真訳・東夷伝 12




三 流れの末

「ともかく、その神社へ運びましょう。翠、とやら、手伝ってくれますか?」
「分かりました! 那陀様、しっかり!」
ぼんやりとした視界の中、いつもの顔と懐かしい顔が交錯する。
(…動かしてくれるな。辛い)
その一つが、異母兄のものであることに気付いて、そう告げたような気もする。
己の妹を名乗る銀狐に傷つけられた喉から、どんどん生気が奪われていく。しかもその傷跡が
熱を持っているらしく、
(…熱い)
己の鼓動に合わせて流れ出ていく気と共に、耐え難い鈍痛を那陀の肌へ運び続けた。
「血を止めなければなりませんね。梨花、翠、那陀を抑えていてください」
異母兄が言って、己へその端正な顔を近づける。喉にその唇が触れたかと思うと、
「か、はっ!」
それまでの痛みは激しさを増した。その傷跡から凄まじい力が流れ込んでくるのが分かり、
その勢いに耐え切れず、那陀の四肢は反射的に動く。異母兄が、喪われた己の気を補ってくれたのだと
いうことは分かったが、
「血は止めました。ですが熱が出てくるでしょう。私がついていますから、貴方たちはお休みなさい」
己を見つめる碧眼が、優しく微笑う。銀髪がそっと蠢いて、己の額へ冷たい手のひらが宛がわれる。
「…お休みなさい。お前には心の休息も必要です」
その心地よい冷たさに逆らうように、那陀は首を振った。
(休んでなど、いられない)
「お前が我らの至宝を求めるのは、何故ですか?」
那陀の額へそっと指先で触れ、幼い子を撫でるようにその指を動かしながら、異母兄、二郎神君は問う。
(分かりきっているではないか)
答えようとして、しかし那陀は戸惑い、目を閉じた。
己の性を固定するため…ただそれだけのためと、自分に言い聞かせて旅を続けてきた、しかし、
(父上)
異母兄にばかり向いていた、厳しいが慈愛のこもった眼差しが、自分にも欲しかった。
「…そんなものに振り回されるべきではない。お前はお前を生きれば良い…私はそう思っています」
いつか倭建も言った同じ言葉。しかしそれが異母兄の唇から飛び出すと、
(なぜ、こんなにも癪なのだ)
そんな意地っ張りな気持ちになってしまうのだろうか。
「眠りなさい。この『晴明』神社は、あの愛らしい二人が護ってくれます。お前が眠っている間くらいは、
あの二人にでも護れましょう」
(晴明神社…)
「何を勝手に名をつけている」
悪くは無い、と思いながら、熱に浮かされて異母兄に告げた声は、己でも驚くほどにか細い。
「眠りなさい」
二郎神君は言いながら、那陀の額へ指先で触れ続けた。
(水の流れに身を任せているような)
その指先から流れてくる気は、この上なく心地よい。抗おうとしても仕切れない睡魔に負けて、
ついに那陀は目を閉じた。
(この流れに身を任せていれば、いつかはどこかの岸辺に着くことが出来るのだろうか)
考えながら、うとうとと熱にまどろむうち、
「お前はお前のままでもいいかもな」
倭建が、どことなく寂しげに笑って言う。
「私は恐れられても構わない」
カヤが涙を流しながら悲痛な声を上げる。そして、
「太子! ここまで追い詰めたものを、情けは無用です! 溺れた犬は、徹底的に叩くべきです」
(太公望)
かつて殷という国で、人々を苦しめていた妲己すなわち九尾狐を追い詰めた時、
あの仙人が言った言葉。
しかしかの狐が己を見上げたその目が、
(何故懐かしかったのか)
今なら分かる。
(あれが私の母だったか。しかし何故母は私の父に敵対しようと)
天の乱れと地の乱れは同時に起きる。神の住む天を乱すのは容易なことではないが、脆弱な
人間の住む地上を乱すのは容易い…人間の望む物を与えてやれば、すぐに彼らは堕落する。
敵であると教えられてきた邪鬼の棟梁、九尾狐は、恐らくそうやって夫であり那陀の父でもある
天帝に対抗しようとしたのだろう。
止めを刺すのをためらっているうちに、九尾狐は一瞬だけ悲しそうな眼をして那陀を見、それから
銀色の毛に覆われた身を翻して消えた。
(何故、父は母と契った)
母のほうはともかく、何よりまがまがしい物を嫌い、軽蔑している父天帝が、九尾狐を心から愛していたとは
とても思えない。
(分からない…何もかも、分からなくなってしまった。私のやろうとしていることは、一体)
「那陀」
那陀が思いつめている気配を感じ取ったのだろう。二郎神君がゆったりとした声で、
「お休みなさい。今は何も考えず…」
言って、額に当てている指に軽く力を込めた。
(異母兄上…っ)
那陀の意識は、途端に深い深いまどろみの中へ吸い込まれていく。
「お前が早く『元気に』ならないと、梨花やこの猫又は、お前をずっと心配して泣き続けますよ?」
完全に意識が吸い込まれる刹那、うっすらと開けた那陀の瞳に映ったのは、泣くのを必死に堪えて
唇をへの字に噛み締め、頭の両側から猫の耳をひょっこりと出している翠の顔だった。

…それから、どのくらい眠ったろう。那陀がいつになく爽快な気分でふっと瞳を開けると、
「気がつきましたか?」
側には相変わらず、かすかな微笑を唇に留めた異母兄の姿があって、その指先は相変わらず
己の眉間を撫でている。
右の腕が重いのに気がついてそちらを見ると、
「翠?」
泣きながら眠ってしまった、といった風情の小さな猫又が、時折しゃくりあげながらすぐ側で
無邪気な寝息を立てていた。
「…今はいつだ?」
「武人によって鎌倉幕府、という組織が作られたようです。六波羅探題という奇妙な名の官位に
ついている者が、昨日お前を訪ねてきましたよ。我々と人間との時間の感覚が違うのには、
未だに慣れませんね」
「…そうか」
時期天帝へ向かって那陀が発した無遠慮な問いにも、二郎神君は決して怒らず、穏やかに答える。
那陀やその他、神族にしてみれば、人の一生はそれこそ一ヶ月くらいにしか当たらない。
付き合って猫又になった翠も、それは同様らしい。だからこそ、
「我々の感覚では七日程度なのですが…お前が眠っている間も、色んな人間がお前を頼って
やってきていました。それらの人間の他愛ない願い事は、翠や梨花が時々気まぐれに叶えてやっていた
ようです。二人はお前の神社を良く護っていましたよ」
「二人が」
「はい。そして夜にはお前の側にそうやってつきっきりで。ですから」
二人の会話にも気付かず、翠は腹を膨らませては引っ込ませ、他愛なく眠り続けている。
その様子を見て微笑を漏らしながら、
「礼をよくよく言ってやってください。お前から」
二郎神君は言って、翠の頭をそっと撫でた。
すると、
「那陀様っ!?」
猫又は途端に飛び起きて、那陀の顔を見る。目を覚ました那陀の顔に生気が蘇っているのを感じ取って、
「那陀様、那陀様!」
那陀へ抱きついて、その名を呼びながら、大きな声で泣きじゃくり始めた。
「もう私は必要はないでしょう」
その声を聞きつけて、行儀悪く荒い足音を立てながら、竜王公主も廊下から駆け込んでくる。
彼らの様子を見て安心したように微笑い、二郎神君は天を仰ぐ。
「ずいぶんと天界を留守にしてしまった。これ以上私がお前達を助けたら、父上が煩い。
逆にお前達のやろうとしていることを妨げる結果にもなるかもしれないので、
私はこれで…那陀」
「何だ」
これまでにないほど感謝しているというのに、やはり己の口から出てくるのはぶっきらぼうな言葉のみである。
それでも、全て分かっているといった風に異母兄が微笑うので、
(余計に癪なのだ)
ムッとしたまま己を見上げてくる那陀へ向かって、二郎神君は少しだけ首をかしげて再び微笑い、
「大事にして下さい」
一言残し、龍の姿に変わって部屋から飛び去っていった。
(大事にして下さい、か)
那陀に預けた短刀のことを言っているらしいことは、すぐに分かった。
(言われなくても)
翠が泣き笑いしながら、上半身を起こした那陀の寝床の周りで飛び跳ねて、早速梨花にたしなめられている。
この国の神を向かえるために作られた、床の間というらしい一段高い場所に台座がしつらえてあり、
その短刀と草薙が厳かに鎮座しているのを見て、
「翠、長い間ご苦労だった。ありがとう」
那陀は近寄ってきた翠の腕を引っ張って、より近くに引き寄せ、その頭を乱暴に撫でた。
「梨花も、ありがとう。それで? 昨日私を訪ねてきたとかいう武人の話はどういうものだ?」
はしゃぐ声を上げる翠を布団の上へわざと乱暴に転がしながら、那陀が梨花へ尋ねると、
「私たちの国は今、草原の民が支配しているんですって。その民がこの国に…日本へ攻め入ってこようと
しているから、祈祷を頼みたいって」
「…ふうん」
二人はどこかくすぐったそうな表情をしながら頷いた。
「その武人の名は?」
「北条時輔、ですって。鎌倉で執権という役目をしている弟の手助けをしたいんですって」
「まあ、一度は会ってみないと話にならないだろう」
「そうね」
そこで梨花は何を思ったか、片手を口に当ててクスクス笑う。
「どうした?」
「だって、太子の神社なのに、肝心の太子が眠ったままだったでしょ? その間は、
私と翠が変わりに人間達の願いを時々叶えてたわけなんだけど…妙な評判が立ってるのよね」
「どんな評判だ?」
那陀が続けて尋ねると、
「『この神社の宮司には滅多に会えないが、その分霊験はあらたかなのだ』ってね」
梨花はとうとう、声を上げて笑い始めた。那陀も堪えきれずに苦笑する。
「ね、でもその人、そろそろ来るよ? 昨日もこの時刻に来たもの」
那陀の膝の上へ甘えて乗ってくる翠の頭を撫でてやりながら、
「では、行くか」
那陀は言った。他の二人が嬉しそうに頷いて、たちまち忙しそうに那陀の服を用意し始める。
今まで横たわっていた寝床を翠が片付けて、
「阿部晴明様」
二人が用意した黒烏帽子に、薄い青色をした直垂をつけ、すっきりとした面持ちで正面を向いたところで、
障子の向こうから遠慮がちな声が聞こえてきた。
「あ、北条の人たちかな。僕、ちょっと見てくる」
同じような格好をした翠が立ち上がって、そっと障子を開け、ちょろりと出て行く。
二、三の会話が交わされる気配がした後で、
「那…晴明様がお会いになります。どうぞ」
もったいぶった翠の声が響き、障子が再びさらりと開いた。
「…お初にお目にかかる。北条八代執権の異母兄にして、六波羅探題南方の執務、北条時輔にござる」
廊下を隔てて境内の敷地に続く階段の下で、精悍な武士が二、三、膝をついているのが見えた。
その先頭にいる人物は、よく通った、張りのある声で挨拶した後、
「滅多にお目にはかかれぬと聞いておりました。お会いくださって真に光栄に存じます」
言いながら、俯いていた顔を上げる。
途端、
(タケル…!)
那陀はその顔を見て、息を呑んだ。髪型や服装こそ変わっているものの、その表情も仕草も声も、
全てがかつて出会った倭建のものである。
だが、相手のほうはどうやら那陀のことを覚えてはいないらしいのが、
「宮司殿? どうかなさいましたか」
こちらをきょとんと見つめてくる目で分かった。
「いや、何でも…御用の向きは、この者たちより伺っております」
よって驚愕と寂しさを押し殺して、那陀は告げた。
「聞けばこの国の危機とやら。一介の宮司である私に何が出来るとも思えませんが、
ともかく、今少し詳しく、お話だけでも伺おうと」
「はい、ぜひ。それだけでもよろしゅうござる」
「では、こちらへ」
頷いて掌を上にし、社殿へ上がるように彼らを促しながら、
(この薄情者め)
梨花がしつらえた席で向かい合って、那陀は泣きたいような懐かしさと嬉しさを堪えつつ、心の中で
北条時輔…倭建の生まれ変わり…を罵っていた。
「このたびは、この国開闢以来の国難。それゆえ、全国の寺社がこちらが頼まずとも祈祷を
始めております。ですが、手前の見るところ」
座布団へ腰を下ろすや否や、時輔は熱く語り始め、そこでほろりと苦く笑った。
「それらは全て、鎌倉幕府の『恩賞』目当て…そんな者どもの祈祷でこの国が救われるとは思えませぬ。
ゆえに手前、独断でこちらへまかりこした次第」
「なるほど」
しかつめらしく頷く那陀の隣で、梨花はくすぐったそうな顔をしたまま聞いている…。



to be continued…


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