真訳・東夷伝 15




天帝は、この世の地、水、火、風、空の技を自在に操る妖力の持ち主である。
那陀に向かって吐き出された炎は、しかし那陀が咄嗟に抜いてかざした草薙が雲散霧消させ、
「父上…」
地上から、人間達の喚きは響き続ける。そのはるか上空で父の分身へ向かってその名を呼びながら、
那陀は龍型を解いた。
「お聞かせ願いたい。私の母が、私たちの『敵』、九尾狐であることは真実か」
「…おお、真実よ。だが、それがどうした」
「では、貴方は…私をずっとたばかって」
「たばかったわけではない。お前が尋ねなかった。私がお前に告げる必要も認めなかった。ただ
それだけのことだ。真実はどうあれ、私がお前を育ててやった。半端者、まがい物であるお前をな。
その事実は消せまい。そのような者が私に逆らうとは、愚の骨頂だ」
「では、では…貴方はなぜ私を生み出した!」
「そのようなこと、お前が知る必要は無い。お前が自分で九尾狐の子であったことを知ったなら、
それはそれで結構なこと。子であるお前なら、母であるあ奴もすんなりと我らが至宝を渡すであろうよ」
「父上…」
「忘れるな。お前のつとめは、我等が空の至宝を持ち帰ること。その一つだけだ。これ以上余計なことは
知ろうとするな。そのほうがお前のためである」
全ての表情が抜け落ちた様子の我が子へそう告げた後、金色の龍はひらりと身を翻し、那陀の隣にいる若い龍へ
大きな口を開けた。
「梨花! お前という奴は二郎神の許婚でありながら、なんたる淫奔(いたずら)娘であることか!
今すぐ天宮へ戻ってまいれ。今ならまだ、二郎のように謹慎で済ませてやる!」
言い終えて、金色の龍は再び凄まじい炎を吐いた。
「太子!」
「那陀様!」
那陀の懐から飛び出した翠と、梨花が悲鳴を上げる。それぞれに風と水を呼び出して、その炎を
防ごうとするその一瞬前、
「…那陀。お前という奴は」
「父上」
全ての力を失ったように、両手をだらりと下げて俯いていた那陀が、再び草薙をかざした。
その身に金龍が放った炎をまとい、渦を巻く草薙を構えながら、この上なく歪んだ表情で、
「父上」
那陀は繰り返す。
「…宝玉は、私が取り戻します。ですから、ただ我が母が邪魔であるからと、その理由のためだけに、草原の
民を使ってこの国を滅ぼそうとするのはおやめ下さい。この国は…優しい国なのです」
「半端者が何を言う」
「父上」
人型に戻った梨花が、それに反論しようとするのを抑え、那陀は続けた。
「九尾狐が我が母であるというのなら…この国にいる我が母へは、私から話しましょう。
貴方への憎しみを捨て、誰もがその存在を許してくれるこの国で、どうかひっそりと暮らすよう。
そして母から宝玉を取り戻したら、貴方へそれを返し奉った後、私もこの国で母や異父妹と共に、
ひっそりと暮らします。ですから」
「太子…!」
那陀の服の袖を、その指が真っ白になるほどに強く掴みながら、梨花が堪えきれずにその名を呼ぶ。
「ですから…どうかこの国の民を傷つけないで下さい。人間には人間だけの、素晴らしい営みがある。
いくら己の手で作ったからとはいえ、神がそれを自由に侵していい権利はないのです」
父天帝をまっすぐに見詰めながら、従妹の手をそっと話して那陀は告げ終え、そっと唇を噛む。
すると、
「小癪な」
金龍は憎憎しげに吐き捨て、天を仰ぐ。たちまち空から龍の大群がやってきて、
「…お前ごとき、この私が相手をする必要もない。あくまで私に逆らうなら、あれら全てを破ってみせよ。
その上で、お前がお前の母から我等が宝玉を取り戻して私の前に示せたなら、お前の話、考えてやっても良い」
「伯父様! あんまりよ! いくら太子でもあれだけの龍を」
「梨花。お前は今すぐ天宮へ戻れ。さもなくんば、いくらお前でも容赦せぬよう、あれらによくよく
言い聞かせておるゆえ」
「伯父様っ!」
どうやら、もはや聞く耳を持たないらしい。金龍はそう言うなり姿を消す。引き換えに、いつの間にか
低く垂れ込めていた雲の合間から、天宮を護る龍たち…天帝軍が後から後からやってくるのが見えて、
「那陀様…」
「翠。お前は懐の中へ入っておいで」
こくりと頷いて猫に戻り、那陀の懐へもぐりこんだ翠を、衣服の上から軽く叩く那陀へ、
「太子。私は貴方の側にいますからね!」
梨花は、それが当然だとばかりに頷いて叫ぶ。しかし那陀は寂しく笑って首を振り、
「お前も、早く天宮へ戻ったほうが良い」
言った。
「私が邪魔? 戦力にならないって言うの?」
「違う。そうではない…違うんだ」
詰め寄る従妹へ苦笑しながらその姿を見やるうち、那陀はもう一つの、
(食ってしまえ)
そんな感情が湧きあがることに戸惑っていたのである。
「これ以上、私の側にいたら」
(食ってしまえ)
天帝軍を見上げた時から、己の内側でかすかに聞こえていたその声は、彼らが近づくにつれて
頭の中にまではっきりと響き、
「来たわよ、太子!」
己の剣を構える梨花を、今すぐにでも「食らって」しまいたいのを、むしろ那陀は必死で
堪えていたのである。
龍同士には、水は通じない。水に唯一対抗できるのは火である。それは天帝軍の龍たちも
重々承知しているらしく、
「梨花様。太子の側からお離れ下さい。我ら、貴方様に向ける剣は持っておりませぬ」
先頭に立っていた龍が言うと、各々、剣を抜きながら梨花へ向かって頭を下げる。
「我等が天帝から言い付かっておりますことは、那陀太子を取り込め、懲らしめのために
しばらくの間、天宮の一室にて謹慎して戴きますこと。何処の世に、我が子の命まで奪おうとする
父がおりましょうや」
「…御託はよい」
甲冑に身を固めた人型を取った龍の武将へ、那陀が告げたその言葉は、嫌に澄んで響いた。
「梨花。離れていよ」
那陀は低い声で言うと、炎をまとったままの草薙を、天帝軍へ向かって真一文字に振るう。
前衛の龍たちを、たちまち凄まじい炎が焼き尽くすが、
「太子、太子!」
それにも怯まず、龍たちはどんどん近づいて梨花を担ぎ上げ、那陀の腕をも捕らえようとする。
鍛え上げた武人の大きな手が、那陀の右の手首を捉え、容赦なく締め上げると、その手から
草薙がぽろりと離れた。
「翠、頼む!」
「はい!」
懐から飛び出た白い猫が、一筋の光を引いて地上へ落ちていくその剣を追うのを尻目に、
「太子。我らとご同行願います」
那陀を捕らえた筋骨隆々、歴戦の龍が、勝ち誇ったように言った。その刹那、その武士は
まるでひしゃげたカエルのような悲鳴をあげ、一瞬にして塵のように崩れ去ったのである。
その瞬間、彼らのうちに沈黙と動揺が走った。
「太子…なんと」
(食らってやる)
『同族』であったはずの龍の気を取り込んで、那陀は狂喜した。神通力を備え、武人としても
十分に鍛えているはずの龍たちの目にも留まらぬ素早さで、己の側にいた彼らの手を取るたび、
その龍は同じような悲鳴を上げては塵のごとく消え、身にまとっていた鎧や衣服のみが
虚しく地上へ落ちていく。
「太子、太子! どうしちゃったのっ!?」
必死に叫ぶ梨花を捕らえている龍も、ただ呆けたようにその有様を見つめていた。
従妹の叫びを聞くまでもなく、
(私は、どうしたのだろうか)
同族の龍の気を体内に取り込むたび、己の中に封じ込められていた半分の何かが喜び、のたうちまわることに、
那陀もまた戸惑っている。
やがてその気が、
(あの時のものと同じだ)
己が異父妹の晶端によって傷つき、倒れた時に異母兄の二郎神君が己に施した『術』に共通するものだと
思い至って、那陀は愕然とした。
(異母兄は、一体私に何を)
戦いによって那陀が喪った龍の気を補填した、その程度だと考えていたが、
(何かが目覚めたような、嫌にすっきりとしたような感触は、このためか)
気がつけば、やってきていた天帝軍の数はかなり少なくなっている。その大半が怯えて那陀から
後ずさりしているのを、那陀は追いかけ、その肌に触れては龍の気を体内へ取り込み続けた。
やがて己の目の前にいるのは、梨花をとらえている武人のみになり、
「…逃げろ。梨花を連れて逃げてくれ、頼む」
那陀はその龍へ懇願した。
「…このままでは、私は梨花も食ってしまう。だから…私から早く逃げろ!」
悲鳴のような声を聞いて、やっと梨花を捕らえていたその武人は我に帰ったらしい。
梨花の手を引いて逃げようとするのを、しかし、
(食らってやる)
己のうちのもう一人の己が言い、那陀は凄まじい勢いで追いかけていた。
己の後ろから追いかけてくる黒い気をまとった龍を見て、その龍は恐怖に満ちた目をする。
「太子!」
人型のままの従妹がそれを見てもがきながら、白い手を伸ばす。
その手に黒い龍の爪先が触れようとした瞬間、
「…太子っ!」
くぐもった悲鳴を上げたのは、梨花を捕らえていた龍のほうだった。
黒い龍は、その龍に追いつくや否や人型に戻り、広げた右手のひらを龍の背中に当てたのである。
たちまち龍の姿は雲散霧消し、
「太子、太子…」
やっと解放された梨花が、少し離れた空中で嗚咽を上げながら己の名を呼ぶのを、那陀はただ呆然と聞いていた。
(満たされた…ようやく)
梨花を「食らう」まではしなくて良かった、と自嘲しながら、那陀はこの上なく寂しく微笑い、
「なぜお前が泣く? お前が泣くと、そのうち暴風雨になるのではないか?」
言うと、この強気で涙もろい従妹は、おずおずと近づいてきて、
「馬鹿…太子、馬鹿っ!」
那陀を罵りながら、その袖を引こうとするのである。
「私に触れるなっ!」
「太子…」
怯え、傷ついた顔をする従妹からそっぽを向きながら、
「私に、触れるな…頼むから」
那陀は震える声で繰り返した。その意味を聡い竜王公主も悟り、うなだれてまたしゃくりあげる。
「翠は、まだ戻らないな」
やがて、小粒の雨が降り始める。いつの間にか地上でも戦が終わっていたが、落ちたあの剣を、
そこかしこに剣や槍の残骸が転がっている戦場から探し出すのには、かなりの時間がかかるだろう。
「母は、あそこにいる。父が引き上げたので、己も引き上げたらしい」
そして那陀は、今も火を吹きあげている南の山を見てぽつりと言った。
「何よりも母の『気』になるもの…私も、己がどうして邪気のありかが分かるのか、
ようやく分かった」
「太子」
「これからあの火の山へ行く。だからお前も」
「嫌よ! あんな伯父様の元になんか帰らない! 私はずっと太子や翠と一緒に…っ!」
言い掛けたみずみずしい頬へ、那陀の平手が飛んだ。
「…私は、龍の気を取ることを覚えた。覚えてしまった。このまま私の側にいたら、
私はお前だとて食らうぞ! 今、私の手が頬が触れてもお前が無事だったのは、私が満たされたからだ。
それを忘れるな」
「…」
打たれた頬を押さえながら己を見つめ、ただしゃくりあげる従妹、数少ない理解者の一人へ、
「行け!」
那陀は繰り返し叫んだ。途端、凄まじい暴風雨が辺りに発生する。
…一匹の龍が、空高く舞い上がる。
(相変わらず、派手な泣き方をする)
土砂降りの雨に打たれたまま、それを見送って、那陀は苦笑した。
草原の民率いる船団が浮かんでいる海面は、みるみるうちに激しく波打ち始め、
大きな波が船を次から次へと飲み込んでゆく。
この分だと、北条時輔…倭建にした約束は果たせるだろう。
(…翠、お前は平穏な生を生きよ)
愛らしいあの猫又へ、那陀は心の中で話しかけながら、単身、南へ向かった。
(あの神社を頼む)
暴風雨の範囲を抜けると、途端にうららかな中秋の日差しが那陀を包む。
「那陀様っ! ねえ、剣、見つかったよっ! どこへ行くの、ねえっ! 僕も一緒に行くってば!」
(許せ。私は母を解かねばならぬ)
空を飛ぶ那陀の姿を見つけたらしい翠が、砂浜から必死に叫ぶ声を聞き流して、
那陀は火を吹く山へ向かい続けた。
大宰府の岸辺からは、草原の民の船団がなくなったことを知って喜ぶ
武士達の歓声が聞こえてくる。



水の章、了 火の章へ続く。


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