々が預かりおく。この赤子を大事に思うなら、我々に対する反抗など
夢、考えぬことだ」
天帝の言葉はあくまで冷たい。
「我が子を質に取る、ということでございますか…天帝ともあろう御方がっ!」
それに答えて九尾狐は叫んだ。途端、人型を解いた九つの尾を持つ銀色の狐が現れて、
「それほどまでに我らを恐れている、と解釈してもよろしいのでございますね!?」
「それでも良い」
「お子の父ともあろう御方が、そのお子を質にとは…情け無いとは思われませぬのか!」
泣き叫ぶ赤子を抱いたまま、苦笑している夫を九尾狐はその尾で取り巻いた。
妖力が不十分である、と言いながら、しかし天帝に向かって吐き出される炎は凄まじい。
天帝はそれを平然としたまま受け、額の目を開いた。
彼がその炎をふさぐように片手を上げると、そこからは風と水が一気に繰り出され、たちまち
炎を押し戻していく。
「邪鬼ごときが、我らにたてつこうとは片腹痛い。闇の者は闇の者らしく、地の底で蠢いていよ!」
言いながら天帝がさっとその手を横へ払うと、風と水は刃となって九尾狐へ襲い掛かる。
途端、凄まじい悲鳴を上げて九尾狐の姿は消えた。
手の中で、火がついたように泣き続ける赤子を見下ろして、
「…さて、これの『力』をどうするか」
天帝は苦笑した。赤子の顎をくい、と持ち上げた手の指先を喉仏に当て、
「吶!」
低いが力のこもった声で言う。
「天帝陛下! ご無事で?」
「陛下! 何事でございますか!」
その頃になって、ようやく天宮の警護の者達がやってきた。部屋の惨状と主の手の中にある
赤子を見て息を呑む彼らへ、
「これの力は封じた。我が一族の中から乳母を探さねばな」
彼は薄く笑ってそう告げたのである。
…以来十五年あまり、かの赤子は己の母を知らずに育った。
周囲も天帝を懼れて口にしないため、真実を知っている者は天帝自身とその後継である二郎神君その他、
その周りのごくわずかな者のみである。
しかし人を魅了する天性を持ったその赤子は、無邪気に笑うことで周りの者を魅きつけた。
天帝の意を迎えているため、周囲の者もそれをあからさまに表に出すことはなかったが、
それでも幾分かの者は、天帝の目を盗むようにこっそりと赤子への愛を示してはいたようである。
特に武芸を担当する将軍、開(カイ)などは、赤子の後で生まれて二郎神君の許婚と決められた
竜王公主と共に武芸を厳しく仕込みながら、その豪放な性格でもって那陀と名づけられた赤子の頭を
乱暴に撫でたり、武神としての筋が良いのをはっきりと褒めたり、といった愛を現した。
それは赤子が二つの性を備えてからも本質的には変わらず、
(二つの性を持つ半端者)
それゆえに父である天帝により一層疎まれる存在になっていても、心の底では皆が那陀太子へ
同情を注いでいた、ということを、何より天帝自身が知っていた。
(何故だ)
二郎神君のほうへは、父である己を越えること、父である己よりも周りの信望を集めることを期待していながら、
母を異にしていても、同じ我が子である那陀太子へはそれが出来ない。むしろ那陀のほうが全てにおいて
己を凌駕するのではないかと恐怖すら覚えるのは、
(認めたくはないが)
邪鬼の血のほうが、光を持つ己の血よりも優れているということを認めているからではないか、と、
天帝は思う。思いながら、
(これは嫉妬だ)
その感情も併せてあることも、しぶしぶながら認めざるを得ない。
だから、那陀…己というものを持たぬ者…と名づけた上に、赤子の力を封じた。
嫌いぬいている邪鬼の子を天宮に置いたのは、母である九尾狐への牽制と、手元において監視する、
その両方の意味を持っているからであり、
(決してあれを愛しているからではない)
言い聞かせながら、天帝は玉座から立ち上がった。言い聞かせねばならぬほどに、実は
那陀を認めているのだということに、彼自身は気付いていない。
「二郎は、おとなしくしているか」
控えていた側の女官に尋ねると、彼女は白い顔をわずかに俯けた。
「謹慎を解かれてからも、慎ましくお振る舞いにございます」
「ならばよい。梨花は」
さらに問うと、
「こちらへお戻りになられてより、ご自身の部屋にこもられたきり、出てこられません。お食事もあまり」
「困った奴だ」
「神君が時折訪ねておいでですが、それでも頑なに扉を開こうとなされず…このままお食事を摂られぬならば、
お体のほうも」
「うむ」
その答えに苦笑して、天帝は歩き出す。
「あの、どちらへ」
「しばらく休む。誰も来ぬように」
慌てて付いて来ようとする侍女へ言い捨て、彼は玉座の間から外へ出た。
(光と闇を併せ持つもの…まるで人間のような脆弱な)
かつて那陀が使った水脈へ、自然にその足は向かった。そこへ着くと、
「父上」
彼に気付いてゆるゆると立ち上がり、我が子が自分へ向かって頭を下げる。
「あれの様子か」
「…は」
「咎めているわけではない。かしこまるな…だが」
上辺は取り澄ましたような表情を崩してはいないが、内心、かなり動揺しているに違いない。
一刹那震えた二郎神君の肩を鋭く見やりながら、
「あれの封を解いたのは、お前に制せるとの自信がある上であろうな」
「はい、恐らくは」
「恐らく、ではいかん。あれは龍喰いだ」
その水面には、東の方の国、火の山へ向かう一匹の龍が映し出されている。
「龍でありながら、同族を喰らう。だからこそ、私もあれのもうひとつの力を封じた。それを
お前は何故解放した」
「あの場合は、そうでもしなければ那陀の命が」
「何故助けた」
「は…それは」
重ねて尋ねると、ついに二郎神君は黙ってしまった。さすがに言葉に詰まったらしい。
「まあよい」
しかし天帝はそこで苦笑した。誰よりも誇りに思っている我が子を責めるつもりは元々無かったはずだ。
謹慎を命じたのも形の上だけのことで、
「梨花の機嫌をこれからもとってやれ」
「はい、それはもう」
「失敬する」
ホッとしたように微笑む二郎神君の顔を見て、天帝は自室へ引き上げるべくその場を去った。
(あれは、那陀を好いておるのだ)
それが分かるだけに、何とも歯がゆい。彼にしてみれば天帝は天帝として、竜王公主を妻とするのが当たり前で、
その間に子を成すのが当たり前なのだ。それが天帝に与えられた義務である、とさえごく自然に思っている。
母が異なる場合、神族であるならその血の濃さは関係なく、結ばれることは出来る。子を成すことにも
問題は無い。
しかし、那陀が二つの性を備え始めてからは異母兄妹としてではなく、雌(おんな)として見るようになったのが、
我が子二郎神君であるということは、
(許せぬ)
邪鬼の子に己の血が混じっていることが何よりも許せぬ彼にとっては、耐えがたい屈辱のようにも思えた。
であるから、彼にとって一番良いのは、
(那陀よ、戻ってくるな)
力を解放されぬままの那陀が、母である九尾狐の元へ取り込まれ、共に己に向かって叛旗を翻すことだったのだ。
(そこを、一気に叩けば良かった)
であれば、多少なりとも自分が抱く良心の呵責のようなものは薄れる。
一度解放された封は、同じ物を二度とすることができない。那陀の力を封じることが出来るのは、那陀以上の力を持つ
人物…天帝と同じ能力を持っている二郎神君か、あるいは、考えることすら馬鹿馬鹿しいが、その実母である
九尾狐しかないのだ。
九尾狐が那陀の妖力を封じることなどありえないし、二郎神君ときたらその力を解き放った張本人なのである。
しかも二郎神君は宝玉を手に入れた那陀が、雌(おんな)になることを望んでいる…。
(少し休まねば)
天帝はそこまで考えて、ほろ苦く笑った。少し休めば、また新たな考えが出てくるかもしれない。


to be continued…


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