真訳・東夷伝 3



二 殺生石

「私の兄は、オオウス、といって」
と、倭建は地面へ再び小枝を引っかいてその字を記し、
「数多い父の子の中でも、特にお気に入りの長子だった。私と母を同じくする兄だった」
「…何故殺した?」
那陀は己の異母兄、二郎神君の面影を脳裏に浮かべ、慌ててそれを払いながら尋ねる。
無遠慮なその問いに苦笑しながら頷き、
「父に女を捧げた国造(くにのみやつこ)がいた。その女を父は愛人にするつもりだった。
それを受け取りに兄は赴いて、そのままその女どもを自分のものにしたのだ。父は激怒した」
普段から『大碓』を気に入っていただけに、怒りもその分激しかったのだという。至急
真実を確かめに使わされたのが己であったのだと倭建は続けた。
「兄は、その女どもの美しさに血迷ったのだ。ひょっとしたらそのことが、父に反感を抱く国造どもの
陰謀であったのかもしれない。私はそのことを口酸っぱくなるほど献言したのだが、父は私の
言葉を聞かずに、ただ兄を連れてこいとの一点張りだった。お前の腕力に物を言わせて
引きずってこいとまで言われた。やむなく私は兄の住まいを訪れた」
話が真実であったことを確かめて愕然とした倭建は、嫌がる兄を引きずって連れて行こうとし、
「…その身体を抱えて…兄の肋を全て折った。兄は嫌な呻きを上げて、血反吐を出して死んだ」
力を入れすぎたのだ、と、素直に父の天皇へ報告したのだという。
「お気に入りだった兄を弟の私が殺したから、父は私へ向かって今度は怒ったのだ。やはり父に
抵抗していた南のクマソ征伐を命じられて、それで父の機嫌が治るならと、私はむしろ
嬉々として向かった。その時に退治したクマソタケルがくれた名が、ヤマトタケルだ」
いつしか潅木の上で膝を抱えながら、那陀はとつとつと語る彼の横顔をじっと見つめていた。
「…それで許してくれると思った。だが…父の怒りはまだ解けていない。それで、東の国で悪さをする
神の討伐を命じられたのだ」
その神を討伐すれば今度こそ父の怒りは解けるはず、と結ぶ彼に、
(それは違うだろう)
那陀は限りなく自分に近いものを感じながら、しかしその言葉を彼には言えなかった。
倭建の父が彼を恐れているのは、倭建が『父の後継』であった大碓を殺したからではないか。
(つまりお前の父親は、お前を恐れているのだ。次は自分を殺されはしないかと)
だから、次から次へと「ひょっとしたら生きて帰ることが叶わないかもしれない」用事を言いつけるのだ、と、
那陀は思い、
(しかしそのことくらいは、ひょっとしてお前も薄々は感づいているのではないか)
その横顔を見ながら、倭建の思いを読み取ろうとしたのである。
(…私と、同じだ)
再び那陀が少し寂しく笑ったとき、
「で、お前は? なぜあの神を追う?」
今度は黒目がちの大きな瞳が、那陀の顔を覗きこんでいる。どぎまぎしながら、那陀はそれから目をそらし、
「…あれが、天宮から宝玉を持ち去ったからだ。父に取り返せと言われた。いつか人間から我らへ献上された、
何でも持ち主の願いを叶えるという宝玉…ゆえに、我ら以外の者の手に渡ると大変なことになるからと。
私は、父である天帝と人との間に生まれた子だ。見よう見真似で龍の形は取れるが、半端者だ。
私が龍の形をしているのも、あの化け物が狐の形をしているのも、皆、人間達が『そうであろう』と
想像した結果だ。人間がある限り、その心の中に私たちを思う限り、私たちもまた生きていられる。
もともと形を持たぬ我々…神族でも雄と雌に別れているのは、人間達が我々を『創った』ゆえだ。だがさすがに
人間も、まさかこのような者が生まれてくるとは思わなかったのだろうよ。天帝とただ人の混血が、な」
「だから中途半端な身であるとお前は言いたいのか? 人に望まれぬ存在であったと?」
「…だからその宝玉があれば、中途半端な私のこの身も…それでなければ、私のこの身は」
倭建の問いにしかし直接答えることはせず、那陀がそこで言葉を途切れさせると、
「そうか」
それ以上は言わないでもいい、といった風に倭建は大きく頷いた。ついで、
「ではお前は、その宝玉を手に入れたときにどちらになる? 雄(おとこ)か、雌(おんな)か」
「え…」
その宝玉が手に入れられるかどうかも分からない、半ば絶望的な「旅」をあっさり肯定されて、那陀は
戸惑い、彼の顔を見た。
「宝玉を手に入れたら、自動的に性が固定されるというわけではないのだろう?」
「あ、ああ、そう…だな」
性の固定を願いながら、そのどちらになるのかまでは考えてもいなかった。そんな那陀がおかしかったのか、
倭建は声を上げて笑い、
「なら、雌(おんな)になれ」
「雌に?」
またしてもあっさり言われて、那陀の大きな瞳はますます丸くなる。
「ああ、そして私の女(つま)になれ。うん、それが良い。わが宮に何の関係もなく、しかも
龍神であるお前なら、皆も納得する」
「また馬鹿なことを」
「馬鹿なことではないさ。だが…そうだな」
頬を赤くしながら苦笑する那陀へ、倭建は冗談とも真面目ともつかぬ顔でそう答え、
「お前なら、私はどちらでもいい。この国もきっとお前を受け入れる。たとえお前が今のままであってもな」
「この国が、私を?」
「ああ」
潅木から立ち上がって、倭建は手をかざしながら空を見上げる。
「水も空も大地も樹も人々も…この国の者は皆優しい。きっとお前に『似合う』」
「この国が、私に…」
(『似合う』というのか)
倭建の言うことは、那陀には戸惑うことばかりである。異母兄の二郎神君が常々彼に言っていた…
お前はお前のままでいい…その言葉は、倭建が言うとしかし、
(心地よい)
那陀の心の中へ意外なほどにすっと沁みこんだ。
「どちらにしても、私はお前の女になるつもりはない。弟橘姫のことはどうなった。あれも本当は
お前の妻になる予定の女だったのだろう」
言ってしまってハッと口をつぐんだ那陀へ、
「否定はしない」
少しだけ寂しく笑って、倭建は言う。
「あれは幼い頃から叔母に養われ、いつも一緒にいた娘だった。だから自然に『そう』なるものと
周りが勝手に決めていたのだ。私は今でも、あれを妹としか思っていないし、それにもしも私が
あれを娶ったら…宮におけるあれの立場まで微妙なものになる。だから滅多にその気は起こらなかったし、
あれも私が望めば拒みはしなかったろうが…手出しは控えていた」
「ああ」
「…父の勘気を受けるのは、私一人でいいのだ。あれを今のわが宮に置きざりにしていたら」
あらぬ中傷を受ける、それが心配だったのだと彼に似合わぬ小さな声で言い、倭建は寂しげな瞳をする。
どちらにしても、彼の『妹』はもういないのだ。というよりも、そもそも彼を主としてあがめる人間はいても、
彼の「友」になろうとする人間はいないのだろう。
身分違い、恐れ多い…弟彦もそうだったのかもしれない。
「行こうか、東へ」
「そうだな」
やがて少しずつ西へ移動していく太陽から背中を向けて、倭建が言うのへ那陀も頷く。
「…ここから東、川を遡って少し北へ行ったところに広い野原がある。そこに一つは落ちたようだ。後は…まだ分からぬ」
瞳を閉じて火山弾のことを思い浮かべると、邪気が漂ってくる方角も分かる。 那陀が告げると
倭建は感嘆したように大きく息を漏らし、
「さすがに龍神は違う」
「だから、半分だけだと言ってる…乗せていってやる。負傷の兵士達には徒歩も辛いだろう」
素直に彼が首を振るのへ、那陀はまた苦笑した。しかし悪い気はしない。
「感謝する」
倭建も言葉通りの意を込めた瞳で那陀を見つめ、そしてまたいたずらっぽい表情をして、
「やはり惜しいな。どうあっても私の女にはなってくれぬのか?」
言って笑った。

那陀と倭建がその村へやってきたのは、火山弾が「落ちて」二日後のことである。
その『石』が落ちた場所は、付近のものに尋ねると那須野原というらしい。
落ちてきたさら毒気を放ち、近づくもの全てを殺傷するので、土地の者はすぐにその石を殺生石と名づけて恐れ、
周りには近づかないようにしているそうな。
その石を何とかするために都からやってきたのだと倭建が告げると、最初は異邦人と警戒していた
村長も、喜んで彼を迎え入れた。
「どう退治する?」
海からかなり離れた場所だからだろうか。夜になると空気はとみに冷え、ついで風も少し乾燥しているので
肌に少し痛みさえ覚える。
村長が焚いた火へ手をかざしながら倭建が問うのへ、
「これで」
と、腰の短剣を軽く叩き、
「その石の周りの地面へ円を描いて、まず毒気を封じ込める。破壊するのはお前の草薙だ。
お前は知らぬだろうが、その剣にはそれ以上の力がある。私が短剣で破壊しても良いが、
草薙はそれ自身に意志がある。お前の望むまま、周りの人を傷つけぬように『処理』してくれるはずだ。
お前は叔母に与えられたと思っているかもしれないが、草薙は自ら望んでお前のもとに来たのだぞ」
那陀は軽く微笑んで答えた。「そうか?」などと言って、照れたように鼻の頭を掻く倭建へ、
「私が円を描くまでは、誰も岩の周りに近づけるな。出なければ毒気にやられる」
「お前は平気なのか?」
「…そうだな」
再び問われて那陀は首をかしげ、
「平気だ」
そう答えた。自分でも良く分からぬが、己以外の、父や異母兄を含んだ龍の神族は、邪気の毒気に弱い。
半分しか龍の血を受け継いでいないから、といっても、ただ人を母としているのであれば
那陀はより一層その毒気に弱いはずで、しかし現実には、
「ああ、平気だ」
改めて倭建に問われて、そのことを自分で少し訝しく思いながら、それでも那陀は頷く。
「ともかく、私が合図をするまでは誰も石に近づけるな。何があっても村の小屋から出ぬように、
村の民にも徹底していて欲しい。村長にもご承知か」
「承知」
「了解しました」
側で二人の会話を聞いていた村長も、大きく頷いた。そこへ家の者がやってきて、その耳に何かを囁く。
「少し失礼致します」
すると村長は少し慌てたように立ち上がり、席を外してその部屋から出て行った。何の気なしに
それを見送りながら、
「後の二つはどこへ行ったのだろうな」
倭建は組み合わせた両手を上へ伸ばし、欠伸さえしながら言う。
「分からないな」
那陀もまた、それを見ていていきなり眠気に襲われながら、短く答えた。実際、この国へ邪気が
やってきたことも、遥か天宮から見下ろしてようやく分かったのである。今回落ちた
石も、比較的距離が近いから邪気を辿れたのだ。
「北、西…いずれにしても、早く始末をしたほうがいい。でないとこの国も」
言い掛けたところへ、村長が戻ってきた。その顔は何故か重大な決意を秘めたように引き締まっていて、
「村長、どうかしたのか」
那陀が問うと、ハッとしたようにこちらを見、
「いや、当方のことで、なんとも…貴方様がたには関係のないことでございます」
慌てて年老いた両手を振るのである。
不審に思ってなおも那陀が問いかけようとした時、
「傷に良い湯が沸いておりますので、兵士の方々にも是非」
続けた村長の顔は、彼らが初めて村を訪れたものに戻っていた。
「では、入らせていただこう」
倭建が勢いよく立つ前を、村長が「こちらへ」などと言いながら案内して部屋を出て行く。
(おかしい)
兵士が全員出払って静まり返った部屋の中、一人ぽつんと座って火を見ながら那陀は
邪鬼が発する以外の邪悪な『気』を感じ取っていた。
村長の家は、粗末ではあるが当然ながら村の中で一番大きい。この「屋敷」に入ってからも
首筋の毛がチリチリと逆立つような、そんな曖昧な不快感に襲われていたのだが、
(警戒しなければならない)
邪鬼だけではなく、この「退治」を邪魔しようとする他の者がいるかもしれぬ。それを
倭建へ告げようと立ち上がりかけて、しかし、
「なんだ、まだいたのか。お前も入って来い」
からりと部屋の扉を開け、あっけらかんとした親しみを持って話しかけてくる彼の顔を見ると、
(言えない)
その気が人間のものであり、倭建と同じような『匂い』がする、つまり彼の国の者で、
(ひょっとすると彼の父が彼の失敗を願って)
一瞬にしてそこまで考えてしまい、那陀にはどうしても言えなかった。
「今なら誰もおらん。気兼ねなく入れるぞ」
「私はいいさ」
湯気を体から漂わせながら、倭建は那陀の側へどっかりと座る。炉辺に差してある魚の串を無造作に
取りかけて、
「ほら」
「ありがとう」
その一本を、ごく自然に那陀へ分けて寄越した。
(私の考えすぎかもしれない。もしもそうだったとしても、人間ごとき)
焼きたての魚に塩を少々ふっただけの簡素な「食事」だが、それを美味く感じている自分に
驚きながら、
(彼に知らせずとも、私一人で何とでもなる)
「ともかく今日はよく休むことだ」
那陀は倭建の「食いっぷり」を微笑ましく見、告げたのである。

あくる朝は、皮肉なほどに澄んだ青空が広がっていた。
だが、村の通りには人っ子一人いない。吹いてくる風の中に時折、何とも言えぬ不快な匂いが
混じってくるその中を、
「頼む」
那陀は倭建に告げて一人、毒気を放つという石の方角へ向かった。
誰に教わらずとも、右手を前へかざせば分かる。その方角へどんどん歩いていくと、やがて
いつもは青く萌えているのだろうだだっ広い野原に出た。春だというのにその周辺は赤茶けていて、
「…お前を退治しに来た。まだ狐の形をとれるほど、力は回復していまい」
那陀が言うと、大人が二、三人手をつないでもまだ余裕があろうかと思う大きさのその石は、
さらに濃い毒気を撒き散らしてそれに応える。
「だが、お前を退治するのは正確に言うと私ではない。私の…仲間だ」
言いながら那陀は短剣を取り出し、地面へ突き立てた。
桜色をした那陀の唇から、不可解な呪文が漏れる。那陀が描くのは円のみにあらず、
「…お前のような賢しい邪鬼を退治するための符だ」
地面に美しい模様を描いて、那陀は顔を上げた。こうすれば、この石は毒気をこれ以上放つことは出来ぬし、
万が一砕いた時にも欠片が飛び散ることはない…飛び散らぬように、草薙に倭建が願えばよい。
そうやって符に囲まれた石は、符の発した柔らかい光と春の日差しを受けて、皮肉なほどに美しく輝いた。
それを見届けて、那陀は倭建へ合図を送るべく、持って来ていた発炎筒を出す。
だが、その前に、
「その合図は待ってもらいましょう」
岩の陰から、おずおずと顔を出した者がある。
「村長…」
その年老いた顔は、昨夜自分たちをもてなしてくれた村長で、その背後にいるのは、
「お前達か」
倭建と同じ匂い、しかし彼とは正反対の邪悪な気を持つ兵士たちだった。


to be continued…


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