真訳・東夷伝 9




ずっと閉じられていた瞼に、滴がひとつ、ぽたりと落ちて、那陀はようやく目を覚ました。
(すっかり眠ってしまったな)
苦笑しながら側を見ると、翠も那陀が起きた気配で同時に目が覚めたらしく、四肢を伸ばして
愛らしく欠伸など漏らしている。
「…私を起こしたくせに、自分はまだ眠っているのか。いい加減起きろ」
倭建の眠るはずの石棺へ向かって苦笑交じりに語りかけ、慣れた様子で左肩に乗ってくる
翠と共に、那陀は外へ出た。
途端、春の匂いのする風が吹いてくる。驚いたことに墳墓の前には轍のついた大きな道がついていて、
行きかう人々の服もかなり変わっている。
頭の中はいやにすっきりしているが、
(時代を再び飛び越えたのか)
那陀はそう思って再び苦笑した。
この土地の富裕層の者たちだろうか。さほど華美ではないが、そこそこに凝った牛車がゆったりと
向こうへ行き過ぎていくのが見えた。
ふと墳墓の屋根を見ると、その木はそこかしこに朽ちたところさえあった。那陀の考えを
確かに裏付けている。
そこへ、
「恋しくば 訪ね来てみよ 和泉なる」
風に乗って、そんな歌が聞こえてくる。そちらのほうへ何の気なしに目をやると、草むしりをしている
一人の女の姿があった。
「信太の森の 恨み葛の葉」
(恨み葛の葉、か)
その女は歌い終えて、ふと顔を上げる。那陀を見て驚いたような顔をして、
「どちらから来られました。ついさっきまでは、確かにそこに誰もおらんじゃったに」
そんなことを言う。
那陀は答えに戸惑った。
見れば、美人ではないが人の良さそうな少女である。
「…西、から」
彼女の発する優しげな雰囲気に、ついそう答えると、
「まあ、西? 西というと信太の森しかないんじゃが…その先は海やし」
彼女は余計に驚いて、
「アンタはんも、もしやお狐さんじゃろか?」
那陀がぎくりとするようなことを続けて言った。
「お狐さん…私『も』?」
「そうや。葛の葉様と言うてなァ。さっきの歌は、葛の葉様が読みはった歌や」
呆然とその名を呟く那陀へ、その女はあっけらかんと答える。
「この辺りを治める阿部一族の長老様の、奥様やった御方や。神様の血ぃが混じっとるさかい、
そのお子が明日の天気やら農作物の出来やら、よう占うてくれて、今は京の都にまで有名や」
「…そうか」
そして女はどうやらかなりのおしゃべりらしい。初対面の、しかも胡乱な旅人である那陀にも
自慢げに話した後、
「森にそのお狐さんをお祭りした社があるさかい、見てきなはれ。長者はんのお屋敷の側や」
「…ありがとう」
那陀が軽く頭を下げると、彼女はつくづくその顔を見て、
「アンタはん、ほんま、べっぴんさんやなあ。どこぞのお公家さんのご落胤かなんかか?
お姫さん? 太郎さん?」
「…どっちでも」
無遠慮に問う女へ、苦笑しながら曖昧に手を振って、那陀は遠くに見える森へ歩き出した。
(そうだ。どっちでも…私はどっちでもない)
少しだけ俯き加減になりながら、
(しかし、この国の人間はよほど寛容らしい)
その点では、倭建がかつて言った言葉が当たっていると思っていた。
那陀の国…中華なら、少しでも妖しげなものはすぐに邪鬼と認識されてしまうのに、
この国では、神秘的な力を持つものとして崇められさえするのだ。
しかし長老の子とやらが迫害されなかったのも、実際に役に立っているからであろう。
もしもそれで人々を支配するような、陰の力を持っていたら、たちまちこの土地を追われていたに違いない。
(あるいは、カヤのように)
懼れられながら、疎まれる、そんな存在になっていたかもしれない。
こんもりと茂った、可愛らしいとさえ表現できる森の側には、なるほど、水田に囲まれた大きな屋敷がある。
近づくに連れて行きかう人々も多くなり、それらの人々は薄汚れた那陀の格好をじろじろ見ながら行き過ぎた。
(恨み葛の葉…)
女が言ったことが本当なら、人間に恋した狐の、どうしようもない感情が恨みという言葉に込められているのだろう。
ひょっとすると本当に、ただ単純にこの森に住む狐と人間との恋物語かもしれない。
倭建の導きによって己はここへやってきたはずなのに、森に入っても邪気すら感じられず、
(葛の葉…狐、か)
逆に懐かしささえ覚える自分に、那陀はまた戸惑っていた。
森の奥へ続く道の向こうに、小さな社があるのが見える。そちらへ歩いていくと、
「翠?」
左肩にいる子猫が、毛を逆立てて唸り始める。前方へ視線を戻して、那陀もまた思わず立ち止まった。
『…誰、ですか? 貴方ですか? 私の姿が見えるのなら、貴方たち以外にないはずなのに』
社の前に、ほんわりとした光が現れる。その光はたちまち一人の女に姿を変え、
『…違う。ずっと待っているのに、どうしてあの人もあの子も来てくれないのか…』
両目から、ほろほろと涙の滴を零す。
「お前が『葛の葉』か?」
その姿からは、邪気の一片も感じられない。毛を逆立てる翠を片手でなだめながら那陀が問うと、
『貴方は? …ああ、貴方は』
光に包まれたその女性は、ゆらりと那陀へ近づいて、
『なんとお懐かしい。あの方と同じ気を持つ方にお会いできたのは、何百年振りか…では、
貴方が那陀太子?』
片手をゆったりと那陀の頬へ伸ばす。
「…お前は私を識っているのか。どうして」
混乱しながら尋ねる那陀にはしかし答えず、
『私はこの森の狐…ただの雌の狐だった。かつて私に優しくしてくれた人間に恋した狐。その思いを
あの方は叶えてくださった…そして私は人の子を産んだ』
歌うように女性は…葛の葉は続けた。
『あのお方は、その子をきっと幸せにするとおっしゃった。京の都に聞こえるように、
京で出世して、高い地位とやらをもらえるようにするとおっしゃって…私の夫も
それに頷いた…私もそれで二人が幸せになるのなら、あの人の家が栄えるのならと…
狐の母が側にいては具合が悪かろうと、この森に留まった。あの子は京へ行った。けれど』
そこで葛の葉は、再び静かに涙を零す。
『寂しい。寂しい。私は寂しい。あの人と私とあの子と…この森で親子三人、ひっそりと
暮らしたかっただけなのに…』
そこで突然、
「太子! やっと見つけたわ!」
森の木々の合間を縫って、清冽な光が天から降り注ぐ。同時に青い光を放っていた葛の葉の姿は消え、
天を仰いだ那陀の目に映ったのは一匹の若い龍である。
「…梨花公主」
「そうよ、私よ、太子!」
そしてその龍は神々しい光を放ちながら、一人の美しい少女へと姿を変えた。
「水臭いわよ。従兄妹同士で、幼馴染じゃないの、ねっ」
梨花が言いながら己の服の袖を引くのに、那陀は思わず微苦笑を漏らしていた。
「ごめんなさい。太子を見つけるのに、何百年も手間取るなんて思わなかったの。
今、この野蛮な国は平安時代と呼ばれている時代に入っているらしいわ」
「そうか」
そして梨花はカンの鋭い彼女らしく、那陀の知りたいことにてきぱきと答える。答えながら、
抱えていた大きな荷物を解いて、
「はい、これ。着替えて! 天宮の太子の部屋から持ってきたの。この時代にもなるだけ通用しそうなのをね。
そんな薄汚れた服をいつまでも着ていたら、せっかくの美貌が台無しだわ。ほら、早く」
「ありがとう」
衣服を一揃い差し出して、くるりと背中を向ける。那陀の背中から地面に降り立った翠が、
足元へ近づいてくるのに気付いてそれを抱き上げ、背中を撫でながら、
「可愛い」
梨花はクスクス笑った。翠もまた、気持ち良さそうに喉を鳴らしている音が聞こえてくる。
(変わらない)
自分の身体が変わってしまっても、彼女の己に対する態度は変わらない。そのことに、これまでも
どれだけ救われてきただろう。
そして彼女はきっと、自分がどんなにはねつけても、ついてきてくれるに違いない。梨花の姿を見るたび、
羨ましくて心が痛むのは変わらないが、
「助けに来たの。一緒に探しましょう。一人よりも二人。足手まといにしかならないかもしれないけど、
太子が一人で探すより、きっと少しでも早く見つかるわ」
那陀が着替えた頃合を見計らって再び振り向き、大きな瞳でこちらを見つめる彼女の言葉は、
何よりも己の心の中に響いた。
「…ありがとう」
(誰の力も借りずに、一人だけで)
父天帝から言われた時、誰にも憐れまれたくなくてそう思っていた己の心が、少しだけ解けたような気がする。
「何か手がかり、あった?」
「そうだな」
梨花が大きく頷いて尋ねるのへ、那陀もまた、森の外へ歩き出しながら話し始めた。
「…だから我々は、京の都とやらへ行かねばならないようだ。どうやらこの時代では、そこがこの国の中心らしい」
「へえ」
先ほどの葛の葉との話も簡単に交えて告げると、竜王公主もまた納得したように頷きながら耳を傾けている。
「でも、なんだって九尾狐の手下は、そんな回りくどいことをするのかしら? それに太子、
タケルとやらがどうして何百年も貴方を眠らせてまで、手下の成長を許したの?」
「一番目は私にも分からないが…多分、タケルにも見つからなかったんだろう。私を『起こした』のは、
やっと見つかったからだ」
そこでカヤのことも少し話すと、何ごともすっきりさせたい性格の彼女らしく、梨花はようやく納得行った
ような顔をしながら、
「話させてしまってごめんなさい」
素直に済まなさそうな顔をして、謝罪の言葉を述べた。
「謝らないでくれ。謝らなくてもいい」
那陀は柔らかく笑いながら、昔よくやっていたように彼女の頭を二つ、軽く叩く。すると公主も安心したように笑った。
人にとっては何百年も前のことかもしれないが、那陀にとってはつい先日のことである。しかし、
「タケルは言っていた。誰かが覚えている限り、人はその誰かの心の中で生き続けることが出来るのだと。
だからこの国へ来てから私と出会った人間は皆、生きているのだ。そしていつか、姿かたちは変わってもまた、
人としてこの国のどこかに生まれてくる。私も今ではそう思っている。この国は、とても優しい国なのだ」
「そう…ふぅん、そうなのね」
話し合いながら、足は自然に北へ向く。梨花は相変わらず那陀の語るところへ熱心に耳を傾けて、
「でもそれって、とても素敵なことだわ。ねえ、そう思わない、太子?」
大きな瞳をきらきら輝かせ、自分よりも少しだけ背の高い那陀の顔を覗きこむ。
「ああ、私もそう思う」
かすかに微笑いながら、那陀も素直に頷くと、梨花はそこでいたずらっぽい表情をして、
「太子、とっても変わったわ。ううん、昔の太子に戻ったみたい。ヤマトタケルとやらのおかげかしら?」
からかうように言って、笑った。
「…あの森に住む狐は、私のことを識っていた」
思わず赤くした頬を見られぬよう、ついついそっぽを向きながら、那陀は話題を変える。
「私と同じ気を持つものがいるらしい。それが誰なのか…そもそも一体どういうことなのか、皆目分からないが」
「ええ」
梨花も、表情を改めて頷いた。
「京の都で…そこへ行けば、全てが分かるような予感がする」
「急ぎましょう」
いつしか日は暮れ、通りを歩く人の姿もまばらになっていた。そして二人は地面を蹴る。たちまち二人の姿は
見えなくなり、夕暮れの空に二匹の龍が北を目指して飛んでいった。

二人が降り立った京の都には、彼らにはっきり分かるほど、黒い気が立ちこめていた。
いつもなら「花は要らんかえ」などと言う花売りでさえ、今は呼ばわる声を潜めているという。
二人を旅の行商人だと思ったとある民家の人間は、時の帝が思い病にかかっているのだと
顔をしかめて告げた。
「和泉の国から来やはった、阿倍晴亮と仰る陰陽師が一生懸命、悪さする神さんを退治してくれようと
してはるのやがな」
いっかな改善の兆しが見えないのだ、という。
「…葛の葉の子か」
「でしょうね」
この町は、碁盤の目のように道路が整備されていて、東と西にそれぞれ一つずつ川が流れている。
その中央に御所と呼ばれる建物があり、帝とやらはそこに住んでいるらしい。
「でも、そこからじゃない。そこにもかすかな邪気は感じられるけれど」
那陀が目を閉じ、片手をかざしながら言うと、
「じゃあ、どこから?」
「正直、分からない」
梨花の問いに、那陀は苦笑した。自分の妖力が衰えたとは思えない。それだけ手下が
力をつけているということなのだろう。
「タケルでさえ分からないほど、この黒い気を隠すのが巧みな相手だ。容易くは見つからないと
思っていたほうがいい」
「そうね」
二人が語り合いながら渡る橋には、「一条戻り橋」という名がついている。その先には小さな神社があって、
「翠、どうした」
那陀の肩に乗っている子猫が、再び毛を逆立てた。
独特な形に木を組み合わせた、鳥居と呼ばれているらしい朱塗りの柱の向こうに、いやにほっそりした
男性の姿がある。
烏帽子に白い直垂、そして榊の枝を一本片手に持つ彼は、
「おや。こちらの神社に何か御用ですか」
那陀と梨花の姿を認めて、優雅に微笑んだ。


to be continued…


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