真訳・東夷伝 1



地の章
 
 序
 
「また、行くのですか」
「行く」
那陀は異母兄の二郎神君へ素っ気無く告げて、くるりと背を向けた。
「つい先ほど、妲己に化けたあの物を誅滅してきたばかりなのに?」
あくまで穏やかな声が、「少しは休め」と告げるのへ、
「うるさい。その妖獣が宝玉を持っているのだったら、追わざるを得ぬ。
休んでいる暇などない」
短い髪を振りたてて、那陀は無礼に言葉を返す。
もともと背の半ばまで伸びていた艶やかな黒髪。それを無造作に切った跡が痛々しい。
顎から肩の線は少年と形容するには細すぎるが、切れ長で大きい虎目石色の瞳が放つ
鋭い光や、衣の裾から除く弾力性に満ちた手足のほうは、少女と言い切ってしまうのも躊躇われる
ような気がする。腰に回った帯には、頼りなげな短刀がただ一振りあるだけだ。
邪鬼、と呼ばれる妖獣を追い、それを退治していくうちに「戦と殺戮の神」という
本人にとってはいささかありがたくはないが、そういった呼び名すら人から与えられたのに、
(あの宝玉を手に入れるまで、どうせ私の居場所は、ここには無い)
思って、那陀は苦く笑う。天帝の子という最も尊い血を引いているはずの身で、それゆえに
「太子」と呼ばれていながら、
(おぞましい)
上衣の中で息づいている、小さくはあるが形の良い胸のふくらみと、ズボンのような
形状に形作られた衣服に覆われた下半身にある同じように小さな…もう一つの性。生まれながらに二つを 
合わせもつ己へ向けられる、他の神族からの視線には、
(恐れと、軽蔑)
那陀太子は自嘲気味に薄く笑った。人に限ったことではない。この世に生きとし生けるもの全て、神と
呼ばれる己らにでさえ、雄と雌という厳然たる性が与えられている。
(しかし、私の身は)
神族でありながら、こんな中途半端な存在があってよいものか。
「いつまでそこにいる? 退いてくれ」
どこまで伸びているか分からない長い長い柱が幾本も突っ立っている天宮には、天井というものはない。
己に与えられていたその一角で、二郎神君が痛ましそうに自分自身を見つめているのに気付いて、
「退け」
那陀は頬を赤くしつつ異母兄から目を逸らし、繰り返した。
「息災で。ここからお前の無事を祈っています」
「大きなお世話だ」
切れ長の瞳を伏せたまま、白銀に輝く長い髪を持つ異母兄を押しのけるようにして、那陀は歩き出す。
(幼い頃は違った)
全てを見透かしているようなその瞳、慈愛すら湛えて己に向けられる異母兄の瞳をこれからも
欲しているにも関わらず、時には切ないまでに息苦しいと感じられるようになったのは、
(己の身は、人とは違う)
そのことに気付き始めてからのことだったように思う。
(だが、同情などまっぴらだ)
物心ついたときから、異母兄は他の神族の目から、那陀を陰日向なくかばってきてくれた。
「全てを分け隔てなく愛すること」が次期天帝としての義務だから、あの真面目な顕世二郎神君はただそれに
したがっているだけのことかもしれない。だから、
(余計な期待はもうせぬがよい)
自分に言い聞かせるようにして、那陀は天宮の最東端にある泉の前に立った。
…東の果ての夷狄の国。 己が求める邪鬼、その最高位の化け物である「九尾狐」は、今度は
そこへ降り立って『悪さ』をしていると聞く。
(未開の土地。さぞや野蛮な国なのであろう)
以前の誅滅には、太公望にまで手を貸させておきながら取り逃がした。しかし今度の国は
東にどこまでも続く大海が広がる、まさに「果ての国」で、
(今度こそは取り逃がすまい)
苦笑いしながら、那陀はその泉の中へ身を躍らせた。途端に七色の光が華奢な身体を包む。
「…行ったか」
こっそりとその後をついてきていた二郎神君へ、どこからか声がかけられる。
「父上」
姿は見えぬ。だが、父もどうやら玉座の間から水鏡を通してその様子を見ていたらしいと思い、
二郎神君は跪いて頭を下げた。
「あれの行き先は、今度は日本(やまと)という国だと聞きました」
それに対する返事は無い。二郎神君は続けて、
「なぜ、あれに実の母…本当のことを教えてやらないのです。あれは今でも己の母を
ただ人の娘だと思って、それゆえに己の身は半端なのだと考えているというのに」
「…あれが本当のことを知れば」 
するとそこで、かすかな笑い声が響く。 
「あれはお前や私を敵だとみなすであろうよ」
「どういうことです?」
「ともかく」
息子の問いを遮って、天帝は断固たる調子で告げた。
「あれによってまた天界の至宝が戻るのであればそれでよい。こちら側に害をなす邪鬼退治も出来て
一石二鳥。もしも戻らねば、人間を使って取り戻させる。それだけの話だ」
そこで、父の気配はふっつりと途切れた。後は再び、泉が立てる水音が響くばかりである。
父の冷たさは、幼い頃から知っている。だが、己に向けられるそれと那陀に向けられるそれは
段違いの温度で、
(父に愛されていない、私の兄妹)
それはただ単に、那陀が神族でありながら両性具有という、まことに中途半端な存在であるという
理由のためだけではないということも、聡明な二郎神君は知っている。
だが、他の者だけでなく自分にとっても父の命令は絶対で、
(助けてやりたいが、助けてやれない)
那陀の無事を祈りながら、彼は深い緑色をした瞳を泉へ向けた。そこにはまだ那陀が飛び込んだ折の
波紋が輪を描いている。

一 蛮土
 
(確か、ここいらで邪悪な気が散じたのを感じたが)
流星のようにその地へ降り立って、那陀は両目を閉じた。
ここは、どうやら樹海らしい。季節は春らしいが、遠くに白い雪を頂く大きな山が見える。
深く呼吸をしながら心を落ち着かせ、己の心の中を覗くようにすると、
(ここから、東)
邪な気が発散されている場所が分かる。それは異母兄の二郎神君だけではなく、
他のどの神族にもない、那陀独自の能力で、
(そのせいもあって、父は私へ邪鬼退治を命じたのだ) 
那陀はそう思っている。そしてそのことだけは己が唯一誇れることで、
(私は父に愛されていないわけではない)
自分に言い聞かせながら、那陀は森の中を進んだ。 
今ままで戦ってきたどの土地とも違う、うっそうと枝が茂る森林の中は、水蒸気が立ち込めている。
時折己の眼前をふさぐように垂れ下がる枝を、腰の短刀で無造作に切り払いながら、
進んでいくと、突然森が途切れた。
(もっと、東)
己の心を信じて平地を進んでいくと、しかしそこからは海である。その向こうには
大きな島が浮かんでいて、そこからは黒い煙が上がっているのが見えた。
(あれか?)
短刀を持ったままの右手をかざして、その島を那陀が眺めていた時、
「この土地のものか? ならば尋ねたいことがある」
背後から、声がかかった。何の気なしにそちらを振り返ると、そこには弓矢や長刀、
長剣を持った軍勢がいて、
「あの島に渡るための船は、どこから出ている?」
那陀に問いかけた男が、どうやらその軍勢の「親玉」らしい。 
異母兄の二郎神君とはまた違う、整った顔立ちながらどこか精悍な雰囲気を持つ若者である。
だが、思考を邪魔されて、
「…私はこの土地のものではない。今しがたここに着いたばかりだ」 
ムッとしながら那陀が答えた途端、
「無礼者! こちらの御方はオシロワケノスメラミコトの御子だぞ」 
その男の脇に従っていた強靭そうな男が那陀を叱咤する。
「本来なら、ただの旅人であるお前など、口も聞けぬ御方だ」
「…よい、弟彦」
すると、「親玉」は苦笑しながらそれを止め、
「こちらこそ、失礼した。改めて尋ねたい、旅の方よ」 
柔らかく笑った。
「もしかしてここに来る途中で、船を見かけられなかったか?」 
「私は、森の中からここへ来た」
その笑顔を、どこか(懐かしい)と思い、そう思った自分に戸惑いを覚えながら、
「私も今から、あの島へ渡ろうと思っていたところだ」
初対面の「人間」に、言わずもがなのことまで言っていた自分に、那陀はさらに驚きを覚えた。
厳密には、初対面の人間と口を聞いたことがなかったわけではないが、
(太公望は、知っていたからな…)
妲己、褒似といった、世にも美しい女に化けて人の気を暗いつくし、父天帝の護る中国の王朝を
滅ぼそうとしたあの妖獣を討つために協力を要請した太公望は、天界の事情も知っている仙人だった。
だが今回ばかりは勝手が違う。土地勘もないうえに、気候も人々の考え方も
まるで違う異国へ行くとなって、さすがに那陀へついていくという人間は現れなかったのだ。
(それはそれでいいさ。今までも一人だった)
那陀のほうでも、特にそれを気にしたこともない。だもので、
「あの島に何か用があるのか? なら我らと同行しないか」
彼が言うのへ、
「お断りする」
素っ気無く那陀は言葉を返した。途端、弟彦と呼ばれた件の男が殺気立つのを若者は押さえ、
「そうか、残念だ」
あっさりそう言い、人懐っこい笑みさえ那陀へ向けてくるのである。
「あの島には、悪さをする神が住み着いているという。もしかしてそれを知っていて、
お前も我らと同じく、その神を懲らしめに行くのかと思った。縁があればまた会おう」
「待て!」
それを聞いて、那陀は思わずその若者を呼び止めていた。
「何か?」
尊い御方の子、という話だが、ならばなぜ旅慣れた様子で、しかもその笑顔は日に焼けているのだろう。 
それに見知らぬ旅人に対しているというのに物腰には少しも尊大なところがなく、
「お前の名は、何と言う?」
那陀が尋ねると、彼はまた笑いながら背中の荷物を降ろして解き、
「倭建命。もっとも父につけられた名ではないが。お前は?」
赤く熟れた果物を左の手のひらに乗せ、那陀へ向かって差し出したのである。

そして、砂浜を行くこと半日。
「この国は天皇、という神が支配しているのか」
たった十数人の、しかもその中には弟橘姫と呼ばれる女性までいる軍の中に、那陀はいつの間にか混じって
歩いていた。
「そうだ。我々はここからずっと西の大和の国から、東の国の者の苦情を受けてやってきた。
正確には、ニニギノミコトという神の子孫だと言われている」
「…どう書く?」
こちらの国の発音は、那陀にとって耳慣れぬものばかりである。戸惑って尋ねると、 
「…これだ」
転がっていた小さな棒切れを取り上げ、倭建はしゃがんでその文字を書いた。那陀の『国』で
使われているのとと少し形状は違っているが、大まかには良く似ている文字で、
「父が付けた私の名は、オウスだ」
続けて彼はその隣に、小碓命、そして倭建命と書き、
「だが、私は今、ヤマトタケルと名乗っている」
そちらを棒の先で軽く叩きながら示した。
「…何故だ?」
「お前の名は?」
那陀の問いに、しかし倭建は小さく苦笑して答えず、逆に問い返す。
(聞かれたくないことだったらしい。それに私にとってもどうでもいいことではないか)
よって那陀も少し苦笑して、
「那、陀…だ」
その棒切れを拾い上げ、砂浜へ文字を書いた。
「ナダ、と読むのか」
「そうだ」
頷くと、彼もまた、了解したという風に大きく頷いて、部下達に火を焚くように言いつけた。
これから向かおうとしている方面に、ぽつりぽつりとではあるが人家らしきものが見えるし、
彼らが足を止めたところには、打ち捨てられて久しい漁師小屋のようなものがあって、
「あそこなら、船を借りられる。今日はここで休む」
女性である弟橘姫がいるということを考慮したのだろう。春とはいえ、海からの夜風は少々強い。
その小屋へ、弟橘姫を押し込めるようにする倭建を見ながら、
「そのように大事な者を、わざわざ危険な旅に連れてきたのか」
砂浜へ戻ってきて、火の側へ腰を下ろした彼へ那陀が皮肉めいた口調で言うと、
「あれは、数少ない私の味方だ。妹のように思っている。だから連れてきた」
そんな不躾な質問にでも、倭建はどこか寂しげに笑って答える。
(数少ない…)
その言葉に、胸にちくりとした痛みを覚えながら、
「そうか」
那陀は燃える火へ視線を戻した。
「ところでお前は? どうやって海の向こうの大陸からここへ来た?」
だが、那陀へ問いかける倭建の声には、生来の明るさと悪戯っぽさが戻っていた。
(これだから、人間というやつは)
関わりを持つとすぐに相手のことを深く知りたがる、というのは今までの経験で分かっていたのだが、
それでもつい行動を共にしてしまうのは、
(私が弱いからだ)
苦笑と共に、いつも那陀はそう思う。
「…知りたいか?」
那陀が苦笑しながら問うと、
「いや、無理に話さずともよい。敵の敵は味方だ。それに私の見るところ、お前は悪い『人間』では
なさそうだからな。私は人を見る目は持っているつもりだ」
けろりとした顔で彼は答える。
「はは、は」
ついに那陀は笑い声を上げていた。確かに自分は人間ではない。
「どうしたのだ?」
ゆらりと立ち上がった那陀へ、人の良さそうな、きょとんとした顔を倭建が向けてくる。
「確かに私は人間ではないからな。私は…こういうことが出来る者だよ」
腰の短刀をぴらりと抜いて、那陀は満月の姿を映す海へ振り下ろす。途端、凄まじい轟音を伴う地響きが
あたりを覆い、うとうとしていた兵士達も驚いて目を覚ました。
「なんと…」
「船に乗る必要はない」
海の水を綺麗に二つに分けて、道が出来ている。確かにそれが海の底であるという証拠に、
『道』の上には無数の魚が鱗をきらめかせて暴れていて、
「詳しくは言えないが、私は私の国の身分によって『太子』と呼ばれていた」
「そうか。賎の者ではなさそうだし、どこか雰囲気が違うと思っていたが、道理だ。お前も高貴な家の者か」
最初は呆気にとられていた倭建だったが、意外にあっさりと頷く。
「驚かないのか」
その様子に、反って那陀のほうが戸惑い、そう言うと、
「お前は悪いやつではない。協力、感謝する」
倭建は短剣を持っていないほうの那陀の手を、彼の両手で強く握り締めたのである。

to be continued…


MAINへ ☆TOPへ