蒼天の雲 14



まさかに越せまいと思っていた信州の険しい山を、甲斐武田氏は一ヶ月で越えて武蔵国までやってきた。
七月二十日には岩付城付近でまだ交戦の構えを見せていた北条の「別働隊」を蹴散らし、岩付城を
攻め落としてしまったのである。 
 それゆえに、せっかく石戸まで出ておきながら、北条勢は相模国の小沢城まで退却を余儀なくされた。
岩付城には、太田資頼が扇谷朝興より命じられて城主として納まったそうな。 
 この「痛手」で、もともと慎重派であった氏綱自身は、 
「しゃッ面下げおって…」 
と、資頼へ普段の彼らしからぬ痛罵を吐きながら、再び小田原へ引っ込んだ。まだまだ関東管領
上杉一族の力は侮れぬと深く反省しているらしい。 
 これら一連の動きを、信じられぬが古河側はただ静観していたのである。北条の力は欲しいものの、
やはり「新参者」にあまり介入されるのは望ましくない。山内憲房が扇谷側へついたと言っても、山内上杉の
跡継ぎには古河高基の次男が養子に入っている。小弓公方側についた扇谷と北条とが、勝手に争うのであれば
どちらにしてもその分だけ両者の力が削がれることになるので、北条の台頭を好まぬ消極派には都合がよいのだ。 
 ともかく、こうして北条が撤退したので、再び戦いは膠着状態に入った。それが大永四年の暮れのこと…。 
「八重…こなた、どうしてこのようになるまで私に告げなんだのじゃ…」 
寒風吹きつける中、大山沼を渡って久々に訪れた関宿城で、志保は八重を罵っていた。 
二週間ほど前に、志保は青ざめて物言わぬ肉塊を出産したのである。初めて身ごもった赤子は、死産であった。
この上なく嘆き悲しんでいる周囲とは裏腹に、 
(なぜ泣けぬのであろうなア) 
志保は嫌に澄み切った瞳をして褥に横たわっていたのだが、 
「お話がござる」 
硬く強張った猶父の訪問を受けて、褥を片付けさせる。 
「人払いを」 
「はい」 
 その顔色から、なにやらもっと重大事が起きたらしいと察し、志保は火鉢を手元に引き寄せながら、
侍女どもへ下がるように命じた。久々に褥を上げた志保と向かい合うと、 
「志保殿には、これより関宿へお越しいただかねばならぬ」 
「はて、何ゆえ」 
高助はその固い表情のまま、彼女へ切り出した。 
「八重がことにござる」 
「八重が、いかがしました。まさか」 
「お察しに近い状態に陥りまいた」 
「それは…また一体、何ゆえに!?」 
「全てはお会いになってから…全てはこの高助の咎にござる。ありゃ、色々と他にお話申し上げたき儀もござるゆえ、
なんとしてもご足労願わねばならぬ」 
「申されずとも、八重は私の実の姉妹同然。参りまする」 
 こうして傷ついた体と心を引きずりながら、志保は高助とともに関宿へやってきたのだ。 
「…こうなるまで、なにゆえ私に申さなんだ…」 
今や青ざめきった頬に黒い唇をした八重は、主が枕元に来たのにも気づかず、懇々と眠り続けている。 
「難産であったのじゃ」 
「…はい…」 
高助の正室だという女性が、白い産着に大事そうに包んだ赤子を志保へ示す。恐る恐るそれを受け取って、
初めてそこで志保は涙を零した。 
「お子は無事じゃ。じゃが、八重はのう…」 
「助かりませぬのか」 
「それゆえ、お呼びした。非情とも思えるが、曲げてお頼み申し上げる。ここにおるのは、
信頼できるものばかりゆえ、遠慮は要らぬ」 
抱いた赤子を何ともいえぬ面持ちで眺める志保の前に、高助は両手を付く。 
「志保殿のお子はお亡くなり…じゃが、八重の…若殿のもう一人のお子はこうして無事にお生まれやった。
それゆえ、このお子を、志保殿のお子として育てては下さらぬか」 
「…」 
「もちろん、このことは漏れぬよう、この高助が差配いたす。今の志保殿へお頼み申し上げるのはこの上なき
残酷なこと。それは重々承知しておる…じゃが、これが考え得る最善の手立てなのじゃ」 
 そこまで高助が話し終えたとき、 
「しょう様…なにゆえ、ここへおいでやったのでござりまするか」 
「八重ッ!」 
八重が、重そうに瞼を上げて志保へ微笑みかける。その前に赤子をかざすようにして、 
「これ、こなたの子は健やかじゃ! それゆえ、こなたもしっかりいたせ」 
「申し訳ござりませぬ、しょう様」 
「八重…」 
すると八重は一刹那、瞼を閉じる。青ざめた頬へ一筋の涙が流れた。 
「どうか、お子を…」 
「分かっておる。こなたは私の姉妹。こなたの子は私の子同然じゃ。この晴氏様のお子、私が確かにお預かりした」 
「…はい」 
「それゆえ、これからも私を助けてたも…これ、これ、八重ッ!」 
「市右がなあ」 
 主の叫びに、八重は再びうっすらと目を開け、微笑む。 
「なに、市右が?」 
「昔の姿のままで、しょう様のお側におりまする。どうやら私を迎えに参りまいたものと…申し訳ござりませぬ。
もはやこれ以上は、故殿の見られまいた夢、しょう様と一緒に追うことは出来ますまいかと」 
「市右ッ、松田市右衛門ッ!」 
 そこまで聞いて、赤子を抱いたまま志保は立ち上がって虚空を睨んだ。 
「そこにおるならば、この志保の命を聞きやッ! 八重を連れてゆくなッ! どうあっても連れてゆくと申すならば、
志保が罰を食らわしまするぞえッ!」 
「フフ…」 
その主君の言葉に周りは一斉に泣き笑いをし、八重は神々しいとも取れる笑みを浮かべる。 
「志保様は甘いように見えてその実、酸い…まこと、桜というより梅のようなお方。その梅を、八重は
この上なく慕うておりました。まこと、毎年変わらず酸い実をつける梅のように、変わられませぬなあ…嫁がれて、
少しはお転婆が治られるかと思うておりましたが…」 
「そうじゃ、私は変わらぬ!」 
 八重を見下ろす志保の頬へ、涙が幾筋も流れ落ちていく。 
「変わることが出来ぬゆえ、こなたが側にいてくれねばのう…」 
呟くように話しかけた乳姉妹からは、もう返事は帰ってこなかった。北条より松田左衛門頼秀死亡の
報せがもたらされたのは、それと同じ頃である…。 

 八重が産んだ晴氏の子は、梅千代王丸と名づけられ、これより正式に古河晴氏の次男、
志保の実子として扱われることになる。高助の配慮により、志保死産を知らせるために北条へ立った使いが、
関宿城に留められていたことも、志保はこの時初めて知った。 
晴氏もまた、父として当然のごとく右のことを知らされてはいるが、彼にとっては北条の侍女など、
まさに「己の前を吹きすぎて行った塵」に等しかったのかもしれぬ。その時は「フン」と苦々しげに鼻を鳴らして、
それきりこのことを口の端にも上せなかった。 
志保に従う北条館の者も皆沈黙を守り、梅千代王出自の秘密は永遠に守られるかのように見えたのだが、
簗田高助や古河晴氏にはこのことが後々、思いがけぬ重大な報復となって帰ってくるのである。 

    3 

 広大な関東平野に、再び戦乱の火の手が上がったのは、それから六年後の享禄三(一五三〇)年のことである。
氏綱は、「もうそろそろ良い頃…」と見たのであろう。 
「…お千代殿が、とうとう戦にお出やったそうな」 
古河と関宿周辺は、それでも不思議に静かだった。左衛門憲秀が律儀に送ってくる手蹟を、
何度も読み返しながら志保は嘆息する。 
 古河へ嫁す折の別れ際、彼がつぶらな瞳を見張って涙を一杯にためていたその表情を、志保はどうしても
忘れられぬのである。 
「元服を済ませてな、新九郎氏康と名乗りやったと」 
 千代丸と名乗っていた、あの気弱な弟も十六歳にはなっているはずである。元服、初陣に相応しい年齢ではあるが、 
(無事、お勤めを果たせられたのかの…) 
やはり気がかりには違いないのである。そしてもう一方の手紙をはらりと開いて目を通していた志保は、 
「こちらのお手蹟にはの、小沢のお城から、扇谷朝興様の軍へ攻め喚いて、見事に手勢を追うたと、お書きじゃ」 
言って、くすりと笑った。 
「そちらは、千代丸君様直々の手蹟でござりまするか」 
「そうじゃ」 
傍らに控えている侍女へ、ぼつぼつと語りかけながら、志保は肩に擦り寄ってきた梅千代王の頭を撫でた。 
「こなた様の叔父御の手蹟じゃ。申してはナンじゃが、まだまだ下手糞であらせられるの」 
 クスクス笑いながら手紙を巻き終える。 
「…膳部谷戸にて糧食、志水小太郎、中島隼人なんど引きつれ、多摩河川敷にて朝興勢を打ち払いし候…」 
少年らしい伸びやかな筆でしたためられた姉への「報告」には記されてはいないが、初陣を勝利で
飾った新九郎殿は、悦びのあまり「勝った、勝った!」と叫びながら金程から細山へ上る坂を駆け上ったそうな。
それゆえにこの坂を、のちに「勝坂」としたと史書に記録されている。 
 時に、六月十二日のこと。田植えを終えて百姓どもがホッと一息つき、梅雨に差しかかろうという頃合だった。 
 これが、後に連戦連勝、戦えば必ず勝つ「相模の虎」が初めて世に知られるようになった、小沢原の戦いである。 
「勝った、勝った、を繰り返すは良いのじゃがの」 
 志保は二通の手紙を大事に巻き終えて箱へしまい、傍らの侍女へ渡しながら呟くように言った。 
「こちらも繰言じゃが、公方家ももうそろそろ、動かれまいてもよさそうなもの…」 
「はい、残念にござりまする」 
「猶父上様…簗田殿もおっしゃっておざったのじゃがな」 
 この戦いの少し前、未だに解決せぬ古河と小弓との「兄弟喧嘩」に、 
「なんであれば北条から何かの手を打ちましょうかと、猶父上様へ僭越ながら志保は申し上げた。
このままじゃと、下総や南総の民が気の毒じゃと思うてな」 
志保の言葉に、その侍女も深く頷いた。 
 呆れたことに、小弓公方側の里見・真理谷氏は未だに家督争いを続けているらしい。戦いそのものは小規模で、
やはり小競り合いのようなものであったが、そのたびに家が壊され、畑は荒らされるなど、何がしかの被害を蒙る
地下の者たちのことを思うと、志保の胸は痛むのである。上の乱れは、すぐに下に通じるのだ。 
 だが、簗田高助もまた、嘆息して言うことには、 
「我らもなあ…関東の頂点に立つお家が、この時こそ大喝などでも良いから動かねばと思うておるのじゃ。
でないと、このままでは公方の権威はより『ジリ貧』になろうとなあ。じゃが、古河も関宿も、あれ以来静かなものでな」 
志保が嫁してから、妙な静けさが続いているので、高基が動かぬというのである。 
「さらには、管領家の一方である山内上杉へご自身のお子を遣わしてあるのじゃからというので、
高基様にはすっかりご安心…山内憲房が扇谷とまた手を組んだところで何様じゃとたびたび漏らさるる。
なんといってものう、志保殿」 
 と、そこで声を落として扇で口元を隠し、志保へ体を傾けて、 
「こなたのお家が強すぎるのも反って悪かったのかもしれぬとなあ、最近ではそう思う時がござるのじゃ…
いやなに、これは冗談じゃが」 
つまり、志保の実家であるところの北条が、公方の後ろにはついている。公方は古河にあり、
北条は海の向こうにあるので、その間の反乱分子など、両家が挟撃すればいつなりと打ち滅ぼせる…と、
高基が思い込んでいるというのだ。 
 実際、北条は強い。先だっての戦いでは小沢城へ退いたが、それはあくまで甲斐武田氏の力を図りかねたからで、 
「決して扇谷など恐れて退いたのではないし、引き際も鮮やかなこと…」 
と、むしろ高基は上機嫌で高助に漏らしたそうな。だからこそ、古河公方が落ち目になりつつある
この時期に大枚と娘までをも捧げ、忠誠を誓った北条へ高基は好意を寄せ、北条が自分に反抗する豪族を攻めて
土地を切り取るのを、 
「いずれ我らに返ってくるものであるから…」 
と、不問にしているというのである。 
 ひょっとすると、公方の権威が落ち目になったその理由すら、高基には分からなかったかもしれぬし、
  気づいたたれかが耳に入れたところで理解できなかったに違いない。 
 なぜ、古河とその付近で戦が起きぬようになったのか。 
 その本当の理由を高基が知れば、驚愕するよりもまず怒ったろう。この頃、すでに公方家に武力を期待する
  豪族はどこにもいなかった。公方家に期待するものがあるとすれば、それは関東公方家を担げば、その背後にある
  京足利将軍家の威光をも利用できるというにすぎない。扇谷朝興が小弓公方側についてその正当性を主張しているのも、
  公方を担いでさえいれば、大義名分がつねに己の側に立つからである。人というのは、やはりいつの時代でも、
  幾分なりと正当性があると己が納得できる側に付きたがるものなのだ。 
 もはや関東公方家は、「ともに戦うに値しない…」とすら、関東の豪族ほぼ全てに思われていたため、戦の局外に
  置かれていた、ゆえに、小競り合い程度では古河へはたれも仲裁を求めぬし、攻め寄せても来ぬ…ということになる。 
「ゆえにな、公方家がもしも出て行ったところで、彼らは耳を貸すまい。志保殿の申す『成り上がり精神』と
共に説いてみたのだがの。幾分か新しい物の見方をなさっておわすと思われた高基様も、やはり意識は雲の上のお方。
下河辺荘の周りは戦が起きておらぬのだから、良いではないかで済まされてしもう」 
(所詮はおなごの戯言…) 
 志保が早雲より受け継いだ「成り上がり精神」を、高助は試みに説いてみたというが、何よりも
  猶父であるところの高助自身が所詮は戯言だと思っているのがありありと分かる。それで高基へ対したところで、
  説得力などありはしないし、いわんやその継嗣である晴氏をやである。 
(空しいですなあ、おじじ様…私の申すところは、やはり私がおなごであるがゆえか、半分も受け入れては
もらえておりませぬ。左衛門の申したことは正しかったのかも知れませぬなあ) 
「継母上様! 雨が止みまいた。お拾いに出かけましょう!」 
 仏壇へ向かって手を合わせていた志保は、お拾いに誘いに来た幸千代王丸へ微笑みかけながら向き直り、
心の中でそっとため息をついていた。梅千代王も、この優しく聡明な異母兄を好いているらしい。 
「早う参りましょう」 
と、両側から急きたてられて苦笑しながら立ち上がり、志保は今日も下河辺荘一帯を散策しに出かけるのだ。 
(ですがおじじ様) 
両側からすがりつく大小の手をそっと握り返しながら、志保は雲の切れ間の眩しい空を仰ぐ。 
(志保が古河へ参ったのは、争いを少なくするためにござりまするゆえ、これからもお見守り下さりませ)



…続く。