真訳・東夷伝 13




そして那陀と梨花が、そんな風にくすぐったそうな顔をしている『裏の感情』に、
どうやら時輔は気づいたらしい。これも同様にくすぐったそうな顔をして、
「いや、所詮は『神頼み』。都合の良いときにだけ頼る我々の願いを、神々が
いつもいつも聞き入れてくれるとは限らぬのは、こちらとて重々承知している…
さぞや厚かましい願いだと思われることでしょう」
くすりと笑ってそう告げた後、その表情をすっと引き締め、
「だが私は、異母弟のため、この国のために己が出来ることで何かをしたい。
海を渡ってやってくる草原の民、その中には高麗の兵士達も大勢含まれていると聞く。
由緒ある宋という国を倒した不逞の輩に、我が国までも侵させるわけにはいかぬのです」
と、熱っぽい調子で語る。一呼吸置いた後で、
「それに何より私は、この国を愛しています」
日の加減で茶色に見えるその瞳を細め、どこか寂しげな顔で彼は微笑した。
「異母弟君、というと」
「八代執権、北条時宗」
那陀の問いに、間髪入れず時輔は答える。
「…異母兄でありながら、貴方が代表者でないのはどういうわけか」
彼の心の傷に触れてしまうことを十分承知の上で那陀が尋ねると、時輔は少し目を閉じて顔を伏せ、
「私の母は、素性の卑しい、身分の低い者ですから」
再び那陀の顔を見つめて微笑った。
「…失礼した」
那陀もそれへ軽く頭を下げて詫びる。どうやらこの国でも、母親の身分が子の運命を左右するらしい。
(私と同じだ…)
己の母親が九尾狐であることを、那陀は異父妹の晶瑞によって知らされた。母親が何者であるかと
いう『真実』を知らされたことによる絶望、といった感情は不思議なほどに沸いてこなかったが、
(父は、何故私を偽った。恐らく異母兄上も)
真実を知っていたに違いない。しかし、その真実が知らされていた者は、梨花も彼の母について
知らされていなかったらしいところをみると、ごくごくわずかであったらしい。
(しかし、異母兄上は仕方ない)
父天帝の怒りを買えば、異母兄妹である那陀を庇うことすら難しくなる、と、判断した結果なのだろう。
「…父は」
思わず呟くと、時輔はそれを自分へ向かっての問いだと勘違いしたらしい。
「北条時頼、と申す。ご存知ではなかったか。五年ほど前に亡くなっております」
「なるほど」
生真面目に答える彼に、那陀も我に帰って頷いた。
「父もまた、この国の行く末を案じながら亡くなった。よって失礼ながら宮司殿」
そこで時輔は、ずい、と、膝を那陀のほうへ進め、
「このいくさの行く末、占ってはいただけませぬか」
「…よろしい」
真剣なその顔に、那陀も微笑でもって答える。半分とはいえ「神」である。占うなど造作も無い。
それに今は、何故だか妙に頭が冴えているし、身体も軽い。
(異母兄上が私に、何かしたらしい)
そのことは分かるのだが、具体的に二郎神君が己に何をしたのかまでは分からない。
己の心が異様に浮き立つのは、『倭建』に再び会えたせいばかりではないらしい。
いずれにしても、
(頭の中まで澄み切っているこの状況ならば)
那陀は思い、素足のままで庭先へ降りた。向かって左手に設けられている手水の側へ近づいて、
その目を閉じ、口の中で呪を唱える。
しばらくして目を開いて、
(これは…!)
水の中に映る光景に、那陀は思わず息を呑んだ。その傍らで、翠がちょろりと顔を突き出し、
「どうしたんですか、那…晴明様」
同じように水面を覗き込む。
「…父上だ」
誰に言うともなく、那陀は呟いた。
海の上に浮かぶ船団。これは草原の民のものだろう。人には見えないのだろうが、その上空には
それらを護るように金色の龍がいて、
(父上の、分身だ)
何故、父天帝がこの国へ攻め入ってこようとしているのかは分からない。だが、その龍は
明らかに草原の民に加護を与えていた。
それに対して、
(こちらは、晶瑞か? 否!)
この国を護るように、それらへ向かって紅い口を開いている大きな銀狐がいる。
「梨花!」
思わず那陀は、従妹の名を叫んでいた。北条の武士達の相手をしていた梨花が、その声に驚いて
あたふたと縁側を降り、こちらへ駆けて来る。
「異母兄上はどうしている? 連絡を取ってみてくれ」
梨花もまた、水の中の景色を見てすぐに異常を悟ったらしい。真面目な顔をして頷いて、
白く細い人差し指を同じ手水場の水面へ浸した。
「異母兄上!」
「顕兄!」
そこに映った景色を見て、二人は同時に息を呑む。そこには『気』の牢でまるで籠の中の
鳥のように押し込められている二郎神君がいて、その中で彼は悟りきったような表情で
座禅を組んでいた。
「伯父様…『こう』することを、顕兄が止めたからよ。だからだわ!」
「いや、私を助けたことが父上の機嫌を損ねたのかも」
二人は口々に言い合っているところへ、
「我が国は、滅びるのか。草原の民…元の支配下に入るのか」
時輔が声をかけてくる。たちまち二人は口をつぐんだ。
いずれにしても、釈然としない事態を、天界から遠く離れたこの場所で言い合っていても始まらない。
「…その可能性も無いではない、としか言えない」
「太子…!」
「そうか」
冷酷に告げた那陀の袖を、梨花が引く。時輔は諦めきったような、しかし覚悟を決めた顔をして、
「しかし、それでも俺達はやらねばならん。なぜなら俺達は、この国を護るために武士として
存在(い)るからだ」
「…お前は」
神の子と言っていた前世で弟だった彼が、現世で「兄」として、しかし同じように父に疎まれる
存在として生まれてきたのは、その業を解消するためだ。
(なんと悲しい…そして優しい)
だが、前世でもそうであったように、倭建の時輔は己の中の光を失っていない。
だから、
「では、私もお前を助けよう」
たまらず、那陀はそう言うのだ。己の身を定めるための宝玉探しなど、この際二の次である。
「私も、この国が好きだ。だから、どこまで私が出来るか分からないが、この国を護るために戦う
お前達を助けよう」
「宮司殿。感謝する」
那陀が言うと、時輔は感に堪えぬもののように那陀の両手を取り、ぐっと握り締めた。
そしてふと表情を和らげたかと思うと首をかしげ、
「今気付いたが、どこかで会ったか? いや、貴方のような美貌の持ち主、忘れるはずが無いのだが」
言って、武士らしく笑ったのである。
そして鎌倉武士達が幾分か安心したような顔で帰っていった後、
「太子、大丈夫なの?」
それを鳥居で見送る那陀の右袖を、早速梨花が引いた。
「あの金龍、伯父様でしょう? そして多分、あの銀の狐は太子の」
「…うん」
そこでハッとしたように言葉をとぎらせる従妹を、那陀は寂しい微笑で見て、
「私がこの国を護ろうとすることは、不孝だ。父上はきっと激怒されよう。異母兄上とて
勘気を蒙って、あのように謹慎させられているのだ。だが」
翠もまた、訳が分からぬながら、心配そうな顔で自分を見上げている。それに気付いて
那陀は翠の頭を軽く二つ叩いた。
「あの妖狐…己の敵を攻撃するために、自国の人間を使って他国を侵すのは、間違ったやり方だ。
誰もが安心して呼吸をし、存在てもいいと言ってくれているこの国が、どんなに優しいかを私は父上に
説く。それに、徹底して攻め滅ぼそうとすると、追い詰められた敵の力は時として百倍するものだ。それも
父上はお分かりだろうが、改めて。そして『母』には」
那陀はそこで少しだけ唇を歪め、
「誰もが存在ても良いと言ってくれているこの国で、どうかひっそりと暮らすように…父への
復讐を考えぬように言いたい。そのために私は、この戦いを止める。母が宝玉を持っているなら、
それもこの折に取り返す」
「そう上手くいけば良いのだけれど」
那陀の言葉を最もだと考えながら、梨花は頷いて、
(やはり太子は太子だ)
しかしそうも思わざるを得ない。確かにその「役目」は、神と邪鬼、光と闇の血を一身に受け継ぐ
那陀にしか出来ないのだろうが、
「…伯父様は、そんなに甘い御方ではないわ」
「そうだな。すまない。だが私は信じたいのだ」
那陀は言って、優しく笑う。己の身が違った風に変化したことで、一時期は心を閉ざしてしまったようだが、
「私はやはり、全ての生きているものを信じたい」
そんなところはやはり、幼い頃から変わらない。
「了解。分かりました。私も付き合うわ。伯父様に叱られるのには慣れっこだもの」
そこで梨花もようやく笑った。途端に嬉しそうな顔をして頷く那陀へ、
「でも、この国を護る理由はそれだけではないでしょ? 倭建とやらの生まれ変わりのためでしょ?
確かにシブくてかっこいいわよね、あのお兄さん」
そう付け加えることも忘れない。
「そんなわけではないのだが」
すると案の定、那陀はたちまち顔を赤くする。
「宝玉を手に入れたら、いっそのこと、雌(おんな)になっちゃえば?」
「それ以上言うと、承知しない」
「頬を赤くして言われても、説得力無いわよ?」
二人の側で翠がきょとんとしたまま、その会話に耳を傾けている。
「正直、分からないのだ」
梨花の言葉に、一瞬だけムッとした顔を作った那陀は、社殿へ戻りながらため息を着いた。
「お前にそう言われると、何故か胸が苦しくなる。タケルは人間で初めて、私が私のままでいてもいいと
言ってくれた奴だ。だから…いい奴だとは思う。初めてお前達血縁の者以外に抱いたこの感情が、
友情なのか、それともよく言われる恋情というものなのか、私にはまだ良く分からない。だって私は、
雄(おとこ)でも雌(おんな)でもないし、誰かにその側にいてもいいと言われたことも初めてだったから」
「うふふ、そうよね。でもそれは」
すると梨花は自分のことのように嬉しそうに笑って、
「太子が両の性を備えているから、っていうだけではないと思うわ」
「では、どういうことだ?」
「はい、それは自分で考える。『敵』はもう迫ってきているんでしょ? 助ける手段が決まったら、
時輔とやらに早く連絡を取らないとね」
くるくると動く大きな瞳で、いたずらっぽく那陀を見上げたのである。

その日の夕方に連絡を入れると、北条時輔は早速そのあくる朝の午前にやってきた。
「供の者は?」と問う那陀に、
「急いで馬を走らせてきたので、途中で脱落してしまったようだ」
真顔で答え、
「どうやって助けてくれる」
そんなことはどうでもいいのだと言わんばかりに、那陀に向かって膝を進める。
当初は使っていた丁寧な言葉遣いも、いつの間にか砕けたものに変わっているが、
もとより那陀とてそのようなことは気にしていない。
「草原の民が攻めてくるのは、何時だ」
「俺の予測では十月辺りだ」
「十月…秋か」
那陀は呟いて、左手を顎に当てた。
やがて顔を上げると、どうやら時輔は己の顔から視線を逸らさず、じっと見つめていたらしい。
彼の目と己の目が合って、思わず赤面しながら、
「台風を呼ぶ」
「台風か。しかし少々時期外れという気もしないではないが…呼べるのか」
「我々が作る」
「お前達が?」
「ああ、そうだ」
純朴そうな目を丸くする時輔へ、那陀は思わず微笑した。
「十月ならば、まだ風も強かろう。ならば大丈夫だ。これは猫又で、風を操る」
と、翠を見やると、翠も少し照れたように笑って頷く。
「操った風に、我等が水を呼ぶ。暴風雨になろう。それでもって草原の民を追い払えばよい」
「そうか。お前たちは…そうか」
やっと納得いったように、時輔も何度も大きく頷いた。
「梨花」
「はい」
そんな彼に微笑を返しながら、那陀が従妹の名を呼ぶ。心得た風に竜王公主は立ち上がり、
床の間の台座にある長剣を取った。
「…使え」
「これをか? 俺が使っても良いというのか」
那陀が梨花の手から受け取り、その前へ置いた草薙を見て、北条時輔は再び目を丸くした。
「構わない。剣は正統な持ち主が使ってこそ、その力を発揮する」
「持ち上げてくれるのは嬉しいが…しかし不思議に懐かしいな」
遠慮がちに言い言い、それでもこの剣の誘惑に負けたらしい。時輔はおずおずと手を伸ばし、
すらりと鞘を抜き払った。
「大事に使わせていただく。ありがたい」
しばらくその刀身に見入った後、彼は立ち上がり、那陀へ深々と頭を下げた。
そこへ、ようやく追いついたらしい供の者達がやってくる気配がする。
「ではまた。大宰府へ向かう折には連絡をする」
慌しく言い置いて、時輔は去っていった。
その後姿に、
「使ってよいのか、だと。そもそも、お前のものだろうが」
苦笑交じりに那陀は呟いたのである。

to be continued…


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