真訳・東夷伝 7




(結界を)
那陀が咄嗟に腰の草薙を抜こうとすると、
「つっ!」
その手をかすめた何物かがある。
「翠!」
その猫は、那陀の手を掠めた後、軽やかに一回転して地面に降り立った。
「…翠…?」
怪訝そうなカヤの声がした刹那、今にも那陀に突き刺さろうとしていた光の破片は一斉に砕け散った。
緑色の瞳をした猫は、那陀をかばうようにその前で健気に四肢を踏ん張り、カヤに向かって
鋭い一声を放つ。
「翠」
両手に持った鏡を胸の前に構えながら、カヤはぽつりと呟いた。ゆらりと一歩、前に踏み出して、
「お前も…私が幸せになろうとするのを邪魔するの?」
続けると、猫は怯えて後ずさりながらも、それに答えるように再び鳴いた。
「…お前が歩もうとしているのは」
そんな「二人」を見ながら、那陀もカヤへ語りかける。
「お前が幸せになる道ではない…お前も実は分かっているのではないのか?」
「…うるさい!」
カヤが叫んで那陀を見る。同時に赤く光る瞳からどす黒い気がこちらへ向かって放たれて、
咄嗟に那陀は翠を抱え、横へ飛びのいていた。
「うるさい、うるさいうるさい!」
カヤの悲痛な叫びと共に、その黒い気は重さと鋭さを増して那陀の逃れるほう、逃れるほうへ
襲い掛かってくる。
「この鏡をくれた神様のおかげで、この島にもやっと私の居場所が出来たのに…
このまま生贄を捧げ続けていれば、私はきっと普通の身体になれる…なのに、
どうして貴方も翠も、私の邪魔をするんだ!」
「…誰がそのようなことをお前に告げた」
左手に小さな猫を抱え、抜いた草薙を構えた右手で飛んできた瘴気を払いながら、那陀の問う声は
あくまで静かである。
「その神とやらか?」
「そうよ! 分かってるじゃないの!」
するとカヤは勝ち誇ったように笑う。鏡から再び無数の光の破片が浮き立って、
「この神様が私とある限り、村の人たちも私を受け入れてくれる…受け入れざるを得ない。
この三年、私を化け物と蔑んできた人たちが、私を恐れて私の言うことを何でも聞く。
なんて…なんていいザマ、いい気味なの!」
赤い口を大きく開けて、カヤは哄笑を放った。途端、その破片は音もなく光り輝きながら
那陀へ向かってきて、
「吶!」
那陀は叫び、自分の前でくるりと草薙を一回転させた。
光の破片が那陀と翠に突き刺さる寸前、銀色に光る透明な盾が現れ、辛うじてそれをふさぐ。
「…とてもいい気分だわ。とてもとても」
那陀の額には、次第に汗が噴き出してくる。それと対照的にカヤは涼しげに、恍惚とした表情を
浮かべながら歌うように言い、
「私は幸せ。そう、私は幸せ…なんて幸せなの」
クスクス笑う。その身体に巻きついているものにようやく気付いて、
「あ…!」
那陀は息を呑んだ。
かつて倭建とともに滅ぼした火山弾。それとともに三つに分かれて飛び去った九尾狐の手下と
同じ姿が、そこにある。
(二つ目の、分身)
狐の姿をした半透明なそれは、カヤの腰に尾を巻きつけ、背中から胸の間へ突き抜けて
首へその前足をかけていた。
(一体化してしまっている)
手下自身は、人間に化けるほどの妖力を未だにつけていないということなのだろう。
だが、人間に憑り付くことくらいは出来る。
「お前は騙されているのだ」
「騙されてる?」
光の破片と、それを防ぐ銀色の盾とのせめぎあいが続く中、
「ああ、お前は騙されている。お前の側にいる神には、お前を普通の身体にすることなど」
那陀は言い掛けて、そこでぐっと喉を詰まらせた。
神の一族である自分も、どれほどそれを望んでいるだろう。ましてや、自分ひとりの力で
どうすることも出来ない人間なら、どれほどそのことで苦しんだろう。
「…出来はしない。その者には、そんな力は無い」
絞り出すような声で、那陀は辛うじてそう続ける。
一瞬、ひるんだように黙ったカヤを見ながら、
「お前だとて分かっているのだろう。本当にお前は、島の人間達に恐れられたいのか?
恐れられ、その実内心では蔑まれ、憎まれてさえいる。それでもお前は幸せなのか」
那陀は続けた。翠がそれに応じるように、再び鳴く。
「お前には、翠がいるではないか…獣は、心根の真に優しい人間にしか懐かない。
この島の人間の中にも、お前の変わらぬ優しさを信じ、再びお前が心を開くのを
待っている者がいる。お前はそんな者さえも、お前を蔑む者たちと同等に扱うのか」
「…言うな!」
那陀の言葉を遮って、苦しげにカヤが叫ぶ。途端に、破片がこちらへ向かってこようとする力が
さらに増し、那陀の額からはついに汗が一筋流れ落ちた。
「言うな、言うな言うな! 言うなあぁぁ!」
カヤは狂ったように叫び続ける。鏡からはまばゆい光が四方八方に散らばって、那陀の目をくらませ、
辺り構わず真空の刃を振り下ろし続ける。
「そんなことで、傷つけられてきた私の心が癒されるものか!」
辛うじて銀の盾に護られている那陀の周りには、その刃も及ばない。しかし、辺りに生えている木や
村人達の家の屋根は無残にえぐられ、中からは悲鳴が聞こえてくる。
「憎むなら憎め! 私はそれ以上にお前達を蔑んでやる!」
「やめろ、カヤ!」
怯えてすくんでいる翠を懐へ入れ、那陀もまた悲痛な叫び声を上げた。
(なんて…こんなにも『分かってしまう』のだ)
草薙を使えば、カヤとそれに憑依している手下を滅するのは簡単である。だが、
(意味がない)
同じ身体を持つ者同士、那陀にはカヤの気持ちが涙ぐみたいほどに分かるし、何より
「お前には理解者もいる…一人ではないのだ!」
カヤには、カヤを待っている人間もいる。それを思うと、むやみに手出しは出来ない。
かといって、手下と一体化してしまっているカヤを救う手立てがあるかといえば、
(思いつかない…!)
赤い瞳から血のような色の涙を流しつつ笑い、刃を放ち続けるカヤの身体に、あそこまで
しっかりと食い込んでしまっていては、切り離すことも出来ない。
草薙で手下だけを滅しようにも、その衝撃はカヤの身体にも伝わる。脆弱な人間の身体など、
神の剣が放つ鮮烈な気を受けたなら、一瞬にして粉々になってしまうだろう。
(ともかく、今はこの島を刃から護る結界を)
那陀がそのことを草薙に願いかけた時、
「カヤ! だめよ!」
「キハノ!」
近くの岩陰から、髪の毛を振り乱して現れた者がいた。
「お前は何故…家にいろと言ったろう!」
那陀が忌々しげに叫び、慌てて彼女の側へ駆けよると、キハノは首を振って、
「カヤ! 分かる? 私よ!」
必死の思いを込め、変わり果てた幼馴染へ話しかける。
「…キハノ?」
カヤがそれを認めて、少しだけ首を傾げた。刃の攻撃がふっと緩み、光の破片も消える。
「そうよ、私よ…カヤ」
キハノは言いながら、両手をおずおずとカヤへ差し伸べ、そちらへ向かって歩き始める。
「私も、私のお父さんもお母さんも、ずっとずっと、貴方のこと、心配してた。
助けてもらったのに、貴方が辛い目に遭っていた時には何も出来なくて…
だから私、ここに来たの」
キハノが近づくにつれ、カヤを覆っていた邪気が薄れていく。
「ずっとずっと貴方に謝りたかった。だから、何度も会いに行った…会ってくれなくて、
許してくれなくて当たり前だけど」
震える声で言いながら、キハノは涙を零した。差し伸べた両手でカヤの身体をぐっと抱き締める。
「お願い。元のカヤに戻って。謝るか、ら…」
しかし、その言葉は途中で途切れた。キハノの背中からは光の破片が突き出ていて、
「…偽善者め」
カヤは、それまでに那陀が聞いた事のない、低い低い声で言い放つ。キハノを貫いた光の破片は
同時に無造作に彼女の体から引き抜かれ、キハノはどさりと砂浜へ倒れる。
「…邪魔をする奴は皆、殺す」
(…喰われたか!)
その声は、もはやカヤの声ではなかった。カヤはついに心まで、神を称していた九尾狐の手下に喰われて
しまったのだろう。
「邪魔する奴は、皆、殺す。殺して私の力にする。お前も」
言ううちに、カヤの身体はどんどん崩れていく。代わりにその中から真っ黒な狐が現れて、
それは満月の光り輝く夜空へ向かって、一声鋭く哭いた。
(すまぬな、キハノ)
砂浜に倒れて動かなくなったキハノをちらりと見て、那陀は草薙の刀身を顔の前へまっすぐ立てた。
(カヤは…『私なりに救う』しかなくなった)
刀身へ口付け、懐に入れた猫の身体を服の上から優しく叩いて、砂浜を蹴る。
(タケル、力を貸してくれ。私に勇気を)
…同じ身体、同じ痛みを分かり合えるはずの人間を『救う』ための勇気を草薙に願い、
「…お前を『救って』やる」
向かってくる那陀へ、妖獣は口を開け、凄まじい火炎を吐き出してくる。それを草薙で両断しながら、
「…救ってやる。今度生まれ変わった時こそ」
人を愛し愛せる身体に、と、『カヤ』ヘ向けて言いつつ、那陀は剣を黒い狐へ振り下ろした。
それは凄まじい声をあげ、真っ二つに割れる。辺り一面へ暴風を巻き起こしながら、やがて
塵になって消えていく。
妖獣の放った火炎の余波で、そこかしこの木が燃え始めた。慌てて家から出て騒ぎ始める村人を尻目に、
那陀は倒れているキハノへ駆け寄り、その体を抱き起こす。
「…キハノ」
瞼の閉じられたその顔を見ながら、那陀が呟くと、
「…カヤ?」
彼女はうっすらと瞳を開き、
「…ごめん、なさい…」
一言そう告げて、こときれたのである。
どんどん冷たくなっていく身体を砂浜へ横たえ、ふと気がつくと、その傍らには、
(鏡…)
真っ二つに割れた鏡が転がっている。
その鏡を、那陀はそっとキハノの胸の中央へ載せ、彼女の手で覆わせた。
(今度こそ、カヤの話を聞いてやってくれ)
締め付けられるように痛む胸を右手で鷲づかみにしながら、那陀は火事に騒ぐ村へ背を向けた。
「…翠」
最初にカヤと出会った村はずれまで来て、那陀はようやく、懐に小さな猫を抱いたままのに気がつき、
「お前は、どうする?」
呼びかけに応じて懐から顔を出した猫の瞳を見ながら話しかける。
すると子猫は甘えるように鳴いて、那陀の左肩へひょいと飛び乗った。
「…そうか」
思わず微笑んで、那陀は猫の顎を少しくすぐる。翠は喉を鳴らすことでそれに答える。
(…まだ、あと一つ)
「しっかりつかまっておれよ」
その猫を再び懐に入れ、那陀は砂浜を蹴った。
満月の夜空を、龍が西へ飛ぶ。その龍が一声哭くと、空はたちまち黒雲に覆われて、やがて
大粒の雨が降り始める。恐らくはこれで、あの島の火事も大過なくおさまるに違いない。
(…遠いな)
小さな島国を西へ向かって飛びながら、邪気の気配を那陀は探る。
しかしどんなに気を凝らしてもその気配は感じられず、
(もっと西へ)
やがて龍は大きな湖へ出た。そこには白鳥の一群がいて、
(…タケル?)
そのうちの一羽が、空を飛ぶ龍をまるで人間のように見上げたと思うと、さらに西南のほうへ飛び立っていく。
(まさか)
ひょっとすると、那陀の求めているものは、
(タケルの、故郷)
そこにあるのかもしれない。
白鳥に導かれるまま飛んでいた龍は、やがてなだらかな山を過ぎ、小さな川の流れる集落を
はるか下に見た。
そこでふっと白鳥の姿は消え、
(…なんと)
そこにはまるで鍵穴のような形をした、奇妙な墳墓があったのである。


地の章、了 水の章へ続く。


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