真訳・東夷伝 10




二 晶瑞と翠

「当神社に、何か御用ですか?」
ほっそりした男性は、穏やかな笑みを浮かべながら二人を等分に見た。
男性にしては肌が嫌に白い。容姿は整っているというのが適切なのだろうが、あまりにも
整いすぎていて反って作り物のような気さえする。そんな彼は手にしていた榊を何気なく振り、
「見慣れぬ『匂い』がしますね。旅の御方でしょうか」
続けた。
「…貴方が阿部一族の子か? この国の帝の病を診ている?」
梨花公主が先に何か言い掛けようとするのを制して、那陀が口を開いた。
すると男性は、
「いかにも」
薄い唇の両端を、少しだけ上へ向けて微笑う。
「これまでにも、宮中の悪い気や官女の病を治してきました。おかげで帝や大臣のお歴々からの
信任も厚く…ここに社領さえ頂けたというわけです。世話をしてくれる近所の方々のご厚意にも
感謝しておりますよ」
これが神社の宮司というものなのだろうか。それとも旅人には親切にせねばならぬという
モットーの人間なのだろうか。いやにはきはきと『自己紹介』をする男に、
「貴方は、阿部晴亮か」
「そうですよ」
無遠慮に那陀が尋ねた言葉にも、あくまで彼はにこやかに頷く。
「お察しのように、私が葛の葉の子です」
口を開きかけた那陀の先回りをして、阿部晴亮は答える。そして再び、
「それで…あなた方は、当神社に何の御用で?」
問うた。
白い直垂に黒烏帽子。白い肌に整った優しげな容姿…これは確かに陰陽師でなくとも宮中の女には
受けがいいかもしれない。しかし翠は相変わらずどこか警戒するような態度を解かないし、
那陀だけではなくて隣の梨花も、彼が発散するどことなく、
(邪気ではないが、ねっとりと絡みつくような)
そんな空気を感じているに違いない。両手で己の体を抱き締めて、時折猫のようにぶるりと肌を震わせている。
しかし他の二人のそんな様子をちらりと横目で見たきり、
「…貴方に協力したくて来た。私の力を役立てて欲しい」
那陀は言った。途端、晴亮は微笑をそのままに、眉だけをぴくりと上げる。
「太子…っ!」
己の袖を引く梨花の手をそっと止めて、
「貴方には及ばないかもしれないが、私にも少々の力はある。不審に思うなら、それを見てから」
晴亮に口を出す隙を与えず、那陀は草薙ではないほうの…己が最初から携えていたほうの短刀を
腰から抜きざま、
「吶!」
桜色の唇を開いて、鋭い気合を発した。そちらには大きな木が生い茂っており、右手に岩が置いてある。
その岩へ向かって、那陀は短刀を振り下ろしたのだ。
すると、
「よく分かりましたね」
小さな声を上げて、銀色に光る小さな狐が岩から出てきた。助けを求めるように晴亮へ駆け寄ったのを、
彼は愛しげに両手で抱き上げ、その背を撫でる。
「厳密には違いますが、私の眷属…と、言っておいたほうがいいでしょうかね。私に何か危害を加えようと
なさる方がこちらへお出でになった時、怖がらせて追い払うくらいはしてもらえますのでね」
「…」
(手下、ではないらしい。ただの子狐。しかし)
力を示した後、無表情な顔に戻る那陀へ、晴亮はあくまで愛想がいい。
しかし、
(葛の葉…ゆかりのものではあるまい)
あの森で感じたのとはまた違う少しのまがまがしさを、那陀はその狐にこそ感じていた。
同時に、
(しかし、何故懐かしい)
銀色の毛皮を持つその狐に、また奇妙に懐かしさを覚えて戸惑う。
「分かりました。帝の病を祓う為、貴方達にもお手伝い願いましょうか」
そして晴亮は、どこの馬の骨とも知らぬ那陀へ、あくまでにこやかにそう言ったのである。
「えー、と?」
彼が首を傾げるのへ、
「那陀、だ。こちらは梨花。そしてこの猫は…翠」
「ほう?」
那陀が答えると、晴亮は頷いて翠の目を覗き込み、
「…本日、早速ですが、帝のために祈祷を頼まれています。これからご一緒願えますか?」
怯える猫ににっこりと笑った後、再び那陀へ向かって慇懃に腰を折った。そしてそのまま
「準備を整えるまで待ってくれ」と言い置いて、神社の建物の中へ入っていこうとする。
その様子を見ながら、
「太子、どうして」
梨花は不服そうに、こっそり那陀に耳打ちをした。
「…御所という建物からしか、邪気は感じられない。しかもわずかだ。だから」
晴亮に抱かれた銀色の狐が、奇妙に親しげにこちらを見ている。それを同じように見つめ返しながら、
「少しでも手がかりのあるその場所に潜入するには、これしかあるまい」
那陀は言いながら、まだ怯えている子猫の喉へ軽く触れた。
「仕方ないわね。私も一緒に行ってあげる」
梨花も頬を膨らませながら頷く。
「でも、翠はどうするの?」
「その子猫は、ここにいればよろしい」
驚いたことに、ずいぶん先…鳥居の中央にある玄関へ行っていたはずで、まさかに彼らの会話が
聞こえていたはずもないのだが…にいた晴亮が、銀狐を抱いたまま、直垂の裾を優雅に翻して
振り向いた。
「…見たところ、その猫も数百年の時を経た猫…あながちここに相応しくないわけでもありますまい」
「お前は、一体」
問おうとする那陀はその刹那、晴亮が抱いている狐から黒い気が己へ向けて発散されたのに気付き、
「何故、我々の素性を問わぬ」
その狐の瞳を射抜くがごとく睨みつけながら、言葉を紡ぎだす。
「…今までも、何度となく貴方のような人が現れました。私に協力してくれる、とね。
ですが、その大半は私のつてを辿って立身出世したい、と願うものばかり…醜い人間ばかりでした。
そんな人間でも、何かの足しにはなる。だから、協力者は何者でも拒まぬのが私の方針…では
納得していただけぬようですね。貴方たちがここに来たということは、加持でも祈祷でもなく、まして私に
協力してくれるというわけでもない…私自身に用があったということであるならば」
晴亮がそれに答えて言い終わるやいなや、狐の発散していた黒い気が、ぐっと大きくなる。
「私はあなた方を敵とみなします」
「! 梨花、抜け!」
「承知ッ!」
那陀と梨花が、それぞれ携えていた刀を抜いた瞬間、神社の周りの木々がぐにゃりと歪み、
その銀色の狐は一人の少女に姿を変えた。
「だめよ、異父兄様。晴亮は殺させはしないわ。私たちの大事な眷属…それに、貴方に人間が敵うわけないもの」
そしてその少女は、那陀を見てクスクス笑いながら言う。
「『兄』だと? 私が、お前の?」
戸惑ってたたらを踏む那陀の様子がおかしかったのかどうかは分からないが、かの少女は首をかしげて
那陀をつくづく見、
「なあんだ…まだちゃんとどちらかになっていないのね。でもいい。敢えて異父兄様と呼ばせていただくわ。
私は晶瑞(しょうずい)。手下がちゃんとやれているかどうか、お母様の言いつけで見に来たの。
そうそう、お母様にはもう会った? 私たちのお母様」
「母…だと。私には母はいない。母は私を産むと同時に亡くなった、ただの人間の娘で」
「違うわ、違う違う。まるで違う!」
そこで晶瑞と名乗ったその少女は、大きな口を開けて哄笑を放った。この時代の国の一般女性が来ているような、
単衣、というのだろうか。しかし丈はその膝までしかなく、ちぐはぐな印象を受ける。
明るい茶色の、緩やかに巻いた髪は長く、腰まで垂れていて、いたずらっぽく輝く大きな目は少し両端が釣っている。
「お母様もおっしゃっていたけれど、手下を倒せたなら、本当のことを教えてあげる」
「本当のこと…」
「太子、しっかりして!」
呆然と呟く那陀の袖を梨花が引く。翠が毛を逆立てて唸る。
「騙されちゃ駄目! …あっ!」
言い掛けると、梨花の刀は火花を上げて彼女の手から弾けとんだ。
「心外ね。自分の身内を騙す者がどこにいるのよ」
晶瑞は相変わらず楽しそうに笑う。
「私たちはやっと、何者でも受け入れてくれるこの国を見つけた…まず、手下でどんな国なのかを
探らせようとした…そうよ、この国は優しすぎるほど優しいわ。甘い、とも言えるほどにね」
「お前達は、今度は何をしようとしてる?」
「あら、それは今、教えられることじゃないわ」
那陀は梨花を庇うようにその前へ立ち、油断なく草薙を構えている。その様子を見て、
「悲しいわ。異父兄様…妹に剣を向けるの?」
「…手下はどこにいる? ひょっとして、あの御所とやらか?」
言葉とは裏腹に、むしろ楽しそうに続ける晶瑞には答えず、那陀は尋ねた。
「そうよ。門は開放しておいてあげる。私たちは一足先に行くわ」
「待て!」
追いかけようとして、那陀は晴亮の手から放たれた紫色の雷を辛うじてかわした。
するとその雷は那陀のいた場所をすり抜け、那陀の肩から転がり落ちた翠に当たる。
「翠!」
「いけない!」
那陀と梨花は、雷に打たれて地面に転がった子猫の側へ駆け寄った。
「あらあら、可哀相。では、京御所で」
その言葉を残して、晶瑞と阿部晴亮の姿は消える。
「翠…」
雷に打たれたというのに、不思議なことに白い毛並みのまま、まるで眠っているかのような
子猫を抱いて、
「翠」
那陀はその名を繰り返し呼んだ。たまらず閉じた瞳から、透き通った涙が流れ落ちていく。
「…太子」
何ともいえない顔をして、梨花がそんな那陀を見守っている。那陀の涙は子猫の身体に後から後から落ちて、
白い毛の上に小さい滴の欠片を作る。
すると、
「…あ」
那陀の腰の草薙が鈴のような音を立てた。那陀の涙が零れ落ちた猫の白い毛が、ほの青く光り始める。
そして子猫の身体は那陀の手から離れて宙に浮かび、
「きゃあ」
「わっ!」
一瞬、まばゆい光を放った後、
「…那陀、様」
「翠…か?」
そこには、梨花よりも幼い一人の少年の姿があった。黒く短い縮れっ毛の下に、大きく輝く緑色の目を持つ
その少年は、
「そうです、僕、翠です! 那陀様大好き、ありがとう! これでやっと那陀様と話せるよ!」
那陀の身体へ抱きついて、その小さな身体をまさに猫のようにこすり付けて礼を言ったのである。
「どうやら僕は、この国の化け物のひとつ、『猫又』ということになるらしいです」
そして早速三人は御所へ向かった。御所へは南北に走っている大きな通りを二つ越えなければならない。
そちらへ急ぎながら、人間の形を取ることも出来るようになった翠が言うには、
「カヤ…(と、そこで一瞬口ごもった後)に、拾われる前に他の猫から聞いていたんだけれど、
この国では、猫は百年生きることが出来ると、猫又になれるって。だから、僕も那陀様と一緒に旅して
時を越えているうちに、猫又になっていたんだと思う。となると、もう立派な化け物だから、
さっきの雷にも平気だったんじゃないかな。僕が人間になることが出来るようになったのも、
さっきの雷と、那陀様の草薙のおかげかもしれないよ」
ということらしい。
「とにかく、お前が無事で良かった。服を何とかせねばな」
小さな性器を丸出しにして飛び跳ね、はしゃぐ翠に苦笑しながら、那陀は急ぐ足を止め、通りに目を彷徨わせた。
その通りにはずらりと店が並んでいて、それこそ漬物や果物、染物屋などがまさに「ごった煮」の
ような状態になっている。
「この国では、まだ『金』という概念は一般化していないらしい。だから」
そこで、那陀は梨花が持ってきていた袋を探り、
「誰かいるか」
と、己の瀟洒な服の一つを片手に、側の呉服屋の中へと声をかけた。物々交換を、というわけである。
「よく似合ってるじゃない。 大丈夫? 動きにくいとか、ない?」
そして、女性らしく、着る物にうるさい梨花が翠へ小さな男の子用の服を着せ掛けながら言うと、
「…大丈夫、だよ…です」
翠は、紅い頬をさらに少し赤くして答える。それを微笑ましく眺めて、翠の頭を軽く撫でてやりながら、
「さて、門は開けておく、と、晶瑞とやらは言っていたが」
那陀は、やがて到着した御所の門の一つを見上げて、呟くように言った。
そこは何やら別の空間のように、胡乱な空気を漂わせている。確かにこの中に長時間いたら、
どんな頑健な人間でもどこかおかしくなってしまうに違いない。
「…用心しながら行こう。翠、お前はお前の身をもう護れるな?」
「うん。僕、風くらいは操れるみたいだよ! ほら」
那陀が振り向くと、『猫又』は得意そうに小さな鼻を蠢かせた後、指をちろりと立てた。
すると、その指の中心から渦を巻いて風が吹き出す。
「…これは心強いな」
「そうね」
翠を間に挟んで、那陀と梨花は微笑む。その顔を次の瞬間には引き締めて、三人は門の中へと足を踏み入れた。


to be continued…


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