真訳・東夷伝 5



三 カヤ


両手で抱えられるほどの大きさの籠を体の左脇へ寄せ、膝丈までの長さの着物の裾を翻しながら、
その娘は那陀の先に立って砂浜を歩いていく。海の風に吹かれているせいだろうか、肩までで
きっちり揃えられた少し茶色い髪は、波のように緩やかに巻かれ、日の光を受けて時折
金色に輝く。海の間近に迫っている山の木々は、茶色い葉を散らしている。
その様子から判断するに、那陀が火山弾の行方を捜して空を飛んでいるうち、季節はいつの間にか
秋になっていたらしい。
「『今は』と言ったな」
白い着物に覆われている華奢なその背中を見つめながら、那陀は声をかけた。
「以前は何をやっていた?」
問うと、娘はぴたりと足を止め、横顔だけを那陀に向けて、大きな茶色い瞳を細めながらかすかに笑い、
「以前は…皆と同じように海に出て漁を。男どものようには船で出かけられませんから、浜辺でモリを突いて」
「…なるほど」
その笑みに、針が喉に刺さったような違和感をまた覚えながら、那陀は頷く。
(正体を見極めなければ)
ひょっとすると自分の気のせいかもしれない。己の『国』でも良く見かけた、たまさかに
邪気を強く放つ人間と同じ類の者なのかもしれない。だが、
「ケサジ!」
集落のある砂浜へ近づくと、なにやらそこには人だかりがしている。漁へ出かけるのでは
ないらしいのは、那陀にもすぐに分かった。
「ケサジ…ケサジ!」
その人だかりの中央に、男が倒れている。その胸に取りすがって泣いているのは、男の母親なのであろうか、
目の周りに深いカラスの爪あとを残した中年女で、
「カヤ…!」
ふと顔を上げて那陀の隣の娘を見ると、息を呑みながらそう言った。
どうやら、カヤというのがこの娘の名らしい。
「お前だね。お前だろう、ケサジを殺したのは…ケサジを返しておくれ、後生だから!」
恐怖と憎しみの入り混じった目でカヤを見つめながら、カヤへ飛び掛ろうとする中年女を、
その周りにいた屈強な男達が慌てて抱きとめる。
そのまま泣き崩れる中年女へカヤは冷たい一瞥をくれて、
「行きましょう」
那陀を促して再び歩き始めた。
カヤは村の中央らしき場所を通り過ぎ、海の近くに迫った小さな山の中へ入っていく。
どこまで行くのかと思っていると、
「どうぞ」
木が生い茂っている森の中の坂道をしばらく登り、山から涌き出たらしい小さな小川が流れている
側の小さな小屋の前でカヤは立ち止まった。
毎日掃き清めているのだろう。小さいが清潔感の漂う小屋は、すがすがしい木の匂いがして、
「…数ヶ月前に拾ったんです、浜で」
自分の足元にまといついてくる物の感触に驚いて、那陀が下を見ると、一匹の白い子猫がいた。
その様子がおかしかったのか、カヤは口に片手を当ててクスクス笑い、
「翠は、貴方を気に入ったようです」
「…スイ?」
問い返す那陀に、柔らかい瞳を向けて頷く。
「引き込まれそうな、綺麗な緑色の目をしているでしょう? だから、翠」
「…そうか」
(狐の、眷属)
そしてその猫は、人懐っこい性格らしい。那陀が無造作に抱き上げても嫌がる素振りを見せず、
那陀の瞳を覗き込んで首をかしげ、甘えたように一声鳴く。
(ひょっとすると、この猫が?)
緑色の瞳を覗き込んで、那陀も首をかしげた。カヤに感じた邪気も今はすっかりなりを潜めていて、
「立ったままというのも…こちらへお座り下さい」
言って再び微笑う彼女には、何の悪意もないように見える。猫の瞳と毛並みに異母兄、二郎神君を
思い出してしまっていた那陀は、勧められた円座に慌てて腰を下ろした。
「…鏡、か」
「はい」
一間しかない小屋の正面には、粗末ではあるが棚があり、磨き上げられた銅鏡が鎮座している。
「半年前、私の夢の中に現れた神様が下さったのです。私に不思議な力を授けてくださって、
その力を役立てろと。目が醒めたら、枕元にこれが」
「…ふうん?」
鏡は高価なもので、神以外は己の国でも高貴な身分の人間しか所持していない。まがいものかと
思ってよく目を凝らしたが、
(本物だ)
ひょっとすると神がくれたというのは、カヤの作り話かもしれない。この国へやってきた船が
途中で難破して、その積荷がこの島に流れ着いた、ということだってありえる。
この小さな村の中で、巫という役割を果たすためにはいささかの「ハッタリ」も必要だろう。
「たった一人で暮らしているのか? 私を泊めて、お前が村人に非難されることはないのか」
それに、この小屋にはカヤ以外の人の気配がない。不審に思って何気なく那陀が尋ねると、
「はい、両親は数年前、亡くなりました」
「…それは…失礼なことを尋ねた。すまない」
「いえ。気になさらないで。それに貴方が寄ってくださっても大丈夫です」
慌てて謝る那陀へ向かって、寂しげに笑ったカヤは、
「だって『私が』いいと言うのですから」
口の中で呟くように言う。聞き取れずに尋ね返そうとした那陀へ、再びにっこり笑って、カヤはくるりと背を向けた。
尋ね返せる雰囲気ではないらしい。そこで、
(それにしても、さっきの騒ぎは一体)
中年女が騒いでいた「お前が殺した」という何とも物騒な言葉を思い出し、那陀はカヤの背中を見つめた。
食事の支度をしてくれるつもりなのかもしれない。かいがいしく袖を紐でからげ、土間へ降り立って
鍋で野菜を煮ている彼女…行き場のない子猫を拾う優しい心をも持つ彼女が、同胞を殺したなどとは
到底信じられないが、
(あの目)
那陀の背筋にぞくりとするものを走らせた冷たい光を放ったのも、同じカヤの目なのだ。
小さな猫は、よほど那陀を気に入ったらしく、胡坐をかいた膝の上から降りようともしない。
苦笑してその顎をくすぐってやると、猫はゴロゴロと喉を鳴らしてそれに応じた。
(本当に、異母兄上に似ている)
思って那陀が心をふと和ませた時、
「カヤ! 頼む!」
小屋の外で、数人の足音が坂道を登ってくるのが聞こえたと同時に、扉が乱暴に開いた。
「今度のいけにえは、ミカルじゃない他の誰かにしてくれ! 頼む! 知っているだろう。あの子はイリギの元へ
嫁ぐと決まったばかりなんだ。幸せにしてやりたいんだ!」
「…おじさん達、お客人がいるのよ。見苦しい真似はよしてちょうだい」
土間へやってきた男女三人、それが一斉に娘の年くらいのカヤの前で土下座をする。
しかし涙を流しながらの懇願に、カヤの声はあくまで冷たい。
「お前…うちのミカルとは幼馴染じゃないか! ケサジだって、キハノだってそうだろう。俺達はともかく、
キハノは今も変わらず、お前を心配しているんだぞ! なんだってこんな酷いことが出来る!」
その中で若い男が叫ぶ。
「ミカルのお兄さん。決まったことは変えられないわ」
それへカヤがむしろ楽しそうに答えた。してみると、ミカルという女性の、これが兄で、年を取ったほかの二人は
その両親なのだろう。
「最初は困ってる貴方達を見かねたから、神様も大漁にしてくれた。だけどそれから、いつもいつも貴方達が
『大漁にしてくれ』『はやり病を治せ』なんて、ただで虫のいい要求ばかりするから神様も呆れたのよ。
願いをかなえてもらうなら、ちゃんと御礼はしなきゃ。だから、貴方達がお礼の気持ちを忘れないように、
先に生贄を取る。神様がそう決めた。そう決めたことで漁に出かければいつだって大漁で、皆は風邪一つ
引かないようになった…もしも」
カヤはそこで、にっこりと笑い、
「もしもミカルを差し出さず、神様を怒らせたら…貴方達の生活はもう保証できないわね? たちまち
明日食べる魚にも、国造様に差し出す魚にも困ることになる。そうなったら、村八分になるのは
貴方達のほうね」
「…カヤ。お前はそれでも人間かい! 酷すぎるじゃないか…! お願いだよ、お願いだから、カヤ…!」
頬のこけた母親が叫んで、号泣する。しかしそこでカヤはすっと笑顔を引っ込め、
「今まで酷いことをしてきたのは、一体どっちだったのかしら?」
再び那陀の背筋が凍りつくような声で答えたのである。たちまち三人も怯え、震えて、声を詰まらせた。
「そ、そうだ。だったらそこの…お前が連れてきた、得体の知れないよそ者を生贄にすればいいじゃないか!」
しばらくして、ようやく気を取り直したらしい父親が救われたように叫ぶ。
那陀が思わず目を眇めると、カヤも一瞬こちらを見る。期せずして二人の目が合って、
「また面白いことを言うのね」
すぐにカヤはミカルの父親のほうへ顔を向け、今度は声を上げて笑った。
「私が良いと言っているの。このお方の滞在は、『私が』許したの。ミカルが神様の生贄になるのも、
『私が』決めて神様が受け入れたこと…そのことを、もう一度ようく考えてみることね」
三人が絶望に打ちのめされて、よろよろと小屋を出て行く。出かけにミカルの兄がもう一度振り向いて、
「…化け物!」
叫んだ言葉に、カヤはしかしぴくりと片方の眉を上げただけで、笑顔を崩さなかった。
「村の者が見苦しいところを。親切にしなければならぬ旅の御方を生贄に、などと、
本当に失礼なことを申しあげました。お許しください」
白米に野菜の味噌汁、そして魚の煮付け、という、おそらくはこの村では一番豪華な料理なのでは
なかろうか。それらが並んだ膳を、カヤは恭しく那陀の前へ据え、丁重に頭を下げる。
「いや…それは構わないが」
那陀は苦笑しながら、自分の膝の上で怯え、すくんでしまった様子の翠の顎を撫でた。
今の出来事でも分かったが、どうやらカヤはこの集落の中では微妙な立場らしい。
(化け物、か)
そしてどういう理由でもって「彼女」がそう呼ばれることになったのか、それはまだ分からないが、
(ともかく草薙が私をここへ導いた。この島に火山弾はあるはずなのだ)
村の揉め事は村人だけで解決すべきであり、よそ者である自分が首を突っ込んでいいことではない。
神の生贄になるらしいミカルとやらには気の毒だが、
(私には関係ない)
火山弾を探し、タケルの願いの宿った草薙で殲滅する。ただそれだけのためにここへ来たのだと
那陀は努めてそう思うようにした。
(しかし、この国の神というのは、ろくでもないものばかりが揃っているのだな)
神というのは、確かにそういった一面もないわけではない、というよりも、むしろそれが神というものの
本質なのではあるが、願いをかなえてやる代わりに見返りを要求するというのは、
(まず、善神ではない。タケルなら放っておかないだろう)
その「巫」であるカヤも、きっと騙されているのに違いない。だが、所詮は己に関係のないことである。
苦笑しながら、那陀は椀に大盛りの白米を咀嚼し始めた。
強い視線にふと気がつくと、カヤがにこにこしながら那陀のそんな様子を眺めている。
「美味い」
「…そうですかぁ!」
那陀が素直に告げると、カヤは両手を重ね合わせて嬉しそうに言った。つられて口元をほころばせながら、
「何故、よそ者の私を己の家に泊めた?」
膝の上からまだ離れようとしない翠に苦笑しつつ、那陀が問うと、
「村の人が『あんな風』ですから。昔から、よそ者には本当に冷たいんです。せっかく屋根があるのに、
本土からの定期船に関わる人しか泊めないで…だから、この村に漂着して、そのまま死んでしまった人もいて」
カヤもまた、箸を取り上げながら苦笑した。
「ですから、せめて私だけは、旅の人に親切にしようと」
「そうか」
根は優しい娘なのだ。こんな娘がなぜ「化け物」などと罵られているのだろうか。
「申し遅れました。私はカヤです。貴方は?」
「那陀だ」
「ナダ、様」
「ん…」
そこで初めて名乗りあったことに気付き、二人は同時に笑い合う。そして、
「明日は満月ですから、儀式の日です。私が取り仕切らねばならないので」
よって那陀の相手はできぬ、と、申し訳無さそうに言うカヤへ、那陀は微笑って首を振った。
「定期船が来るのは、まだ数日先なのです。ですから、それまでゆっくり滞在して頂ければ」
「ありがとう」
そしてどうやら彼女は、那陀を漂流してたどり着いた者だと勝手に判断したらしい。
カヤが用意した、粗末ではあるがこぎれいな寝床へ那陀がもぐりこむと、それを待っていたように
翠もまた那陀の寝床へ入ってくる。
「うふふ。翠は、私よりも那陀様のほうを気に入ったみたい。ちょっと妬けます」
言って、娘らしく唇を尖らせ、同じように寝床へもぐりこんだと見るや、カヤは寝息を立て始めた。
その様子を微笑ましく見つめて、
(この国の者は皆優しい、とお前は言ったが)
枕元へ置いた草薙へ那陀は話しかける。
(空や大地や木々はともかく、やはり人間には色々あるぞ?)
満月に近い月の光が、窓から差し込んでくる。その光を受けてかすかに光を放つ草薙を見ながら、
那陀もいつの間にか眠りに落ちていた。


to be continued…


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