真訳・東夷伝 14




那陀の元へ、再び六波羅探題南方からの急使が来たのは、まさにその翌日、払暁である。
「宮司殿! 失礼を承知でお頼み申す!」
「…何事だ」
障子の外で呼ばわる苦しげな声が聞こえて、那陀は白い夜着のまま起き上がった。
隣で眠っていた翠も、耳をぴくりと震わせてあくびを一つし、右手で片目を擦っている。
その頭を一つ軽く叩いてやってから、那陀がすらりと障子を開け放つと、
「それは、一体」
石段の下に膝をついていた六波羅探題の使者は、血まみれだった。馬のいななきが聞こえて
ふとそちらへ目をやると、その馬の鞍も血まみれで、
「一体何が起きた」
「宮司殿」
その武士は苦しげに喘ぎながら、携えていた刀を差し出す。
「六波羅探題が何者かに急襲されました…時輔様、詰めの者どもを督励して戦っておられますが、
幾分、多勢に無勢にて…どうか、宮司殿、そのお力でもってわが主を」
携えていた刀、草薙を、呆然としている那陀へ託し、その武士は息絶える。
起きて来た梨花や、ようやく目が醒めたらしい翠が立ちすくんでいるのへ、
「葬ってやってくれ。私は六波羅探題へ行く」
那陀は言いつけながら部屋へ戻り、手早く着替えて血まみれの鞍の乗っている馬へ駆け寄った。
「お前はここで待っていよ」
その鼻先へそっと指先で触れながら語りかけると、少々興奮していたらしい馬が大人しくなる。
そして明け方の古都の空を、龍が飛んだ。
(闇討ち、とは卑怯な)
その姿だと、六波羅探題へはひとっ飛びである。瞬時に六波羅探題の建物の上へ到着して、
那陀は人型に戻り、その中庭と見える辺りへ降り立った。
(いやに、静かな)
さぞや剣戟の音もかしましいに違いないと思っていたところが、建物の中は妙に静かなのである。
「…タケル…時輔!」
執権の異母兄の名を思わず呼び捨てにしながら、那陀は勝手の良く分からぬその建物の中を
駆けめぐった。
とある襖を開いた途端、
「…!」
なにやら喚きながら、その中から刀を煌かして向かってきたものがいる。咄嗟に横へ飛びのいて
首へ手刀を叩き込むと、
「…宮司殿か。助太刀、感謝する」
部屋の中から、震える声が聞こえた。
「時輔」
「…鎌倉方の者だ」
側へ駆け寄った那陀へ、ぽつりと彼は言う。利き手に持った片刃刀と、時輔の着物は紅い液体にまみれていて、
彼の足元には武士の死体さえ転がっていた。
「こういうことは、これが初めてか」
それを見ながら那陀が問うと、
「鋭いな。これが初めてではない、三度目だ…以前から重々分かっていたことだが、鎌倉方は俺が邪魔なのだ」
寂しそうに笑い、時輔は少しだけ顔を背けた。暗闇の中で一瞬、その頬に光るものが見えて、
那陀もまた、慌てて目を反らす。
「…お前の異母弟の差し金か」
「違う。そうではない」
「そうか」
無遠慮な問いの答えを聞いて、那陀は頷いた。
権力の中枢に近い者。何らかの事情によって遠ざけられてはいるものの、現在の権力者に
何かが起きた場合には、一番危険視される人間…異母兄でありながら、母の身分が低いために
弟の家来にならざるを得なかった時輔は、「反幕府」の立場にいる者から見れば、担ぎ出すのに
格好の旗頭になる。
だから、鎌倉とやらにいる彼の異母弟、時宗にはそのつもりはなくても、その周りのものが
余計な気を回す。もちろん時輔自身に野心が無いことも、彼を見たならすぐに分かるのだが、
「…周りが、放っておいてはくれぬからな」
「うん」
再び時輔が呟くように言った言葉に、那陀もまた頷く。
(なんと、息苦しい)
異母弟のために何かしたい、それが真心から発しているものであったとしても、彼を警戒している
人間は下手に勘ぐる。
なまじ権力者の血を引いているだけに、「生き殺し」のような人生である。
「なぜ、逃げぬ。船があるのなら、やってきている元の人間に紛れて大陸側へでも行けよう」
見ているこちらのほうまで、息苦しくなる。那陀が時輔の顔を見ながら思わず言うと、時輔は
ようやくそこで顔を上げて微笑い、
「この国が好きだからだ。この国は優しい。俺のようなものでも生を受けたからには、
何かの意味がある…存在てもいいと言ってくれているからに相違ないからだ。だから俺は、
俺の出来ることでこの国を護りたい」
「…お前は馬鹿だ」
「心外だな。馬鹿などではないさ」
「…馬鹿だ、お前は」
彼の前世でも聞いた同じ言葉が飛び出して、ついに那陀の声も震えた。
前の世と同じように、命まで何度も狙われていながら、
「俺は、この国の人を信じていたい。信じている」
なおも彼は微笑うのだ。
「だが、俺がここにいれば、また同じようなことが起きる。そのたびに、俺を慕ってくれている
者どもが死ぬのを見るのは、やはりやりきれんな。いっそのこと、お前の言うように逃げてやろうか」
「タケル」
「…うん?」
「何故、これを私に託した」
自分のことを呼ばれているのかと、一瞬怪訝な顔をした時輔は、那陀が己の胸元へ突きつけた剣を
見て苦笑いを漏らし、
「今度ばかりは生きておられぬかもしれぬ、と思ったからな。それにこの剣は俺のものではない。
ならば正統な持ち主に返すべきだろう」
「正統な持ち主はお前だ。この剣の主はお前なのだ」
「宮司殿」
胸元に突きつけられた剣を、しかし取ろうとせず、時輔はまた静かに笑った。
「お前と、この剣を見た時、この上なく懐かしい気持ちになった。初めて出会ったはずなのに、
何故であろうかと」
「初めてではない。我々は以前にも一度、出会っているのだ」
「ははは、口説くには立場が逆ではないかと思うのだが。されば宮司殿、お前は男か、女か。
女であれば、俺の妻に欲しいところだ」
「…」
「いや、失礼した」
返事に窮した那陀を見て、何故かは分からないが尋ねてはならない問いだと思ったらしい。
時輔は突きつけられたままの剣をそっと押し戻し、
「お前が男であっても女であってもいい。『懐かしい』お前なら、信じられる。それにこの国は、
お前に良く似合っている」
血まみれの畳を無造作に踏み、縁側へ出ながら続けた。
「俺は、お前の言うように大陸へ行く。あの異母弟なら、俺が死んだと周りに触れるであろう」
「タケル」
「お前にそう呼ばれるのも、何故か違和感が無い…懐かしいな。しかし、申し訳ない」
そして白い足袋のまま、無造作に土の上へ降り立つ。
「俺に代わって、この国を護ってくれないか。頼む」
「お前、お前という奴はな、そうやって前も」
那陀もまた、その後を慌てて追いかける。時輔の右肩へ手をかけようとして、その瞬間、息を呑んだ。
「…お前が!」
振り向いて、叫ぶ。
先ほど、那陀が気絶させた武士が起き上がり、腰の小さな刀を投げつけたのだ。
(同じだ…あの時と同じ)
「待て…頼む、待ってくれ」
それが時輔の背へ命中したと見るや、その武士は逃げていく。追いかけようとした那陀の裾を、
時輔の手がつかんだ。
「これでいい、これでいいのだ。どうかあの者をそのまま鎌倉へ行かせてやってくれ。これでいい」
「良いことがあるか! お前はなぜそうやって、いつも私独りに何もかもやらせようとする」
土の上へ倒れた時輔の手を、那陀もまた握りなおす。
「馬鹿な奴だ、お前は本当に馬鹿な奴だ」
「ああ、いや…馬鹿ではないさ」
そして時輔は目を閉じ、ふっと笑みを漏らした。
「この国を、頼む」
(相も変わらず馬鹿な口説き方…馬鹿な生き方)
そのまま動かなくなった時輔の身体をひょいと肩へ担ぎ、那陀は龍へと変化する。
(以前もそうだった。たったの数日間。たったの数日や一週間共にいただけで、お前はすぐにどこかへ行ってしまう。
血縁の者以外でやっとめぐり合えた、ただ独りの『友達』のはずなのに。分かっているのか)
彼を『安置』するために、河内の白鳥陵へ向かいながら那陀は笑って、
(先に逝くよりも覚えているほうが、ずっとずっと辛いのだぞ)
そして泣いた。
払暁とともに京の都に降り出した雨は、その日一日降り続いていた。

その日から半年後の夕暮れ、鎌倉『幕府』から晴明神社へ、正式に祈祷の依頼が来た。時輔の『死』を発表するとともに、
攻め入って来る異民族へ正式に戦いを挑むことを同時に発表したのである。
「真に慌しいことで」
己の前に平伏する武士たちへ、那陀は少しの皮肉を交えてそう告げた。
その使者は、当然ながら先日の使者と同じ人物ではない。その体からは明らかに東国の『匂い』がするし、
「時輔様の死により、状況はますます厳しいものになりました。なにとぞ貴方様にもお力添えを」
言って上げたその顔にも、どこかふてぶてしさが漂う。
「よろしいでしょう。それは亡き北条時輔殿の遺志でもある」
不快さを噛み殺しながら、那陀は答えた。
「お引き受けいたす」
「ありがたく存ずる」
那陀が当然承知するものと思っていたらしく、言葉だけは丁寧に、使者は胸を反らせてそれを受ける。
そしてそそくさと帰りかけて、
「時に宮司殿。時輔殿が訪れそうな場所はご存知か」
その武士は振り向いた。
「はて。何ゆえそのようなことをお尋ねある」
那陀はとぼけて言い、
「時輔殿はお亡くなりなのであろう。まさかにまだご存命でもあるまい。そのような場所を知って
どうなさるおつもりで」
口元を扇で覆うと、武士は少し慌てたように、
「いや、ご存じないならそれでよい。では失敬」
馬を駆り、去っていった。それを、供の者が慌てて追いかけていく。
「さて」
それを見送らずに、那陀は社殿へ入り、障子をぴしゃりと閉めた。左右へ寄ってくる梨花と
翠へ微笑いかけながら、
(あ奴は、お前達の手の届かぬところにおるよ)
時輔を抱えて白鳥陵へ入った途端、その遺体が雲散霧消してしまったことに驚いたのを
思い出す。
(お前はやはり、この国の神の子であったかもしれないな)
別れは辛いが、また会える。また会えるが、しかしそのことを相手が覚えていないのも、
(なにやら切ない。だが)
「梨花、翠。大宰府へ行こう」
「はい!」
二人が頷くのを見て、那陀は再び笑った。心得たように猫に戻った翠を抱き上げ、三度わが手に戻ってきた
草薙を持って、梨花と共に、雨の降り続く空へ舞い上がる。
(友からの頼まれごとは、果たさねばならぬ)
思いながら海を越え、山を越えていくと、やがて雲の隙間からはるか下に、船団の一群が見えてきた。
そこから陸のほうへ、丸いものが放り投げられては爆発する、ということが繰り返されていて、
それに対する陸のほうは、
(なんと、これは)
旧式な弓矢のみである。
爆発した陸地には武士達が倒れ、戦い方の勝手が違うとそれだけで悟るべきであるのになお、
馬に乗った名のありそうな武士が出てきてはその砲火を浴びる、ということを繰り返している。
その船団の上にはやはり、
(金色の、影)
那陀の父天帝の分身がいて、海上からこちらを睥睨している。陸のほうは、
(私の母、なのか…本当に)
銀色の狐がいて、しかしそれは特に武士達を護っている、という風でもないらしい。
「急がねば!」
どちらにせよ、このままでは船団によってあの武士達が壊滅させられるのも時間の問題である。
そして自分の目の前に現れた龍を見て、
「那陀よ、お前は」
金色の龍は怒りに大きく口を開け、
「父に逆らうか」
叫ぶと共に、凄まじい風を吹き付けてきた。


to be continued…


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