真訳・東夷伝 6



(…月が)
そして、夜である。
小さな島の山へ分け入りながら、那陀は空を見上げた。
晴れ上がった夜空にこうこうと満月が光っている。
木々の間から見える砂浜へ目をやると、井形に組まれた板には大きな炎が燃やされ、
その前には諦めきったように放心している娘と、それに駆け寄ろうとしては村人に止められている
昼間の三人の姿があって、
(儀式とやらはもう始まっているらしい)
苦笑しながら、那陀はそれから目をそらした。己の国でも、無知な者たちが似たようなことを
行うのを散々見てきた。所詮は人間のすることである。
(それにしても)
那陀は、顔に飛び跳ねた泥をぬぐって舌打ちをした。太陽が昇ってから、この島をずっと
巡っているというのに、邪気の気配は欠片ほども感じられない。
(カヤ、か。キハノとやらは信じていると言っていたが)
唯一その気配を発していたものといえば、やはり「彼女」以外に考えられず、那陀は再び砂浜を振り返った。

…数刻前の昼間のことである。
「…ずっと私の後をつけてきているようだが、私に何か用か?」
己の足元にまとわりつくようについてきている翠以外に、生きているものの気配を感じていた那陀は、
不意に後ろを振り向いてそう言った。
木の間に隠れようとしていたその人影が立ちすくむと同時に、そちらへ素早く移動して
腕を…意外なほど細い…つかむと、
「…ご、ごめんなさいっ!」
「お前は?」
カヤと同年代の娘である。大きな瞳に怯えの色を一杯に現して、震えながら那陀を見上げる
その少女は、
「あの、私、キハノと言います。カヤの幼馴染の一人で」
「お前がキハノか」
短衣の袖から覗いた腕を捕らえたまま、那陀はつくづくと彼女を眺めた。
恐らく解けば長いのだろう。黒くつやつやした髪を頭のてっぺんで団子のように結い上げて、
頬は健康そうな桜色に輝いている。
(…これは、梨花(リーファ)に似ている)
活発そうにくるくると動く大きな瞳と、きっとおしゃべりなのだろうと思わせる口元が、
己の『従妹』である竜王公主に大変良く似ている。そう思って那陀は思わず口元をほころばせ、
「すまなかった。痛くはないか」
そっとその腕を離した。するとキハノは首を振り、
「いえ、こちらこそ失礼しました。えっと…旅人さんは、カヤのところに泊まっておられるんですよね?」
頭を下げた後、はきはきと言葉を続ける。
「ああ、そうだ」
屈託の無い言葉に微笑ましく思いながら那陀が頷くと、
「カヤが、どうしてあんな風になってしまったのか、分かりませんか? いえ、あの…分かりませんよね、
ごめんなさい!」
言って翻す身の腕を、那陀は再び捕らえた。
「あんな風に『なった』?」
「…はい」
キハノは少し暗い顔をし、「聞いてもらえるのでしょうか?」と言いながら、那陀に側の岩を指した。
頷きながら那陀が言われるままに腰を下ろすと、その近くの岩にキハノも腰を下ろし、
「…本来なら、カヤのことは村の者全員でなんとかしなきゃならないことで、旅の方に
こんなことを言うのは筋違いなのですけれど」
ハキハキした口調から一転、言葉を選ぶようにぽつりぽつりと話し始める。
「村の人は皆…私の父と母以外は、あの子のことを化け物だと思っています。お恥ずかしながら」
「うん」
「…ご存知でしたか」
キハノはそこで苦笑して、翠を抱き上げた。
「幼い頃は…男も女も皆、素裸で海へ潜って遊んでいた頃は、そうじゃなかった。
ですから私は…カヤのことを『男』だと思っていました」
「そう、か」
その言葉は、カヤに抱いた違和感の原因を全て告げると同時に、那陀の心を鋭くえぐった。
「私たち女の胸が膨らみ、男の喉仏が尖って…はっきりと『それ』が分かるようになっても、
カヤだけは違った。私たちといつの間にか話すことも…距離を置くようになって、一緒に海に
入ることを嫌がるようになって。それが何故なのか、私たち幼馴染は解せないまま…だけど
この島で漁に行かないことは死を意味しますし、カヤにも年老いた両親がいたから、どうやって
生計を立てるつもりなのだと、ある日私たちは…今日の『生贄』のミカルと、イリギと、私と、
そして今日『死んだ』ケサジは、嫌がるあの子を無理に浜へ連れ出して、海に入れと言いながら
無理に着物を脱がせて…」
「…ああ」
「信じられませんでした」
そこで顔を覆ってしまったキハノを見ながら、那陀は己の胸を片手でぐっと掴んでいた。
「カヤの胸は…小さいけれど膨らんでいて。私たちはただ驚いて、あの子を見つめていたんです。
多分私たち、その時は本当に化け物を見るような目をしていたに違いありません」
震える声でキハノは言い、大きな瞳を潤ませる。
「カヤは悲鳴を上げて私たちの手をすごい力で振り解いて…着物の前を慌てて合わせて
逃げていきました。あの子の名前を呼んだら、泣きながらすごい目をして振り向いて…
それからです。カヤが化け物なんて呼ばれるようになったのは。悪気は無かったんでしょうけれど、
ケサジが彼の両親に言ってしまったから。小さな島ですからカヤの体のことを知らない人が
いなくなってしまって…あの時どうして『他の人には言わないでおいてあげよう』って、私、
言ってあげなかったのか…カヤの両親が亡くなったのはその後すぐでした。それから私が
何度訪ねていっても、カヤは会ってくれません。きっとカヤ、ミカルもイリギも私も、
ケサジと同じように自分の身体のことをを言い触らした人間だって…私たちが言わなければ、
いつもカヤの体のことを苦にしていたカヤの両親も死ななかったのにって思ってるはずだから」
(…苦手だ)
言い終えてしゃくりあげるキハノから目をそらし、空を仰ぎながら那陀は苦笑した。
(だから、人間には深く関わるのはやめたほうがいいと言ったろう)
人を深く知れば知るほど、情が移って敵わなくなる。自分で自分を叱咤しながら、
「それで?」
キハノを促す己自身へ、那陀は諦めの吐息をつく。
「は、はい。ごめんなさい」
慌ててキハノは涙を拭い、再び語り始めた。
「それから…カヤは村の人たちの目に耐えられなくなって、一人であんなところに住むようになったんです。
人との付き合いを一切しなくなって、夜にたった一人で漁に出る…そんなあの子が変わってしまったのは、
燃える火の玉がこの島に落ちてきてからです」
「燃える火の玉?」
「はい」
「それはいつのことだ?」
「半年前です」
「半年前…」
那陀は呆然と呟いた。燃える火の玉というのは、あの火山弾のことに違いなく、半年前という時期も
一致している。
(やはり、カヤか。ならば、一体岩はどこに?)
「それから、カヤは打って変わって人の前に出てくるようになったんです。私でもびっくりするくらいに
綺麗になって、『女』になって…」
しかし、那陀は思考をそこで中断した。キハノの話がいよいよ核心に迫ってきていることを
感じ取ったからだ。
「カヤはそれから、漁の具合や人の寿命なんかをぴたりぴたりと当てるようになったんです。
私が尋ねると『私には神様がついているんだ』って笑って…。カヤが祈ると漁は必ず大漁で、だけど
カヤのことを罵った人たちは必ず死んで…ケサジが死んだのも、ミカルのことでカヤを責めたから。
だから今はもう、カヤは村の人には無くてはならない存在になってしまっているんです。
村の人たちはカヤを化け物だなんて思っているくせに、なのにカヤを懼れて、それでいて必要としてる。
カヤ自身もそれでいいんだって思ってるみたい…だけど、上手く言えないけど、それは私、おかしいと思うんです」
「…よく分かるよ」
己の膝の上へ戻ってきた翠を撫でながら那陀が頷くと、キハノも大きく頷いて、
「だから、余計に私、カヤと話したかった…私の口から直接、心配してるんだって言いたい。だけどカヤのほうは
多分、私なんてもう…」
と、肩を震わせる。
「幼い頃は良かった。男女の別なく、遊んでいられたあの頃…カヤは一番魚を獲るのが上手くて、
私の両親が流行り病にかかって漁に出られなくなったときも、カヤだけが一杯魚を持ってきてくれて…なのに私は」
肝心なときに何も出来なかった、と、キハノは震える声で言って、膝の上へぽとりと大粒の涙を零した。
「村の人もカヤには当たらず触らずです。私の両親も、本当はカヤに感謝していていつも心配してたんです。
だけど、カヤを表立って助けることは出来なかった…カヤを助けたことが分かったら、自分たちも
化け物にされてしまうから…村八分にされてしまうから」
本当に、他に話せる人間がいなかったのだろう。自分の『罪』を苦しげに告白するキハノの顔はいつしか
蒼白になっていて、
「ですから、旅の方。もしもお願いできるなら、カヤを助けて…これ以上、村の人をあの子に殺させないで。
カヤはきっと騙されてるんです。生贄を要求する神様なんて、私にはどうしてもいい神様とは思えないから。
無理かもしれないけど、もしも元のカヤに戻ってくれるなら、その時こそ私は」
そこでぐっと音を立てて喉を詰まらせる。その様子を見つめながら、
「これは神剣、草薙だ。とある人から借りて、私が持っている。…災いをもたらす魔物を斬る力がある。
持ち主の意志に反応して優しくなる…持ち主の願いが誤った方向を辿った時、それを正す力も持っている」
己の腰の剣を那陀は叩いて言った。
「貴方は、一体」
「…今宵は満月だとカヤは言った」
泣きはらした目を丸くしながらキハノが問うのへ、しかし那陀は答えず続ける。
「満月は、魔物の力を増幅させる。だから、出来れば私も夜になるまでに本体を見つけ出したい。
何よりもまず、元を断たねば」
「やはり、カヤは悪い神様に騙されているんですか?」
「ああ、そうだ」
すがるような目を向けてくるキハノへ、那陀は確信を持って頷いた。
(騙されている、というのには少々語弊はあるが、な)
半年前に飛んできたという火山弾が、確かにこの島にはある。カヤのいうところの『神』は、恐らく那陀が
タケルと共に追っていた九尾狐の手下で、
(人を騙す。狡知に長けた妖獣)
どういった経緯でかは知らないが、それを最初に発見したのがカヤなのだろう。そして手下は
カヤと何らかの取引をしたのに違いない…人ではない、と、人に疎まれる両性具有の『人間』と。
「私はこれからもその神を探す。元を断つことが出来たら、お前に知らせよう」
「お願いします! 私、私はカヤのところに行って、何とかあの子と話してみます!」
那陀が立ち上がると、キハノもまた飛び上がるように立ち上がって、那陀へ頭を下げる。
そのまま坂道を下っていく、華奢な背中をしばらく見送って、
(化け物、か)
再び那陀は歩き出した。我が胸を利き手で押さえながら、いつしか音がするほどに歯を食いしばり、
木々の下草を乱暴に踏みしだく。
自分のような『半端者』の願いは決まっている。「他の者と同じ身体になる」ことだ。
同じ人間としてちゃんと愛されたい、愛したい。己の血に連なる子を愛した人と育みたい。
しかし雄でも雌でもない、そんな生き物は、それすら叶わない。
カヤが己の体の異変に気付いて数年、どんな思いで「彼女」は一人、暮らしてきたのだろう。
(私だけではないのだ。人間にもそんな者がたまさかに現れるとは)
ひょっとするとそれも、両性具有の己という者が存在(い)るせいなのかもしれない。神の世界にも
いるのだから、人間の世界にも現れておかしくはない。
(だが、それへ付けこむなど…卑怯な)
そこで再び歯を噛み鳴らした那陀は、怯えた目をして、それでも自分についてくる翠に気付き、
苦笑して翠を抱き上げた。
「すまない。私はそんな酷い顔をしていたか?」
問うと、猫は安心したような甘えた声で鳴き、那陀の左肩へひょいと飛び乗る。
「落ちぬように気をつけるのだぞ…お前の主は、私が助けてやる」
翠へ語りかけ、那陀はそれが真実からの言葉になっていることに気付いた。
カヤを助けること、つまりカヤに憑りついた九尾狐の手下を滅すること。
(お前にはキハノという理解者(友)もいるではないか)
身を清めるのだと、白い着物に身体を包み、家の裏を流れる滝に今も打たれているだろうカヤを
思い浮かべながら、那陀は心の中で語りかけた。同時に、
『お前なら、俺は今のままでいいと思うぞ』
倭建がかつて自分に言った言葉も思い出されて、胸の鼓動が何故か早くなる。
(そうだ、理解者はきっといる。今のままで良いと言ってくれる人間は必ずどこかにいる。だから)
カヤのためにも、『神』すなわち今はすっかり冷えているだろう火山弾を探して、早く始末しなければならないのだが、
(…月が)
無情にも、いつの間にか日は落ちた。焦る那陀とは裏腹に、満月は憎らしいほど冴え冴えとした光を
晴れ上がった夜の空へ放ち、砂浜からはカヤが唱える何やら胡乱な呪文がいよいよ高らかに聞こえてくる。
元よりさほど期待はしていなかったが、
(やはりキハノは、カヤと話は出来なかったらしい)
大きな炎の前で、短い髪の毛を振り乱しながらカヤが踊る。手をかざしてよくよく見れば、村の人間達も
喜んでいいのか悲しんでいいのか、といった複雑な表情をしており、その中には何とも言えない顔をした
キハノもいて、
(あ…!?)
カヤの前に引き据えられている娘…ミカルヘ目を戻した瞬間、那陀は思わず全身を強張らせていた。
カヤの踊りが激しさを増していくにつれ、ミカルの顔がどんどん変わっていく。
(年老いているのだ…!)
若々しい顔から、生気が失われていっている。苦しげなうめきがミカルの唇から漏れているのが見えて、
(まず、カヤを止めねば。あの踊りを止めさせなければ)
思わず浜辺へ駆け下りていきながら、那陀は腰の草薙を握り締めていた。
今までも、ああやって生贄を捧げていたのだろう。どういう仕組みになっているかは分からないが、
その人間の生気を『神』は吸い取って、カヤの、というよりも村人達の願いをかなえてきたに
違いなく、それはつまり、
(手下が力をつけてしまう!)
ということに他ならない。
那陀がカヤの小屋の側を駆け下りた時、小屋の中からその足を止めさせるほどに強烈な、
一筋の光が砂浜へ向かって放たれた。同時に、砂浜からは思わず耳をふさぎたくなるような
断末魔の悲鳴が聞こえてくる。ミカルの体が骨と皮ばかりになっていくのが見える。
(これ、か!)
那陀は草薙をするりと抜き、その光へ向かって振り下ろした。するとたちまちその光は切断され、
カヤの小屋へ吸い込まれるように消える。
「ミカルが…ミカルが元に戻っていく!」
途端、浜辺からはまたどよめきが聞こえ、
(カヤ…)
踊りを中断したカヤが、憎憎しげにこちらを向いているのが分かった。那陀を睨むその瞳には、
今朝までの優しい光はどこにもない。
「…生贄を捧げなければ、神様のご加護はありませんよ!」
そして村人達を振り向き、カヤは叫ぶ。
「踊りなどはどうでも良い。とにかく早くその娘を神に捧げるのだ!」
「だめだ、カヤ!」
「だめよ、カヤ!」
その前に躍り出て、那陀とキハノが同時に叫んだ。ただ呆然と見つめる村人達へ、
「お前達は家に入っていろ。早く!」
那陀が叫ぶと、ミカルの両親と兄がミカルを抱きかかえて逃げ出したのを皮切りに、他の者達も
我先に家へと逃げ出していった。
カヤの周りには、いつしか真空の渦が出来ている。
「まさか貴方が…私と『同じ』貴方が私の邪魔をするなんて」
「…やはり気付いていたか。だから私に親切にしたのか」
「ふふ」
那陀が言うと、カヤはただ笑った。優しい秋の木の葉の色…茶色をしていた瞳は、今やおぞましい赤に輝いている。
「っ!!」
突然、那陀の頬を掠めて何かがカヤのところへ飛んできた。つ、と、頬に流れる小さな熱さを感じながら、
那陀がカヤの手元を見ると、
「…鏡…その鏡が、お前の言う『神』だったのか」
「そうよ」
手にした鏡を愛しげに見やりながら、カヤは唇の両端を吊り上げる。鏡にはそれ自体に神が宿る
神聖なものとされている。そして鏡にはその性質上、己の正体を見破らせずに跳ね返すという力もある。
それゆえに、カヤの小屋に大事そうに飾られているのを見ていたはずの那陀にも、その正体を
気付かせなかったのだ。
「でも、本当に意外。まさか『貴方』が、私の邪魔をするなんて」
カヤは楽しそうに笑いながら繰り返す。
「…貴方にも死んでもらって、神様の力になってもらいましょうか」
そして「彼女」はまさに狐のごとく、赤い口を開いて哄笑する。手にしていた鏡から、無数の光の破片が
一斉に那陀へ襲い掛かった。


to be continued…


MAINへ ☆TOPへ