真訳・東夷伝 8




水の章

一 竜王公主

その少女は、瞬きもせず水面を見ていた。
つい先日、那陀が飛び込んだ水脈である。天宮は相変わらず優しい光に満たされていて、
「梨花」
背後から突然かかった声に、贅沢な衣装で包まれた華奢な背中はびくりと震え、
健康そうな紅い頬はその声の主からそっぽを向く。
「那陀を心配してくれているのですか」
「…」
ゆっくりと近づいてくる『婚約者』には答えず、彼女は再び水面へと視線を戻した。
「・・・ありがとう」
婚約者が…二郎神君がその傍らへ同じように腰を下ろし、礼を言うのへ、梨花と呼ばれた
その少女は驚いたように大きな瞳を彼へ向けた。彼がそんな自分を見て微笑んでいるのを見て、
紅い頬をさらに紅くしてぷっと膨らませ、下を向いてしまう。
しばらくの間、もじもじと自分の足の爪先の床へ指で見えぬ字を書いていた梨花は、
「顕兄」
決心したように顔を上げ、婚約者を呼ぶ。
「はい、どうしました?」
「どうして皆、太子を助けてあげようともしないの」
己の名を呼ぶ年下の婚約者へ、優しく返事をした二郎神君は、その言葉を聞いて少しだけ苦しそうに
顔をゆがめた。
そんな彼に、
「天帝の伯父様のご機嫌を損ねるのが怖いから? 私のお父様も、伯父様の実の妹の癖して私のお母様も、
みんなみんな怖がってる。だけどきっと心の中では、みんなみんな、伯父様が太子にしている仕打ちは
あんまりだって思ってるはずよ」
『次期天帝の花嫁になるための修業』という名目で、一年前から天宮に引き取られている勇ましい竜王公主は、
物怖じせず一気にまくしたてる。
何せ、皆が恐れる二人…二郎神君とも那陀太子とも、まさに物心付く前から兄妹のように育ってきたのだ。
天帝に一番近い血を持つ親戚でもあるから、というので、天帝家と竜王家の行き来も昔から頻繁だった。よって
公主の言葉には何の遠慮も気取りもないし、二郎神君もそんな彼女の言葉をむしろ嬉しがっている風でもある。
彼女も二郎神君を婚約者としてではなく、兄に近い者としての認識しかしていないらしい。
「いくらご自身の血を半分しか受け継いでいないからって…伯父様がご自身で選ばれた結果じゃないの。
ご自身で神族以外の娘と契っておいて、そのお子がご自身の意に沿わないから気に入らないって、あんまりだわ」
「妹々(メイメイ)」
「那陀太子は、皆が思っているような怖い神じゃない。本当は誰よりも優しいわ。なのに、どうして」
そして彼女の言葉は、いつも真心から発している。二郎神君以外に那陀のことを良く知っている神人で
あるだけに、真実味さえ帯びていた。
「…貴女の言葉、那陀が聞いたらきっと喜びます。貴女のお気持ち、良く分かります。ですが、妹々」
『竜王』の血を引くものらしく、天宮にいても豪胆な性格は変わらない。いつどこで天帝の耳に入るか
分からないのだから、いくら息子の婚約者で姪に当たるといっても、天帝は容赦はしないだろう。
「少し口を慎んでください、ね?」
その意味を込めて二郎神君が諭すように言うと、公主は再びぷっと頬を膨らませて彼から顔を背け、
水脈を見つめた。
その水面には、雲の合間を飛んでいる一匹の龍が映し出されていて、
「太子」
その龍を見つめ、公主はぽつりと呟いた。
彼女もずっと、那陀を『雄(おとこ)』だと思い込んでいた。しかし共に育つに連れて、
那陀の睫が美しく伸び、那陀の胸が小さくはあるが形よく膨らんでくるのを感じて、
大いに戸惑ったものだ。
「…那陀太子」
梨花は那陀の名を呟くことはあっても、同情の言葉を口にしない。他の神族のように、
那陀を可哀相だとかお気の毒だとか言ったことは一度も無い。そんな言葉を那陀へかけることは、
那陀に対する侮辱であると思っているからだ。
二郎神君ほど表立ってではなかったが、彼女が泣いている時にそっと花を届けてくれたり、
落ち込んだときには、何も言わずにただ黙って側にいてくれたり…そんな風な優しさを持っていたはずの那陀が、
梨花のことを妙に避ける様になってしまったのは、いつ頃からのことだろうか。
(今なら分かる)
…二郎神君や自分を見るたび、那陀が顔に浮かべていた苦しげな表情の意味。急に那陀が冷たくなってしまったと、
一時はそのことを恨んだものだけれど、今なら分かる。
那陀は、当たり前に男であり女である他の者達が羨ましくて、そんな風に思ってしまう自分を恥じたのだ。
梨花や二郎神君の側にいると、嫉妬が高じて己の醜い感情を嫌でも自覚する。だから二人を避ける。
そんな自分が嫌だから、「手にしたものの願いを何でもかなえる宝玉を取り戻せ」という伯父天帝の言葉を信じて、
(太子は、あんな辛い思いに耐えて旅を続けているのだ)
そう思うと、胸が掻き毟られるような思いがする。
女性であることを当たり前として育ってきた自分には、きっと那陀の気持ちは到底分からない。
だが、
「…私、行くわ」
梨花は立ち上がってそう言った。
「妹々?」
怪訝そうに自分を見上げつつ、同じように立ち上がる婚約者へ、
「行くわ。太子を助けるために」
彼女はきっぱりと宣言した。
「止めても無駄ですからね。私は伯父様なんて怖くない。一人より二人。私が助ければ、きっと宝玉だって
もっと早く見つかるはずだもの」
「妹々」
言いながら、彼女はもう天宮の自分の部屋へさっさと歩き出している。旅立ちの支度をするためなのだろう。
「もっと早くそうすれば良かった。そうしていたら、人間なんかに助けてもらわなくたって、太子は
もっと上手く旅を続けることが出来たわ」
その言葉に呆れたように苦笑して、二郎神君はその隣に並んで歩き、
「しかし、那陀のほうが、貴女を受け入れるかどうか分からないでしょう?」
言うと、公主は喉の奥で何かが詰まったような声を立て、立ち止まる。しかし、
「…それでも行くわ。私は、顕兄と同じくらい太子が好きだもの」
大きな瞳をまっすぐに婚約者へ向け、少女は言い放った。
梨花には保身だのなんだのといった計算は何もない。ただ那陀が好きだから、那陀を助けたくて行くのだ。
「だけど、今の顕兄は嫌い。伯父様を怖がって、兄妹を助けに行こうともしない貴方は嫌いだわ」
「それは困りましたね」
心底困ったように、しかし優しく二郎神君が答えると、梨花は顔をまた赤く染めて目を反らす。
(変に格好いいんだもん…)
懼れられながらも、天宮の女たちから熱い視線を集める次期天帝である。
彼が梨花へ向ける感情も、幼い頃から彼女を呼んできた「妹々」という言葉に表れているように、
実の妹に対するそれと似たようなものかもしれないが、
(あまり優しくされると調子が狂っちゃうのよね)
二郎神君自身に、怒りの感情がもともと備わっていないのではないかと思うほど、誰に対しても
彼は優しい。那陀太子もそれに居心地の悪さを感じていた風だったが、
「…困るなら勝手に困れば?」
梨花も同様な感情を抱いてしまって、つい、強くそう言ってしまう。それでも二郎神君は怒らず、
ニコニコしながら、
「妹々」
言って、彼よりも一回り以上背の低い彼女の頭を二つ、軽く叩いた。
「あの水脈を開けておきます。父上へは私から謝っておきますから、早く準備を済ませてしまいなさい」
「あ…は、はい!」
天宮に割り当てられている自分の部屋の扉を、乱暴に閉めかけていた竜王公主は、その言葉に
限り無い感謝の意味を込めた瞳を向けて頷く。
「ありがとう、顕兄!」
「感謝しているのは私のほうですよ」
「え…」
「ほら、早く」
再度促されて梨花は頷き、地上へ降りる準備を始めた。
(お父様、ごめんなさい。那陀太子にも使えるはずだから)
天宮へ送られる際、現竜王から送られた家宝である水晶の勾玉を懐へ入れ、愛用の片刃刀を取り出す。
彼女専用の軽い鎧に身を包み、
(さて)
扉の外で侍女たちが騒いでいるらしいのを聞きながら、両手を打ち合わせて再び扉を開いた。
「…息災で」
「はい」
侍女たちが、二郎神君へ説明を求めているらしい。自分の姿を認めてたちまち騒ぎ出す彼らを
神君が止めている。
「何かあれば、すぐに私に助けを求めなさい」
「顕兄、ありがとうございます!」
それを尻目に、公主は人垣の合間を縫ってするりと抜け出し、水脈へ向かって駆け出した。

そして白い雲の合間を縫い、那陀はその墳墓の前に降り立った。
「翠(すい)?」
人形を取り、懐の猫へ声をかけると、子猫はそこからひょっこりと顔を出し、軽い音を立てて
地面へ降り立つ。
「お前は、大事ないか」
墳墓の入口らしいところには、ちょっとした屋根が建てられている。そちらへ向かって歩き出しながら、
那陀が続けると、猫も振り向いて小さく鳴いた。
(良いところだ)
ここはどうやら、丘陵地帯らしい。山脈に近いせいだろうか、那陀の左後方には急な坂があって、
そのてっぺんにはのんきそうに歩いている二、三の人影が見える。
屋根の下には立て札がある。
近づいてそれへ触れ、
「…白鳥陵」
書いてある文字を読んで、那陀は少しだけ口元をほころばせた。
その後には続けて「大和し 麗し」と書いてある。とすると、ここはやはり倭建の墓らしい。
(それはそれとして、だ)
白鳥がここへ自分を導いた、ということは、ここに邪鬼がいるに違いない。
そう思って目を閉じ、気を凝らそうとして宙へ手をかざすと、那陀の身体は不意に光に包まれた。
(…ここは!)
その光はすぐに消えた。慌てて見回した四方は石の壁で、その中央にはぽつりと石棺が置いてあるだけである。
(タケル、お前か?)
そこが墳墓の中であることはすぐに分かった。
翠もまた、同様に運ばれてきたらしい。軽い足音を立てながらその石棺へ近づいて、ひょいと飛び乗る。
「よせ」
思わず微笑を漏らしながら、那陀は翠を呼んだ。左肩に遠慮なく飛び乗ってくる猫を撫でながら、もう片方の手で
石棺へ触れると、
(…あ)
途端に眠気が襲ってきた。
『だったらお前、雌(おんな)になれ』
『私の女(つま)になれ。うん、それがいい』
同時に、かつて倭建が那陀へ向かって告げた言葉が、直に那陀の心の中へ響いてくる。
『だが、俺はお前なら、別に今のままでも構わん』
「タケル」
膝が、石畳にヘタヘタと崩れ落ちた。石棺の上へ力なく上半身がもたれかかる。眠るまいと思っても、
絶え間なく襲ってくる眠気と戦いながら、那陀は呟くように、
「…お前はただ、寂しかっただけだろう。だから私なくとも、誰でも良かったのではないのか?」
苦笑すると、次第に瞼も閉じてくる。
「だが、感謝する」
完全に瞼を閉じる瞬間、那陀が間近で見たのは、白い光に包まれている一羽の白鳥だった。

…それらの様子を水面から見ていた二郎神君は、謎の笑みを浮かべて水脈を去った。
「…いますか?」
自室へ戻りながら自分の周りに結界を張り、天井へ向かって声をかける。途端に何かが動く気配が
感じられて、彼は再び唇の両端を吊り上げる。
「よろしい。あちらにとっても大事な跡継ぎの一人でしょうからね。喪うわけには行かないはずです。
それを逆手に取ればいい」
二郎神君が言うと、蠢いていたものの気配は消え、同時に彼は張っていた結界を解いた。
今の会話は、誰にも聞かれてはならない…悟られてはならない。
(那陀。早く帰っておいでなさい。お前なら出来るはずです)
クスクス笑いながら、神君は透明な柱が幾本も突っ立っている廊下を歩く。
(いつまでも、待っていますよ)
あくまでも優雅な立ち居振る舞いの彼へ、天宮の女どもが向ける視線は今日も憧れのそれである。


to be continued…


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