真訳・東夷伝 11




その門は、『蛤御門』というらしい。この国には珍しい、瓦葺の屋根つきで、どっしりとした
構えの門である。
(…門番が、いない)
不審に思いながら、静謐すぎるその中へ足を踏み入れた途端、
「う…っ!?」
那陀は思わず呻いて、後ずさった。
地面が激しく脈打っている。それでいて、帝が病に苦しんでいるというのに、遠くのほうでは
のんびりと蹴鞠を楽しんでいるような風情の人間や、地面に落ちている何かをついばむ小鳥達がいて、
それらの動作がまるで静止画を見ているような奇妙さを覚える。
(何故、こんなに)
自分の内にある半分の『何か』が、その奇妙さに力を得ているような感覚をも得て、そのことを
確かに自分は喜んでいる。
「太子?」
「那陀様、どうしたんですか?」
そんな那陀を見て、他の二人は首をかしげている。
「…大丈夫だ」
我知らず、額に少しの汗さえかいていた。それを右手の甲で無造作にぬぐって、
「油断するな」
短くそう告げた。先ほどの違和感こそないものの、己のうちにある何かが、己でも制しきれぬかもしれない力を
蓄えつつあるのが分かる。
それゆえに、
(そうだ、油断するな)
先ほど二人へかけた言葉は、己自身へかけた言葉でもある。
(異母兄上、タケル。私に力をくれ…『これ』を制するだけの力を)
左の腰に携えている大小二つの刀へ、左手で軽く触れながら、那陀は急速に膨れ上がる己の妖力に戸惑っていた。
北に上賀茂、東に八坂、西に松尾、南に城南宮、といった四つの守護神社を置いて、その中央に
位置するのがこの『京御所』らしい。
(玄武、青龍、白虎、朱雀…四方将神になぞらえてその守護にあやかる、というのか)
であるなら、本来は聖なる気に満ちていなければならぬ。
所詮は那陀の国の猿真似ではあるが、言葉の力と作り上げられた空間の力というの侮れないのだ。
四方将神のうち、青龍族に属しているのが梨花である。
(彼女は、何とも感じていないのか)
そしてそれは、猫又になった翠も同じらしい。油断なく辺りを見回しながら、それでも
顔をしかめすらしないところを見ると、
(私だけ、か)
靴を履いたまま、磨き上げられた御所の廊下を無遠慮に歩いても、誰も咎めない。
時折、女官や、この国の帝の后の一人であろう女性が共を連れて廊下を歩いてくるのにすれ違いながら、
(…邪気だ)
御所の中央、つまり帝が病臥している部屋に近づくにつれて、冷静さを取り戻した那陀は、ようやく
先ほどの違和感の正体に気づいた。
これまでこの国で接してきたものとは、桁違いのそれである。そしてその邪気によって、
己の中の何かが力を得ているということは、
(一体どういうことだ。私の母は、邪鬼に関わりがあるというのか)
それ以外には考えられない。
(だとしたら、父天帝は何故)
そしてその部屋へ続く廊下には、何らかの結界が張られているらしい。くもの糸のように絡みつく、目には見えぬそれを
二郎神君譲りの短刀で、空を斬るように払いながら、那陀はほとんど機械的に足を動かしていた。
「…ようこそ。帝の間へ」
「晴亮」
そしてその部屋の前に着くと、扉が内側から左右へすらりと開いた。
畳、と呼ばれるものが敷き詰められた、広い部屋である。中央奥には簾がかけてある一段高い床があり、
「あれが、帝か?」
「そうです」
中には、大きな着物を敷き布団にして横たわっている一人の男がいる。不思議なことに、こういった場合、
そばに詰めているはずの医者や臣下の者の姿はまるきり見えない。
「…お前の役目は、彼についている化け物を祓うことではないのか」
「そうですよ。ほら、おいでなさった」
立ったまま那陀が問うと、阿部晴亮は那陀を見上げたまま、扇を口元に当てて少し微笑った。
その視線の先を追うと、別の扉が開いて、そこから現れた一人の美しい女官が帝の側へ近づいていこうとしているところで、
(…九尾狐の手下だ)
「玉藻前、というのです。十数年前、京の都の中にいる美少女の中から、特に選ばれて宮中に仕えるようになった。
今では帝のお気に入り…帝も、『彼女』が側にいなければ夜も明けぬ状態なのですよ」
愕然とした表情を作る那陀たちを面白そうに見ながら、晴亮は続ける。
「すぐに分かりました。同じ狐同士ですから。『彼女』も私に気付いて協力を求めてきた。ですが」
「…どうした」
「私は断った」
そこで晴亮は突然立ち上がる。同時に、帝が横たわっているところから、苦しげなうめき声がはっきりと
聞こえてきて、
「愚かなこの国の帝は、玉藻前こそが己の病の原因であることに気付かない。彼女の発散する邪気こそが、
接している人間を病に侵し、その周りの空間を徐々に歪めていくことに、己の栄華しか夢見ぬ周りの
人間も気付かない。だから私が母、葛の葉譲りの力をちょっと示しただけで、すぐに私を頼る…
なんと愚かな、愚かな」
晴亮はそれへ耳を傾けながら、何とも小気味良さそうに喉の奥で笑い声を上げる。
「私は狐の子。交わってはならぬ人と獣の垣根を越えて生み出されてしまった子。私が忌まれぬ
存在になるためには、全てを」
己を睨みつける那陀の目の前で、晴亮の姿は白い霧のようなものに包まれていく。
「…全てを…この国が、このような愚かな仕組みを創り上げる以前…自然に戻さねばならぬ」
「『そのためには、この国の朝廷中枢に食い込むことが必要だ』」
「その通り!」
那陀がその後を続けると、晴亮の姿は一匹の大きな狐に変わり、
「獣の子…畜生の子…幼い頃より私は血縁のものから忌まれ、蔑まれ…父を恨んだ。
ただ復讐だけを誓って生きていた私の前にある日、銀色に輝く大きな狐が現れた…私は大きな力を授かった…
それからはもう、誰が私を恐れる…敬う…必要とする…あの妖獣を倒して私がこの国の中心になれば、隠れてひっそりと
生きているはずの私の同胞もきっと、息を吹き返す…存在の意義を見出せる」
「晶瑞! いるのだろう!」
晴亮の言葉は、那陀の過去の傷を鋭くえぐった。晴亮が悪いわけでも、誰が悪いわけでもない。
ただ人間の男に恋した一匹の狐がいて、男はそれと知らず契った。二人の愛を晴亮という形にして
この世に送り出した…それだけのことなのに。
「晶瑞、答えろ! 玉藻前は、お前の仲間だろう! 何故この者や私に殺させようとするのだ!」
その思いを吹っ切るように、那陀は宙へ向かって叫ぶ。その叫びに応じるように、
帝の前にいた女官が立ち上がり、こちらを向きながら一声哭いて、正体を現した。
思わずそちらを見た三人の側で、
「…もういらないの。その手下は、用済みなんだって。時間がかかりすぎて、役に立たないって。
それに異父兄様も見つかったから」
そんな声も響く。
「わあ! 那陀様っ!」
「…太子っ!」
「…動かないでね?」
彼らの背後に現れた晶瑞は、那陀を後ろから抱き締め、その喉へ長く伸びた鋭い爪の先を宛がった。
「私は、本当は気が進まなかったの。異父兄様が思うようにさせてあげればいいのに、って。
だけど、お母様は寂しいんですって。どんな手段を使っても自分の側に連れてきて欲しいって、私、
頼まれたの。だから」
あでやかな単衣の袖を翻し、クスクス笑いながら、晶瑞は那陀の喉に宛がった爪先へぐっと力を入れる。
するとそこからは赤い血が一筋流れて、
「だから、一緒に来て欲しいの」
「…そんなことが出来るか!」
那陀が叫び、晶瑞の身体を払って飛びのいた。彼女の爪先で傷ついた喉が、じんと熱くなってくる。
血の止まらないその傷口を左手で押さえながら、
「…お前達は何を考えてる?」
両脇へ、梨花と翠が支えるように駆けつけるのを庇いつつ、那陀は再び尋ねた。
「用済みの手下を始末して、私たちの後押しをした葛の葉の子の晴亮が、この国の化け物たちを解放する。
その上で私たちのお母様がこの国へやってくる。それからは…秘密。だけど」
楽しげに笑いながら晶瑞は言い、
「それには異父兄様の協力が必要不可欠なんですって。協力してくれない場合は、その喉の傷もそのまま…
半竜の気がどんどん流れて行くし、今、異父兄様がもらってる邪気も受け取れなくなるわよ?」
「あ…!?」
その言葉が終わるや否や、那陀は畳へ膝を着いた。晶瑞の言葉どおり、自分の中から力がどんどん
流れ出ていくのが分かるし、強烈な眩暈も覚える。
「協力してくれる? 私たちの元へ戻ってきてよ、ね?」
言って、晶瑞もまた、大きな銀色の狐へと姿を変えた。言葉ではそう言いながら、大きく開いた口からは
凄まじい火炎を吐き出してくる。
それに呼応して、玉藻前だった手下や、狐に変化した晴亮もまた、同じように火を吹き付ける。
「翠!」
「うん、任せて、梨花様!」
蹲った那陀を庇うように他の二人が立ちふさがり、水と風を同時に呼んだ。
竜巻のような風は火を払い、その風に乗った水は火を圧倒する。
しかし、生まれたばかりの『猫又』の額には、それからほどなくして大粒の汗が浮かび始めた。
いかんせん、初めて使った妖力であるし、相手は三体である。少年の足は次第に押され、少しずつ後ずさりし始める。
「…翠」
その名を呼びながら、小さな肩に手をかけて、那陀はふらりと立ち上がった。
「梨花。その風と水、草薙に乗せろ」
「は、はいっ!」
「承知!」
力を振り絞って立ち上がり、那陀は草薙を抜いた。刀身を高く天へ掲げると、御所の屋根はたちまち破壊され、
そこから清冽な光が降り注ぐ。
「タケルの思い…晴亮、お前も神の子の名は知っていよう。この国は、お前が存在(い)てもいいと言ってくれている。
お前のことを分かってくれる人間も、必ずどこかにいるのだ」
怯んだ三匹の狐達へ、苦しげな呼吸を繰り返しながら那陀は言い、
「本当にお前を愛してくれている者は誰だ。その者の元へ戻ってやれ」
刀身の周りに風と水が渦を巻く草薙へ左手をも添え、己の顔の前で横へ持ち替えて、
「吶!」
叫んだ。
途端、凄まじい嵐が御所の中を駆け抜ける。
あまりの衝撃で、手下と晴亮の姿は瞬時にはじけ飛び、しかし、
「ああ、残念。とっても悲しいわ…お母様はきっと嘆かれる」
言葉とは裏腹に、楽しそうに言いながら、晶瑞は何のことも無いようにひらりとそれをかわす。
「異父兄様のお力、素晴らしい。私たちの側についてくれたら、きっと頼もしい味方になったはずなのに…」
「お前の言うように、手下は倒した…私の母とやらについて教えろ」
力を放った途端、畳につきたてた草薙にすがるように膝を着いた那陀が、苦しげに問う。
『異父妹』を必死に睨みつけるその目から、次第に力が失われていくのを、人型に戻った晶瑞は
小首を傾げて無邪気に見つめ、
「九尾狐よ。本当に知らなかったの? …じゃあまた、生きていらっしゃればお会いしましょうね、異父兄様」
再び狐に姿を変えて、何処へともなく飛び去って行ったのである。
物音一つしなくなった御所には、光が降り注ぎ続けていた。やがて清浄な雨が降り始め、
「…晴亮」
それは、彼らから少し離れたところに『落ちていた』子狐にも降り注ぐ。
よろよろとそちらへ行こうとする那陀を、梨花と翠が慌てて支えた。そこへたどり着き、那陀はその
小さな身体を震える両手でそっと抱き上げる。
「…お前の母は、和泉信太の森でお前のことをずっと待っているのだぞ。戻ってやってくれ」
那陀が子狐へ向かって言うと、
『那陀太子。感謝します』
「葛の葉か」
『はい』
信太の森で出会った女性が、光に包まれながら姿を現した。
那陀の手からその子狐…己の子をそっと受け取って、
『ようやく我が子を抱き締めることが出来ました…感謝します』
葛の葉が言うと、子狐は長い夢から醒めた様にひょいと起き上がり、辺りを見回す。
『これから私たちは、あの森へ戻ります。私たちを神と思ってくれている人間達の願いを
時々は叶えてやりながら、一緒に、ひっそり暮らして行こうと思います』
「うん…それがいい」
苦しげに那陀が微笑むと、女性もまた狐の姿に戻り、その狐へ子狐は甘えるように身体を摺り寄せた。
そして狐は、
『晴明様』
と、那陀のことをそう呼んだ。
『この国の迷いを晴らし、明るさを導く貴方に私から捧げる御名…お受け取りくださいますでしょうか。
そして願わくば、この子が護ったあの神社、貴方に』
「…うん」
那陀が頷くと、安心したように微笑って母と子の姿は消える。
同時に、
「太子!」
「那陀様!」
那陀の身体はぐらりと揺れて、そのまま畳の上へ突っ伏した。喉から流れ続ける血は、たちまち
御所の畳を赤く染め、
「顕兄、お願い。助けて!」
屋根から見える空を仰ぐ梨花の悲痛な叫びが、静まり返っている御所に響く。
すると再び、天空から清冽な光が降り注いで、三人の姿は柔らかなそれに包まれ、消えた。
途端、夢から醒めたように御所の中は騒がしくなる。天井に屋根が開いた帝の部屋へ、
慌しく駆けて来る人々の足音が聞こえ始める。


to be continued…


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